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オルコットの解けない雪  作者: いも
軍神アレス(1949.油彩、画布 Claudia・Branagh)
16/17

5.そして燃える、本屋の絵

 何かひどいことが起こった気がしていた。

 目が覚めると、体の芯から冷え切っていた。毛布が体の上に何枚も重ねられていたが、意味もなく、重いだけだった。

「……ナルシス」

 不意にその言葉が口から洩れた。

 そして一気に、暗い奥底から、鮮烈な意識が浮上してきて、はじけた。

 夢中で、毛布の中を探した。服を着たまま、荒れた海の中に立っているようだった。上手く体が動かない。寝ている間にかなり体力を消耗したようで、四肢にたっぷり水を吸ったような重さがある。聴覚も触覚もすべて投げ出して、力任せに重たい布の塊を押しのける。

 乱暴に布を裏返す度に、暗闇の中に、白い肌がちらりと覗くことを期待していた。

 そうして、見るに堪えない状態になっている俺を、やれやれと呆れたように見る青い目があればいいと思った。

 結局。

 腕の中にも、毛布の隙間にも――静まり返った部屋には俺以外、誰もいなかった。

 それがわかったとき、息が上がっていることにようやく気付き、意味の解らない倦怠感が襲ってきた。

 俺は潔く手を止めて、荒れ放題になったベッドの上に腰をおろした。手持無沙汰でなった指が、先程の惰性のように、意味もなくベッドの上を撫でる。

 白いシーツも、愛用の赤い毛布も、妙に生温い。氷が溶けた後にできる、間抜けで、空虚な水みたいだった。

 部屋は一つを除いて、昨日と変わらない。抉られるように不在なのは、昨日感じていた、刺すような冷たさだけだ。

 俺は脱力して、窓のほうを見やる。

 無遠慮に差し込んでくる朝の光の中に、埃がきらきらと舞っていた。



 自分の荒い息が収まってくると、ようやくまわりの音が聞こえ始めた。

 リビングのほうが騒がしい。ジョンの声が聞こえる。俺はそれを認識して、ぼんやりと考える。

――ジョンに会わなければいけない。会って、いなくなった彼のことを聞くべきだ。

 途端、やかましい音を立てて扉が開いた。


 扉の隙間から勢いよく飛び出した、ワイン・レッドのコートが靡いていた。


「レオ!」

 ナルシスだった。

「やっと起きた! 死んだかと思ったぞ」

 俺はただ口を半開きにして、目を疑った。

「本当にナルシスか? なんともないのか、昨日のは、」

 俺の生み出した幻影かと思われるほどの、はつらつさだった。

 無言のまま、こちらへずんずん近づいてくるナルシスは、俺の額を指ではじく。思わず一瞬目をつむるのと同時に、鈍い痛みが伝わってくる。

「レオのおかげだ」

 目蓋をひらくと、目の前で麗しい顔がほろ苦く笑っていた。

「本当に、びっくりした。レオに隠し事したまま死ぬのかと思った」

「……ああ、本当にナルシスか」

「幽霊じゃないぞ」

「そうか……」

 彼が俺の生んだ夢ではないことに気付いただけで、俺の足元がひどく安定した気さえした。

 窓から漏れてきた光が、ナルシスの優美な顔の輪郭を浮かび上がらせていた。

 それを見た途端、朝特有の眠気が、突然思い出したように襲ってきた。

「レオ」ナルシスは静かに声をあげた。「寝起きが最悪ってことは知ってて言うんだけど、いますぐ出かける用意をしてくれ」

 そういえば――目の前の男は服を着込んでいる。服を着ているということは、外出するということだ。

 彼の繊細な造りの顔は、すっかり血色を取り戻していたが、何か喉にひっかかったような表情をしている。

「なにかあったのか」

 俺が訊くと、ナルシスは素早く答えた。

「そうなんだ。とりあえず、僕とエスメリンダは、今日の早朝に目覚めることができた。体調もいい」

「じゃあ犯人は、捕まったのか?」

「いや、それはまだ。それより、別の事件が起こったんだ」

 ナルシスの青い目に、睫毛が深い影を落としていた。

「エスメリンダの弟子から連絡があった。アレスが……」




 肌寒い通りで、本屋”水平線”の前には小さな人だかりができていた。

 黒い服の警官が数人、何かを話し合っている。道行く人々は、本屋の異変を遠巻きに見つめながら歩き去っていく。

 さらに近づくと、焦げ臭いにおいがする。俺とナルシスの足は自然と早まった。

 本屋の小窓のすぐ下を囲んでいた一人が、こちらに気付いて手を振った。

 黒髪の小さな娘・ゾラだった。彼女は、自身より頭1つ分背の高い女の肩を抱いている。

 こちらを見向きもしない女の顔をよく見れば、彼女は――エスメリンダだった。痛々しいほど強張った顔で、ぴくりとも身じろぎしない。別人どころか、彼女は精巧な蝋人形のようだ。

