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オルコットの解けない雪  作者: いも
軍神アレス(1949.油彩、画布 Claudia・Branagh)
15/17

4.君の為だと、誰が言う

 梟の鳴く声が聞こえていた。粉雪が降り積もる、静かな夜だった。

 銅色を剥き出しにしたカンテラを、小棚に乗せていた。褪せた橙色が、病人が寝ているベッドの上と俺の読んでいる本を照らした。

 本は、芸術家の伝記が書かれたものだった。俺は文字の列に目を滑らせる。頭の中は空っぽだった。偉大な芸術家の人生はまったく頭に入ってこず、意味のない文字が視界を流れていく。

 ベッドで、友人が何か唸った。そろそろ、額の上のタオルを替えに行こうと席を立つ。

 すると、背後から声が聞こえた。

「夜更かしは体に悪いぜ」

 振り返ると、ジョンが眠たげな目をしてこちらを見ていた。

 数日ぶりに見た飴色の瞳だった。

「おはよ、レオ」

「ああ、おはよう」

 ジョンはへらへらと笑うと、ゆったりとまばたききを始めた。俺は慌てた。

「もう寝るな」

「それは、病人に言う言葉かよ」ジョンは笑っていた。

 水が欲しいと言ったので、買ってあったミネラル・ウォーターをコップに注いで渡した。ジョンは半身を起して、それを受け取った。

 橙の光が、ジョンの少しこけた顔を片方だけぼうっと照らした。喉仏が大きな音を鳴らして上下したが、飲んだ水は半分も満たなかった。

 本当はジョンが起きているうちに、すぐにでもリンゴをすりおろしてヨーグルトに入れたものを、有無を言わせず口に押し込むのがよい。だが、俺にはその前にするべきことがあった。

