3.画家と美青年は、パンをほおばる
標的は石畳の上におちている何かを摘まみだそうと躍起になっているようだった。
右から左からと、お目当ての物を取るために忙しく位置を変えながら黒いくちばしを石と石との隙間にぶつけている。その姿はほとんどが真っ黒だが、その足の爪だけは鮮血のように真っ赤だ。間違いなかった。アレスのカラスだ。
住宅街となっている一帯の少し開けた広場に、俺はいた。建物の陰に隠れながら、その黒い鳥を観察している。
最初にアレスが放したというカラスを見つけたときには、複雑な気持ちだった。赤い爪のカラスが実在した驚きと、彼らを追いかける先の苦労を思って気が重かった。
カラスの姿を視界にとどめたまま、手の中の柔らかい球を確認する。
これは、俺の案だった。小さめの風船に、乾くと耐水性のある絵の具を溶いた水を入れて口を縛る。これをカラスの足元にぶつけると、簡単に破裂する。すると、カラスの身体に白い絵の具がつくので、これをカウントした目印とするのだ。――街の悪がきがするような幼稚な案だが、俺にはこれしか思いつかなかった。
そして、なんとかという樹脂を入れた絵の具は比較的最近に開発されたもので、高価であることには違いなかった。しかし、俺が切らしてはならないのは油絵の具のほうであり、それを買う為の財源だ。早くこの件を終わらせて、仕事に戻らねばならない。カフェの店長ののんびりとした笑顔を思い出しかけて、気を引き締める。
先程までに3羽のカラスに絵の具の飛沫を浴びせることに成功している。焦ってはならない。絵の具玉を投げるのを察知されてしまえば、彼らはすぐに飛び去ってしまう。
じりじりと焦りながら待っていると、カラスはようやく後ろを向いた。今だ。
「ちょっと、そこの君!」
「……」
そしてカラスは飛び去った。
俺は振りかぶっていた腕を降ろして、脱力した。澄んだ青空の中へ黒い影が去ってゆくのを為すすべもなく見送る。
「あれ。君、もしかして前に会ったかな」
のろのろと振り向くと、黒服姿の警官がいた。プラチナブロンドの柔らかそうな髪と、もっと柔らかい微笑みを湛えている若い警官だった。思考を停止しかけていた脳が、酒場・ヘスティアで見かけた警官と外見が一致していることを思い出した。
「楽しそうなことをしているね。なにもってるの」
彼は至極楽しそうに言った。
「ショクムシツモンされたんだ」
パン屋の2階で、ナルシスは声をあげて笑っていた。
「笑い事じゃない。1匹逃がしたんだ」
俺は真剣に言ったが、いつも怖い顔をしているからそうなるのだとナルシスがからかってくる。
「幸い何も言われたりはしなかったが」
と言ってふと考えるが、それも警官としてはどうなのだろうか。あの警官は野次馬の態度に近かったな、と思う。
ナルシスもまた、カラスを数えるときに迷子になったり空の標的を追いかけて散々走り回っていたようだったが、彼の中では俺のエピソードのほうが愉快に思えたようだった。
朝から、俺はカラスを探して街を歩き回っていた。ナルシスは一回、本屋のアレスにもう一度会いに行った――その際、絵に危害を加えない、全裸にならないことを誓わせた――が、どうもまた機嫌を損ねたらしく早々にカラスの捜索に加わった。エスメリンダもまた、パン屋の仕事の合間にそれに参加した。
昼を少しすぎたころ、一度エスメリンダの部屋に集まって、それぞれが数えたカラスを合計した。印をつけることができたのは5羽だった。これが好調なのかは誰にも分からない。しかし少なくともジョンが数えた数が正しければこの街にはあと68羽はいるはずなのだ。
俺はこの上なく憂鬱だった。この方法で、エスメリンダの期待するような期間中に数え終えるということは到底不可能なことのように思えた。そうして、カフェの仕事や絵の制作も遠ざかっていく。
エスメリンダにとってはカラスの数は重要なことであり、それを請け負った俺にも責任があるのは分かっている。しかし、顔には出さないようにしているつもりだが、この仕事の難しさになかなか気分が上昇しないのは事実だった。
「はい、ふたりともお疲れ様」
