3.死神と闘え
「しにがみ? どこに?」
ナルシスはじっと絵を見つめる。もちろん、絵の中に不審な影はない。
「いや、今はどこかに行っているのだ。そのうちまた出てくるはず……」
不意に、こんこんと、どこか近くで掠れた咳が聞こえた。右側の扉の奥だろうか。
「でた!」
悲鳴のような声。シュタイナー氏が一気に蒼白となる。
皆が絵画に注目した。
画面の端から歩いてきたのは――、梯子を担いだひとりの農夫だった。
帽子を目深に被っていて、表情は知れないが、白い髭が綿のように伸びている。しなびたシャツに、年季の入ったベスト。大きな腹を抱えた老爺が、長い梯子を引きずるようにしながら、のそりのそりと現れた。
「これが?」ナルシスが拍子抜けしている。
「そうだ、見てみろ。今にまた鋏を取りだす。そして妻の木を切るんだ!」
「妻の木?」
「ああそうだ、憎らしい!」
「シュタイナーさん、もう少し詳しく話してくれませんか」
シュタイナー氏は取り乱した自分を落ち着けようとして、手のひらで額を押さえた。
「ああ、この絵は妻にせがまれて買ったものだ。値は張ったが、季節の移り変わりや、木が葉を生い茂らせたりするのがとても美しかった」
確かに、この絵をかけておくことは良い趣味であると思う。この街には、こんなに温かで牧歌的な場所はない。
「そのうち、この絵がただ景色が動くだけが不思議なことではないのに気付いた。私が骨を折れば、右の木は太い枝を折っていた。妻が舞踏会へいくときなどは、左の木はいっそう美しく花を咲かせたこともあった」
「木が、現実の持ち主に反応して、変化する?」
シュタイナー氏は頷く。
「この木は私たちそのものなのだ」
この絵画において、命を吹き込まれた、というのはそういうことらしい。ナルシスは、見た目が人間に近くなり、動き、人格が宿った。しかし、それだけが、クローディアの作品の趣きではないようだ。作家の作る作品がすべて同じではないように、この作品だけの、個性がある、そういう命がある、ということなのかもしれない。
「ブラナーさんは事前に何も言ってくれはせんかったがね」シュタイナー氏は悔しそうに言う。
「だが、この農夫が出てくるのは、今に始まったことではない。この絵を買ったときからこうだ。私や妻が風邪をひいたりすると、必ず絵の中に出てくる。そうして、体調の悪いほうの木の下に座り込むのだ」
「右の太い木がシュタイナー氏、左のまっすぐな木がシュタイナー夫人の木というわけですか」
「そうだ。農夫は今までは何もしなかった。しかし、1ヵ月くらい前から、奴は妻の木の枝を鋏で切り落とし始めたのだ。ちょうどそのときから、妻はどんどん体調が悪くなった。先週などはなかなか起きてくるのも難しくなったこともあった」
「この絵の木の状態が、そのまま奥さんに返ってきてるってこと?」
ナルシスが、絵とシュタイナー氏とを見比べながら言う。
「ああ。今までは、私と妻を映す鏡のようなものだと思っていた。私たちのから一方的に絵に影響を与えるものだと。そこの農夫は、今まで何も木に手を加えなかったんだからな。だが、奴は何を思ったか、枝を切り始めた。途端、妻が倒れたのだ」
「いきなり? なんで?」
「わからん、わからんのだ。私たちは農夫に対しては何もできん、話すことも。奴はただ枝を切るだけだ。私の命よりも大切にしてきた妻だ、それを、奪う絵だとわかっていれば、買わなかった」
「それで、死神と」
「奴は妻の命を刈り取っていく気なんだ……。私はもう、どうすればいいのかわからん」
シュタイナー氏は疲れたように長い息を吐く。一気に老け込んだような気さえした。
「それを作者に文句言ってやればいいんじゃないのか? クローディアならなんとかできるんじゃない?」
ナルシスが珍しくもっともなことを言う。しかし、シュタイナー氏は首を横に振った。
「彼女は命を持たせた作品を売るときに、作品がもたらす一切の事に責任を持たないということを誓約させる。だから、訴えることもできないのだ」
「訴える……まではしなくても、何か解決策を聞いたりできませんか」
「ああ。先週、彼女をここへ呼んだのだ。そうして妻の木に包帯を描いてもらい、農夫が木に梯子を立て掛けられぬよう、まわりに溝を描いた。だが、農夫が次の晩には包帯をほとんど取り払い、溝を埋めておった。それきりブラナー嬢はここへ来ない。電話にもでん。別の作品の制作で忙しいと言ってな」
目の前の男はほとんど恨みといってもいいようなものを目に宿らせている。