「お前はいつも死にかけている」俺はそう言った。

「いつもじゃあない。上手くやる時もあるだろ?」

「ほとんどない」

「ひでえ評価だ」ジョンがしょぼくれる。

「ヘスティアのママから、話は聞いた。お前はしくじったとな」

「なんだ、ナルシスのママは起きたらすぐ説教かよ」

 もう少し寝ていたほうがよかった、とジョンが冗談っぽく言った。

「説教じゃない。……シュタイナー家の件で、いろいろと押しつけてしまった」俺は言葉を上手く纏められずに、そう言った。

「おいおい、なんでママばらしてんだよ。俺が後始末するって言ったのに……」

 ジョンは少し息を吐いた。病み上がりだと、喋るのも辛そうだった。

 俺はジョンの暗闇に沈んでいる足のほうを見ながら、何から言おうかと思案していた。


「謝るなよ」


 ジョンの嗄れた声がぽつりと落ちた。

「お前が謝ったら、俺が余計惨めになっちまうだろ」

 視線を投げると、ジョンは上のほうを見ながら、鼻の頭を掻いていた。

「もう9割方すげえかっこ悪い状態だけど、追い打ちをかけるような事はしないでくれよな」

「……わかった」

「本当は」とジョンが言いかけて、「いや、やめとこう。なんか俺らしくない」と変な顔をした。彼は「ただ、」と言う。

「反省はしてんだよ。だから、まだ愛想をつかしたりしないでくれ。俺だって、いつか役に立つからよ」

 お前は俺の役に立たなくていい。

 俺は心中でジョンにそう言った。口は思った通りに動かなかった。

「お前は犬に似ているな」

 代わりに、俺はどうでもいいことを述べた。

 ジョンは乾いた唇を曲げて、不満を表した。

「犬じゃねえよ。お前の相棒だ。……だろ?」

 俺が答えずに笑うと、ジョンも少し肩を竦めて淡く笑った。




 俺がキッチンでリンゴをっていると、ナルシスが帰宅した。

 ただいま、と言う声が心なしか小さく聞こえて、俺はなんとなく玄関のほうを覗き込んだ。

「遅かったな」

 ナルシスは俺と目が合うと、一瞬、深海の色をした目を大きく見開いた。猫みたいだなと思うと、束の間、彼はすぐに平然とした顔をつくる。が、どうにも、ぎこちない。

「ア、アレスのとこにいってたんだ」

 声が上ずっている。おそらく、ナルシスと初対面である人であってもその異変に気付くことができるだろう。

「アレスのところで、何かあったの――」

「なにもなかった」

 何かあったらしい。

 ナルシスは鮮やかなターコイズ・ブルーのマフラーをほどきながら、夕飯はいらないと言った。

「変な気分だ」

 着替え終えたナルシスは顔をしかめて、苦いものでも食べたように言った。

 俺はナルシスが何か重要な言うのではないかと待ってみたが、結局彼は黙ったまま、風呂に入ろうとしていた。俺はそれを呼びとめる。

「さっき、ジョンが起きたぞ」

 ナルシスは勢いよく振り向いて、本当か、と叫んだ。

「なんですぐに言ってくれないんだよ!」

「すぐ寝てしまわないうちに、様子を見てきたほうがいいぞ」

 ナルシスは返事もろくにせず、風のようにベッド・ルームへ駆けていった。俺はようやくシャーベット状にしたリンゴを、ヨーグルトの上にかけ始めた。

 そして、すぐにナルシスの切羽詰まった叫び声が聞こえた。

「レオ、やばい! ジョンがまた寝そうだ!」

 俺はヨーグルトの入ったすり鉢を持って走る。




 次の日の早朝から、俺はカラスがいる場所を探して街を歩いた。

 そして、”水平線”の開店時間になっているのに気付くと、俺は本屋へ向かった。

 確かめなければいけないことがあった。

 本屋の前にある通りは、まだ日の光を十分に含んでいない、静ひつな空気で満ちていた。隣の花屋は休業中なのか、開店しているようすはない。

 本屋の青い扉の前に立つと、店の奥から、笑い声が聞こえてきた。

 アレスと、もう一人は老爺の声か。

 俺がドアノブをひねって押すと、扉が静かな空間をつんざくように、ギイイといなないた。途端、店の奥で派手な物音と悲鳴がした。

「くそったれ!」老爺の悪態が聞こえる。

 俺は急いでその音の方へ向かう。棚と棚との間が無人なことを確認しながら、着いたのは結局、アレスの額縁の前だった。くすんだ床で、店主が顔をしかめてうずくまっていた。本屋の店主・ゼップじいさんだ。

「どうしたんだ?」

 俺が駆け寄って店主の肩を抱こうとすると、彼は床についていない方の腕を振り回して拒否した。

 俺は驚いて足を止める。

「誰だか知らんが、わしは大丈夫だ。ちくしょう、荷物を落としてしまってこけちまっただけだ」

「荷物?」

 俺はあたりを見回す。

「荷物なんてどこにもないが」

 本当にどこにもなかった。床には埃くらいしか落ちていない。本は本棚に整然と詰まっている。

――それどころか、額の中にアレスの姿さえない。男神のいない画面は、広々とした荒野の絵となっていた。

 さっきの話し声はこの老人と――確かにアレスのはずだったが。あのだみ声を聞き間違えるはずがない。俺は絵の中に目を凝らすが、褐色の乾いた地が佇んでいるだけで、人の影は見当たらない。

「……ああ、いや。荷物はさっき片づけたんだったか」

 老爺は何かぶつぶつ言っている。大丈夫だと言った割には四つんばいになって、背筋を伸ばしたり縮ませたりするばかりでなかなか立つ気配がない。

「……」

 もどかしいが、安易に手を貸すことは、彼の自尊心に関わるようだった。おそらく、バスで席を譲ろうとすると怒鳴る老人と同じだ。

 とうとう老爺は一度大きく溜め息を吐いて、腰の間接が外れても構わないというような力の入れ方をし始める。

「ちょっとだけ、手を貸しますよ。俺は道で造船夫が倒れていても、そうするんだ」

 俺が慌てて、言い訳めいたことを早口で言うと、老爺はがっくりと肩を落とし、諦めたように「頼む」と小声で言った。

 抱え起こすと、老爺は屈辱に塗れた戦士のような、真っ赤な顔をしていた。

 俺には経験がないが、大げさだとは思わない。彼だって昔は立派な戦士おとこだったはずだった。以前、垣間見たときの彼の雰囲気は、穏やかそうで親しみのある文士だったが――案外、プライドが高いようだ。

