1.彼の兄弟
クローディアと電話をしてから、2日ほど経った。あれ以来彼女から連絡は来ていないし、するつもりもない。
ナルシスはというと、俺も務めるカフェでウェイターの仕事を始めることとなった。ナルシスが元石膏像であることは店長も了承している。しっかり注意はしているつもりだが迷惑をかけるかもしれない、と言っても、二つ返事で雇ってくれたことには、ますます頭が上がらない。本当は、ジョンがモデルの仕事を紹介してくれたのだが、ナルシスは乗り気ではないようだった。デッサン会などの大勢が集まる場所のモデルになると、クローディアが来るのではないかと思っているのだろう。
今日、俺は休暇を取っていた。朝から油絵を描いている。ナルシスも休みを貰っており、朝から背後のソファの上で雑誌をめくっている。ただ、最近とは少し様子が違う。クローディアとの一件があった夜から、陰っていた表情は、何か期待めいたものに染まっている。
そして、先ほどからとても気になるのが、彼の視線だ。
背後から刺さるような視線がどうにも筆の運びを滞らせる。おそらく、俺が絵を描いている様を鑑賞しているのではないだろう。
「ナルシス」
「なに?」
「携帯が気になるか?」
ばさ、と紙の束が落ちる音がした。ナルシスが雑誌を取りこぼしたのだろう。
「な、なんで?」
「ジョンは朝寝坊がひどいんだ」
「レオ、どういう意味?」
「いや、ジョンからの連絡を待ってるんだろう。期待するなら、求めるものの2段くらい下を見積もっておくべきだ」
背後からの返答がなくなって、俺は振り向いた。ソファに座ったナルシスが半眼の物言いたげな目でこちらを見ていた。
「レオって、人の心を読む能力を持ってるんだっけ?」
「いや違うが。俺の家は能力をもって生まれる家系じゃあない」
「じゃあなんで僕がジョンの連絡を待ってるってわかるんだよ?」
ナルシスは執拗に追及してくる。
「昨日、俺の携帯でジョンに連絡とっていただろう。あのときからお前は落ち着きがない」
俺が言うと、ナルシスはますます面白くなさそうな顔をする。
「面白くない」
その時、玄関のチャイムが鳴った。ナルシスが立ち上がろうとするのを制止する。
「座ってろ」
ナルシスが玄関先に出るのはとりあえず禁止している。理由は一つ。全裸だからだ。
扉をすべて開け終わらないうちに、人懐っこい笑顔が影からひょっこりと飛び出した。ジョンだ。
「よう、レオ。ナルシスいるだろ?」
ああ、とも言わないうちにジョンは俺を脇をすり抜けて上り込んでくる。図々しさに呆れながら、俺は扉を閉める。
「よ、元気にしてたかボロ纏いのプリンス様」
リビングにいるナルシスが、遅い、と言いながらクッションを来客に投げつけていた。ジョンは事もなげにそれを受け取って、どかりとナルシスの横に腰を下ろす。
客人の相手はナルシスに任せるとして、俺は絵の続きを描くため、早々に丸椅子に跨った。
「ふふん、電話しようかと思ったんだが、近くに来たから来たんだ。ちゃんと見つけたぞ、クローディアの油絵を買った御仁」
俺は筆を取る間もなく、再び振り向いた。
「クローディアの油絵?」
「なんだ、レオに話してないのか?」
ジョンが意外そうな顔をこちらに向ける。隣のナルシスは、悪巧みがばれた子供のような顔をしていた。
「何の話だ?」
「ナルシスが、クローディアの作品に会いたいって言うんだよ。なあ、そうだろ?」
「そうだよ」
ナルシスは怒ったようなむくれ顔をしながら、なぜか俺の顔をちらちらと窺っている。
「なんでまた」
俺がなんともなしに言うと、ナルシスは少し緊張したような声を出した。
「僕と同じ、あの女に命を与えられた作品が今、どんなふうに過ごしてるのか知りたいんだ」
ははあ、と俺は思う。
「あの女は、僕は何かが”違う”と言った。それが何なのかを知りたい」
ナルシスを見据える。長い睫毛に縁取られた青い瞳も、こちらを見返してくる。
「”違い”も、僕が生まれた意味も、僕がこれからどうしたらいいのかも、他の作品たちに会えばわかるようなきがする。むしろ、それしか方法がないと思う」
俺は浅くため息を吐きながら、眉間を押さえる。
本人は自覚していないのかもしれないが、ナルシスはまだクローディアに認めてもらおうとしている気がする。あれだけ傷ついたような顔をしていたのに、懲りていない。
「これから会いに行くんだ。僕の自由だろ?」
そう言いながら、その響きは俺に許可を求めているようにも聞こえた。
「……そうだな、俺はお前の保護者じゃあない。同居人だ。行きたければ、行けばいい」
ナルシスが決めたことなら、しょうがない。俺に、彼の行動を縛る権利はなかった。
「おお、母ちゃんからお許しがでたじゃないか、やったなナルシス」
ジョンを睨みつける。彼は引きつった顔をしながら、視線から逃げるようにナルシスへ向き直った。
ナルシスの顔は春が来たように明るかった。もしかして、俺が怒ると思っていたのかもしれない。
「あー、それでな、アポは今日の午後にとっておいた。昼過ぎに来てくれとのことだ」
「そう、ありがとうジョン」
「給料まだ入ってないんだろ? 後払いでいいぜ」
「金をとるのか」と驚いて俺が言うと、ジョンは眉を下げる。
「忘れてるかもしれないが、俺は一応情報屋の下っ端だからな。この依頼だってボスにちゃーんと報告だしてやってんだ」ジョンはあくびしながら立ち上がる。「俺が金をとらないのはお前だけだよレオ。本当はいけないんだけどさぁ。お前には、うんと借りがあるからな」
「払わなければいけないなら、払うぞ」
「あーもう、だーからお前はいいんだって。もうこの話は終わりだ」
煙を払うような仕草をする。
「あ、そうだ」
ジョンは尻のポケットをまさぐって、引っ張り出したものをナルシスに渡した。
「これは友人としてのプレゼントだ。迷わずに行けよ」
それはジョンが手書きした地図らしかった。相変わらず汚い字が書いてあるように見える。
「ありがと、ジョン」
小さく答えるナルシスの声は、先ほどよりいくらか和らいでいた。
ジョンは次の仕事があるから、と珍しく飯を食わずに出ていった。小さな嵐が去ったようにも感じる。俺はまたキャンバスに向き直って、筆を取る。
時計の秒針の音と、窓の外で鳴いている鳩のくぐもった声だけが聞こえる。再び、絵を描くためのゆっくりとした時間が流れ始めた。
「あと1時間で出発だぞ、レオ」
不意に、地図を睨みつけていたと思ったナルシスの声が飛んできた。俺は、筆でパレットの上の絵の具を混ぜている最中だった。
「なにがだ?」
「言っただろ、油絵を見に行くんだって。レオも行くんだよ」
俺が振り向くと、ナルシスは、冬が明け、一番に開いた美しい花のように笑っている。
「ほら、この地図に書いてある」
俺は目を細めて、地図の下に書いてあるジョンの汚い字を見た。
”もちもの:常識を右手に持ったレオ・ベアズリー”