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オルコットの解けない雪  作者: いも
三本の木の絵(1945.油彩、画布 Claudia・Branagh)
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2.絵の中の死神

 アパートの外に出ると、小ぶりのビートル車が1台停まっていた。念入りに何回も磨かれたその黒い車体は、珍しく晴れている空をはっきりと映しこんでいる。このアパートの前に車が停まるのは珍しいな、と思っていると、ちょうど車の陰からモーニングコートを着た長身がこちらに向かって歩いてきた。

「申し訳ありません、お待たせしてしまいましたか」

 いきなりこちらに声を掛けてくるだけでも十分驚いたが、その鈴のような声にも驚いた。礼服を着た線の細い男かのように見えるが、聞こえたのは若い女の声だった。

「人違いではないですか?」

 尋ねると、向こうも少し驚いたような顔をしていたが、遅れて降りてきたナルシスを見ると、儀礼的に微笑んだ。

「ナルシス様とお連れ様のお迎えにあがりました。シュタイナー家に仕える、御者のクリスと申します」

「迎え? バスで行くつもりだったんだけど」

 ナルシスも驚いた顔をしている。

「それを聞いた旦那様がお寄越しになったのです」

 俺たちに向かいあっている男装の御者は、簡潔に言う。

「遠慮なくお乗りください。どうぞ」

 言葉こそ丁寧だが、俺たちが馬車に乗るのは決定事項だというような雰囲気だ。ドアが開かれた後部座席に入ろうとするナルシスを制止した。

「なんだよ」猫の子のように襟の後ろを掴まれているナルシスが抗議する。

 御者と名乗るこの女に怪しげな装いは見えてこないが、心を許しきって着いていくのも躊躇ためらわれた。

 クリスの細い眉が片方だけ吊り上る。

「私が不審な輩だと疑っておいでですか。ごもっともです。こちらが急に、勝手に用意したことなのです。心配された奥様から印を預かっておりますので、これでご容赦ください」

 クリスは、懐から白いものを取り出す。それはレースのハンカチで、手袋に包まれた指がそれを開くと、印のついた古い指輪が見えた。

「シュタイナー家の印です」

 シュタイナー。どこかで聞いたことのあるような名前だな、と思うが、思い出せない。どこかの地名だったかもしれない。ナルシスが取り出した招待状の印とも違わないので、とりあえずは安心する。

「わかった」

 ナルシスは印には興味がないようで、さっさとその身を車内に滑り込ませようとしている。

 俺は御者に短くび、ナルシスに倣ってとりあえずは車に乗り込むことにした。バス代が浮くのは喜ばしいことだ。

 車に乗ったのは久しぶりで、エンジンがかかる時のやかましい音と振動がなんとも落ち着かない。横を見ると、ナルシスが興味深そうに運転席のほうを見つめていた。

「出発いたします」

 車を発進させるクリスは涼しい顔で、運転のみに集中しているようだった。整髪料を使って、ブロンドの髪が丁寧にねかしつけられている後頭部が見える。正面からだと見えなかったのだが、長い髪が後ろで一つにまとめられており、後ろのほうでなめらかな金色の蛇のように揺れていた。

 俺は結局、ナルシスの付き添いでシュタイナー邸に向かうことになった。油絵を描く為にカフェの仕事を休んでいるので、最初は行く気はなかった。だが確かに、ナルシスだけを面識のない人の家へ送り出すのは不安だった。全裸で外に出ることはなくなったが、常識やマナーについてはまだ目の離せない幼児のようなところがある。それに、気が変わったのは招待状を見てからだ。ジョンが預かってきたという招待状の蜜蝋みつろうがやたらと格式ばっている雰囲気があった。知り合いやこちらの家柄が良いというわけでもないのに、高価そうな羊皮紙の招待状をぽんと送ってくるのだ。最悪、クローディアの絵画を見る前にナルシスが追い出されるような事態も考えられるし、そのようなことになれば、ジョンの信用も落ちるだろう。そういう事情があって、俺は筆を置いてコートを取ったのだ。