エスメリンダが眩しい笑顔とともに、テーブルに置いたのはパンだった。そして、まもなく湯気を立てたスープとミルクも3人分並んだ。
「とりあえず、費用とかは気にしないで。11時に焼いたパンだからちょっと冷めてるけど、味は保証するわ」
「ありがとう」と言いながらミルクを少し飲む。
ナルシスは嬉しそうに焦げ目のついたパンを掴んで齧った。中にはチーズが入っているようで、それをほおばったナルシスは星を散りばめたみたいな目をした。
「おいしい!」
実際よく見てみるとなかなか発達した体の造りをしているのだが、こういうときのナルシスは本当に少年のような顔をする。粗野な食べ方はせず、あくまでも落ち着いて花弁のような唇がパンを噛んでいるのだが、表情のせいで森のリスのようにも見える。
色々な形をしたパンが籠に入っていたが、俺は一番なじみのある花のつぼみを押しつぶしたような形のパンを手に取った。種類としては、俺の食卓にもよく並ぶものだ。しかし、いつもぼうっとしながら食べる朝食のパンとは違うことがすぐわかった。柔らかく、ふわふわとした感触。手元に寄せてすぐに、甘みと少しの酸味を含んだ香ばしい匂いが薄く漂う。
「ディップもよかったら使って」
エスメリンダがかぼちゃの種が付いた小さなパンを片手に、小皿を寄越す。中には明るいオレンジや白いクリーム、ジャムなどが入っていた。
おそらく白い方は小魚のすり身であろうと思い、それを少しつけてパンを一口、齧る。
俺は数年前の感覚を再び味わうことになった。
最高に圧縮された雲を食むような錯覚だった。
白い生地がふわ、と歯を包むが、もろもろとすぐに崩れて行ったりせず、しっかりと纏まったした歯ごたえがある。歯で噛み切ったり、押しつぶすことだけで満足しそうになってしまう心地よい弾力だ。その上、素晴らしいのは食感だけでなく味の感覚も程よかった。控えめで素朴な味をしているパンは噛むほどに味が染み出してくる。そして、白魚のすり身とよく合う。俺がたまたま選んだディップによく合うというより、もともとこういう風な料理なのだといったほうが納得するようだ。惜しみながらそれをよく噛んで喉の奥に流すと、満足したような心地とは反対に、口の中がまだそれを欲しているのがよくわかった。
「うまい」
俺は一番ありきたりな言葉を漏らした。詩人であればもっとこの幸福な気持ちを上手く表現できたろうが、俺には優れた語感はなかった。
「ありがと」
礼もそこそこに、エスメリンダは何食わぬ顔をして、自分の焼いたパンを口に運んでいる。これが慣れというものだろうか。これほどのパンを毎日食べると何の感慨もなくなってしまうのか、エスメリンダは想い人の前で気取っていたポーカー・フェイスよりも自然な顔をしていた。
ナルシスも一言言ったきり、目をしばたかせながら黙々とパンを齧っている。
俺もまたパンをほおばりながら、昨日感じていた疑問が簡単に消し飛んでいくのを感じていた。
”酒場の女将は、エスメリンダのパンが好きだから”
それが女将がエスメリンダに目をかける理由かもしれない。
若い情報屋が言った言葉は、軽い冗談とも思えなくなってきていた。
「おいしかった」
ナルシスはすっかり空になった籠の前で、のんびりとミルクを飲みながら言った。エスメリンダはさっきとさほど変わらない簡単な返事を寄越した。決して無愛想ではなかったが、ナルシスの言葉が嬉しくないどころか、あまりその話題には触れたくないような素っ気なさだった。
「本当だよ」
ナルシスが自分の感動が上手く伝わっていないのだと思って、少しむきになったように言った。一方、エスメリンダはひまわりの髪留めの位置を気にしながら、困ったように少しだけ肩を竦めた。
「だって、そういうベテルだもの」
ナルシスが首を傾げる。
ベテルとは能力者のことだ、と俺が横から説明を入れた。この街で暮らす者以外には、その言葉は相手を陥れる蔑称としての意味合いが強い。しかし、この街においては、それは他意のない単なる名詞だった。この言葉を抵抗なく使うということは、エスメリンダはこの街で生まれ育ったのだろう。
「これはあなたたちが今はお客さんじゃないから、言うんだけど」
エスメリンダにしては、勢いのない声だった。
