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オルコットの解けない雪  作者: いも
三本の木の絵(1945.油彩、画布 Claudia・Branagh)
11/17

5.いとしのツリー

 ジョンの連絡は昼過ぎにきた。

 俺が追加で頼んでおいたこともしっかりと調べてあり、要点をかいつまんで電話で伝えてくれた。この男の根は点でだめだが、仕事の早さには感嘆を覚える。

 ジョンの調べたことは、だいたいが俺の予想通りだった。

 眠そうな声に酒と肴を奢る約束をして、すぐにシュタイナー邸に電話する。

 クリスが出て、シュタイナー氏への取り次ぎを申し出たが、それは有難くお断りした。

 用件はこうだ。”取り次ぎを待っていられるほど悠長な時間がない、主に伝えてくれ。三本の木の絵について、至急描き加えなければならないものがある。今はとにかく説明する暇がない。迎えが欲しい”こう言えば、妻のことを何より心配しているあの老人は、一も二もなしに御者を奔らせるだろう。

 電話を切り、シュタイナー邸とこのアパートの中間にある駅まで向かう準備をする。そこでクリスと落ち合うことになっている。コートに袖を通し、木製の絵の具箱を掴む。それから、

「ナルシス」

 呼ぶと、すっかり様になっているワイン・レッドのコートを着込んだナルシスが寝室から現れた。どうにも浮かない顔をしている。

「ちゃんと用意してたのか」

「そりゃ、してたよ。ユリに会いに行くんだから」

「ナルシス」

「なに」

「不安か」

「そりゃ」ナルシスは唇を尖らせる。「そうだよ」そして、床を見ながら「ユリはまた泣くかな」と呟いた。

「今度は、きっと悲しくて泣くだろう」

 俺の言葉に、ナルシスの肩が揺れる。

「でも後できっと良かったと思うことになる……と思う」

「なんか、頼りないな」ナルシスは不満そうだ。

「絵の前までは、俺たちは嘘をついていなくてはならない。お前はいつもの尊大な態度でいてくれ」

「わかってる。これが外れていたら、股間を蹴り飛ばすからな」

 バラ色の唇はそら恐ろしいことを忠告してくる。

「だが、これは昨日2人で話し合った案だ」

「途中まではな。僕はそれに乗ってやるって言ったのさ。僕は人間の気持ちなんて分からないからさ。レオがいいって思うなら、そうなんだろ」


 御者の送迎で、屋敷に着くと、俺とナルシスはエントランス・ホールに残された。クリスは書斎にいるシュタイナー氏を呼びに行くという。どうやら氏は予定を取りやめにしてまで面会に応じてくれたようだった。

 ここまで来たら、いよいよ迷っている暇はなかった。夫人やシュタイナー氏、クリス、この屋敷の全員から恨まれるかもしれないが、ひとつの命が助かるのだと思えば、それでもいい。

 ――お前は、何も与えることなんてできんさ。

 不意に、髭面の男の声が頭の中に響く。うるさい。黙ってろ。

 2階の廊下に向かおうとする矢先――

「うわぁ!」

 階段横の扉から、コック姿の男が飛び出してきた。ばかりでなく、男の抱えた紙袋からひらひらしたものが俺の胸に飛び出してきた。受け止めると、それは女物のワンピースだった。

「わわ、すみません。ああ、レオ様とナルシス様。今日の急なお客様ってレオ様たちの事だったんですね」

「やあ、ノエル」

 ナルシスが俺の陰から親しそうに手を振る。

「ぶつかってすまない。少し急いでいて」

 俺はとりあえず飛び込んできた布の塊を渡すと、コックのノエルは沸騰したケトルのように紅顔した。その後はまた、紐で吊るされた操り人形が暴れるが如く慌てふためいた。

「ああ、いや、これは違うんですよ。このワンピースはですね、春の色をしているでしょう。とても綺麗だなあって思って、ぜひ彼女に贈ろうと」

「彼女?」

「僕の恋人の、クリスです」

 ノエルは照れくさそうにはにかんだ。


 厳しい顔をしたシュタイナー氏は、絵の前で腕を組んで立っている。その横には、相変わらずモーニング・コートを着たクリスが静かに控えている。俺とナルシスは、彼らと絵の両端に位置して向き合っていた。