 俺が腰を落とし、背を向けると、彼は慣れた手つきで俺の肩を掴む。

 そのとき、どこかで床の軋む音がした。

 俺は右手にある棚をじっと見つめ、その棚の裏側の音に注意を向ける。今の音は。先程は誰もいなかったはずの、棚と棚の間に、誰かいるのではないだろうか。

「この店に誰かいるのか?」

「なんだと」

「アレスとあなたの他に、誰か客がいたりしないか」

「そんなやつおらん。あんたが今日で最初の客だ」

老爺は俺の肩をぱしぱしと叩いた。

「いいから、はやくしてくれ。この体勢がつらいんだ」

 老爺に急かされ、俺は彼を背負って立ち上がる。

 不審さを感じてはいたが、腰を痛めた老爺を安定した場所に届けることが先決だった。

 迷いそうになりながらもカウンターに辿りつき、丸椅子に下ろした。

「これは背もたれがないのがいかんな」ゼップじいさんは椅子に八つ当たりするように言った。

 俺が椅子を壁に寄せ、背が壁につくようにすると彼は安堵したように息を吐いた。

「医者を呼ばなくて平気か」

「ああ、すまんな。しかし心配はいらん。この腰痛はわしの長年の友だからな」

 老爺はまだ腰の痛みを感じているのだろう。顔は少しひきつっている。

「レオ君だったか。わしは君に礼をしなくてはいかん」

 アレスに用事があったのだが、じいさんが菓子を食べろと勧めるのを断りきれなかった。面倒な押し問答や、いざこざを起こさないのも近道だろう。

 俺は、丸椅子をもう一つ、カウンターの中へ引っ張ってきた。背の低いテーブルに菓子を置いて、対岸の老爺と向かい合う。

「茶があればいいんだが、キッチンは2階でな。もし喉が渇いたなら、遠慮なくキッチンを好きに使ってくれ」

 ゼップじいさんは短く太い指で、菓子箱の包装を剥がしていく。

「わしはこの菓子が食べられなくてな。エレオノーラに……、いや、この店に来たお嬢さんからいただいたんだが……」エレオノーラとは、おそらくアレスに恋をしているという女の一人だろう。

「だが残念ながら、わしには店はあるが、家族というものがおらんでな。そのまま湿気らせてしまう前に、君が少しでも食べてもらえるとありがたい」

 なんとなく躊躇いはあったが、眼鏡の奥のつぶらな瞳に押されて、俺はチョコレートの粒を掴んで口に入れた。普段甘いものを好んで食べることがないのでわからないのだが、やたらに細かく区切られた箱と包装紙を見るに、高価なものであることは分かった。

 素直においしいと伝えると、何も口にしていない老爺の方がうまいものを食べたかのように顔をほころばせた。「君は印象と違って、いい男だな」とも言った。

 複雑な味のする2つ目を口で溶かしていると、

「それで、君は何か本をお探しだったかな? 困ったことがあれば、何でも聞いてくれ」

 彼がようやく店主らしいことを口にした。

「いや、今日はアレスに用事があって」

 正しくは、今日もだったが。

 そうか、と呟いたゼップじいさんは落ち込んだように見えた。

 無理もない。ここは画廊ではなく本屋だ。

 店主は、この本の山脈のような店内で、彼は客の登山を案内する役だったに違いない。もっと想像するなら、彼はそうやって一人で店をまわすことに誇りを持っているから、腰痛を抱えながらも、まだ店を開いているのかもしれない。なにしろ、この本の山脈を1人で管理しているのだから、老いた男にとってはとてつもない負担だ。