「あたしは、生まれたときからそうだったわ。物心ついたときから、何かを料理したり、食べ物を作ったりすると、皆それをとてもおいしいと言うの」
そういう能力者なの、と彼女は何か諦めたような顔で言う。
「べつにあたしはパンをつくる経験なんて誰よりもないわよ。材料も手順も我流で適当。これは、自然のおいしさじゃないんだわ。きっと、私の手でつくられる食べ物にはまじないがかかってるの。――だから、誰が食べても”オイシイ”のよ」
最後の言葉は少し溜息にも似ていた。
――それで、魔女のパン屋か。
エスメリンダは語り終えても、別段悲しいとか悩んでいるとかいう顔ではなかった。そういうものであると割り切っている、どこか達観した顔をしていた。
多くの人が彼女の素晴らしいパンを称賛しただろう。だが、一番その本質と向き合っている彼女は、自らが作ったパンの価値を冷静に見つめ、その上で見限っているようだった。
良くも悪くも、エスメリンダは油断しているとすぐ顔に表情がでる娘だ。それは昨日よく思い知っていたことだった。ナルシスに容姿を褒められて素直に頬を染めていた娘が、自分のパンが称賛されるのを斜に受け取っていることは少し悲しかった。
「でも、このパンは君に似て、健康的だった。決して、呪いや、麻薬のようなものじゃないと感じた」
俺は自分の腹を軽く叩きながらそう言った。
しかし、俺を見た途端、エスメリンダは噴出して笑い出した。
「ちょっと。そんな深刻な顔で、子供みたいにお腹を叩きながら言われても、困るわよ」
俺は少しばつが悪くなって手を膝の上に戻したが、エスメリンダはそれをもおかしそうに笑った。
俺は彼女の様子をを見て、安心した。
もしかすると、彼女が小さな太陽と喩えられるのは、彼女がいつも元気で愛らしい笑顔を振りまいているから――というわけではなのかもしれないと、俺は思った。素直で明るい彼女が何かの拍子に落ち込んだとき、まわりの人間を小さな太陽を失ったように陰った気持ちにさせるから、そう喩えられるのかもしれない。
「それにしても、あなた達に頼んでよかったわ」
エスメリンダはすっかり快活さを取り戻して言った。
「情報屋さんは途中経過を報告してくれたけど、やり方とかは全部秘密にして、私に協力させてくれなかったもの」情報屋とは、未だに家で熟睡しているジョンのことだろう。
「もう待っているだけなんでまっぴらね」
昼からはまた仕事があるのでカラス探しにはいけないが、明日もできるだけ捜索をするとエスメリンダは言った。
「……そのことなんだけど、」
と言ったのはナルシスだった。彼は3人の中で一番複雑そうな表情をしはじめていた。何事かと俺とエスメリンダはナルシスに注目する。
「ちょっと僕、気付いたんだけど」
ナルシスは少し不安そうに、ちらちらとこちらを見てくる。一体どうしたのだろうか。俺は意図を掴めずに、眉をひそめる。ナルシスは珍しく目線で何か懸命に伝えようとしているのだが、まったく分からない。ナルシスは顔を歪めたり歯を一瞬剥き出しにしたりする。何かを俺だけに伝えたいらしい。いよいよ俺は身を乗り出してナルシスの挙動から意図を読み取ろうとすると、ナルシスは癇癪を起したように叫んだ。
「もうやめた! 面倒くさい!」
辛抱強く俺とナルシスの奇行を見守っていたエスメリンダに、ナルシスは宣言するように言い放った。
「エスメリンダ、あんたは騙されてるんだ」
「え?」エスメリンダは間の抜けた声をあげた。無理もない。
「アレスのことだ」ナルシスはテーブルを手のひらで叩いた。「あの変人――アレスはカラスを数えることができた女を恋人にするとか言っているけど、それってカラスを数えることができたなら、誰でもいいってことじゃないか」
これはエスメリンダにとっても耳の痛い話だったようだ。彼女は少し顎を引いて難しそうな顔をした。
「チャンスが欲しいのよ。私だって、カラスを数えれば彼との、その……真実の愛に辿りつけるなんて思っていないわ。ただ、そのチャンスが今ないんだもの。ないなら、勝ち取らなきゃいけないんだわ」
それでも、とナルシスは言う。