 シュタイナー氏はナルシスが来ているのを認めると、さらに険しい顔をした気がした。

「ナルシス君はなぜ来たのかね。妻は留守だぞ」

 もしかしなくても、先日ナルシスの不用意な一言でユリ夫人を泣かせたことを、シュタイナー氏は知っているのかもしれない。

「ユリ夫人が留守なら、都合がいいです。ナルシスも今日は、この絵を見に来ただけです」

 ナルシスは余計なことを言わないと自身で言ったので、何か言いたそうなものの、大人しく口を噤んでいる。

 シュタイナー氏は、それならいいが、と落ち着きなく顎を触る。

「それで、描き加えなければならないものとはなんだね。急いでいるなら、描きながら話してもいい」

「その話ですが、本当はこの絵に描き加えるものはもうありません」

「なに?」

 シュタイナー氏は眉を大きく動かした。この若造が自分に対して嘘を吐くことは、夢にも思わなかったという顔だ。

「しかし、俺とナルシスは、絵の中の農夫が夫人の木を切った原因を知らせにきました」

「なるほど。私に嘘を吐いてまで、この場所で言わなければならないことかね」

 シュタイナー氏の深い眼窩から、ねめつけるような視線が刺さる。

「はい。これを知れば、あなたも夫人も二度とこの絵に悩まされることはありません。重要で、長い話です」

「そうか。ならば、どう処分するかは、その話が終わってから決めよう。話したまえ」

 俺は頷く。

「おそらく、クリスさん――彼女の男装は、9年前から始まっているのでしょう」

 と俺は始める。

 一瞬シュタイナー氏が眉をひそめたが、俺の出方を待つように何も言わなかった。それを見届け、俺は話を続ける。

「彼女は男装をすることであなたのご子息の代わりになろうとした。ユリ夫人が彼女の名前を呼んで安心するのも、息子と名前が同じだからだ」

 彼女の男装は、夫人の為にシュタイナー氏が差し向けたのか、クリスが女主人のことを思ってそうしたのかは分からない。

「しかしそれは――亡き息子の椅子に取って代わるのは、クリスさんの本意ではなかったはずです」

 写真立てにあった彼女の硬い表情。おそらく、彼女は写真が嫌いなのではない。

 クリスは静かに俺のたどたどしい語りを聞いていた。どこの馬の骨とも分からない男に己の心を暴かれているのにもかかわらず、彼女の静かな表情は何を考えているのかは読み取れなかった。

「そのモーニング・コートは確かに私がやったものだ」

 シュタイナー氏は少し苛立っているようだった。

「だが、そんなことはどうでもいいだろう。この絵のことはどうした」

「今から話します」

 回りくどい事を言っている暇もなかった。


「あなたの息子さんは、まだ生きている」


 シュタイナー氏はよろめいたり、慌てたりすることはなかった。黙って、銅像のようにしっかりと地を踏みしめていた。それは横に控えたクリスも同じだった。

 ナルシスが、心配そうな顔を向けてくる。

「あなたは嘘をつきましたね。夫人が記憶を失くしたと言うのは本当だ。確かに夫人は9年前、息子を手放したショックで記憶を失くした。だが、亡くなったのではありません。息子さんはこの屋敷を出ていった。自分の家業を継がせるつもりだったあなたが、息子に何を思ったかはわかりません――が、ともかく、あなたは夫人に”息子は死んだ”という嘘を吐いた。そして、身寄りのないクリスだけを主な使用人として残し、この屋敷の中に嘘で満たし――それを真実にしようとした」