 表情の陰った店主を慰める為、少し話を逸らすことにする。

「あの絵はいい絵だな。叙情詩とは少し違うアレス神の姿が清々しく見える」性格はともかく、とは言わないでおいた。

「あれはな、わしの知り合いの作家が描いたんだ」老爺の顔が少し明るくなった。「クローディアと言ってな。作品の性質に突拍子がないもんだから、なかなか表で有名になることはないんだが」

 会ったことはないが俺も彼女を知っていると言うと、彼はますます喜んだ。

「彼女は、少女のころ、よくこの店に来ていたんだ」

 老爺は、青白い顔にさらにしわを多くさせながら微笑む。

「あのはとんだ客だったな。小遣いが足りずに本を盗もうとしたりして。わしはあのときはまだ元気だったから、毎日怒鳴ったんだ。店の外まで追いかけたりしてな。わしが親に言いつけると、彼女はひどく親に怒られたことを根に持って、ドアに絵の具で前衛的な落書きをされたりして」

 ナルシスの生みの親、クローディア・ブラナーはなかなかの悪がきだったようだ。

 しかし、昔を語る老爺の瞳は穏やかなものだった。

「あの娘とはずっと仲が悪かった。顔を合わせてば喧嘩しかしなかった。だが半年くらい前に、わしが絵を注文したんだ。アテナの絵を描いてほしいとな」

「アレスではなく?」

 俺が尋ねると、ゼップじいさんは腰を痛めないように小さく頷いた。

「アテナと頼んだんだが、アレスが届いたのさ」

 俺は同情した。

 アテナは、神話の賢く勇ましい女神だ。彼女は知性のある戦いを好み、都市の守護を司る。誰からも愛され敬われる神であるという点でも、アレスとはまったく対照である。また、アレス神の八つ当たりをこともなげに受け流し、返り討ちにしたというエピソードもある。

 言うならば、純白の女神像を注文して、暗褐色の悪魔像が届いたようなものだ。

「最初はあの子の――クローディアの意趣返しだと思ったんだ。大人になってもなんと小憎らしい女なんだろうと。しかし、アレスと生活してわかった。あれはあれで、アレスは口が悪いが、なかなか素直で、わしの言う事をよく聞く」

「アレスが?」

 じいさんは再び頷く。


「今ではちょっぴり感謝しとるよ。クローディアは、息子のいないわしの為にあのアレスを描いたんだ」


 俺は意味を咀嚼できずに眉を寄せて黙っていた。

 俺がじいさんの立場なら、すぐにアテナ女神に描き直すように頼むだろう。しかし、老爺の様子を見るに、彼はシュタイナー氏のように、絵に困っている様子はない。クローディアに感謝している。