 見る影もない彼女の顔を見て、俺はだいたいの予想がついていた。垣間見えた足元。ナルシスと一緒に、やる気のなさそうな警官を押しのけながら、彼女たちのもとへたどり着く。

「いいんだ、彼らは関係者だ」

 そう言ったのはゼップ老人だった。警官の傍からよたよたと歩いてくる彼もまた、こちらへ加わった。

 彼女たちが見つめている地面に視線を落とすと、そこには残骸があった。

 黒い木枠の骨組みと、炭のくずだった。

 元の姿がわかるのは、わずかに燃え残っているキャンバス生地だけだったが、それも炭まみれで、色彩は失われている。

 横にいたナルシスが、その残骸のもとへ進み出た。彼は、チョークで描かれた白い線の縁に、静かにしゃがみ込んだ。白い横顔が何の表情も浮かべずに、残骸を見つめた。

「アレス?」

 ナルシスが呼びかけて、しばらく、穴の開いたような空白があった。


「……アレスは、死んでるんだ」


 老人の声は、重たくその場に響いた。

 何があったのかと問うと、ゾラが遠慮がちに説明し始めた。

「昨日の夜、誰かが本屋に押し入って、アレスを……焼いてしまったの」

「犯人はおそらく能力者ベテルだ」

 ゾラの言葉に続いて、若い男が口を挟んできた。

 黒服の警官で、そのふわふわとした金髪と、柔らかい笑みを浮かべた表情には見覚えがあった。くすんだ青い瞳と目があって、向こうも驚いた顔をする。

「あれ。また君か」酒場と、カラスを追いかけていたときに会った若い警官だった。「俺はエリク。オルコット市警察の警部だ」

 エリク警部はあたりを見回して、何か納得したように頷いた。

「昨日の被害者たちか。体調が戻ったみたいでなによりです」彼は「現場検証は終わっているが、白線の内側にあるものに触れないように」と忠告した。以前は微塵もしなかった警官らしさを纏っている。「警察こちらの見解では、昨日、カフェ店員とパン屋を襲った女と、この本屋での器物損害の犯人は、同一だと見ているんだ」

「まだ捕まらないんですか」と不安げなゾラが言うと、エリク警官は緩く眉を下げて微笑んだ。

「ああ。目星はついているんだけど」

 エリクは、本屋のドアのほうに顔を向けた。

「あれを見てください。金属の部分だけ見事に溶けている」

 本屋の入り口に視線をやると、ノブがあったはずの場所には大きな穴が開いている。そして、彼の言うとおり、扉の下に不可解な金属の塊があった。ノブであった金属部分が溶解した後、地面に流れ落ちて凝固したらしい。扉の木製部分には、焼かれたような一直線の穴がある。おそらく金属が流れた痕だろう。

「犯人の能力者ベテルはあのノブを溶かして店内に侵入し、絵を燃やした。店の床に焦げ跡が残っていたから、これは間違いない。ただ、燃やした絵をここまでひきずってきた理由はまだ分からないけどね。ともかく、店への燃え移りは免れ、どうやら”器物損害”で収まっている」

「”殺人”よ」エスメリンダが低い声をだした。

 俺は驚いて彼女を見つめたが、彼女の唇は固く結ばれ、それ以上何かを言う気配はなかった。

 エリク警部は、彼女に向かって軽く一礼する。

「失礼、エスメリンダさん。遺憾と思われるでしょうが、書類上では不本意ながらそうなるのです」

 エリクはアレスの絵だったものを流し目でちらりと見た後、集まった面々の顔を観察するようによく見つめた。

「皆さん。犯人は”熱を操る能力”か”何かを集める能力”のベテルだ。もちろんこれは、物質の電子を震わせる云々の話じゃない。この能力はもっと概念的だ。カフェ店員とパン屋の店主には、熱を逃がしたか、冷気を集めた。ドアノブには逆を」

