2.パン屋の娘と、本屋の軍神
翌日、ジョンの様子はだいぶ落ち着いてきたようだった。朝一番に医者を呼んで診てもらったが、ただの風邪らしい。死んだように寝っぱなしだったジョンを心配していたナルシスは、そこでようやく安心したようだった。しかし、飲まず食わずというのも体に悪いということで、夕方には必ず起こすよう、起きなければ点滴をしにくるとのことだ。
その後、医者と入れ替わりで、酒場の女将の寄越した情報屋が家に来た。やせぎすのジョンとは正反対で、筋骨隆々としたその情報屋は、パン屋の住所を書き記したメモを渡してきた。俺とナルシスがいない間はその情報屋がちょくちょく様子を見に来ようか、と申し出てくれたが、丁寧に断った。
「信用がないんですね」
情報屋の男はそうは言ったが、さほど困っている風には見えなかった。
「もちろんだ。この件の事が、すべてあんたらのせいとは言わないし、俺とジョンのだらしなさも原因にある。だが情報屋なら、仲間の体調くらい知っていて欲しいものだ」
情報屋の男は面白そうに笑った。
「いや、失礼。ベアズリーさんははっきり物を言うから」
俺は全く面白くなかった。
「でも、マイナスばかりじゃないでしょう」
確かに、それは間違いではなかった。ナルシスは自分の兄弟に会える事になるし、俺とジョンはシュタイナー氏の一件について、情報屋のボスから咎められることもなくなるだろう。
彼は玄関先で首をぼりぼりと掻いていた。出向いた先で早々に仕事を終えてしまった彼は暇そうに、少しその場でお喋りをしたがった。
「それにしても、俺らができなかったことを画家さんに押し付けるなんて、ママは何を考えているんやら」
俺にしても、その点は彼と同意見で、情報屋が掴めない情報を手に入れられるとは思ってはいなかった。鳥の数が云々とは聞いているが、到底、画家の視点があれば有利になるものとも思えない。また、街一番の情報屋が不可能だった案件をただの画家に手渡して、手柄を譲るようなことも理解できない。
ただ、女将は俺に期待しているらしく、パン屋の主人のことも目にかけているようではあった。
「あのパン屋は酒場の女将とそんなに仲がいいのか」
俺が去り際に問うと、情報屋は腕を組んで唸った。
「ママの交友関係なんて俺でもあまり知りませんけどね。でも、ママはパン屋の彼女と仲が良いという話もしないし、かといって彼女が常連客というわけでもなかったし。むしろ、あの優男の警官とのほうがよっぽど仲がいい……」
ああ、そうかと情報屋は何かひらめいたふうに声をあげた。
「ママはエルメリンダのパンが大好物だからなあ」
俺とナルシスは昼過ぎまでカフェで働いた後、パン屋に出向くことにした。というより、出向かなければならなかった、と言うほうが正しいが。
地図を頼りに行くと、ウィッチ・ベーカリーは2番街の角にあった。
小さくて素朴な店だった。深い緑色のひさしの下、ガラス張りの向こうによく焼き目のついたパンが並んでいた。昼も過ぎたが、店内には何人か客がいた。扉を開けると、ベルがちりんちりんと鳴って、奥のほうから若い娘の「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。こうばしい匂いと、様々な形のパンに囲まれたナルシスはすぐにこの店が気に入ったようだった。彼の嫌いな着衣という状態のまま、肥えた青い目を輝かせるのは容易なことではない。菓子パンのほうで、母親にクロワッサンをねだる子どもと同じ目をしている。
そこは魔女のパン屋、と呼ぶには健康的すぎるたたずまいだった。
俺は数年ぶりにこのパン屋へ来たが、それほど変わったこともなかった。店内はよく掃除されていたし、食欲を異様にそそる匂いも懐かしいものだった。
ただひとつ違うのは、カウンターには若い男がいた。
「いらっしゃいませ。ごゆっくり」
清潔そうな白い服に、白い前掛けをしている。短く刈った髪に太い眉が、彼をかなり実直な様子に見せていた。
「こんにちは。ミセスはいますか」
俺の言葉に、男はぽかんと口をあけた。
「いえ、まだ妻帯はしてないんですが――」