 どうやらアレスは、この老爺に対しては俺の見たことのない一面を見せるらしい。俺がみる限り、彼は到底、素直さからかけ離れているようにしかみえないが。

 もしかすると、ナルシスが俺に従順であるように、ゼップじいさんがアレスの”持ち主”であるということが関係しているのかもしれない。

「ところで、アレスが今若い娘たちに難題を出していることは知っているか」

 尋ねると、ゼップじいさんは顎を擦った。

「ああ、知っとる。難しい()()だ」

――彼は、俺が言葉にひっかかりを覚えたのに気付いていない。

「わしにもさっぱりだ」

「……そうか」

 すっかり愛想のよくなった老爺はいくつか昔話をしようとしたが、俺は正直そろそろアレスに会わねばならないと思っていた。

 アレスのことを聞くと、「さっきは水浴びにでも出かけたんじゃないか」と老爺は言った。

 俺は確かにアレスの声を聴いていたが、老人を問い詰めることはしなかった。

――彼には、何か隠したい真実がある。

 俺が礼を言うと、ゼップじいさんは皮の余った口元を緩ませた。

「また来てくれよ、レオ君」

 曖昧な微笑みで返す。何かまだ話したりなさそうな老人を背に、俺は本屋の奥へ向かう。



 額縁の前には、真新しい本の山があった。

 入荷したばかりのものだろうか、俺の腕にさえ余りそうな量の本が紐でくくられていた。

――先程は、ここには何もなかったはずだ。

 先刻、老爺が言っていた”荷物”ということなのだろうか。しかし、いったいどこから現れたのか。

 訝しげに近づく。

 と、いきなり額の端からぬうっと小麦色の顔が出てきた。

 俺は驚きつつ、絵と間合いをあける。

「よお。お前は……レオンだっけか」かったるそうな、だみ声が言う。

「レオだ」短く訂正して、額に向き直る。

 アレスはそうだった、と言いながら右端にある岩に腰かけた。

「さっきはどこへ行っていたんだ」

「水浴びだよ」

 アレスは耳を掻きながら言う。――だが、その後ろで靡いている髪は少しも濡れていない。

「お前も俺の話を聞きに来たのか? ナルシスから聞いたが、お前は画家なんだってな?」

 アレスのにやけた顔を真正面から見、切り捨てるように言う。

「俺は確かに画家だがそんなことはどうでもいい」

 俺は、ほとんどアレスを睨みつけていた。

「――お前、カラスに呪いをかけはしなかったか」



 それは、昨夜ジョンから聞いた話だ。

 1週間ほど前、ジョンはエスメリンダからカラスの数を数える依頼を受けていた。請け負った情報屋はジョンが3人目で、前任の引き継ぎをした。情報屋たちは、カラスを虎ばさみで捕まえ、個体の足に目印をつけてはまた空に放っていたようだ。

 調査を開始して5日ほどたったころ、ジョンは急激に体がだるくなったのを感じた。

 帰宅し、市販の薬を飲んだらしいが、まったく効き目がない。みるみるうちににほとんど動けないくらいの症状となり、そうして俺のアパートへ転がり込んできたというわけだ。

 長年、あのぐうたらな男といると分かることなのだが、ジョンは非常に自分の体調管理が上手い。というのも、もともと自分の欲求に忠実なので、疲れたと思えばすぐ休むということだ。

 昨日、目覚めたジョンを医者が診察すると、不思議そうに首を傾けた。ジョンの症状はウィルス性のただの風邪――医者の言うとおり、持病を持っていない若者ならば”市販の風邪薬で治っていたはず”だった。

 聞いてみれば、ジョンの前にカラスを追った情報屋たちは、同じように調査中に倒れた者ばかりだったという。

 それも、おかしな理由ばかりだ。

 前任の者は、ある日を境にカラスの近くによるといきなり”アレルギー症状”を起こすようになった。

 さらにその前の情報屋は何故かこの真冬に”熱中症”で倒れた。

 どう見ても不審なことだった。数奇な3人の共通点は、”アレスのカラスを数えたこと”としか考えられない。



「花を咲かせることができるのなら、カラスを追う者に呪いをかけることもできるだろう」

「呪い?」アレスは腕を組み、俺の言葉を反芻した。「まさか。カラスに呪いをかけられるのは俺だけだぞ」

「だから、それを聞いているんだ。お前が呪いをかけたのかと」

 アレスは息を荒くした。

「そんなことするものか」

「じゃあ一体どうしてなんだ」

「それは俺が知りたい。レオ、お前はなんともないのか?」

「今のところ、俺の身には何も起こっていない」

 アレスは、顎を深くひいて、唸った。

「ううむ、どういうことなんだ?」

 ……どうも、手ごたえがない。

 カラスに細工をするならアレスしかいないと踏んで来たわけだが、どうやら違うようだと悟り始めていた。

 先ほどのアレスの言葉を裏返すならば、カラスに細工ができるのは彼しかいないということだ。

 この肩すかしな感触から思うに、おそらくアレスは嘘をついていない可能性が高い。もしこれが彼の渾身の嘘だとしても、論理と道徳が通じる相手であればいい。――いいのだが。