 彼の言葉はもっともなものだったが、誰もその情報に反応はなかった。

 エリクは口元に品の良い笑みを浮かべたまま、眉を少し寄せて、難しそうな顔をした。そして、あたりを見回すそぶりをみせ、声の調子を抑えて、言う。

「ダリアという女性が行方をくらましたとしたら、彼女の行く先に心当たりがある方はいないかな?」

「ダリア?」

 先日アレスに詰め寄っていた、妖しい声の女の名前だ。

 俺とゾラだけは、エリクの言葉にそれぞれ反応を寄越した。あとの3人は地面をじっと見つめていた。

 ゾラは友人ではないようであったが、ダリアの住所を知っていると述べ、俺は名前を知っているだけだと言った。その情報は、どちらもエリクが求めていたものではなかったようだ。

「なんで、ダリアがこんなことを……?」ゾラは理解できないと言った風に首を緩く横に振った。

「先程、本屋の主人に事情を聞いたんだが、今回の事件はそこの……絵の中の男と、彼女ダリアの痴情のもつれといったところだろうね。エスメリンダさんとナルシスさんも、絵の中の男とダリアに関わって、何か恨まれるようなことになってしまったんじゃあないかな。まあ、俺が深く関わることじゃあないけれど」

「ダリアは、カラスを追いかけたエスメリンダとナルシスを襲ったっていうことか」

 俺が尋ねると、エリクは曖昧な笑顔を返した。

「どうかな。まだ警部おれの口からは断定はできない。ダリアと同居中の男から聞く限りでは、昨日の午前中、”小屋に捕獲していたカラスが突然消えた”と彼女は騒いで、家を飛び出したようだが」

 俺は胃が急に重くなった気がした。おそらく、昨日俺が、カラスを絵の中へ戻すようにとアレスに言った後のことだ。アレスが燃えたきっかけをつくったのは、俺だったのか。

 こっちの心情に気付いたのかは定かではないが、エリクは相手を安心させるような、柔和な表情を浮かべた。

「とにかく、相手がお2人への能力を解いたということは、向こうが弱っているか、意図的に解いたかということです。なるべく不用意に出歩かないでください。詳しいことは、ミセスを捕まえたら、皆さんに早急に連絡しますよ」

 エリクは捜査への協力に感謝を述べ、また後で話を聞くかもしれないと言うと、他の警官に呼ばれて何かを相談しに車の中へ入っていった。

「わしのせいだ」

 老爺の細い声だった。

「わしが許可を出すとき以外、絵の外には出るなと言っておったんだ。だから、こうして――焼け死んだ」

「えっ……?」ゾラが声を裏返した。「アレスは本当に絵の中から出てこられたんですか!」

 口を一直線にしていたエスメリンダも、そのときばかりは何度か瞬いて目の前の老人をじっと見つめた。俺も彼女たちと同じ気持ちだった。

「アレスは絵から出られるといつも言っていたけれど、結局出てきたことはなかったですよ?」ゾラが、一昨日みせた陰鬱な口調を微塵も感じさせずに問いかけた。

 老爺は自嘲気味な笑みを浮かべている。

「ああ、わしがいいと言ったとき以外出るなと言ったんだ」俺のほうをちらりと見る。「レオ君には、昨日、危うく見られそうになったな。あのとき、アレスに荷物を持つのを手伝わせていたんだ。君がきたときは棚の裏に隠れさせた」

 昨日感じたあの気配は、絵から抜け出したアレスのものだったのか。あのときすぐ近くに、絵から抜け出した男が――油絵の具でできた男が立ってこちらの様子を窺っていたとは。今、想像することさえ難しい。

「なぜアレスが外へ出るのを制限したりしたんです……? アレスが人の目に触れると、何かまずいことでもあったんですか?」

 ゼップ老人は、鳥の羽毛のような眉をぐっと真ん中に寄せる。

「聞いてくれ、君たちに謝らなければいけないことがある」

 皆が老人の言葉を待った。

 ナルシスだけは、炭を覗き込むのを止め、しゃがみこんだまま、ぼうっと店の中を見つめていた。

「アレスは身体の弱ったわしを助けてくれていたんだ」老人は己の顎の前で、しわの余った指を固く絡ませた。「あの額縁の外に出て、本屋の仕事を手伝ってくれていた。……ただ、それをアレス以外には見せたくなかった。介護だと、言われると思うと恥ずかしくてな。今思うと馬鹿らしいが、プライドがあったんだ」

