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オルコットの解けない雪  作者: いも
軍神アレス(1949.油彩、画布 Claudia・Branagh)
12/17

1.情報屋は倒れて、画家が動く

 帰宅すると、痩せた男がぼろぞうきんのようになって床に伏していた。


 俺とナルシスはまたか、と顔を見合わせた。俺は男を介抱する前に、コートを脱ぎ、買い出しの荷物をキッチンへと運ぶ。ナルシスは男を指して笑いながら、すぐに着替え始め――といっても換えの服などはなく、全裸になるだけだ。

 俺がようやくうつぶせの男を抱き起し、水はいるかと聞いたが、どうにも様子がおかしかった。酒の匂いがまったくしない。

「ジョン?」

 呼んでも、まともな返事は返ってこなかった。

 ジョンの額に手を当てると、尋常なく熱い。おまけにぜいぜいと音を立てながら口で息をしている。

「酔っぱらっているんじゃない。熱を出している」

 間抜けな分析結果に、ナルシスが顔を乗り出してくる。

「風邪って死ぬの?」


 すぐにジョンをナルシスと一緒にベッドへ運び、服を脱がせた。乱暴に結い上げられたポニーテールも、寝かすとき頭が安定しないのでゴムを鋏で切った。

 ジョンは真っ赤な顔をしながら何かうわごとを言っている。

「とり、とり」

「ジョン大丈夫?」

 ナルシスはいよいよ不安そうな顔をしていた。死にはしない、と俺は言い、ナルシスに外の雪を皮袋に詰めて持ってくるように頼んだ。

「と、とり……」

「鳥?」

「いらいにんに、れんらくしないと」

 こちらの声が聞こえているのかいないのか、ジョンはこの家にきてはじめて「とり」以外の言葉を発した。毛布の中から腕を伸ばし、空中の何かを掴もうとするのをやめさせて、俺はジョンの携帯を取り出す。

「わかったから寝てろ」

 様子を見るに、ジョンは何かの仕事の途中に体調を崩したようだった。一人暮らしのジョンは看病してくれる同居人がいないので、最後の力を振り絞って俺の部屋にきたのだろう。鍵を閉めたはずだったのに、ジョンが這入れていたことは、今は不問にするとして。

 ナルシスは心配していたが、ジョンが何かの折に死にかけていることは珍しくなかった。足に風穴が開いたり、ギャンブルで大負けしたり、強盗の金をこそ泥して追いかけまわされたりして、それでも生きている男だ。

 俺は手帳を探り、今預かっているらしい依頼のページと依頼人の電話番号を見つけた。ジョンを宥めながら電話をかける。通話が繋がると、元気のよい娘の声が聞こえた。

「こんばんは、ウィッチ・ベーカリーです」

 怪しげな名前がそこに載っていたなら電話はしないつもりだったが、ジョンの手帳には、街でも知られたパン屋の女主人の名前が書きつけられていた。

「もしもし、ジョン・アボットの代理の者です」

 彼女は、あら、と驚いている。

「はじめまして。いったい、どうかしました?」

「実はいま、ジョンは熱を出して倒れています」

「そうなの、お大事に。それで、」それより、と言いかけた気がした。「鳥はどうなりました?」

「鳥?」

 俺は思わず聞き返した。とり。先程のジョンのうわごとを思い出す。

「ええ、鳥よ。待ちわびたわ。何羽だったの?」

「ちょっとまってくれ」

 ページをペラペラとめくるが、それらしき数字が無数に書き殴られていて、どれが最新のものであるか分からない。

「ななじゅうさん」

 ジョンが呻いた。

「鳥の数か?」

「そおだ、とりはななじゅうさんわだ、ななじゅう……」

「わかった。伝えるから安心しろ」

 確かに、数ページ先にマルで囲まれた73が書かれていた。再び携帯を耳に当てる。

「73だ」

「そう……」

 娘はひととき、黙り込んだ。

 そして、通話が切れたのかと思った俺が何か言う前に、

「――それで本当に全部なのね?」

 娘の声は真剣そのものだった。

 パン屋と鳥になんの因果があるのかわからないが、重要な案件なのかもしれない。謝った情報を渡せば、ジョンの沽券にもかかわりかねないだろう。

「少し待ってくれ」

 俺は再び電話口を押さえる。

「73羽で本当に間違いないか?」

 さっきと同じように尋ねたのだが、ジョンはもう、他人には聞き取れない言葉を口の中に含んでいるばかりだった。何度か呼びかけながら辛抱強くしばらく待ったが、ふにゃふにゃと何事かを言った後、完全に寝息しか聞こえなくなった。