「アレスはあんな偉そうなことを言っているが、ただの絵だぞ。うすっぺらだし、僕よりかなり人間から遠いんだぞ。神話にでてくるような神じゃあないんだ。神話のアレスだって自慢できる武勇伝はそんなにないけど、あいつは神聖さとかそういうものはまったくない。今朝話したけど、やっぱりあいつはただの――」
「ただのムカツク男の絵よ! 知ってるわ。彼が神じゃないってことくらい分かってる」エスメリンダはナルシスの言葉が終わらないうちに早口でまくしたてた。
ナルシスは少し目を丸くして、そうなのか、と言った。
「勢いづいちゃってごめんなさい」エスメリンダはすまなさそうな顔をした。「確かにあたしは神話の学はないのよ。でも、神話の中にいる男を好きになったんじゃないわ。そんな女じゃないことをナルシス君とレオさんには分かってもらいたいの」
「なら、いいんだけど」
ナルシスはスープをかき回しながら言う。
「今日の朝、昨日エスメリンダと喧嘩してたゾラって娘がきてたんだ。あいつは、なんていうか、”神話のアレス”が好きみたいだった」
「あの子は、……そうみたいね。ゾラは学業の為に、能力者のかなり少ない故郷からこの街へ来たみたいだし。能力を、古代の神話と繋がることのできる魔法だって思うのも無理ないわよ」
アレスのこと以外ならゾラはいい子よ、とエスメリンダは言った。
「困ってるって言えば、きっといろいろなことを教えてくれるわ。ただ、神話の登場人物に目がないから、ナルシス君が神話に出てくる人物だっていうのは、黙っておいたほうがいいと思うけど」
「もうばれてたよ、お喋りアレスのせいで。――あと、僕はあの子の言っていることがよくわからない」ナルシスは珍しくうんざりした顔をした。今朝、本屋でゾラに質問攻めにでもあったのだろうか。
「ゾラはちょっと早口なのよ。”ゆっくり、もう一回”って優しく言うの。あんまり言うと、傷ついちゃうから気を付けて。ナルシス君とゾラはあたしのパンを食べるときの顔が同じだから、いい友達になれると思うわ」
「そうなの?」ナルシスは複雑な表情をする。
「そうなのよ」エスメリンダはくすくす笑った。
「ふうん」
ナルシスはようやく言いたいことを言えたようだったが、まだ少しすっきりとしない顔で頬杖をついた。
「でもさ、エスメリンダはなんであの傲慢男が好きなんだ? 本当は、僕とレオが知らないような良いところがあるのか?」
正直、それは俺も気になっていたところだった。好き、というキーワードに一瞬頬を染めていたが、彼女はすぐに眉間にしわを寄せて腕を組んだ。
「そうね。本当は、アレスももうちょっと賢いはずなのよ。いや……賢くはないんだけど、単純というか、わかりやすいというか……」エスメリンダは小さな顎に手を当てて唸る。「ともかく、カラスが云々とか言うときだけ、ああいう訳が分からない態度なのよ」
「バカってことだろ?」と口悪くナルシスが言った。
「ええ、馬鹿よ」エスメリンダは楽しそうに笑う。エスメリンダの”馬鹿”はきっと親しみが多く含まれている。「初めて会ったときも、とんだお馬鹿さんだったわ」
*
その日、エスメリンダはゼップじいさんの本屋”水平線”に出向いたらしい。彼女のリビングにあるパキラやポトス、ポインセチアなどは良く育っていたが、白い花をつけるはずのスパティフィラム(俺もよく分からないが、とにかく上手く育てば大きな白い布を巻いたような花になるらしい)が何年も花をつけないでいた。それを本格的に悩みだしたエスメリンダはスパティフィラムの育て方が載った本を探しに、休憩の合間にさまざまな近場の本屋に出向いた。それが、ちょうど一か月前だった。
そのころはゼップじいさんとエスメリンダは顔も知らなかった同士だというから、昨日のような親しそうなやり取りはしなかっただろうと思う。エスメリンダはゼップじいさんに挨拶をして、園芸の本を探しながらどんどん入り組んだ迷路のような通路を通った。そして、ちょうど窓側に園芸の埃っぽい本を見つけた。しかし目当ての本は、どうにも届きそうで届かないような微妙な段に乗っていた。エスメリンダは精いっぱいに背伸びをして、背表紙にその白い指先を掠めていたのだという。
そのとき、
「そこのチビ、とってやろうか」