 大人数で夫人に嘘をつくことは難しい。家計が傾いているのでなければ、この広い屋敷で、クリス一人にほとんどを任せて雇う利点はない。

「画家というのは面白い発想を持つんだな。……根拠はそれだけか。9年前から続いているクリスの男装。それだけで、君は私を嘘吐きと言っているのかね」

 シュタイナー氏の声は、夜中に唸る風のようだった。

「レオ君、きみはこの屋敷のコックに会ったかね? あれも私の雇った使用人のひとりだ。そして、あのノエルというおしゃべり男が嘘をつけないのは、この屋敷の者なら全員知っていることだ」

 ――隙がない。

 確かに、このじめじめとした屋敷の中で、ノエルのあのあっけらかんとした表情は、凄腕のポーカー・フェイスのようには思えなかった。さらに、ノエルにはクリスのような動機はおそらくない。

 昨日、彼女は夫人の部屋で「奥様に拾われた」と言っていた。そして、ジョンが言うには、彼女は孤児院育ちだ。

 その恩もあって、これまでシュタイナー氏の意趣をくみ取ろうと努力したのかもしない。

 しかし、ノエルがこの家の重大な秘密を背負う一員であるとは、どうにも説明が付きがたい。

 俺が言いあぐねていると、凛とした声が廊下に響いた。

「――ノエルは、私の為にこの屋敷に来てくれたのです」

 クリスだった。

「掃除も旦那様のスケジュールも奥様のお世話もなんとか私だけでできます。しかし、料理というものはしたことがなかったのです。だから市場で知り合ったノエルに声をかけました。優しい彼は、私が何も聞かないでほしいと言ったので、私の男装の理由も、この屋敷の秘密についても、なにひとつ知らないのです」彼女のまっすぐな瞳が揺らいだ。「嘘吐きの使用人は私だけです」