 昨日感じた以上に、ゼップ老人の自尊心は強かったようだ。だが今ではその虚勢は崩れ落ちて、昨日の別れ際に、また来るようにと微笑んでいた寂しい老人が現れた。

「あの子は、卑怯なことは好まない男だった。――あの卑劣な問題をふきこんだのは、わしなのだ」

 やはり。

 カラスの問題を考えたのはこの老人だったようだ。

 ゼップ老人は、ぽつりぽつりと問題のからくりを説明した。それは、昨日俺がアレスに突き付けた理屈とほとんど同じだった。

「悪魔の証明ですか。わたしたちに、チャンスなんてはじめからなかったんですね」ゾラが顔をしかめた。

「いったいなぜ、はじめから私たちに交際を認めないと言わなかったんですか?」

 その問題さえなければ、俺の知り合いが危険な目に遭うこともなかった。しかし、最終的に引き金となったことをした俺が、老人を責める資格はないように思えた。

「それは……、君たちがわしの店に来てくれることが、嬉しかったからだ。さびれた店に、いつも皆が笑いながらきてくれるのが、楽しみだった。アレスと交際は認めたくはなかったが、店に来てほしかったんだ」

 ゾラはますます納得がいかなそうに顔を強張らせ、隣のエスメリンダを控えめに見た。

「わたしは、アレスが好きだってことは気の迷いだったことに気付いたけれど……。でも、エスメリンダは……」

 エスメリンダは何も言わなかった。じっと老人のほうを見つめている。

「決して、うら若い君たちを貶めようとしていたわけではない」ゼップ老人はエスメリンダの剣幕に押されるように、言葉を続ける。「アレスは油絵だし、人間の女とうまくいくはずがない。アレスを好いてくれているお嬢さんも、アレスも、哀しいことにはさせたくなかった。そうだろう。油絵の寿命などわからない。何百年も保存してある絵画だってある。しかし、人間には必ず死が訪れる。待っているのは、哀しい結末でしかない」

「あなたの勝手な想像じゃないですか」ゾラがつっぱねる。

「わしは、若いころ、妻に先立たれている。その悲しみの深さを味あわせたくなかったんだ」

 俺は思わず顔を歪めた。

「そ・そんなの、卑怯です。奥さんのことはお悔やみしますけど、それを引き合いにアレスの未来を勝手に決めるのは、それこそ詭弁ですよ」ゾラはいよいよ怒りで顔を赤くし、かなり早口になりながらも、しっかりと老人を指摘した。

「そうかもしれんな」老人は一際強く唇を噛んだ。

「できることなら、アレスに謝りたい。あの子はわしのせいで、恋も愛もわからないまま、消えてしまった」

 きえた。

 言葉をなぞるように、ゾラは呟いた。そして、肩を抱いているエスメリンダと肩を落としたゼップ老人とを、交互に見やった。

「でも……いくら言い聞かせたからって、アレスは絵の中で死ぬでしょうか?」自分を抑えきれないといったように、ゾラは続ける。「たった1か月ですけど、わたしだってアレスのこと、少しくらい知っているんです。自信家で、直感的で、でも純粋な人だった。ゼップさんを残してしまうことを考えなかったのかしら……。自分の命が危なくなったら、いくらなんでも絵から飛び出すんじゃないですか?」

 老人は、首を静かに振った。

 話は謎のまま終焉したかのように思えたが――じっとしていたナルシスが、よどんだ空気を押しのけるように、突然立ち上がった。

「アレスはじいさんのことを大切にしたから、焼けたんだ」

 ゼップ老人を見据えるのは、凛とした表情だった。彼一人が数年も時を経て、アレスの死を理解できたような潔さが滲んでいた。

「僕はアレスからきいたんだ。秘密にしてくれって頼まれたから、レオにも言わなかったけど――」ちらりと燃えた額縁を見る。「あの問題はアレスと彼女たちのために、あんたが贈ってくれたものだって言って、アレスは大事にしてた」

「知っていたのか」と俺が漏らすと、内緒にしていたんだとナルシスが答えた。

「ナルシス君は、アレスの兄にあたるのか」ゼップ老人は眉を強張らせ、目を細めてナルシスに向かっている。

「そう。僕にはあんたの気持ちはぜんぜんわからない。でも僕とアレスは、同じクローディアの子供だからわかるんだ。アレスは単純だけど、あんたがアレスを大事にしてるのは知ってたし、ずっと本屋を続けたいってことも知ってた」