「作りかけの作品と、私の妻の命、どちらが重いかわかることだろうに。生意気な娘だ」
彼女は自分の作品が何をもたらすのかわかっていたのだろうか。だからそんな誓約を課したのだろうか。自分の命を分け与えたというナルシスを、電話越しに捨てたときのあの冷徹さ。同じ人間という種族に対してさえ、与える同情や慈しみといったものはないのだろうか。
シュタイナー氏の憤りももっともなことだと思う。
「この絵を燃やすのは? 材質は布だろうし、農夫が枝をすべて切る前に燃やしてしまえばいいのではないですか」
ナルシスが俺の言葉を聞いて目を見開いた。
「これを燃やすのか? この木が焼けるってことにならないのかそれは。この木はシュタイナー夫妻を表わしているんだろ? それってまずくないの」
それもそうか。
シュタイナー氏は俺とナルシスの会話に顔の色をくるくる変えている。
「あ、レオ、やばいよこいつ、枝を切るつもりだ」
ナルシスが焦って指をさす。
シュタイナー氏の言った通り、絵の中の農夫は、長い梯子をまっすぐな木に立て掛けて登り始めていた。腰には大きな鋏がぶらさがっている。
ナルシスがはっと気づいたように、額縁の底辺を掴んでぐらぐらと揺らす。農夫が梯子から転げ落そうとしたのだ。しかし、外の振動は、絵画の世界には影響しないようだった。農夫は平然とした様子で、梯子のてっぺんまで来た。そして、のんびりとまわりに生える枝を見渡した後、鋏を取り出し、手近な小枝をちょきんと切り落とした。
途端、また咳が聞こえる。
「隣の部屋には妻が寝ているんだ」
息切れするような声が横の紳士から漏れる。まるでシュタイナー氏の木枝が刈られているような有様だ。
「ナルシス、この農夫と会話できないのか?」
ナルシスは気の乗らないような顔をする。
「僕の元は石膏像だぞ? それが平たい板と会話できると思う?」
本当にこんなばかげた事をやらせる気かとでも言いたげだ。
「やってくれ。人の命がかかっているんだぞ」
「わかったよ」
ナルシスは、渋々といった顔で絵に近寄り、髪を掻きあげる。薄い桜貝のような爪が乗った指を、画面に、つうと這わせ、囁く。
「おい、おっさん聞いてるか?」
ナルシスはさざ波のように、静かに、言葉を吹きかける。
「おいって。お前、その枝を切るのはやめてくれるか」
農夫は、ちらとナルシスのほうを見た。ナルシスの深海の瞳に吸い寄せられるように、こちらを向いた。
「あの咳が聞こえるだろ、苦しそうだ。やめなよ」
農夫は一瞬、動きを止めた。
「おお」シュタイナー氏の歓声が漏れる。
しかし、農夫は帽子を被り直すと、またどの枝を切るか選びはじめた。
ナルシスが肩を落として落胆する。
「聞こえてない気がする」
結局、農夫は夫人の木の枝を数本切り終えると、仕事を終えたといったふうに梯子を降りていった。また梯子を引きずり、画面の端へ帰ってゆく。
俺たちは黙ってその後ろ姿を見送るしかなかった。
「そうだ」ナルシスがぴっと俺の鼻先を指差した。「レオが柵を描けばいいんじゃないか」
「……俺が?」
「今絵を描けるのはレオしかいないだろ」
「描くのはいいが……」
クローディアは溝を描いたというが、柵を描いたのが俺だとしても、それは絵の中の世界に具現化するのだろうか。画面を汚すだけの結果にならないという保証もないどころか、農夫がそれに対してどんな反応を見せてくるのかは誰にも分からないのだ。
「ベアズリーさん、妻を、頼む」
シュタイナー氏が深く頭を下げているのには適わなかった。
俺は一度アパートに戻り、筆などの油彩の道具一式を持って再びシュタイナー邸を訪れた。3つ脚のイーゼルも持ってきてはいたが、柔らかな絨毯にしっかりと立つとは思えなかったので、油絵は壁に掛けたままで描くことにした。画面が垂直なのは描きづらいが、ひっくりかえる危険がないぶん安心できた。
柵を描くと言っても使うのは人差し指に乗る程度の僅かな絵の具だろう。周りの風景に馴染む色を探しながら、パレットの上で色を混ぜていた。
――そもそも、と思う。
なぜこんなことになったのか。俺とナルシスは絵を見せてもらって、さっさと帰るつもりだったのだが。なぜか俺は今、廊下に道具を広げて、他人の油絵に加筆している。