すると彼が言い終わらないうちに、カウンターの中にある扉が勢いよく開いた。
「ちょっと、ふざけないで! あたしは独身! 彼は弟子よ!」
明るい栗毛色の髪を振り乱して、娘が叫んだ。
数年の間に、パン屋の女主人――エスメリンダ・バルディーニは自分よりも5歳年上の弟子をとっていたようだった。
エスメリンダは数年前の記憶とそう変わらなかった。以前はあどけなくところどころはねていた気がする髪の毛が、今は綺麗にまとまっており、肩に触れる手前で跳ねるようにカールしていた。細い顎や、利発そうな瞳はそのままだった。
店を弟子に任せ、エスメリンダは俺とナルシスを2階に案内した。1階は店と作業場で、2階はすべて主人のパーソナル・スペースのようだ。
案内されたリビングは日当たりが良い部屋だった。部屋の天井には、濃い色の曲がった木の梁が組まれていた。年頃の娘の部屋にしては、素朴な家具しかなく、同年代の娘たちの嗜好とは無縁のように見えた。ただ唯一、部屋の主人の趣味が窺えるのは、元気のいい観葉植物があちこちに置いてあることだけだった。
俺とナルシスは木製の丸椅子に腰掛けた。ナルシスは天井から吊るされた籠に入った苔を興味深そうに眺めていた。
薄い色をしたテーブルに、人数分のホット・ミルクが置かれた。
「クローディアさんの作品の、専門家なんですってね?」
そう言ったエスメリンダは瞳を輝かせていた。
俺は内心、頭を抱えた。酒場の女将はいったいどんな文句で俺を紹介したのか、その一言ですべて理解することができた。
ただ、ここで「そうではない」と言えば、エスメリンダは俺達に相談事を持ちかけるのをやめるだろう。また幸いにも、俺が昨日電話をかけてきた頼り甲斐のなさげな男であることは気付かれていないようだ。少し罪悪感を覚えながら、俺は曖昧に受け流した。
「頼りにしているわ」と彼女は頷きながら、椅子に腰かけた。
一方、隣では脚を組んで悠々と構えたナルシスが、口を開く。
「それで、何に困ってるんだ?」
専門家も顔負けの傲慢さだった。
エスメリンダは特に気を悪くしたふうもなく、ホット・ミルクを一回豪快に煽ってから、言った。
「絵の中に住んでいる彼の、告白の答えを知りたいのよ」
「コクハクノコタエ」ナルシスが言いにくそうに復唱した。「秘密の返事?」意味の解らないことを言っている。
「恋人になるかどうかということだ」俺はナルシスのほうに顔を向けて説明した。「彼も彼女を”愛して”いるのかどうか」
ああ、とナルシスが頷くのを見て、俺が顔を再びエスメリンダのほうに向けると――彼女の顔は真っ赤に茹で上がっていた。
今にも湯気の出そうな色をしていたので、俺は「大丈夫か」と野暮なことを思わず口走った。
「いいから気にしないでちょうだい」
彼女の声は上ずっていたが、やけになったようにもう一度ミルクを飲むと、ほとんど元通りになる。忙しい娘だ。
「そうよ。あたしは1週間前に告白したの。あの意味の解らない筋肉男にね」
エスメリンダの話はこうだった。1か月ほど前、ゼップじいさんという老人がやっている本屋に、クローディアの絵が運び込まれた。その絵には神話の軍神、アレスが描かれていたようだ。アレスの絵はその日から、入り組んだ店の壁に飾られることとなった。
エスメリンダはちょうどそのころ園芸の本を探していたところで、ゼップじいさんの本屋で本を選んでいた。そのとき、背後の絵の中から話しかけられ、彼に出会ったのだという。一目惚れではなかったらしいが、とにかくその後エスメリンダは彼に恋をした。――そして1週間前、ついにエスメリンダは人生で初めて告白をした。
だが、アレスから返ってきた答えはとても難解なものだった。
”では明日、俺の鳥をこの街の空に放とう”
「――それで、その放った鳥の数が俺の返事だ、なんて言ったのよ」
エスメリンダは苛々したように言った。
「奇数ならYES。偶数ならNOなんですって」
「それ、何で直接言わないの……?」
ナルシスが理解できない、と言ったふうに呆然としていた。
「それなのよ!」
エスメリンダは苛烈に同意した。テーブルの上のミルクが波を立てた。