背後からいきなり声がした。エスメリンダは心臓が跳ねるような思いがして、何かオカルトめいたものを予想して振り向いたらしい。
そこにいたのは素朴な木枠の中にいるアレスだった。ただ、エスメリンダはそれまで動く絵や喋る絵を見たことがなかったのでそれは驚いたのだという。
緋色のマントを羽織った筋肉質の男は、腕を組んでエスメリンダを見つめていた。目尻は甘く垂れ下がっていて、太いまゆ毛がカリグラフィーのような、均一な太い線を描いていた。しかし、まゆ毛は手入れされていたし、ざんばらの前髪は目の上ぎりぎりで散らばっていたり、後ろ髪は耳の後ろで短めに靡いていたりしていた。神秘的な雰囲気は、今と同じで皆無だったようだ。容貌は確かに美しいのだが、どちらかというと顔だけならば現代の若者に似ている。ただ、その体だけは神話に違わぬ見事なもので、絵の中の眩しい太陽の下に堂々と輝いていた。
エスメリンダは一瞬戸惑ったが、すぐにいつもの自分を取り戻した。
「あなた絵でしょ」
エスメリンダだって能力者が氾濫していない時代に生まれれば、呪術の申し子の類と思われたかもしれない。そう思えば、絵が話すことくらいはなんでもないことだと思い直したようだ。
つまり、エスメリンダは別に一目ぼれをしたわけではなかった。
「絵でも、とれるさ」
アレスもまたそのときは、今よりわかりやすい物言いをした。
エスメリンダは絵の戯言を半分呆れながら聞いた。
「そう。じゃあお願いするわ」
しばし彼女は絵の中の男の挙動を眺めた。しかし、予想通りアレスは絵から手足を出すことはなかった。あたりをきょろきょろと見回した後、困ったように腕を組んでいた。
「やっぱり、出られないじゃない」
エスメリンダは片眉を吊り上げた。
「本当だぞ」とアレスは唸る。「ただ、じいさんに聞いてみなくちゃならんのだ」
「はいはい」
エスメリンダは肩を竦めて、また本を取るのに夢中になった。飛び跳ねながら本の背表紙に触れると、ようやく取ることができた。
「人間の子供のくせに、俺に対して生意気だな」
「ガキですって? あんたに言われたくないわ」
エスメリンダは本を抱えて、怒った顔を隠さずに向けた。エスメリンダは子供扱いされることは嫌いなようだった。それは、彼女がティーン・エイジャーのころに自営業を始めたことが大きく関係しているように思えた。――ともかく、そのときエスメリンダはアレスを睨みつけた。
「俺は神だぞ」
「でも絵じゃないの」
「そうだ。しかし絵の中では神だぞ」アレスは胸を張る。
「ばかばかしいわ」
家の中で偉ぶってるそのへんの男と同じね、と早々にエスメリンダは男の評価を結論づけた。
「なあお前、どんな花を育てているんだ」
「関係ないわ」
アレスはエスメリンダが持っている花の病気についての本を見たのかもしれない。アレスはちょっと考えてから、
「花が咲くように、大地の母神に頼んでやろうか」と言った。
「じゃあそうしてちょうだい」
エスメリンダはすっかり呆れていた。なんて無責任な男なのだろうと思ったようだ。
その日は本を買って早々にパン屋へ戻ったのだと言う。本当は、もう”水平線”に行くつもりもなかったらしい。
しかし、実際には次の日、エスメリンダは本屋の壁の前に突っ立っていた。目の前には、もちろん額の中の男がいた。
「また来たな。お前が来ると良い匂いがするからすぐわかる」
エスメリンダはアレスの自信たっぷりの目をむっつりと見つめた。
「どうだった」
「……」
エスメリンダはしばし黙った。いらいらしたような気持ちと焦燥が混じった変な気分だったという。
アレスが風邪を引いて声が出ないのかと心配し始めたので、ついにエスメリンダは口を開いた。
「咲いたわ!」
その日の朝、エスメリンダのリビングで、白い花が咲いていた。昨日は花の世話を工夫する前に寝てしまったので、特にエスメリンダが手を加えたからというわけではないだろう。
それでも――エスメリンダは眉を吊り上げながら、慌てて言う。「でもこれは別に――」
「だろう。綺麗な花だったろう!」
アレスは彼女の言葉など一切無視して、己の都合の良い解釈をして、大口を開けて笑った。
エスメリンダは開口したまま、その様子を見つめるしかなかった。
