6.笑う全裸
翌日、数日ぶりに行った仕事場では、やはり歓迎された。店長は「それで、絵はどう?」と言ってきたが、あまり良い返事は返せなかった。なにしろ、ナルシスが来た日からキャンバスについては何も手を加えていない。休憩時間には、同僚のアンヘルが「来たな、色男」とちょっかいをかけてくるし、ハイスクールに通うボードリエが今度家に遊びに来たいと言ってきた。アンヘルは小突いておくとして、ボードリエの願いは簡単には頷けなかった。真面目そうな少年のボードリエが、家に来て何か壊さないかと心配する必要はなさそうだったが、ナルシスの件が片付くまでは、あまり人は入れたくなかった。休憩中、しょっちゅうナルシスがまた裸で外へ飛び出してはいまいかと心配で、ジョンに何度か電話した。アンヘルが「恋人だ!」と茶化して、ボードリエがちょっと引いていた。
その日も、俺が注文を聞きに行ったテーブルにはほとんどチップが置いてあった。俺は正直あまり愛想の良いウェイターではなく、ぼーっとしていても、不機嫌そうな顔をしているとよく言われる。タバコ臭くはないが、特別なサービスも行っていない。俺の作る無理やりの笑顔で喜ぶ客がいるというのが想像がつかないところだ。チップを適当に貰い、店長に礼を言ってから帰宅する。
アパートの階段を登っているところで、自分の部屋が妙に騒がしいことに気付いた。笑い声だ。ナルシスだろうか。
何事かと急いでドアを開け、リビングに走ると、笑い転げるナルシスと、同じように笑うジョンの姿があった。
「お前、いつのまにあがりこんでたんだ」
俺はコートを外套掛けにひっかけながら、呆れて部屋の様子を眺める。俺は几帳面ではないので、部屋はいつも綺麗に整頓されているわけではないのだが、今やリビングは恐ろしいほどの散らかり具合だった。木炭や、デッサンの指南書や、モデルに合わせる高価な布などがそこいらに散らばっていた。幸運な事には、一応、何も破壊されてはいないようだ。
「おお、おかえりレオ。もうさ、お前が何回も電話してくるから、俺もこの近くに住んでる仲間に聞くだけなのも心配になってきてさ、いっそのこと家に行ってみようと思ったんだよ」
ジョンは目の端に溜まった涙を、手の甲で拭いながら言う。
「そりゃどうも。結構仲が良かったんだな」
ジョンにしてみればただの興味だったのだろうが、ナルシスの守りをしてくれるのはありがたかった。
ナルシスも俺に気づいたようで、おかえり、と言ってくる。こちらは残念ながら全裸だ。あんまり鬱屈とした顔をするので、家の中では服を着なくともよいと言ったのでこうなっている。
「レオ、見てくれこれを。ジョンが描いたんだ」
ナルシスがスケッチブックを破いたものをこちらに向けてくる。
「なんだこれは」
少ししわのできた紙の中には、大きなじゃがいものようなものが描かれていた。じゃがいもの両脇から小さな芽が生えており、その芽からさらに毛のような線がいくつも飛び出している。じゃがいもは苦悶の表情を浮かべる人間の顔のように見えなくもない。
「それ僕なんだってさ」
ナルシスには紙の裏面しか見えていないだろうに、口に手を当てて笑っている。
それもそうだ。これは、ナルシスの肖像としては最低の出来であることは間違いない。
「耳から生えている毛がクールだな」
「耳毛じゃねえよ。こいつの髪型描きづらいんだ。レオ、これも見てくれよ。ナルシスが描いた俺だとよ」
ジョンが同じような紙を突き出す。そちらのほうは、悶えているヒトデのようなものが大きく描かれていた。一番短くて、上を向いている足に人の顔が几帳面に描きこまれている。
「人面ヒトデだ」
感想を漏らすと、ナルシスは笑いながら怒った。
夕飯を作っている最中に日は暮れていった。その間、俺以外の二人が自分たちの散らかしたものを、大人しく黙々と掃除をしていたのがおかしかった。
夕飯はトマトと豆のスープに、黒パン、豚のすね肉の煮込みにソーセージを添えた。ちゃっかりジョンもそれを平らげた後、そういえば、と言った。
「ナルシスの作り手がわかったぞ」
毛布をひっかけているナルシスの肩がびくりと震えたのがわかった。俺は作業のときに使う木製の丸椅子に浅く座りながら、続きを促した。
「俺の記憶通り、やっぱこの街の作家だったな。名前はクローディア・ブラナー。若くて、まだ24だ。生まれも育ちもこの街。15歳頃から、自分が制作に関わった物のみに命を与える能力が表面化したらしい。芸術の学校を卒業して、今は作家をしているが、命を与えた物を作品とすることが疑問視されて、あまり表にはでてきていないようだ。この街にファンは多いみたいだがな」