「彼はいつもあまり頭を使わないのよ。つまりバカなの! まわりくどいことなんてできないと思っていたのに、いきなりあんなことを言って!」
絵の中の人物とはいえ、神を馬鹿と形容するとは――。古代人がこれを聞いたら真っ青になって、今に天から雷が落ちてこないか空を見上げるだろう。
俺はとりあえず目の前の豪気な娘を落ち着けようとする。
「それで、今すぐに答えが知りたいと?」
「そう。別に私が待ちきれないっていうんじゃないわ。アレスったら他の娘にも、同じような事を言っているのよ……」
今度はいきなり憂鬱な顔をし始める。俺より何歳か年が離れているだけなのに、性別が違うとこんなにも扱いが難しいらしい。
「はやくしないと他の子にとられちゃうでしょ。エレオノーラは氷みたいにキレイだし、ダリアはダンスが上手くてとっても色っぽいのよ。ゾラは地味で胸もぺちゃんこだけど、神話での彼のことを誰よりも知っているわ。あたしといったら、化粧もできないし、神話もよく分からないし、パンが旨いだけなのよ!」
彼は絵の中にいるのよ、なのにパン作りが上手いってなんなの。
エスメリンダはいよいよ地団太を踏み始めた。鮮やかなオレンジ色のスカートがふわふわ揺れている。記憶の中の彼女の利発さが、音を立てて崩れてゆく。
俺はもう彼女に何と言えばいいかわからず、なるほど、と意味のない事を言ってコーヒーを啜る他なかった。
「――でも、あんたの肌と髪の色は綺麗だよ」
ナルシスの涼やかな声は、横から発せられた。
足踏みを止めて、エスメリンダははっとしてナルシスを見た。ナルシスも頬杖をつきながら、深く聡明そうな碧眼で値踏みするようにエスメリンダを見ていた。
「お世辞なんて嬉しくないわ」
彼女はぷいと顔を逸らしたが、褒められるのもまんざらでもないようだった。
「じゃあ、鳥の数を数えていけばいいんだな?」
俺はやっと発言した。
「ええ。でも答え合わせをしなきゃいけないの。数え終われば、彼に数を報告する。そして――チャンスは1回だって。間違えたら、そこから一生彼とは友達のままなのよ」
俺とナルシスとエスメリンダは小さな本屋の前に辿りついた。
その本屋は、花屋とアパートの間になんとか挟まっていた。上についている濃紺の看板には「Horizont」と白文字で書かれている。
”水平線”
どうやらこれが店の名前らしかった。「本屋」というキーワードはどこにも記されていない。代わりに、小さな窓からは棚に詰め込まれた本ばかりがみえる。ずいぶん前からやっている店なのだろう、青いドアはかなり年季が入っていた。
「気難しい、じいさんみたいな店だ」
ナルシスが呟いた。
”鳥を探す前にとにかく、クローディアの作品に会ってみれば、楽な手がかりが分かるかもしれない”――という彼の提案でここに立っているというのに、彼の顔は曇っていた。パン屋を出た時に粉雪が舞っていたということで、俺が彼のマフラーをきつく巻きなおしたからだろう。おそらく、ナルシスは体にきつく纏わりつく布と一生仲良くやっていけない。
「ぼろぼろじゃないか」と、ナルシスは雪を蹴りながら、この店の外観に八つ当たりしている。
「そんなに言うほどでもない。俺たちのアパートと同じくらいだろう」
「それ、もっと駄目だと思うけど」
横では、エスメリンダが髪を手でなでつけたり、懸命に靴の上に乗った雪を落としたりしていた。
店内に入ると、外観よりは狭くない空間のようだった。しかし、やはり本の棚が山脈のようにそびえたっていて、3人が横一列に並んで歩けるような通路はない。本の山の隙間から、「いらっしゃい」と老爺の声がした。
「こんにちは、ゼップさん」
エスメリンダが本棚の隙間に話しかけている。
そこを覗くと、こじんまりとしたカウンターの中で、本を捲っているゼップ老人の姿があった。瓶の底のような眼鏡の向こうに、つぶらな瞳があった。彼は俺とナルシスの姿を認めると、目を丸くした。
「エスメリンダ、もしや彼らは君の」
「知り合いよ」
エスメリンダは素早い先手を打った。セップ老人はそのやりとりが面白そうに笑った。彼女を悪意なくからかっているようだった。