 問題はそこだった。俺はエスメリンダの言った、彼の白い花のような純真さという可能性に賭けた。

「原因は分からないが、不可解にも3人ともカラスに接触していることは事実だ。念のためだ。カラスを一旦、絵の中に引き上げてくれないか」

「ううん……」アレスは何かを考えている。

「俺はまだいい。だが、エスメリンダや、他の娘たちはどうだ。お前には分からないかもしれないが、人間の女たちは男と違ってか弱いんだ」

 しばらく唸っていたが、意外にもアレスはゆっくりと頷いた。

「わかった。俺は別に、あいつらの血が見たいわけじゃないからな。あくまでも、俺の嫁にふさわしいかだ。原因はわからんが、お前の言うとおり、ためしにカラスを帰そう」

 そう言うとアレスは、一瞬だけ、顔から表情を取り去った。だらしのない印象が、鋭い稲妻のように見えた。どこかで黒い鳥の鳴き声が聞こえた気がした。

「お前には見えなかっただろうが、一応カラスはすべて絵の中に帰らせたぞ」そう言うアレスはもう元のだるそうな表情に戻っていた。「信じられなかったら、街中を探してみるがいい。爪の赤いカラスはお前たちの世界に1匹たりともいなくなっている」

 俺は呆れる。

「それは、”悪魔の証明”だ」

 思いがけず。

――自分の言葉が、意識の弦を鋭く弾いた。

 アレスが娘たちに出したカラスの問題。その正体。

 それこそ”悪魔の証明”ではないか。

「アクマの証明? なんだそれは」

 アレスが興味深そうにこちらを見つめる。

 俺は、アレスのカラスを街から撤退させる為にここへ来た。俺の知人を護るためだ。

 だが、今から俺が口先でアレスをなぶれば、この厄介な問題をすべて蹴散らすことができるかもしれない。それに気づいたとき、俺はもう”悪魔の証明”の説明を始めていた。

「そうだな」と俺は言う。「悪魔とは、今この世界に存在しているかどうかが曖昧な化け物だ」

 アレスが目をしばたかせて、がしがしと頭を掻き始めたので、俺は言い換える。

「100本角のユニコーンだ」

「なんだと!」アレスが大仰に叫んだ。

 そういう仮定の話だと言うと、ばかげてるとアレスが不満げに言った。

「100本角のユニコーンがこの世界にいないことを証明しようとする男がいたとしよう」

「いないに決まってる」アレスが片眉を吊り上げて、笑う。

「じゃあその男の名前はアレスだ」

 アレスの顔から透けてくる表情をひとつも逃すまいと見つめながら、言う。

「お前は100本角のユニコーンが存在しないことを証明する為、この世界のすべてのものを調べなければならない」俺はそれこそ、哲学者のように語る。「馬もロバも人間も花も虫もだ。それらが”100本角のユニコーンではない”という証拠を提出しなければならない。そうでなければ、誰も100本角のユニコーンが存在しないとは言えないんだ」

 アレスは苦いものを食べた顔をする。どうやら話は通じたらしい。

「詭弁だ」とアレスは切り捨てた。その言葉に俺は諦めかけたが、

「だが、なかなか面白い。まあ、間違っちゃいない」

 どうやら首の皮一枚、まだ繋がっている。

「まあ、俺を例に出すのは間違いだがな。そんな面倒なことはしない」

「――もしそれが、誰かがお前に命じたことなら?」

「しない」

「お前の父神のめいなら」

 父にあたる主神の名を出されて、アレスはうんざりだという表情を浮かべながらも、答えた。

「そりゃあ多分、親父様は俺を馬鹿にしてるんだな。ぶん殴ってやる」

 俺はライオンが罠にひっかかるのを感じた。


「それなら、お前はエスメリンダに殴られても文句は言えないぞ」


 それに対して、アレスは口を開けて、茫然とした。

「どういうことだ?」

「お前の”カラスを数える問題”こそ”悪魔の証明”なんだ」

 アレスには、まだ伝わっていない。

「言うならば”101羽目の赤爪カラスの証明”だ。娘がようやく100羽を数えたとしよう。だが、101羽目がいないことをどうやって知る?」

 彼は真面目に聞き入っている。俺は続ける。

「数え忘れた最後のカラスは、娘たちからすれば”存在の証明がされていないもの”、100本角のユニコーンと同じだ。娘たちは、そのカラスを探すことをお前に課せられている。そして、彼女たちは”数え忘れたもう1羽のカラス”がこの世界のどこにもいないことを、どうやったら分かると思う」