「……もしもし。すまないが、73羽で全部なのかはわからない」

 俺が伝えると、電話の向こうの娘はほとんど怒ったような声を上げた。

「時間がないっていったじゃない! もう、役立たず!」

 どうやら期限のある依頼だったらしい。ジョンの失態とはいえ、寝ている病人に伝えるわけにもいかず、俺はそのままその罵倒を浴びる羽目となった。非常時とはいえ、部外者でしかない俺が依頼人に電話したのは失敗だったのかもしれない。

 無難な言葉をかけて、電話を早々に切ってしまおうとすると、電話先から、すすり泣いているような声が聞こえているのに気付いた。

 俺はぎょっとした。さっきまでの破裂しそうな風船のような気配がしたのに、今度は完全にしぼみきっている。

 大丈夫か、と声をかけるが、こちらも返事がない。

「何か俺にできることはあるか」

 自分でも最高に安請け合いの台詞だと思ったが、無言で通話を切るのも躊躇われたのだ。

 しかし、意に反して、今度はしっかりとした娘の応答が聞こえた。

「あなたも情報屋なら、さっさと鳥の数を残らず数えてきて!」

 そして、ぶつ、と通話が切れる。

 俺は半分呆れながら、携帯を切った。


 ウィッチ・ベーカリーは、まだうら若い女主人が切り盛りしているそれなりに有名なパン屋だ。噂や流行などに疎い俺も、オープンした時期に何回か行ったことがある。そのとき女主人はいつもはつらつとしていて、利己的で、自分の作るパンの旨さを一番知っているように感じた。少し我が強いが、世渡りの上手い、気のいい娘だった。店主が若く、小さな太陽のような健康的な美しさを放っているので、男女問わず常連客が多い。一時期、俺自身もこれほど食べ物に執着するのかと思ったほどに、週に何度か通ってはいたものの、オープン・キャンペーンが終わってからは浪費を防ぐために、店には近づかないようにしていた。彼女が現在何歳かは忘れたが、いまだにこの街で一番若いパン屋の主人らしい。

 彼女の今の当り散らしようには驚いたが、何かのっぴきならない事情があるのかもしれない。すると、このままジョンの手助けがないのは、彼女にとって不利に働くことは間違いなかった。

 電話口の向こうで泣いていた彼女を思い出し、あの快活な店主が泣いている姿を想像して、しばし俺は思案した。

 ジョンの着替えを済ませながら出したさっさと結論は――ジョンの容態と依頼の経過具合を彼の上司に伝える、というものだった。

 ジョンはもちろん動けないが、彼の代わりに情報屋のボスに報告することくらいは、俺がしても問題ないだろう。パン屋のあの様子だと、情報屋のボスはまだジョンから報告を受けていない。ジョンが寝込んでいることを知れば、ボスは代わりの情報屋をパン屋につけてくれるはずだ。パン屋に恩を売るつもりはないが、最近はナルシスのことなどで、ベッドでのびているこの友人に頼りっぱなしであることは薄々感じていた。

 俺は再びジョンの携帯や手帳に手を付けたが、ボスの連絡先は分からなかった。それどころか、ジョンの仕事仲間の連絡先も書いていない。酒場にいるボス本人に直接伝えたほうが早いのは明らかだった。酒場の住所は知っていた。よく賭けをしたジョンを殴りに行く場所だ。