 シュタイナー氏は、クリスを静かに睨みつけた。

 クリスはそこで初めて感情を露わにし、その長身を縮ませ、怯えていた。

「もういい、この話は書斎で聞こう」

 シュタイナー氏はぼそぼそと言った。

「いえ、俺はシュタイナーさんの嘘を暴きに来たわけではないんです。この話の最後にはこの絵の前に立ってなくてはいけない」

 シュタイナー氏は俺の言葉を無視し、背を向けて歩き始めた。

「あなたに息子さんの存在を認めてもらわなければ、本題に入れないのです」

「レオ、早く言ったほうがいい」とナルシスが急かしてくる。

「息子さんは9年前にこの家と絶縁し、今はヨーク市でチェロを弾いて暮らしていますね」

 シュタイナー氏は弾かれたように振り返った。物凄い剣幕だった。

「やめろ!」

「では認めてください」

「それはできん」

「では続けます。ここにいる彼女の本名はクリスティーナだ。そして、」

 シュタイナー氏が何事か喚いた。


「あなたの息子さんの名前は、クリストファだ」


 その場は静寂となった。


 ぎい、と木の軋む音が聞こえた。

 向かって左側の扉から――夫人が現れた。

 皆が狼狽して、寝間着姿の彼女を見た。

 夫人は留守ではなかったのか、とシュタイナー氏を詰りたかった。

 夫人に直にこの話を聞かせるつもりはなかったのだ。

 実際には、そんな暇はなく、亡霊のようにやってきた夫人を凝視するほかなかった。

 夫人は真っ青で、わなわなと唇を震わせていた。

「あぁ、ユリ」

 シュタイナー氏が喘ぐ。

「すまない、お前の為と思ったんだ」

 夫人はもはやその言葉は聞こえていないようだった。


「クリストファ!」


 絶叫した。

 小さな夫人の体から発せられたとは思えない、つんざくような叫びだった。

 鳥肌が立った。

 我が子を隠された豊穣の女神が、その悲しみと怒りで大地を荒廃させたような、鬼気迫ったようなものを感じる。

 そのまま己の亭主を呪うかと思えたが――夫人の黒い瞳には涙が湧き出て、彼女は崩れ落ちた。

 クリスが駆けより、夫人の身を支える。

「クリストファ、ようやく思い出した。わたくしの子。今までわたくしは何てことをしていたのでしょう」

 はらはらと涙を零す夫人を、眉を下げたナルシスと、もっと情けない顔をしたシュタイナー氏が見つめていた。

 だが、本題はここではなかった。続けなければならない。

 俺はすっかり覇気を失くした老人に問いかける。

「シュタイナーさん。息子さんはまだ生きていますね」

 老人は、ああ、ともうう、ともつかない声をあげる。

 この老人にとっては妻がすべてなのだろう。その妻から恨まれ、憎まれると悟ったなら、彼にとっては魂を抜かれて煉獄へ行くような苦しみなのかもしれない。

「しっかりしてください。息子さんの命に関わることです」

 その言葉にぱっと顔を上げたのはユリ夫人だった。

「クリストファが、どうかしたのですか」

「彼は危険な状態にあると思います」

「ああ、昔から、私に似て病弱な子でしたわ。何が、あの子に何が起こっているんですの」

「この絵を見てください」と、クローディアの描いた絵を指す。いつのまにか、農夫が座り込んで木を眺めている。やはり、この好々爺はこちらの声などまるで聞こえておらず、のんびりとしたものだった。「1か月前、夫人は病気で倒れました。農夫が夫人の木を切りはじめたのも同時期です」

 夫人はもどかしそうに頷く。

「しかし、夫人の体調が悪くなるのは農夫のせいではなかった。この農夫は1か月前に急に枝を切りはじめたのではなく、むしろ今まで通りに過ごしていただけにすぎないんです。この木は、病気になった夫人のていをそのまま己の体に映した。夫人の木は、夫人が病気になることにより、自身も樹木の病気に罹ったんです。それをみた農夫は、死んだ枝や病気に罹った枝を見極め、切り落としていた。彼は、”剪定”をしていただけなんです」

 早口で、舌がもつれそうになる。

「この方はわたくしの木を助けてくださったのですか」

 俺は答えなかった。実際のところはそれは誰にも解らなかった。剪定の知識があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。農夫は何も語らない。

「そして、この真ん中の木を見てください」

 皆が油絵の画面の中央を見た。

「この木は枯れたように白っぽくなっている」

 意味に気付いた夫人が小さく悲鳴をあげた。

「もともと元気な木ではなかったのです」とクリスが言う。「クリストファ様が屋敷を飛び出された後はいよいよ葉もつけず、最近、いっそう白くなったように思います」

「右が父親、左が母親の木なら、これは子供の木です。――クリストファさんの木」

「息子は死んだのですか!」夫人が再び布の引き裂いたような声をあげる。

 俺は首を横に振った。

「おそらく、息子さんは危機的な状況にあります。でも亡くなってはいないはずです。この木は渇いて白くなってはいますが、まだ立っています。そして、農夫は心配そうにこれを見つめている。彼がこの木を処分していないことも、まだこの木が生きていることの説明になると思います」

 このことに気付いたのは、ナルシスだった。昨日、彼はジョンが帰った後、やはり真ん中の木は生きていて、農夫が心配しているのではないかと言った。

「俺とナルシスは、クリストファさんに危機が迫っているかもしれないことを伝えたくて来ました。これがただの空想だったなら、後でいくらでも謝ります」

 クリスは黙って夫人の細い肩を抱いていた。夫人は今やこの風の吹かない廊下で震えている。

「申し訳ないですが、いろいろ調べさせていただきました。でも、一つだけ、息子さんの詳しい住所が分からないんです」

 使用人・クリスティーナの本名はそれほど時間はかからなかった。ただ、クリストファ・シュタイナーについてはそのファースト・ネームでさえ、調べるのは容易ではなかったらしい。シュタイナー氏の手はあちらこちらに回っており、9年前の使用人たちは口を閉ざすので、乳母の口からようやくポロリと零れたのを拾ってきたのだとジョンは語っていた。