策略だとは言えないが、どうもシュタイナー氏の勢いに押されてしまっている感はあった。迎えに車を寄越したのは最初からこういうつもりだったからなのだろうか。絵描きである俺が来ることは知らなかったろうが、ナルシスが来るということに、氏は大いに期待したような気がする。ナルシスは、この油絵と同じクローディアの作品、いわば兄弟のようなのものなのかもしれない。その彼に頼めば、解決できるかもしれないと思うのは、無理もないだろう。そう考えるとやはり、シュタイナー氏は最初から、強引な形になってでもナルシスに協力を仰ごうと計画していたのだと思う。夫人を助けたい一心なのだろう。あれだけ取り乱すからには、氏も必死なはずだ。その気持ちも分かる。
しかし、ナルシスだって遊びにきたわけではない。……いや、ナルシスのことなので、遊び半分というのは否定できないが――それにしても、目的はある。彼は自分を知るためにきたはずだ。ナルシスは何かに気付いただろうか。もしくは、クローディアに言われたという”違い”のヒントを見つけただろうか。もっとも、先ほどは慌ただしすぎて、じっくりと見る暇もなかったろう。この柵を描き終えれば、またゆっくりと絵を眺める機会は貰えるだろうが。
それでも、あの場で夫人のことをどうでもよいと言わなかったのは、ナルシスの普段の傲慢さとは別にある部分の性なのだと思う。石膏でできた彼が命や死を理解しているかとは聞いたことはないが、彼がとっさに額を揺らしたとき、会ったこともない夫人のことで頭がいっぱいだったに違いない。
思考にふけっていると、落ち着いた足音が聞こえるのに気付いた。
背後からシュタイナー氏がやってきていた。
「寒いところで作業させてすまんな」
「寒くはないです」
窓の隙間から風が吹く我が家のほうがよほど寒い。
シュタイナー氏は、描きかけの柵を見ながら、満足そうに頷いている。
「ひとつ聞きたいことがあるんですが」
シュタイナー氏はすっかり落ち着きを取り戻したので、尋ねるには良い機会だと思った。
「なんだね」
「この、真ん中の木は誰ですか」
右がシュタイナー氏、左が夫人、真ん中の小さな木だけ、シュタイナー氏の話には一度も出てこなかった。まさかクリスということはないだろう。
「ああ。それは」シュタイナー氏は少し眉を歪めた。「18歳だった息子だ。9年前に死んだ」
「そうでしたか」
「気を使ってくれなくてもいいぞ。一人息子がいなくなった。それだけのことだ」
やはり真ん中の木は死んでいたのか。白っぽい色をした木は、今にも倒れそうだった。顔も知らない青年のことを静かに思った。
「妻はそのせいで記憶が少し抜けたのだ。今は何の支障もないが、あのときはひどかった。跡継ぎがいなくなって、私も仕事が忙しくてな。クリスが妻を診てくれていた。辛いものだった。――私の跡は結局、部下に継がせたのだ。あの親不孝者め」
氏は誰ともなしに最後の言葉を床に吐き捨てた。
それは、若い息子が先に逝く悔しさには到底聞こえず、心からの軽蔑に近いものだった。
「そんなことは、ないと思いますよ」
思わず声が出ていた。おれは、口走ってから、後悔した。
この家に来て1日も過ごしていない若造の俺の言葉に、シュタイナー氏が何かを言いかけたが、結局は口を閉ざした。
重苦しい沈黙の中、俺は黙って筆を動かした。
頼むよ、と小さく言ってシュタイナー氏は階段を下りて行った。
途中、クリスが温かいコーヒーを持ってきてくれたりして、数時間で柵を描き終えた。
俺は絵の中の風景から浮いてはいないかと確認した後、大きく伸びをした。絨毯を汚さないように敷いたぼろ布の上で、道具を片づけ始める。
そこで気付いた。
「ナルシス?」
あの子供はどこへいったのだろうか。間抜けな事に、描くのに夢中で、今頃気付いた。最初は後ろに座って俺が柵を描くのを見ていたが、いつの間にかいなくなっている。この屋敷のどこかを気儘に歩き回っているのだろうか。一回、俺が手洗いを借りる前までは居たはずだ。
――何か事を起こしていなければいいが。
急いで荷物を纏めて、1階へ降りた。クリスを呼ぼうとして、階段を降りたすぐ右側の手洗いがあるほうのドアから男が出てきた。
「わ、いらっしゃいませ」
鉢合わせに驚いた男は、白い服に、青い前掛けをしている。一目でコックと分かった。
「あ、僕用を足していたわけではないですよ、手洗い前の廊下のずっと奥が、厨房で。今は、奥様の様子をクリスに聞きに行こうとしててですね。クリスはご存じですよね? うちの御者と屋敷のほとんどの仕事をこなしているんですけども……」
青年は聞いていないことをわたわたと喋りだす。俺が何とも言えずに立ち尽くしているのを見て、はっとしたように頭を掻いた。