 ナルシスの拳は固く握られていた。彼の滑らかな指の隙間から、ぼろぼろの黒い布のようなものがはみ出ている。

「たぶん、ダリアっていう女が絵をここまで運んできたんじゃない。アレスは絵から出た後、キャンバスをここまで運んできた。――じいさんの本屋を、燃やしたくなかったから」

 ゼップ老人は、勢いよく顔を覆った。しわだらけの手がぐちゃぐちゃに老人の顔を揉んで、くぐもった嗚咽が漏れてきた。

「今わかったんだ。こんなに悲しいとは思わなかった。ただの絵じゃない、わしは息子を失った」


 エスメリンダはゾラの腕をするりと抜けて、皆に背を向けたかと思うと、石畳を歩き始めた。

「どこいくの」ゾラが心配そうに声をかけた。

「アレスを探しに」

 エスメリンダは振りかえらずに答えた。彼女の背筋はしっかりと伸びているが、どこか表面張力が起こっているコップのような、危ういものを感じさせた。

「アレスは、生きているわ」

 そう言い残すと、エスメリンダは規則的な足音を響かせて行ってしまう。

 俺の横を、影が横切る。ナルシスも、母鳥の後を追うように歩き出していた。

 ゼップ老人の姿と、ゾラを見やる。彼らは警察が側にいる限りは安全だろう。

 彼女が望まないだろうとは思いつつも、俺も彼らを追う。




 エスメリンダはしばらく黙って歩いていた。俺はすぐにナルシスに追いついたが、エスメリンダのまわりには何をも纏わりつかせない、見えない壁があった。いくつも角を曲がって、たくさんの人とすれ違った。何人かがエスメリンダの姿を見て、片手を挙げかけて、胸の位置に戻していた。エスメリンダの店の常連なのだろうが、結局誰も彼女に声を掛けては来なかった。

 エスメリンダは病み上がりだとは思えないほどの足取りで、どんどん進んでいく。おそらく、どこか目的地があるのだろう。俺は、彼女の中に理性的な部分が残っていることに少し安心した。

「ナルシス君は、あたしよりもずっと、アレスに近かったんだわ」

 だいぶ本屋から離れた通りに着たとき、エスメリンダは呟いた。

「似ていただけだよ」

 ナルシスが後ろからそっと声をかける。声色は普段より柔らかいが、彼の横顔には憐憫や同情というものは微塵もなかった。

「彼、あたしのことを何か言っていた?」

 ううん、とナルシスは唸った。

「あ、エスメリンダはいつもおいしそうなにおいがするって。エスメリンダが本屋に来たときは、すぐわかるんだって。いつかエスメリンダのパン屋に行きたいって言ってた」

「……そっか」

 木枯らしが吹いた。

 彼女の背中は少しも震えもしなかった。もしかすると、寒すぎて震えることさえできなかったのかもしれない。


 太陽が真上にきたころ、俺たちは町はずれのガラス張りの建物に着いた。

 俺は足にかなりの疲労を感じていたが、あとの2人はいつもと変わらない様子だ。俺は片足に重心をずらして、建物を眺める。

 それは小さな植物園で、中にいろいろな緑が育っているようだった。エスメリンダの店を一回り大きくしたような規模で、どうやら個人で運営されている園のようだ。俺は植物園には行ったことはないが、おそらく花屋と博物館の子供みたいなものだろう。

「夢を見たの」

 エスメリンダは植物園の中をぼうっと見つめていた。

「アレスと一緒に、ここへ来る夢」

 エスメリンダの呟いた”夢”が、睡眠時に見るものなのか、未来の中の希望だったのか、俺には分からなかった。

 答えを探すように、俺も彼女に倣って植物園の中を覗いた。

 中はさまざまな緑が溢れていた。俺がパレットの上で作ることができる数の倍はありそうだ。水気をたっぷり含んだ葉や茎に紛れて、赤や白の花弁が、小さな花火のようにぱっと咲いている。昼の光が真上から降り注いで、ますます葉の艶やかさを映し出していた。温暖な地方の夏をそのままガラスの中に閉じ込めたみたいだった。