「まあそうだろうな。大方アレスに会いに来たんだろう。それにしてもそこの彼は、――ああ、まるで月の化身のようだ」
彼がため息のように言った言葉は、ナルシスへ向けられた言葉だろう。ナルシスの澄ました横顔は、橙の明かりの下でも白く、穢れのないように見える。
「そうなのよ。申し訳ないけれど、本を買いに来たんじゃないわ。アレスを借りるわね」
「構わんよ。借りるも何も、彼は暇をしているだろう」
エスメリンダが迷路のような道を迷いなく進んでいく。
ちょうどカウンターの正反対に位置するであろう壁に、大きな絵が掛けられていた。子供の背くらいはあるだろうか、その枠の中に、燃え上がるような緋色のマントを肩にかけた、小麦色の肌の男が座っていた。
「よお、エスメリンダ」
絵の中で悠然と座っている美丈夫が、エスメリンダに気付くとだみ声を響かせた。
彼がクローディアが描いたという、軍神アレスだった。神話では、他の神に劣らぬ美しさを持ちながら、破壊と殺戮を好む男神である。アレスは、理性ある戦や義勇とは対極に位置した神で、彼は戦士の血を浴び駆けまわる。
しかし絵の中の彼は戦の最中ではないようで、鎧は見当たらず、マントのほかにはキトンと呼ばれる衣を左肩に留めているのみだった。黄白の衣服と、緋のマント、突き抜けるような蒼い空のコントラストが鮮やかに映えている。足元には装飾の薄い丸い盾と剣が無造作に転がっていた。
――そして右下には、クローディア・ブラナーのサイン。
「後ろのは誰だ」
アレスはこちら側のものが見えているようだった。シュタイナー邸にある”三本の木の絵”とはまた趣きの異なった命が宿っているらしい。
「あたしの知り合い。レオとナルシスよ」
エスメラルダはこの喋る絵に慣れているのか、人間の友人に同族を紹介するふうに言った。
「うん? ……ああ、お前、クローディアの作品だな?」
アレスは、ずいっとこちら側に顔を寄せ、ナルシスを品定めするように見つめてきた。その粗野な目線の先に立っている美青年はそれと対等に向き合っている。
「そうだよ」
「匂いでわかるぞ。……ナルシス、だっけか。俺より先に造られて、クローディアに追い出されたらしいな」
ナルシスはそこではじめてぴくりと眉を動かした。ナルシスも負けず劣らずの無礼っぷりを発揮して、アレスの全身をじっくりと眺める。そして、頭の上に疑問符を浮かべているアレスを冷めた瞳で観察し終えると、言った。
「神だと聞いたから期待したけど、僕よりまったく美しくないな」
神話で神を貶めた人間はすべからく神の怒りを買っている。神より優れていると漏らした人間の末路は決まっている。どれも悲劇としかいえないものだ。
この男は神ではない。だが――”クローディアの描いた絵”だ。何が起こるかは誰にもわからない。
俺はその場で身構えたが、聞こえたのは豪快な笑い声だった。予想に反して、アレスはさも愉快そうに哄笑していた。
「そりゃあ、お前のような精霊か主神の酒注ぎかわからんような奴の美しさと、俺の体を比べて貰っても困る」
それを聞いたナルシスはついに憤慨して声を荒らげる。
「ニンフだと? 僕は男だぞ」
俺はまたもや頭を抱えた。それでなくても、ナルシスは己の身体を誰かにたとえられることなど耐えられないだろう。ナルシスの身体は、彼が一番誇りに思っている。それが、主神に美しさを認められて星座にされた少年になぞられても、光栄だなどとは微塵も思わない。それだけの誇りと少々過多の気がある自信だ。
ナルシスのそのままにしておくと、自分の身体を披露しようと服を脱ぎかねないので、俺が2人の間に割って入る。
「なにすんだレオ、デカ狼め、邪魔だ!」
アレスの黒真珠のような瞳がこちらを向いた。
「お前は誰だったか」
「レオだ。レオ・ベアズリー」
「お前はただの人間だな」
興奮しているナルシスが後ろで何か騒いでいるが、背の高い俺が絵の前で封鎖すれば、面会は終わったも同じだった。俺はナルシスが背を叩くのを無視して話を続ける。
「このエスメリンダに、鳥を数えろと言ったそうだな」
「ああ、そのことか」
「何よその言いぐさは」エスメリンダが顔をしかめた。
「俺と後ろのナルシスは、鳥を数える手伝いをする」