 しかしどうにも、後ろめたさが残ることは否めない。人柄の良い店長を裏切っているような気がする。店長の言葉が脳内に反響しはじめる。

「絵は描くの大変なんだってねえ。僕はそういうこと全然わかんないから、レオ君を応援することしかできないなあ。人手はまあまああるし、十分に描いておいで」

 なんとなく、胸のあたりが痛い感じがする。良心はここにあるのだなと気付く。しかし、これは誓って娯楽のために行っているわけではないのだ。他の絵画を鑑賞することによって養われる創作欲もあるんです、そういう訳があるんです、店長……。

「違うんです……」

「なに言ってるんだよレオ、気持ち悪いぞ」

 ナルシスが、じと目を向けてくる。

 つい口に出てしまっていたらしい。咳払いをしてごまかす。

「車ってブーブーうるさいだけだと思ってたけど、意外といいな」

 ナルシスはすっかり関心したように言っている。

 俺はいまだに車を買えておらず、自転車で仕事場まで移動するので、ナルシスが車に乗る機会はない。ジョンは仕事柄、中古のおんぼろ車を持っており、アパート前まで乗ってくることがあるが、ナルシスはその車の壊れかかっているようなエンジン音にうんざりしていた。うるさいだけの塊だと言ったこともある。本当は、今日駅前で乗るバスが初めての自動車のはずだったが、この高級そうな小型車が人生初の乗り物になったというわけだ。

 ナルシスは見た目と態度だけは一人前だが、いろいろな事が初めてのものなのだろう。窓の外を流れる景色を、じっと瞳に映しこんでいる。生まれたての子供も、きっと同じような目でガラスの外を眺めるだろう。

「生まれたときはどんな感じだったんだ?」

 俺は疑問を口にした。

「ん?」はっとした顔をしている。「どんなって……」

 ナルシスは珍しく口をつぐんで、何かを必死に思い出そうとしているようだった。

「石膏像のときから、ぼんやりとまわりのことは見えてたよ」

「そうなのか」

 驚いた。俺のイメージでは、クローディアが何か念じることにより、童話の魔法のように、いきなりナルシスは石膏像から人間になり、ちょうどそのときに彼の意識が形成されたのだと思っていた。

「いつから意識があったのかは、よくわからない。気付いたらぼんやりと部屋の景色が見えてた。いつも僕のまわりをうろちょろしたり、体に触ったりしてくるやつがいるってこともわかってた。それがクローディアだったんだ」

 赤ん坊のようだと思った。人間の子供も、生まれたときは30センチ先のものまでしかしっかり見ることができないのだと聞いたことがある。

「僕がまだ石膏だったときは首を回せないから、自分の姿は見えなかった。でも僕は作業台に乗せられていたから、まだ作りかけだったんだろうな。やっと遠くまで見られるようになったとき、部屋の一角だけをいつも見てた。あの部屋はレオのとこより散らかってたな」

 しみじみとそんなことを語りだす。ナルシスの目は外の景色を見るのをやめて、宙をじっと見つめていた。頭の中には、彼の生まれた家の中が広がっているのだろう。

「耳が聞こえるようになったのは、本当に動き出す直前。満足そうな顔をしたクローディアが僕の名前を呼んだんだ、そしたら、急に足の下に地面があることがわかった。次に、落ちるような感じがして、視界がぐらっと揺れたと思うと、僕は作業台から落ちてクローディアの胸に飛び込んでた」