「クローディアの経歴はもういい。彼女の電話番号はわかったのか?」
ジョンが得意げに鼻を鳴らす。
「当たり前だろ、ちょうど今の時間にアポをとっておいた」
「さすがだ、ジョン。助かった」
「へへ、だからさぁ、そういうのはいいんだって。キョーダイ」
ジョンは嬉しそうだが、一応釘をさしておく。
「兄弟じゃない」
俺はしょぼくれたジョンを促し、クローディアに連絡を取ってもらう。下唇を突き出したジョンは携帯に耳を当てて、いくらか会話した後、俺に携帯を寄越した。
「もしもし」
「もしもし? はじめまして、クローディア・ブラナーです」
若く、やや掠れ気味の女の声だった。酒やけではなく、もともとそういった声のようで、どこか中性的にも聞こえる。
「レオ、レオ・ベアズリーです。3日前に、あなたの作品のナルシスを保護しました」
「そうなの、ありがとう」
さらりとした返事。その背景には、蓄音機から流れるノイズ混じりのジャズのようなものが聞こえる。
「凍えていましたが、幸い、今は元気です。ナルシスをそちらにお返ししようと思うのですが」
「ああ……そうね……」
彼女は逡巡するような曖昧な声を出し、ちょっと間を置いてから、ナルシスに取り次いでいただけます? と言った。
「ナルシス」
電話口を押さえて、窓のほうを向いているナルシスを呼ぶ。ナルシスは何でもないように携帯を受け取ったが、表情は複雑だった。怒っているような、喜んでいるような顔だった。
「もしもし」
ナルシスのしっかりした声だけが、部屋に響く。
「レオと話した? ……そう、それで、あんたはどうなの」「……どういうこと?」「……嫌いだよ。最初は、違ったけど」「ちょっと、どういうことだよ?」
だんだん、ナルシスの声が焦りを含んでくる。
「何? おい、ちょっと! 僕が何と違うっていうんだよ!」「この××女、無視するなよ!」
ナルシスが吠えるのを、ジョンが見かねて携帯を取り上げた。
「もしもし、俺です。代わりました。ええ、どうかしました?」
ナルシスは、もうそいつと話すことはない、というようなことを言い、毛布の塊のなかにもぐりこんで、出てこなくなった。そして携帯は再び俺に回ってきた。無言でそれを受け取り、耳に当てる。
「もしもし、ベアズリーです」
聞こえるのは疲れたような声だった。
「ああ、ベアズリーさん、ナルシスの事、お願いできますか?」
「どういうことだ? あんたはナルシスを望んで作ったんじゃあないのか?」
「ええ。でも違ったんです」
「違ったって、なにが」
「申し訳ないけど、それは私の個人的なことなので、お答えできないわ。でも、もし、あの作品が帰ってくるとすれば、私は彼を壊さずにはいられなくなるのよ。ナルシスのことは、どういう事をしてもらっても構いません。きっとここにいるよりは幸せなはずです」
「ブラウナーさん、あんたは彼が人間だと思うか?」
「私にとって彼は作品でしかありません。無生物という意味ではなく、他の作品と同じく魂を分け与えたモノだと思っています」
「そうか、じゃあ一つ言っておく。あんたは知らないだろうけど、今日、ナルシスはばかげたことで楽しそうに笑っていたんだ。俺の知り合いの絵が下手すぎてだ。それに、彼は我がままだし、不満を隠しもしないし、ときどき子供みたいに愚かで、自分の身体の造形が――あんたのこさえた体が世界一美しいのを知っていて、そしてそれを一番の誇りに思っている。わかるか?」
「……ナルシスに人格ができて、より人間らしくなっているのね。それは知っています」
「それを知っていて、あんたは彼を」俺は彼に聞こえなければいいと願いながら、声を低く、小さく落とした。「ナルシスを捨てるのか?」
「ええ」
「あんたは最低だ」
俺は通話を切った。
ジョンが怯えるようにして、俺の言葉を待っているようだった。
「だめだった。ありがとう、ジョン」
ジョンは携帯を受け取り、いいんだよ、と言った。そのあと、お前は正しい、と付け足した。
部屋はいったん、静かになった。夜風がカタカタと窓を揺らした。
「僕は、捨てられたのか?」
くぐもった声が聞こえた。ナルシスだった。宇宙の果てから届いたような、遠い遠い孤独な声のようだった。
俺は押し黙った。
すると、ナルシスがもぞもぞと毛布から顔を出した。その顔には何の感情も表れていなかった。先ほど野良犬のように吠えていたのが嘘のように、水盆に満ちた水のように、静かで澄んだ様子に見えた。
「レオ」
「なんだ?」
俺はそれだけようやく口にした。
「僕、ここに住んであげてもいいよ」
ナルシスは傲慢に、自虐的に、笑っていた。
俺は後悔した。その台詞を、俺から言うべきだったことは間違いなかった。