 ちょうど、皮袋に雪を詰め込んで帰ってきたナルシスが帰ってきた。

「レオ、ジョンを放ってどこかに行くのか?」

 コートを羽織っていた俺に、ナルシスが不安そうな声をあげた。

「ああ、看病はお前に任せる。額に雪を当てて、首と体は冷やさないようにしてくれ。さっき着替えは済ましたから、首元の汗だけ拭いてくれ。俺は酒場に行って、ジョンのボスに会ってくる。ジョンが倒れたことを知らせないと」

 支度をしながら一気にまくしたてると、ナルシスにしては珍しくそれを快諾した。ジョンの寝ている部屋へ入っていった。

「……」

 俺はバスに乗る小銭を確認した後、玄関のドアノブに手をかけようとして――停止した。

 第6感などというものではないが、なんとなく、俺はジョンの部屋に戻った。

 実際には、ナルシスは珍しく俺のいう事をよくきいて、速やかに実行していた。もっと詳しく言うと、いささか言葉の意味をまともに受けすぎていて、額に直でこんもりと雪を盛られたジョンがうなされていた。


 酒場は、目立たない看板がひっそりとその場所を示していた。もっとも、あたりが暗くなった今はほとんど看板の役目を果たせていない。

 ――ジョンの看病は結局、隣人の青年に任せることになった。彼は、根が暗く人形にだけ愛情を注ぐが、俺にとっては貴重な隣人だ。ナルシスの麗しい容姿を湛えるひとりでもあるし、俺の描く絵も気に入ってくれている。彼は耽美趣味であるはずだが、看病の報酬として俺の描いた大きなカボチャのデッサンを一枚欲しがった。これでジョンとナルシスのことは心配ないだろう。

 階段を下っていると、中の活気が聞こえてきた。相変わらず、怒鳴り声や下卑た笑い声は混じっていない。

 この酒場”ヘスティア”では喧嘩は起きないことになっている。

 能力を持つ者と持たない者を区別せず、いらぬ争いを起こすべからず。

 それが俺が生まれる前からのこの店のルールだ。

 木製のドアを開けると、酒気と喧噪に飲み込まれる。

 ヘスティアの中は顔を赤くした男たちが木製のテーブルを囲んで騒いでいた。彼らは、店の牧歌的な内装にはそぐわない、いまどきの歌を歌っている。喧しいことこの上ないが、喧嘩ではないので誰も咎められない。隅のほうの小さなテーブルでは、観葉植物に隠れて頭を寄せ合って密談をしている様子も見られた。

 俺は、カウンターで誰かと話している女将の元へ急ぐ。

 俺が近づくと女将は、大樹の枝のように繁栄している長い髪を振って、その大きな瞳でウィンクしてくる。

「じゃあ、ママ。また来るよ」

 女将と親しげに話していた男は、品の良い笑みを浮かべて、俺の横を通り過ぎていった。その洗練された容姿は黒い服に包まれていた。いつも微笑みを浮かべているような唇をしている彼は、前にも何度か見たことがある。警察官だ。

「邪魔をしてすまない」

 俺が言うと、女将は豪快に笑った。

「邪魔じゃないわよ、エリクとはたった今話が終わったところさ」

 女将は俺を見て、くりくりとした瞳を輝かせる。

「ママ。ジョンのことなんだが、仕事の途中で熱を出したらしく、夕方、うちに転がり込んできたんだ」

「あら」女将はそう言ったものの、顔には驚きの欠片もない。

 俺は自分のしていることがどれだけ虚しいことか気付いた。

「――無駄なことはやめだ。ママはどこまで知っているんだ」

 ヘスティアの女将は、この街一番の情報屋のボスでもあった。

 もともと、人望の厚い彼女の為に動くひとりの凄腕の情報屋がいた。彼は女将を慕っていて、彼女が紹介してくる仕事のない者に、快く情報屋のノウハウを叩きこんだ。そのうち、その情報屋は何かの拍子に行方をくらましたようだ。以降、女将が数の膨らんだ情報屋の弟子たちを取り仕切ることとなったらしい。酒場の女将兼、情報屋のボス。拾われ、育てられた情報屋たちは今でも女将を慕っている。情報屋の人数やその能力は知れないが、噂で「女将の目や耳はそこいらじゅうに生えている」と言わしめるほどだ。彼女の情報網はこの街全体に行き渡っているのだ。そんな情報屋を纏める女将に、一般人の俺が情報を与えるなど、茶番に近いだろう。

