4.全裸の違い
夕飯を欲しがるジョンを追い出すと、絵画や彫刻に関する雑誌をめくってみた。しかし、どこにも命のある作品を創る作家について取り上げているものはなかった。命をもたぬものを動かすという能力はさほど珍しいものではないと思うが、画家の端くれである俺さえ、自分の作品に命をもたせる作家というのは聞いたことがない。
そもそも、自分の創作物に命を与えるというのは、どんなことだろうか。からくり人形を作るようなものか、子を生むようなものか、それとも神のようなものなのか。もはやそれは、作品ではないのかもしれない。芸術の分野を抜け出して、医学や、倫理の専門家が口をはさむ事態になってもおかしくはない。人とモノの間で揺れている存在。
しかし、当の本人としては、石膏像だったときの意識が強いようである。
ナルシスは今、ふてくされて俺の寝室で閉じこもっている。はなはだ迷惑で我がままなモノであるし、厄介なことに巻き込まれて、仕事をおろそかにしたくはないので、できればはやく追い出したい。しかし、俺も彼への興味がないというわけではない。
寝室の扉を開けると、この部屋だけ数十分時間が進んでいるように薄暗かった。もう日も沈もうという時刻に、閉められたカーテンが、夕日の温かい色を遮っている。ベッドに彼の姿を探すが、毛布がこんもりと盛り上がっているだけで、顔は見えない。
「起きているか」
聞いても、だれも返事をしなかった。諦めて、扉を閉めようとすると、微かにくぐもった咳が聞こえた。
「あのな、お前が全裸でいるのは勝手だが、風邪をひいてもらっちゃ困るんだ」
「ひいてない」
少し痰が絡まったような、むすっとした返事が聞こえる。
「お前の、その、親……作り手にお前を返すとき、示しがつかないだろう」
「言っただろ。僕は追い出されたんだ。あの女は僕を受け取らないさ。戻るつもりもない」
「お前、一体、どうして追い出されたんだ?」
今までしっかり響いていた涼やかな声が、急にぼそぼそとし始めた。
「僕が人間になったから、もういらなくなったんだ」
「え?」
ちょっと待て。
「でも、人間にしたのは作家自身だろ? 自分の能力で、望んで石膏像に命を吹き込んだはずだ」
ナルシスは少し黙って、自分の恥ずかしい過去でも喋るように、声を尻すぼみにさせながら言う。
「たぶん、人間になった僕が、理想どおりじゃなかったんだ。たぶんだけど、形とかの問題じゃない。よくわからないんだ」ナルシスは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。「僕の内側に命が灯されて、初めて目があったときは、あいつ、幸せそうな顔をしていた。僕の美しさに感動して、称えていた。そして、あいつがそうしろと言うから、いっかいだけ、抱きしめあったんだ。僕の身体を撫でて、感触も想像通りだと言った。だけど、あいつは思い出したように急に僕を突き放して、罵って、家から追い出したんだ」
「……そうなのか」
それしか言えなかった。俺はてっきり、ナルシスの我がままで自己愛的な性格にうんざりされたのかと思っていた。ナルシスからの視点で話を聞いただけだが、彼に非はないように思える。なにしろ、彼は生まれただけなのだ。
「ねえ、レオ。僕は神話のナルシスと何が違うと思う?」
「うーん……」
考え込むが、これといって何も思い浮かばない。美貌と傲慢さ、黙っていれば神さえ羨みそうな神秘的な雰囲気と、少し愚かな言動。何もイメージ通りのような気がする。
石膏像というのは、真っ白な像に陰影ができることにより、その立体美が際立つものだ。それに色がついてしまえば、作家が日々思い描いていたイメージとだいぶ食い違う事もあるかもしれない。しかし、単に色が気に食わなかったということではない気がする。何より、一回作家は彼を褒め称えたのだ。
あといくらか考えられるのは、人間というのは愚かなもので、狂おしいほど求めた理想が現実に手に入れることができたとき、急激に冷めてしまうということがあるということ。
理想は、理想のままだから美しい。
俺はいつの間にか、しばらく考え込んでいたらしく、ナルシスの小さな咳で我に返った。今度の咳はなかなか止まらず、咳に合わせてベッドが軋んだ。
「ああ、一つだけ、違うところを見つけた」
白々しく言うと、ナルシスは飛び起きてこちらを見た。髪の毛はぼさぼさだったが、変わらず美しかった。
「本当か?」
「ああ。画家のカルヴァッジョの絵を思い出したんだ。あの偉大な画家も、ナルシスを描いていたなあと」
「なんだ、もったいぶらず、教えてくれ」
「カルヴァッジョのナルシスは服を着ていた」
ナルシスは、美青年も台無しの渋い顔を露わにした。