「そうか。まあ手段は問うてないしな」
「それで、鳥とはどんな鳥なんだ?」
アレスはふむ、と顎に大きな手を当てると、すたすたと遠くに行ってしまった。
「見てろ」
俺から離れていくアレスは遠近法に従って小さくなる。まるで額縁は窓であるかのようだ。向こうの世界がこちらの世界と同じような空間が広がっているように見える。
アレスは、画面の奥にあった広葉樹の幹を蹴った。
途端、葉だと思っていたものが一気に空へ舞い上がった。――それはカラスだった。
横にいたエスメリンダが小さく悲鳴をあげた。
こちらの驚く様を認めると、アレスはまた楽しそうにこちらへ戻ってきた。
「驚いただろ? あれがお前らの追いかける鳥だ」アレスは造りの良い顔を歪め、意地汚い笑い方をした。「――屍をついばむ鳥だ」
エスメリンダが「最低」と半眼でアレスを睨むと、軍神はいっそう嬉しそうだった。
俺はアレスの向こう側にある空を見て、目を細める。
「絵の中の鳥を数えるのか?」
「いいや。俺がもうすでにお前らの街の空に鳥を放した」
「普通のカラスとは、違うんだろうな?」
「もちろんだ。俺のカラスは足の爪が真っ赤なんだ」
主人に似て趣味が悪い、と後ろのナルシスが野次を飛ばしてくる。
「カラスを数えるだけで、この俺と恋人になれるんだぞ。冥王の番犬と闘うより簡単だ」
「だが、カラスが偶数なら、答えがNOなら、こちらは骨折り損だ」
「それも一興」
「つまり。カラスが偶数だと解れば、返事はNOでそこで終わり。奇数だと解ればYES。――問題がそこで終わっているなら、カラスの数を数えたふりをして、お前に”奇数だった”と言えばいい。お前の返事は「正解」か「不正解」の2つしかないから、お前に”奇数だった”と言うことが2分の1の賭けのスタートみたいなもんだ」
「でも、あたしたちはアレスに、カラスの数を正確を報告しなければならないわ」エスメリンダが腕を組んでため息をつくように言った。
「そう。適当に”奇数”と言って、それが当たっていたとしても、カラスの数を2匹間違えて報告していれば――」
「そんな馬鹿な女は、願い下げだな」アレスが犬歯を剥き出しにして笑った。
俺はアレスを睨む。
「なんだよ、そんなに睨むな。冥王の番犬にそっくりだな」
「なぜこんな回りくどいことをするんだ」
アレスは少し考えたふうに顎に手を当てて、こう言った。
「神の気まぐれっていうのは、そういうもんだろ」
見かけによらず面倒臭い男だ。だが、そんな暇つぶしにこっちが振り回されるのは溜まったものではない。俺が睨んでいると――不意に後ろのほうで女の声がした。
「エスメリンダ! もしかしてカラスを数え終わったの?」
ハイネックにパンツ姿の、背の低い娘だった。黒髪に、縁のない眼鏡をしている。
俺たちがアレスと話し込んでいる間に、店内に入ってきた客のようだ。
「ゾラ」
エスメリンダが低い声をあげて驚いていた。
俺も背の低い娘――ゾラに注意をしていたので、ナルシスが俺の横をするりと抜けてアレスに腕を振り回しながら飛びかかろうとしていた。俺は慌ててナルシスのなめらかな手首をしっかりと掴む。
「おい離せレオ! この筋肉の塊に僕がどれだけ美しいか――」
「お、喧嘩か? そのほそっこい腕で俺に挑むっていうのか?」
「頼むから煽らないでくれ! 破られるのはお前なんだぞ」
「この俺が破られるもんか」
「人間に槍で突かれて、空へ泣き帰ったくせに」
「なんだと。あれは俺じゃない。神話の俺が愚図だったんだ。この俺ならもっと上手くやる」
こっちが喧噪なら、むこうも喧噪だった。エスメリンダとゾラが睨みあって何か言い合っている。ただし、向こうは腕を振り回したりはしていない。冬の滝より背筋の凍る言葉が飛沫をあげていた。
「なあんだ、やっぱりまだだったか。まあ、エスメリンダにカラスを数えるなんて、そんな地味ぃーな作業、到底無理よね。よかったぁ」
「あら、そういうゾラは今日ここまで来るのに何回こけた? 同じカラスを二度数えたりしてないかしら? 新しい眼鏡とおっちょこちょいが治る薬が早く買えるといいわね」
もううんざりだ。




