5.全裸、服を着る
今、愛の女神も裸足で逃げ出す絶世の美青年は、一世一代のとんでもなく醜悪な顔を晒していた。
「なんだよこれ……なんなんだよこれ……」
出会ったときからしゃんと伸びていた背筋は、しなびたように曲がっている。すらりと伸びた脚も、無残ながに股となっていた。
「しっかり立て。イノシシが立ったような恰好になってるぞ」
ナルシスは聞こえていないのか、自分の姿を見下ろしながら、絶望していた。
「最低だ……」
細い首から始まり、艶めいた髪の束がその上を跳ねるように造られたかのような、なだらかな線を描く肩は、今や、真っ黒で毛玉のついた、ぶかぶかのシャツで覆われていた。シャツはその下の、みずみずしく白い、実の詰まった腹や、絹の帯で締めたようなゆるやかなくびれを無視して、いっそう毛玉をふやしながら、重力のままにだらしなく床に向かって伸びている。またその下から覗くはずの、筋肉の締まった染みのない脚も、太ももに薄く絵の具のついた厚手のコットンパンツが覆っていた。――そう、石膏から生まれたナルシスが、生まれて初めて――下着を含めて――現代的な服を着たのである。
先ほどから、気持ち悪い、とか、肌にこすれて痛い、などと床に向かって不満を言っている。「元がいいから言うほど悪くない」、「コートを着たら裸でも同じだ」と言って励ましているのに、ナルシスは謝って毒を飲んだ皇帝のように、自分の情けなさと、やり場のない怒りに塗れたままだ。
「お前の肩や腰からずり落ちないものがあっただけいいだろう」
「いっそ、ずり落ちたほうがいい」
「だめだ。ほら、買い物に行くぞ」
まだむずむずしているナルシスに、カーキ色のトレンチコートを差し出す。
「お前に合うものを買いに行くんだから、早く行ったほうが得だろうが」
ついに、その言葉に押されたナルシスとともに、俺は街へ出た。
2日前の大雪の影響で、まだ道には雪が残っていた。車道に雪はほとんどないが、歩道にはまだ多くの雪が脇にどけられており、足元にも薄く積もっている。午前もそろそろ終わろうかという頃合い、商店街には昼食や休憩場所を求めたりする人も加わって、それなりに人が行き来している。服屋を目指して歩きながら、ときどき後ろを振り返る。一回り小さい人物が俺のあとを追ってくる。他でもないナルシスなのだが、服を着込んでいるからなのか、普段の神秘的な雰囲気は薄れ、マフラーから突き出た顔だけが異常に輝かしい。世辞にも似合っているとは言えない服装ではあるが、すれ違う人の何人かが振り返って、ナルシスの後姿を見送っている。誰もが一様に惚けたような顔だ。一方、ナルシスは不満を隠しもせずにぶかぶかのワーキングブーツを踏み鳴らしていた。
「皆なんで僕の方を見るんだ。ああ、やっぱり笑い者なんだ、このへんてこな格好は」
ぶつぶつうるさいのを聞き流しながら歩を進める。
服屋についたとき、ナルシスに向き直ると、いつの間にかコートの襟を立てていた。見事につん、と立った襟の間に、しかめっ面が挟まっている。なんとか外からの視線を遮ろうと苦戦した跡のようだ。それを直してやって、店内を自由に見て回るように言う。それほど高い店でもないので、好きなものを1セットほど買えばよい、と何枚か札を渡して、俺は店の外で待つことにした。濃い緑の街灯にもたれかかる。