「あのとき彼女は笑ってたな。まゆ毛が下がって今にも泣きそうだったのに、すごく嬉しそうに笑ってた。僕が名前を呼んだら、もっと嬉しそうにしてた」

 ナルシスがクローディアのことをあの女、と形容していないことに、俺はぼんやりと気付いていた。

 ナルシスは腕を組んで、うーんとうなる。

「部屋には他の作品も置いてあったと思うよ、油絵とか。でもそのあとすぐに追い出されたから、よく見たりはできなかったな」

「そうか」

 そこまで喋ると、ナルシスはぐったりしたように背もたれに寄り掛かった。

「たくさん喋ったら、疲れた。あっちには飲み物はあるかなあ」

 あっちというのはシュタイナー邸のことだろう。

「紅茶ならすぐにご用意できますよ」

 前にいたクリスが喋った。この話はしっかり聞かれていたようだ。

「甘くて、たんを溶かすみたいな冷たい飲み物がいい」

 なんとも無茶苦茶な注文をつける客人だ。

「着いたら、探してみましょう」

 抽象的な表現で注文してくる客にも、彼女は動じないようだった。

 彼女の様子は先ほどと変わらず、筋の良く通った茎のように凛としている。後部座席の奇妙な話にも全く動揺を見せなかった彼女は、事前に主人からナルシスのことを聞いているのだろうか。信じがたいが、目の前のまばゆいばかりの美青年が、元は石膏像であるということ。

 ジョンの車に乗ったときに感じる、大海原に航海しにきたような揺れとは正反対に、車は粛々と道を辿たどっていく。彼女は淡々と、神経質なくらいに丁寧に運転をしている。もしかしたら彼女は主人に、石膏の青年が割れないように運び込んでくれと注文されたのかもしれない。


「着きました。お疲れ様でした」

 車が止まった場所は、街の中心部とは離れていて、見通しのよい通りだった。針葉樹や芝生に囲まれて、大きな屋敷が建っている。母屋の表面には、木の骨組みが幾何学的な線を描いていて、その隙間に粘土が詰めてある。木組みの家は街の中心部にも見られるし、珍しいものではない。しかしその維持は古いものであるほど外観を損なわないようにするには費用がかかるらしい。木の鮮やかな褐色の色や粘土の深いだいだい色といい、良い赴きの古めかしさが漂っている。屋根のふちは、なだらかに波打つような形をして、装飾がなされている。先代の主が凝って造らせたものなのだろうな、と思う。

 玄関の目の前に停まった車を降りると、クリスが先だって扉を開けてくれる。中へ入ると、外観に違わぬ古風で凝った雰囲気があるエントランス・ホールだ。

「ようこそいらっしゃいました」と言いながらコートを脱がせてくる。ナルシスのコーチを脱がせるさまは、まるで皇子と従僕の出てくる映画のワン・シーンのようだ。ナルシスの肩から、するり、と流れ落ちるようにコートがはがされる。クリスの所作は素早い。彼女は御者と言ったが、本当は執事も、いやもしかしたらメイドまで兼ねているのかもしれない。クリス以外に誰もいる気配はない。

 入ってすぐ左手の部屋に案内され、よく綿の詰まったソファに腰掛けた。ナルシスはせわしなくあちらこちらを見ていた。高価な品が物珍しいのではなく、例の絵画を探しているようだ。

「主人を呼んで参ります。おくつろぎください」

 クリスはくるりと向きを変え、やや速足で部屋を出て行った。

「ナルシス、乱暴に触ると壊れるから気をつけろ」

「暖炉の上に絵はあるけど、サインが違う」

 ナルシスは残念そうに腰を下ろした。

 しばらく大人しく座っていると、ノックがあった。

「お待たせいたしました」クリスの声。

 入ってきたのは、老齢の紳士だった。歳はずいぶんいっていると見えるが、高価な服を着た、ただの老人だとは、とても言えないような雰囲気があった。歩き方も、しっかりとカーペットを踏みしめていて、歳をとったライオンのようにも見えた。その後に、クリスが入ってくる。