 また、植物園の中では、1本の道が奥へと続いている。高い樹木から垂れ下がった葉が視界を遮り、辿りつく場所は見えない。

 もし、緑の中に緋色のマントがはためいていたら――。

 エスメリンダは、そんな幻を見つけようとしているのだろうか。今朝の、俺のように。

 彼女は見えないものを探すように、一心不乱に道の奥を見つめている。

 アレスはきっと、本人が思っているより狡猾に、音も立てずに、エスメリンダの生活に滑り込んだのだろう。見えない明かりとして、図々しく居座り続けたに違いない。そうして、風が吹いて、急に消えてしまった。いきなり、明るさと温かさとを失った人間たちは、慌てふためく羽目になるのだ。そして、彼の重みに気付かなかったことを嘆く。

 エスメリンダの白い指先が、入り口に立てられた看板に触れた。

 定休日なのか、主人の都合なのか、"CLOSE"と無愛想に書かれた看板が、ガラスの扉の前に立ちはばかっている。

 エスメリンダの小ぶりな後頭部が、わずかに傾いだ。

「なぜ閉じているのかしら」




 植物園を後にしたエスメリンダは、元来た道を辿り、町の中心に向かって歩き始めた。俺もナルシスと一緒に彼女の後ろ姿を追った。

 日暮れも近く、人通りはそれなりに多くなっていた。そして、雪こそ降らないが、石畳は昼に蓄えた熱を手放し、肌寒さが増している。

 もうすぐパン屋のある通りにつくというところで、エスメリンダは立ち止って振り返った。久しぶりに彼女の顔と向き合った。彼女は、「ついてきてくれて、ありがとう」と言った。

「あたし1人で植物園に行ったら、たぶんガラスを破って中に入ってたわ」

 彼女が見せた、色褪せたような笑顔に、俺は笑い返すことができなかった。

「エスメリンダ、」

 横にいたナルシスが彼女に近づいて、彼女の手に黒いものを握らせた。

 エスメリンダがそっと手を開いてみると、それは、ナルシスが事件現場で握っていた、煤だらけの黒い布だった。元は、きっと目の覚めるような緋色だったに違いない。

 エスメリンダはナルシスを見つめて薄っすらと笑み、1回だけ強く目を瞑った。

 そして、エスメリンダは俺の方を向いて、何かを言いかけて口を開いた。が、唇が細かく震えただけで、結局は何も言わなかった。彼女は震えを隠すように、素早く踵を返した。

 黒いコートを翻し、彼女の後ろ姿は角を曲がっていった。

 彼女の影を見送ると、俺はナルシスの顔を窺った。

 彼の白い顔はいつも通りの澄ました表情をしているが、疲労の色が濃いのが見て取れた。

「こんな気持ちは、もう二度とごめんだ」ナルシスが溜め息を吐くように呟いた。

 エスメリンダは俺に何を言いたかったのか、俺にははっきりとは分からなかった。ただ、ナルシスはまだ俺の傍にいる。エスメリンダには、後ろ髪を引かれるような負い目を感じていた。

「帰ろう、レオ」

 ナルシスが良く通る声で言った。そのとき。

「きゃあっ」

――エスメリンダの悲鳴。

 俺たちは急いでパン屋のある通りへ走った。

「なんだお前!」ナルシスが威嚇するように叫んだ。

 歩道の真ん中には、エスメリンダと、ぼろぼろの男がいた。

 見るからに浮浪者と言った風貌で、ぼろ布を頭から被った巨大な男だった。肌は煤を頭から被ったように黒い。その男はエスメリンダの前に立ちふさがって、立ちすくんだ彼女を、目深に被った布の下から、ぬうっと見下ろしていた。男は激しい息遣いをしている。

 物乞いと言った雰囲気でもない。放浪者という言葉がふさわしい。とにかく、異様だ。

「彼女から離れろ」

 俺は鋭い声を飛ばしながら近づき、男の注意を引こうとする。しかし、男はエスメリンダを見つめたまま、こちらに見向きもしない。

 近づくと、ぼろ布の上からでもわかる、かなり屈強な体つきをしているのがわかる。腕っぷしでは敵いそうもない。エスメリンダの盾に慣れたとしても、応戦はできないだろうと、俺は携帯電話に手を伸ばす。


「おお、元気そうだな。エスメリンダ」


 その男が放ったのは、不快なだみ声だった。

 俺は立ち止った。

 時間が一秒止まった気がした。

 男が被っていた布を取り去る。

 甘ったるい目元と、意地の悪そうな薄い笑み。

 見覚えのある――神だった。


「よお、ナルシスとレオもいたのか」

 すっかり三次元的な質量を持った軍神が、こちらに向かって馴れ馴れしく手を振ってくる。

「エスメリンダ。やっぱりお前がいたな。匂いですぐわかった」大男は一体何が面白いのか、大口を開けて薄汚く笑い、汚れた手のひらでエスメリンダの頭をぽんぽんと叩いた。「1日中走り回って、疲れたぞ。お前のパン屋はどこだ? エスメリンダ、数日だけ、家に泊めてくれ。俺はじじいとの約束を破っちまったからな。帰ったら怒られるかもしれぶ」