軽くなった財布が妙に虚しい。明日の生活に支障がでるわけではないが、石膏像に服を買ってやる予定はなかったので、やりくりをしなくてはならない。早く絵を完成させて、カフェの仕事に戻ることが先決だ。もちろん、ナルシスが家に来なくとも、早めにカフェに戻らなければいけないことは解っている。学生の頃から付き合いのある店長は底抜けにお人よしで、俺が絵を描くことを応援してくれている。俺が月に何日も休んで、忘れたころに戻ってくるのもよしとしているのだ。経営者としては危ういが、こちらとしてはとても助かっている。店長が言うには「君が戻ってきたときにチップが増えるのは皆嬉しいだろうしねえ。君がいない間のチップなんて雀の涙だもの」とのことだ。俺の務めるカフェではチップは精算時に皆に平等に分配する決まりがある。店長が言うのは事実なのだろうが、俺を気遣ってそう言うのもあるのだろう。
ナルシスのことは、早めにどうにかしなくてはならない。持ち主に服代を請求するわけではないが、やはりどうにか話をつけなければ、こちらもどうしようもないのだ。
肩を少し回した後、絵の具で汚れた携帯を取り出し、番号をかける。すこし呼び出し音が鳴って、ぷつ、と繋がる音がする。
「ジョン、おれだ」
少し遅れて、騒がしい声がする。
「ああ、レオ。ちょうどいいところに電話かけてきたなあ!」
「例の作家は見つかったのか?」
電話の向こうがどうも騒がしい。いつもの酒場のようだ。情報屋のジョンにとっては、そこが仕事場ともいえる。
「いやあ、あの子の、ナルシスだっけ、その作り親のことは明日くらいになるかなあ」
「そうか。仕事の合間に済まないが、早めに頼む」
「お前は頭下げなくていいんだってば。なあレオ、それより今ピーターとクラウスが腕相撲してんだよ、どっちに賭ければいいと思う?」
「はあ?」
「だからー。ピーターとクラウス!」
「……賭けるな」
「ちょっとごめんレオ、こっちがうるさくて聞こえねえ。なんて?」
「ジョン、賭け事はするなと前約束したろうが」
「ええ? なんて?」
「賭けたらぶっとばすって言ったんだ! いいなジョン、連絡待ってるぞ」
何か言っているジョンを無視して、携帯を切り、ポケットに押し込む。ふと気づくと、何人かの通行人が訝しげにこちらを見ていた。俺は視線を避けるように車道のほうに顔を背ける。
「ん?」
車道を挟んで、反対側の歩道。警官が二人組で歩いていた。背の高い白髪の男と、それとは正反対の、丸めの体型をした若い女の警官だ。ふと、声をかけるべきか迷う。仕事に慣れていそうな風貌の、初老の警官に話をきいてもらい、ナルシスのことを話す。能力者の多いこの街の警察のことだ、一癖もふた癖もあるナルシスのことだって、簡単に引き継いでもらえるはずだ。そうすれば、ジョンを待たなくとも、ナルシスはいったん警察のもとへ引き取られ、しかるべき手段で持ち主に返される。しかしその際、もし作家が拒否するとしたら。
彼女に受け取ってもらえなければ、そのときは一体。
昨日ジョンが言った趣味の悪い戯言が頭に浮かんで、消えた。
「レオ、おまたせ」
振り向くと、ナルシスが立っていた。満足そうな顔をしている。ナルシスの首からしたは、およそ俺が着たことのない鮮やかな色彩の服に包まれていた。店員に貰ったのか、片手に提げた黒い紙袋の中に、先ほど来ていた服が押し込まれている。
「動きづらくて気持ち悪いけど、毛玉だらけよりはマシだね」
「ああ、似合ってる」
店の前に俺がいなかったら、ナルシスはどんな顔をしただろうか。不満げに俺を探しに歩いただろうか。歩き出そうとして、もしも、目の前に2人の警官がいたらどうしただろうか。優しそうな白髪の警官に、さきほどの男に保護するように頼まれたのだ、と説明を受けた時、ナルシスはどう思うだろうか。捨てられるのは二度目だと、赤い唇が呟くだろうか。
「レオ、パン屋にいくんじゃあないのか」
ナルシスが怪訝な顔をして覗き込んでくる。深い青をした目は透明な海の底みたいに澄んでいる。
「ああ。行こう、帰りにジョンを殴って、家に帰ろう」