そもそも、どんな花さえかこの男には伝えていなかった。勝手に頭の中で綺麗な花を咲かせているのだ。
絵の男の偉大なる勘違いは普段のエスメリンダならきっと哀れみを覚えるものだった。しかし、そのときは不思議と悪い心地はしなかった。それはきっと、男の嬉しげな笑顔が呆れるくらい純粋で、どこか今朝咲いた花と似ていた気がしたからだ。
その後、エスメリンダは何故か怒ったふりをして帰宅した。家で待っていた白い花を見て、アレスに礼を言う事を忘れていたのに気付いた。
また明日本屋に行かなければならない。
半分は、花は勝手に咲いたのだから礼を言う必要はないと思っていたのだが、形式だけでも礼を言わないと、何かよく分からない借りができるようで嫌だった。詳しくいうなら、彼の「花が咲いて良かったな」と言う部分に対しては、もっと上手く礼を言う必要があると思ったからだ。
そうしてしばらくは、礼を言う為に、エスメリンダは本屋に通いづめで奮闘することとなった。
*
「……――あのアレスが花に似てる? どこが?」
彼女の話を聞き終ったナルシスは、あり得ない、と舌を突き出して嘔吐の真似事をした。
エスメリンダははっと気づいたような様子で、次いで顔を真っ赤にしながら、「それくらい、今は気付いているわよ」と暴れだした。
昼からは俺一人でカラスの捜索を続けることになった。エスメリンダはパン屋の仕事があり、ナルシスはカフェの仕事に行った。
パン屋から出ると、いつの間にか空は曇っていた。薄くも厚くもない雲が何気ない顔をして太陽を覆い始めていた。
早く暗くなるだろうという予想通りに、夕刻になるとだいぶ暗くなっていた。帰宅する人々の多い通りから外れ、街灯がぽつんと立っている道で、俺はカラスを探していた。家々からはカーテン越しに明かりが漏れ、さまざまな夕飯の匂いが漂ってきている。そろそろカラスも闇に紛れて見えなくなってしまう時分だ。昼から数えると、2羽目のカラスに印をつけることができていた。俺は手の中で大分温めてしまった絵の具玉を触りながら、帰宅しようとしていた。そのとき、
――路地裏から、獣の一際大きな声がした。
瞬間、俺は背筋に冷たいものを感じた。
振り返る。誰もおらず、まわりの家々も静かだった。しかし、路地裏から何かの小さな声が漏れているのに気付いた。
――さっきの、あれは、獣の断末魔だった。
そう直感した。路地裏に、何かがいるのだ。
俺は自分の影が路地裏への光を急に遮らないように、ゆっくりと暗闇を覗いた。
目を凝らせば、小さな女がいた。
うつむいていて、顔は見えない。ただ、浅く呼吸を繰り返して、過呼吸を起こしているかのように見えた。
「どうした、大丈夫か」
俺が路地裏に飛び込むと、背の低い彼女は体を哀れなくらいに引き攣らせた。
「――ゾラ」
昨日、本屋でエスメリンダと言い争いをしていた娘だった。昨日と同じような服装だったが、何故か長い黒髪はぼさぼさになっている。こちらを向いた小さな顔は血をすっかり抜かれたような蒼白だった。
「わっ、わたしは悪くない」
彼女は震えるように首を横に振った。
俺はふと、彼女の足元を見て理解した。
地面には、黒い羽の散った汚いものが地面に擦り込むようにして落ちていた。
カラスだ。おそらくは、アレスの。
無残だと思った。
「悪くないわ」
俺がゾラに声をかける前に、ゾラは小さな口を開いた。異様に爛々とした目がこちらを見つめていた。小さくて傷ついた獣の威嚇のようだった。俺はまた冷たいものを感じた。
白い唇から溢れたのは、息を持つかせぬ闇だった。
「何よ、わたしが全部悪いの? あんたたちが悪いんじゃない。あんた、エスメリンダのカラスの数を数えるのを手伝っているんでしょ? いいわね、エスメリンダは金持ちだから、さぞ報酬を貰えるでしょう。わたし、貧乏で色気もないわたしなんか、誰も手伝ってくれないわ。当たり前ね。だって、金もない田舎娘だもの。だから、ずっと一人でやったわ。頑張ったわ、頑張ったのに、カラスの数なんてわからなかった。わたしがドジだから、何度も数え直したわ。容量も悪くて、馬鹿な娘よね。エスメリンダは友達が多くていいわ。羨ましい。ダリアだって、バカでも色気があるからいいわ。エレオノーラも控えめにでて気を引くのが上手いわ、アレス様の事を何も分かってないくせに、自分の男のコレクションに加えたいと思ってる。皆わたしより上よ、みんな卑怯よ、だから、わたしだって――わたしだって、カラスの一匹くらい殺すわよ! 皆数を間違えればいいわ。わたしと一緒に、間違えれば、」