「ごめんなさい、僕はコックのノエルと申します。今日のお客様の、えっと、」
「レオ・ベアズリーです」
「ベアズリー様! そうでした。いや、僕忘れっぽくっていつもクリスに怒られてばっかりで……」
「レオでいいです」ノエルの言葉の波をなんとか押し返す。「ベジエールさん、色の白い若い男を見ませんでしたか? 一緒に来た、傲慢で礼儀知らずの子供みたいな奴です」
ノエルはすぐにぽん、と手を打った。うってつけの人物がいるようだ。
「あ、ナルシス様ですね! 彼なら今、応接室で奥様とお茶をしているはずですよ」
ノエルも奥方の様子を見るというので、連れ立って応接室に入った。
入ってすぐに、紅茶の香ばしい香りが鼻についた。椅子にゆったりと腰掛けた黒髪の夫人がこちらを見た。
「あら。ノエルと、その方は、」
次にナルシスが長椅子に踏ん反りかえりながら、遅かったねと見上げてくる。
「さっき言ってたレオだよ」適当な紹介を受けた。
「まあ」夫人は少女のように口に手を当てる。
「わたくし、ブルーノの妻の、ユリ・シュタイナーと申します」夫人は腰を上げるのを、隣のクリスに手伝ってもらいながら、深々と頭を下げた。「本日はわざわざ、主人がご無理を言って、わたくしなどの為に絵を描いてくださったようで。ありがとうございます」
「大したことは」
「うんうん」
お前が言うな。
「ナルシスさんとここでお話させてもらっていましたの。レオさんの事もたくさん聞かせていただきましたわ」
夫人は目元に柔らかい皺をよせながら微笑んでいる。やや凹凸の少ない顔をした彼女は幼く見え、その見事な黒髪も相まって、妙齢さを増している。
「ナルシスが脈絡もなくいろいろ話すから、疲れませんでしたか」
「いいえ。わたくしだって萎びても女ですからね、おしゃべりは大好きなの」
クリスに促され、俺はナルシスの横に座る。ナルシスはテーブルの菓子を摘まんでは口に放っている。
「主人が話したかもしれないけど、わたくし、9年前に記憶を失くしてしまったの。食べたり眠ったりは普通にできたんですけどね。それからは、誰かがわたくしにくださる言葉で、いろいろなことを思い出しますのよ」
それ聞いたよ、とナルシスがもごもごと余計なことを言う。そうだったわね、と夫人が丁寧に返す。
「思い出すというのは、言葉に言うのは難しいですね。どなたの、どんな言葉だって、わたくしの胸に響きますわ。水にぱッと色が染みるような、失くした色が咲くような。この嬉しさは、わたくしだけにしか解りかませんけれど。でも、わたくしだけの宝物ですわ」
「そうですか」
「ええ。皆さまのおかげで、わたくし幸せですのよ」
夫人はころころと笑う。初対面の夫人からいきなり幸せっぷりを自慢げに話されたわけだが、不思議と嫌な感じはしなかった。
シュタイナー氏が、初対面で見せた威厳を振り捨てるほどまで、この夫人を大切にする気持ちがわかったような気がした。この人は、雪国に一輪だけ咲いた花のように、まわりから愛情を一身に受けているのだろうと、そんな気がした。
「あなたを見ていると、あなたの為に柵を描いてよかったと思いました」
「まあ。レオさん。そんな顔でさらりとおっしゃらないで」
顔に絵の具がついていたかと手の甲で拭うが、何かついている様子はない。夫人は「涼やかな冬の狼のようと思ったのに、優しい熊のお人だったのね」と言う。よく分からず、ナルシスを見るが、彼は包み紙を折って遊びながら、「確かに、顔と背だけは狼より怖い」とわけのわからない同意をしている。
テーブルをよく眺めると、夫人のティーカップの横に、包み紙で作った姿勢のよい鳥が乗っていた。一方、ナルシスの側には、ふにゃふにゃとそのまま溶けてしまいそうな腑抜けの小鳥が、ぐちゃぐちゃと並んでいる。夫人の針金を入れたような紙細工を真似しているのだろうが、似ても似つかない。
このナルシスが夫人にいろいろな話をしたというが、下手をすれば夫人よりもはるかに記憶というものが少ないのだと思う。何しろ、数週間前に生まれたくらいだ。夫人に教えを乞うことすれ、何も話すことなどなかっただろう。
そう言うと、夫人は、
「とんでもない。ナルシスさんはいろいろなことを知っているわ。話すのもとても面白いことばかりよ」
自慢の服のコレクションを披露するように、はりきって言い始める。
「そうね、レオさんの寝言とか、レオさんが階段を踏み外して落ちたこととか、あと、鍋を焦がしてしまって、しょんぼりしながら磨くことは週に何回もあるとか……」
まったく。頭が痛くなる。