「ヨーク市はこのオルコットの街よりも広くて人口が多い。俺たちでは探せません。でも、シュタイナー氏なら、何か知っているのではないですか」

「あなた」

 ユリ夫人は震えるのを止めて、立ち上がり、何かにうなされたような亭主の肩を掴む。

「クリストファの住所ですわ」

「だが……」シュタイナー氏は口ごもる。

 そこへ乾いた短い音が廊下に響く。

 ――ユリ夫人がシュタイナー氏の頬をはったのだった。

 夫人の瞳には再び涙が溜まっていたが、零れ落とすまいと歯を食いしばっているようだった。

「いい加減にして。クリストファはわたくしたちの息子ですわ。それが死にかけているかもしれないんですのよ!」

 シュタイナー氏はたじろいだ。

「クリストファの名前をつけたのは誰!?」

「……僕だ」

 ブルーノ・シュタイナーのか細い声が漏れた。





 後日、夫人から直接クリストファのことについて連絡がきた。


 ブルーノ・シュタイナーは、最近届いたクリストファからの手紙を書斎に保管していた。それを頼りに、クリストファの住所にたどり着けたようだった。狭いアパートに一人暮らしの彼は、風邪がひどく寝込んでおり、肺炎になっていたらしかった。

 彼は家業を継ぐのを拒否し、チェロ奏者になるために大都市ヨークにひとり飛び出したのだという。それまで使用人たちに囲まれて暮らした病弱な青年が、見知らぬ土地で9年も自力で生活したというのも、驚きを隠せない。

 幸い、クリストファの命に別状はなかった。入院は免れなかったが、春にはヨーク市で開かれるコンサートのチェロ奏者として舞台にあがる予定だという。

「ユリの字って綺麗だな」

 ナルシスは今朝がた届いた、ヨーク市の消印のついた淡いピンクの便箋を見ながら言う。

「僕にはところどころ読めないが、ジョンの字とはぜんぜん違う」

 シュタイナー邸に乗り込んだときの不安げな顔は嘘だったように、その表情は涼やかだ。

 それも、ユリ夫人がしたためた手紙には、ナルシスと俺への感謝の言葉でほとんどが埋め尽くされていたからだった。事が落ち着いたらまた直接会って礼をしたいとも書かれていた。

「ユリ、ブルーノのおっさんとはうまくいってるのかな」

「どうだろうな」

 何しろ9年も息子の生死を偽ったのだし、夫人の怒りは簡単に収まるものとは思えなかった。手紙にも、9年前の己の精神が脆く、夫に心配をかけたのは申し訳ないと思うが、笑顔で彼を許すつもりはない旨がしっかりと書かれている。

「読む限りは、今すぐにとはいかなさそうだな」

「ふうん。ねえレオ、今度僕にもこの筆記体っていうのを教えてくれよ」

「そうだな。暇な夜にでも」

 俺は、とりあえず未だヨーク市に留まっている夫妻に返事を書こうと、樫の引出しをでたらめに開ける。使いかけの絵の具や、何等かの古い書類が次々と顔を出す。

「ペンがない」

「こっちにあるよ、ほら」

 振り向くと、アーチ橋のラインを描いて短い棒が飛んできた。両手で挟んで受け止める。

「それ、ソファの間に挟まってたよ」

 デッサン用の鉛筆だった。粉の出にくいHB鉛筆。青い等身に白いラインが入っている。そして、

 銀色の”シュタイナー”のロゴ。

「……どうりで聞いたことがあると思った」

 俺がひとりで納得していると、ナルシスは不思議そうに首を傾げる。



 そのさらに数日後、俺とナルシスはカフェの仕事中に、ある男女のカップルの客を見かけることになる。

 男のほうは、ラフな格好をして、相棒の顔を覗いてはせわしく喋りかけ、揚々と笑っている。

 女のほうは、背が高く、艶のあるブロンドの髪を几帳面すぎるくらい綺麗なポニーテールにしている。

 そして――まだ寒いというのにコートの下に、少し薄手の、春の色をしたワンピースを、ひらひらと揺らしながら歩いてくる。

 彼女は唇の端をくいっとあげて、凛々しく笑っていた。


 春の女神の微笑みだった。

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