 彼女たちは、世界の森羅万象を調べなければならないのだ。

 アレスは頬を殴られたような顔をする。

「この問題の卑怯さはそこにある。1羽たりとも数え間違ってはいけない。娘たちは”最後の1羽がいない”ことを知るために、ほぼ不可能に近いことをさせられているんだ」

 アレスの表情を注意深く観察するまでもなかった。

 アレスは己の出した問題なぞかけを擁護しようともしなかった。そして、よく分かったな、と偉そうに言うこともなければ、問題の欠陥を突かれたことを悔しがっているようでもない。

 ただ、驚いていた。

「正確なカラスの数を知っているのは、こちらにカラスを寄越したお前くらいだと思っていたが……。しかし、カラスの数はもう誰にも分からないだろう」

「何言ってる」アレスは、はっと我に返ったように、ようやく反論した。「俺が答えを用意していないと言ってるのか」

「お前はカラスが1羽帰ってきていないことに気付いたか?」

 これは、狡猾なカマかけだった。

 これまでの詭弁もせいぜいなものだったが、ここでアレスの首に致命傷をつけなければいけない。

 俺の願いどおり、アレスは穿たれたように顔をひどくしかめた。

「お前のカラスは絵の外で1羽死んだ」

「……。その証拠はどこだよ?」

「提示できるものは持ってない」

「……信じられないな」

「そうだな。だが、お前が、今のカラスの数を正確に把握できていたなら、すぐに嘘か本当か分かることのはずだが」

 アレスはついに黙り込んだ。

 己は既にカラスの数を把握できていないと吐いているのと同じだった。

「カラスの数は、今はもう誰にも分からない。こんな不毛でばかげたことを、若い娘たちに押し付けるのはもうやめろ。――このおかしな”謎かけ”は終わりだ」

 ようやく一息つくと、酒場の情報屋のボスが言ったことをふと思い出した。

――俺が情報屋ではないからこそ、この問題を解決できるだろう。

 先程、この訳の分からない問題の正体に気付いた時、カラスを追いかけ回っていたのがばかばかしく思えた。結局、その絶対に確かな答えを知るための解法は、神でもない限り行うことは不可能なのだ。だが、情報屋たちの仕事は、答えを集めることだ。おそらく、彼らは答えがないことなど、考えもしなかっただろう。答えを求めるプロなのだから、それも仕方のないことだ。

 そして、女将はこれを知っていたのだろうか。そうだとするなら――なんとおそろしい女だ。

「なんで、こんなことになってるんだ」

 目の前のアレスはうつむき、誰ともなく悪態をついていた。

 この理不尽な謎かけの仕組みに驚いているのは彼で、そして一番打ちひしがれているように見えた。

「この謎かけは、誰かの入れ知恵か」

 アレスは言葉を詰まらせ、結局答えなかった。答えたくないようだった。

 やはり。この男にはこんな小狡い謎かけは考えつかない。

 弁の立たない男を、見せかけの詭弁で追いつめた、その後味の悪さが、今頃胸に広がってきた。

 同時に、急に、俺の肩の力が抜けた。俺は今までこの男に――理不尽な問題を組み立てた人物に、憤っていたのだと気付いた。俺も、ナルシスも、ジョンを含む情報屋たちも、エスメリンダも、ゾラも、皆この問題に躍らせられていたのだ。