 言葉の最後は鈍い音と同時に、唐突に打ち切られた。

 エスメリンダが大きく振りかぶって、アレスの頬を拳で殴りつけていた。

 アレスはそれでも少しもよろけずに立っていたが、ゆっくりと、殴られた頬を片手で覆い、一体何が起こったか分からないようだった。まるで見る者を石に変える蛇女を見たように、哀れなくらい驚いた顔で、石のように固まっていた。

「最低!」

 神を殴った女は、大声で叫んだ。あたりが一瞬だけ静まりかえるような大きさだった。

 エスメリンダは可愛らしい顔をくしゃりと歪めて――積を切ったように泣き出した。顔を覆い、幼い少女のように声をあげた。

 道行く人々は彼女たちを見て、とんでもない修羅場に出くわしたという顔をしていた。アレスとエスメリンダを中心にして、不可侵の領域ができあがる。

 アレスはというと、首を傾げて、懸命に彼女の体を調べ、どこが痛いのかと問い続けている。

「やっぱり、あいつはなんか腹立つ」

 ナルシスが、半眼でその様子を見つめていた。




 その日の夕方、ある村でダリアが発見された。彼女は、それまで、村の民家で看病されていたらしい。

 そこは、オルコット市と、小オルコットとも呼ばれる港町との間に挟まれた、小さな村だ。駅は一応あるものの、オルコット市街からはかなり離れている。

 アレスの絵が燃やされた日の全体像は、日が経つにつれ、明らかになってきた。


 そもそも。ダリアは、アレスに謎かけを提示されたときから、あまりカラスの数については興味を示していなかったようだ。

 最近になって、エスメリンダが、クローディアの作品の専門家である(ということになっている)俺とナルシスを雇ったことを耳に入れ、彼女はひどく焦ったのだという。ダリアは彼女なりに、アレスのカラスを捕獲しながら数えていた。

 そして、俺がアレスを詭弁で言いくるめた日、いきなり街中のカラスが――もちろん、ダリアの捕まえたカラスも例外なく――姿を消した。ダリアが何を思ったのかは、警部のエリクからは聞くことができなかった。ともかく、そこで、彼女には大きな変化があったようだった。

 ダリアはまず、エスメリンダとナルシスを襲った。そしてその夜、本屋が閉店し、ゼップ老人が寝静まったころ、出入口のドアノブを溶かして侵入し、アレスに問い詰めたのだという。――そうして、いつのまにか口論になった。

 警部のエリクが言ったとおり、ダリアは”集める”能力をもっていた。俺とナルシスの前任であった情報屋たちの異変も、彼女の仕業だった。それぞれ、1番目の男には”アレルギー物質”を、2番目の男には”熱”を、そしてジョンには”風邪ウィルス”を体のなかに集めた。そうして、アレルギー症状、冬の熱中症、薬の効かない風邪を発現させた。

 そして――アレスの描かれたキャンバスには、火が起こるほどの凄まじい熱を集めた。そのときのダリアはひどく興奮していて、アレスを爛々とした瞳に映していたらしい。そうして、キャンバスは燃え始めた。

「それで、とりあえず俺はカラスどもを外に逃がしたんだ。今まで住んでた俺の場所が焼き爛れはじめるのを見た。あー、世界が終わるんだな、って思った」

 ダリアは燃えるアレスを見ながら、悪態をついた。

 あんたもエスメリンダも、卑怯なのが悪いのよ。

「俺は身を乗り出して、エスメリンダのことを聞いた。あいつに何したんだって。でも、ダリアはいきなり逃げ出した。気付いたら俺はキャンバスの外に出ていたんだが、それに驚いたらしい。そこが面倒だったな」

 ダリアは、アレスが額から出られるなどと思っていなかったのかもしれない。いきなり絵の中の男が燃え盛る額縁から這い出てきたら、驚くのも無理はない。

 ただ、そのとき驚いていたのは彼女だけではなかった。アレスはキャンバスが燃えれば、自分も消滅すると思っていたのだが、実際にキャンバスから出てみると、熱さは遠のいていったのだ。クローディアが腰の悪いゼップ老人を手伝うようにと描いたからのか、それとも偶然なのかは分からないが、とにかくキャンバスとアレスは切り離すことができるようだった。