「それ以上言うな!」
俺の怒鳴り声は路地裏に反響した。
途端、ゾラは息が詰まったように呪詛の言葉を吐くのをやめて、口をぎゅっと結んだ。代わりに、眼鏡の奥の瞳からぼろぼろと涙が零れた。俺のより大分背の小さいゾラの姿は、ヒビが隅々まで入った陶器人形にも見えた。
「君がやったということは秘密にするが、皆がカラスを公平に数える為には一匹欠けたことを知らせなければならない」
俺は淡々と言った。事務的なものだった。
彼女は一瞬顔をひどく歪ませて、背を向けて歩き出した。ふらふらと足元は頼りなさげだった。
「君は悪い」これ以上言ったら彼女が音を立てて壊れ去ってしまうのではないかと思ったが、俺は続けた。「……そう思っているだろう。だから、震えている」
「わたしは!」
小さな少女の声でゾラは叫んだ。しかし、その後は続かなかった。
「認めないと、もっと苦しいぞ」
重要なのは、誰が君を悪いかと決める事じゃない。それを言う前に、ゾラは走り去っていった。
路地裏には呆然とした俺と、逃げないカラスと、血まみれのブロックが残された。
俺の肺から溜め息が漏れた。
――今のは、説教だ。
それがわかると、俺は自分の頬を思い切り殴りたくなった。
「……」
俺は気付くと、のろのろとカラスの死骸を集めていた。素手でやったのはカラスへの敬意でもなんでもなかった。普段であれば、新聞紙や紙袋をどこかの店で買って、手を汚さないように作業をしたはずだ。
それよりも、頭が痛かった。薬をやったのに、快感だけを抜き去るとこんな感じになるのではないかと思った。それはもちろん、ゾラのせいではなかった。
頭の中の髭面が言う。
――お前は誰かに何かを与えることなんてできんのさ。
わかっているから、今は黙っていてくれ。
俺は本屋”水平線”の前にいた。頭痛は収まっていたが、後遺症のようなだるさがあった。
赤い爪のカラスは、公園の木の下に埋めてきた。良く調べたが、白い塗料が付着してはいなかったのでカウントしておいた。
手垢の擦り込まれたドアノブを握って、一体なぜここへ来たのかと一瞬動作を止めた。そうか、カラスが減ったことを一応、アレスに報告する為だ。俺は一回目を強く瞑ってから、再びドアノブを回して店内に入る。本屋の主への挨拶もそこそこに、奥の方へ歩いた。しかし、アレスの鎮座する額を見る前に、俺は棚の陰で足を止めた。先客がいるようだった。
「ね……アレス……?」
妙に扇情的な女の声がした。
「カラスなんてどうでもいいじゃない。絵から出てこれるって言うなら、私の腰に手をあててみてよ。そうしたら、信じてあげる」
次いで男の溜め息が聞こえる。おそらくアレスだろう。
「もしかして、本当の愛がないと、絵から出てこれないとか、そう言ってるの?」
「言ってない」アレスは低い声で唸った。
一方、女はくすくすと甲高い笑い声をあげた。耳元でそうされれば、男は誰でもは彼女をベッドに押し倒すだろうと思った。
「エスメリンダもゾラもエレオノーラも、皆あなたのこと分かってないわ。もちろん、私も、そう。だから、教えてほしいの。私だけに……」
「だが、ダリア。お前には恋人がいるんだろ。そんな女はごめんだ」
アレスは心底面倒だという声色だった。しかしダリアという女はまったくめげないようだった。香水が臭い、というアレスの小声も、艶っぽい笑い声にかき消される。
「どうしてもって言うなら、さっさとカラスを数えてこいよ」
「もう! そんなことどうだっていいじゃない……」
アレスは露骨に舌打ちをしている。鈍感そうに見える彼も、会話がまた最初に戻ったことに気付いたのだろう。
俺には彼を助ける義理も義務もないので、踵を返して扉へ向かった。カラスのことは、明日話せばいい。
俺ははやく家に帰りたかった。