「はじめまして。ブルーノ・シュタイナーだ。我が家へようこそ」

 俺は立ち上がって、彼の皮の厚い手と握手をした。

「レオ・ベアズリーです」

 ナルシスも、澄ました顔でそれに倣う。

「僕はナルシス」

 シュタイナー氏の、彫りの深い顔にうずまった目がナルシスを見て、輝いた。

「アボット君から聞いている、君は石膏像だったんだとね。世にも不思議な事だ」

 アボットというのはジョンの姓だ。

「車を、わざわざありがとうございました」

「私が勝手に寄越したんだ。街の中心から来たから、長く車に揺られたろう。用件の前に少しお茶でも飲もう」

 クリスがそれぞれに華奢きゃしゃなティーカップを置いてまわる。

「いただきます」

 俺は目の前の紅茶を少し飲んだ。

「美味しい」

 と先に声を漏らしたのはナルシスだった。彼のカップに入っているのは、なんとオレンジジュースのようだった。

「先ほど絞ったものです」とクリス。

「本当に持ってくるとは思わなかった」俺が思わず感想を漏らす。

「すごいね、僕の言ったものとそんなに変わらない」

 ナルシスもご満悦の表情を浮かべている。おそらく、彼が車内でぼんやり思い浮かべていたのはレモン水だったのだと、今頃思う。

 コックにお伝えしておきましょう、と言い残してクリスはまた部屋を出ていった。

 さて、とシュタイナー氏は俺のほうを見る。

「ベアズリーさんはナルシス君の今の持ち主だったかな」

「同居人です」

「ああそうか、いや失礼」

 どっちでも同じだよ、と横のナルシスが口を挟む。

「ブラナーさんの作品は値が張るのに、コレクターが多いと聞いているんだ。買い取ったなら、どれほどかと思ってね」

「いえ、俺はナルシスとはたまたま出会っただけです。俺はただの画家の端くれですし」

「そうか。いや、絵を描かれている方と、ナルシス君が一緒に来てくれたのは非常にありがたい」

 どういう意味だかよくわからないが、一応歓迎されているらしい。

 シュタイナー氏は紅茶を片手にしているが、どこか焦っているように、口をつけていない。何度か口元に持ってこようとしたものの、結局一滴も飲まずにカップを置いた。

「そろそろお見せしよう。ブラナーさんの作品は1枚しかないが、5年前から2階の廊下に飾ってあるんだ」

 シュタイナー氏は俺たちを2階に案内した。階段を上がってすぐ、突き当りに絵が掛けてあるのが見えた。

「あ」

 ナルシスは突拍子もない声をあげた。

「あれだ」

 絵の前に来ると、ナルシスは心を奪われたかのように一番前で見入っていた。

 それは、葉の落ち切った3本の木が描かれた油絵だった。

 右は一番太い幹をもった木だった。夏になれば葉が生い茂り、あらゆる生き物の巣をその身に抱えるだろうなというたくましさを持っていた。左の木は背が高かった。曲がる事なく、まっすぐ空を突き刺すようにしてたたずんでいる。幹に包帯が巻かれていた。真ん中の木は小さく細かった。色は白っぽくなって、もう中身が枯れてしまっているような気配さえした。

 空は今日の晴れた空に似て、雲一つない薄い青をしていた。後ろのほうに、牧歌的な小屋が見え、もっと向こうには青い山が霞んでいる。この街の風景ではないようだった。もっと南のほうの、広い土地を持った農村という感じだ。

 そして右下に「クローディア・ブラナー」のサイン。

 シュタイナー氏は唇を固く結んで、目を細めていた。

「ナルシス君、この絵をどう思うかな?」

「どうって?」

 ナルシスはきょとんとしている。

「何か気になるところはないかね?」

「いや、別に。……あ、でも、木が揺れてる」

 ナルシスの言うとおりで、額縁の中はそよ風が吹いていた。木の細い枝が緩やかにしなっているのだ。地面に広がった草や芝生も、少しではあるが揺れている。絵の中の世界があるのだ。

「もちろん、それは命を吹き込まれた油絵だからだ」

 シュタイナー氏は、そんなことか、とでも言いたげだ。

「ベアズリーさんは何かお気づきになったかね?」

「何が言いたいんですか?」

 俺は直球に尋ねた。シュタイナー氏は、少し口ごもったのち、

「実は、おふたりに頼みたいことがあってな」

 非情に困ったことなのだ、と大げさに顔をしかめている。

「何ですか?」

「この絵の中に、最近、死神が現れるようになったのだ。それを退治してはもらえんかね」

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