「これは、”俺の為に”考えてくれた謎かけだ」

 アレスは悔しそうに、地面に向かって言った。俺には、その意味は分からなかった。

 俺はアレスの次の言葉を待っている間、ふと腕時計を見ようとした。しかし、昨日カラスの血で汚れた腕時計は、家に置いてきていた。

 時刻を知らせるサービスの電話番号があったはずだと思い直し、携帯を取り出す。

 何件も誰かが通話を寄越した跡があった。

 俺は何か不穏な影を感じながら、電話番号を掛け直す。

 すぐに、ジョンがでた。

「出るのが遅いぞ。とにかく、早く帰ってこい。ナルシスがぶったおれた」



 ベッドに駆け寄ると、血を全て抜かれたような色をしたナルシスが横たわっていた。

 もう瑞々しさは失われていた。

 肌の色は、雪というよりひどく滑らかな骨だった。

 俺は呆然とそれを眺めた。

「しっかりしろ。死んじゃいねえ」

 ジョンが隣で何か言っている。

 ただ、ベッドを挟んだ向こう側で、顔馴染みの医者が深刻そうな顔をしていることはよくわかった。

 俺が血の気を失った顔に影を落とすと、ゆるゆると青い目が開かれた。

「レオ、寒い」

 埋もれた雪のなかから聞こえるような声だった。

「寒いと言っている。湯を」

「だめなんだ。ナルシスに近づけると、たとえ沸騰しててもすぐ水にもどる」

 一体、どうなってる。

「まさか、カラスに触れたのか?」

 ナルシスに穴が開くほど見つめながら訊くと、ジョンが横から口を挟む。

「カラスは関係ない。どうやら、カフェで仕事中に見覚えのない女がやってきて、何かされたらしい。たぶん能力者だ」

「女……。誰か女の姿を見たのか」

「ナルシスがそう言ったんだ。知らん女が、ってな。んで、その場にいた他の奴は女をよく覚えていない。だから、警察もなかなか動けていないんだ」

 能力者に何かされたとしたら、おそらくは能力者自身の意思でどうにかできる症状のはずだ。犯人を捕まえればいいのだ。

 俺は再び外へ繰り出そうとした。

 すると、ベッドの上の青白い腕が重たげに持ち上がった。

「レオ。行かないでくれ。そうしたら、死なないでやる」

 俺は、ナルシスの訳のわからない言葉に腹を立てながら、渋々踵を返した。

 石膏像も死ぬのか、と頭の中でぼんやりと考えた。

 俺はベッドの横で、頼りなげに彷徨う手をゆっくり握ってやった。

 痛いほど冷たかった。

「レオ。エスメリンダも、僕と同じになってるんだ」ナルシスが眩しいものを見るように、目を細めて訴える。

「エスメリンダは大丈夫だって言っただろうが」後ろで、ジョンが怒ったような声をあげた。「彼女は人間だ。人間の専門医に任しとけ。お前は自分のことだけ考えてりゃいいんだよ」

 そうか、とナルシスの口が動いた。ほとんど声は聞こえない。

「もう一回、知り合いに電話してくる」

 ジョンは頭を引っ掻きながら、大股で部屋を出て行った。

 昨晩、ジョンを看病していたときと同じように椅子に腰かけ、ベッドの上を見やる。真っ白な石膏像の胸が、弱々しく上下している。

 旅立つ前のこの姿を、俺は知っている。俺の父親のときと、同じだ。人間ではないナルシスは、一体どこへいけるというんだ。

 俺は情けなくも、ナルシスの手を自分の両手で包み込むことしかできなかった。どこにもいかないようにと、彼の中身を掴んでいるつもりで。

 オルコットの警察は能力者だらけだ。彼らに追えない者が俺に捕まえられるとは思えない。

「手、熱い」

 ナルシスの真っ白な唇が俺と反対の感想を漏らした。

 俺のまだ冷静な部分が、僅かに物事を考えた。

――熱い。

 熱いということは、熱が伝わっているということだ。

 俺は、試しに片手でナルシスの首に触れた。沸騰した湯がかかったように、ナルシスが大きく痙攣した。

――これだ。

 そのときの俺は、無言でナルシスを抱き起して抱きしめた。ちょうど、母親が、震える子供にそうするように。

 ナルシスは熱いと訴え、嫌がってぐずったが、そのうちに力を抜いて俺の右肩に額を押し付けた。

 そうして、一日過ごした。医者も何も言わなかった。

 次の朝、起きると、ナルシスは腕の中から消えていた。

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