 床に転がったアレスは、ダリアの後を追おうとしたが、あることに気付いた。このままキャンバスが燃え続ければ、この本屋全体が炎に包まれるかもしれない。2階には腰の悪いゼップ老人がいた。

「熱かった。木枠というか、ごうごういっている炎に包まれた炭だった。胸に抱えて、店先の道まで運んだ。床の火は足で踏みつぶした」

 ダリアはもう既に姿を消していたが、アレスは彼女の香水の匂いを追って、夜の道を走ったのだという。そして彼は、ダリアが機関車に乗ったのを見た。

「驚いたぞ。なんだあの黒い塊は、ってな。だが、俺が追い付けないなんてことは、ありえないだろ?」

 アレスは走って機関車の行く末を追った。

 そうして、市街からかなり離れた小さな村で降りていたダリアと、文字通り、戦ったのだという。

「まさか人間の女に手こずらされるとは思ってもいなかったな。ダリアはエスメリンダにかけた呪いを……ああ、”能力”を? 解く気はないと言ったから、殴り合いになった」

 話によれば、2人が大暴れした場所は運よく人気のないところだったようだ。

「まあ結局は、ダリアに腕が届く距離までようやく近づけたとき、彼女を殴って終わった」

 そのときに、オルコットでエスメリンダとナルシスの容態が回復したようだ。

 アレスは気を失ったダリアを近くの民家に預け、町を目指して歩いた。

「帰るときはな、俺もいろいろなことを考えたぞ。能力をかけられたエスメリンダのことと、じじいにどう言い訳すればいいのかって」

「たった2つじゃないか」

「重要なのは量じゃなくて質だってことがわからんようだな」

「どうせ底が知れてる」

――ともかく。

 そうして、何時間も歩いた末に、エスメリンダのパン屋を直前にし、エスメリンダと鉢合わせしたというわけだった。


「今朝の本はもう棚に出したか、アレス」

 腰を庇いながら2階から降りてきたのはゼップじいさんだった。

「出した。暇だからこの前のことを話してやってるんだ」

 アレスがあくびしながら答える。

「この店は本当に客が来ない。ぼうっとしてると寝ちまう」

 ゼップじいさんは、カウンターの前にいる俺とナルシスを認めると、嬉しそうな笑顔を零した。

「君たち、来ていたのか」

「腰、大丈夫?」カウンターにひじをついたナルシスが尋ねると、彼は「今日は調子がいいんだ。心配などいらん」と言って乱暴に片手を振った。そこで、はっと気付いたような表情になる。

「……だが、気遣いはありがとうよ」

 ゼップじいさんはまるで他の言語を話すように口をまごつかせながら言った。彼があまりに眉を寄せていたので、ナルシスが訝しげに見ている。

 店主がカウンターの中に入ってくるのを見たアレスが、新品の椅子を引っ張り出してくる。ゼップじいさんは掛け声をあげながら、背もたれつきの椅子に座った。

「アレス。そろそろ昼だし、昼食でも買ってきてくれんか」

 アレスの瞳が輝いた気がした。

「レオ、僕たちも何か食べよう。お腹すいた」

「そうだな」

 行く先は決まっていた。




 今日はよく晴れた日だ。心地よい光は2番街の角にも降り注いでいる。

 そのパン屋は魔女の名前を冠しているが、佇まいは健康そのものだ。

 よく磨かれたガラスの向こうに、焼かれたパンと、それを選ぶ頬の緩んだ客が見える。白い服に前掛けをした男が、慌ただしく焼き立てのパンを並べている。カウンターのほうに主人がいるのだろうが、人が行列になっていてよく見えない。

 金色のドアノブをひねって、扉を開ける。ベルが跳ねて、ちりんちりんと鳴る。パンの匂いが鼻をくすぐる。

「いらっしゃいませ」

 凛とした娘の声が聞こえた。

「よお、エスメリンダ。ひまわりの種がついてるパンはまだ残ってるか?」アレスが声をあげる。


 やがて、彼女はひょっこりと人ごみから顔を覗かせて、俺の後ろの大男を見つけるだろう。

 そうしてきっと、野原で白い花を見つけた少女のように、眩しく微笑む。


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