「そうだわね。時間を無駄にするのもね」

 女将は薄く笑う。

「パン屋の件は、何人かその依頼にあたらせたんだが、ジョンを含めてついに誰もやり遂げなかったわ。なんとも皆情けないね」

 まあ能力もないあの子にしちゃあよくやったに違いないけどね、と女将は漏らす。

「そこで少し頼みたいことがあるんだけどね……」

 急に、女将の笑みに裏があるように見えてしまい、俺は気を引き締めた。

 ジョンの迎えで多少の面識があるとはいえ、俺は彼女のことはよく分かっていない。

 情報屋といえば、学校の教師や聖職者のような法に推奨されるようなことばかりをするわけでもない。ひとりの人間の一生を操れるような情報だって持っていているはずだ。だからこそ、情報屋としての力を持っているからこそ、この酒場は”用心棒がいないのにも関わらず”これだけ平和な馬鹿騒ぎが続いているのだ。

 そもそも、俺は彼女の本名すら知らない。代わりに、俺の情報は彼女に筒抜けだ。

 女将は口を歪ませ、蠱惑的な笑みを作った。


「レオ。ジョンの代わりに、パン屋を助けてやっちゃくれないかね?」


「……どういうことだ?」

 俺が低く言うと――彼女はおかしそうに笑った。

「いやだね、あたしはあんたをとって食おうとしているわけでもなけりゃ、こっちに引きずり込もうなんてことも思っちゃいないよ」

 俺は勘違いをしていたようで、少しばつが悪くなり、咳払いをする。

「まあ、あんたみたいなしっかりした男がジョンの面倒を見てくれてるなら、安心もできようってもんだけどねえ」

「いや。それよりも、情報屋の仕事なんかを俺に頼んでいいものなのか?」

 詳しくは知らないが、情報屋でさえ出来なかった仕事をただの画家に頼むというのも、おかしな話だ。

「もちろん、あたしらはこの件から手をひくよ。だから君が人助けをするだけなんだ」

 女将は小指だけをぴん、と立てて俺を指している。

「もちろん、いいんだよ。あたしのお願いくらい断っても。でもね、最近、ジョンは仕事の合間に友人にプレゼントする情報を集めるのに忙しくって、体調を崩したみたいだわね。もともと、無理はしない子だったんだけどねえ」

 俺は頬が引きつる思いがした。シュタイナー邸の一件のことだ。

「それに、焦ったジョンは豪邸の息子さんの名前を探すのに、あたしらの仲間に連絡をとったわね」

 素人の俺にでも、それはまずいことだと分かった。空いた時間に私用で調べることは問題ないが、仕事仲間から情報を得るのは、公私混同だ。

「わかった。俺はパン屋の主人をできるだけ助けよう。やれるだけのことはするが、万事解決する約束はできないぞ」

「もちろん、いいさ。あたしらみたいな情報屋じゃないからこそ、君は上手くやると信じているわよ」

 まったく、面倒なことになった。俺は明日、またカフェの仕事を休む連絡を入れなければならない。

「そんな憂鬱な顔をしないでよ。これは、君の同居人にもいいニュースになるはずだよ」

「ナルシスの?」

「そう。クローディア・ブラナーの作品に関わる案件さ」

 やっぱり。

 女将は俺に断って少し奥へ引っ込んだかと思うと、ドーナツを包んで渡してくれた。すっかり冷めてはいるものの、常連客にしか出さない女将特製のドーナツらしい。

「最後に一つ、教えてくれ。どうしてそこまでして、パン屋のことを気に掛けるんだ?」

 女将はいたずらっぽく言う。


「さあねえ、恋する女の子をほっとけないからかね?」


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