1.全裸が外にいる
青の絵の具のチューブがきれた。
アルタイル社のウルトラマリンと書かれたアルミチューブが、最後の絵の具を出し切って、パレットの上に真っ平になって干からびている。おれはその絵の具の死骸を茫然と見つめた。
ひとしきりそれが終わると、俺は仕上げにとりかかった裸婦の絵のほうを向いた。リラックスした姿勢で、豊満な体を晒す女。彼女の下には、青い布が海のように広がり、複雑なしわを描いている。ただ、それはまだ荒っぽく、度の合わない眼鏡で見たような、未完成の部分だ。
俺は、なぜ昨日画材屋に買いに行かなかったのだろうと悔やんだ。裸婦の部分を朝からものすごい勢いで描いたはいいが、次に手をつけようと思った青い布を描き始めると、絵の具が足りないことに今、気付いた。この絵の期日はまだ先だが、俺には絵を描くときの波というものがあり、それを逃すとしばらくは鉛筆以外の筆を握る気になれない。絵を描く衝動ともいうべき波は、今日の朝食後に発生し、飲まず食わずで夕方まで描き続けたが、絵の具がないという事態に、もうその衝動は勢いを殺しつつあった。
窓の外は大雪だった。昨日の晩から、このボロアパートの窓を割らんばかりの風が雪を叩きつけている。この街で、雪は珍しいことではないが、普段は比較的穏やかな風が吹くので、強風の備えのない店の看板が飛んでいくのを見た。こんな日に青い絵の具を一本だけ買いに行く為に外出すると思うと、余計気が萎えてゆく。だからといって、ウルトラマリンより気に入る色は見つからなかった。やはりこの布はウルトラマリンがいい。
俺は前掛けを外し、ダッフルコートを掴むと玄関のドアを開けた。そのまま階段を下りて、ベルじいさんの画材屋へ走っていくつもりだったが、俺はドアを開けたまま硬直することとなった。
目の前には、全裸の男がいた。
その姿は今まで見たどんなモデルよりも美しかった。描くに値する、しない、という理屈ぬきで、美しい体だと思えた。若者らしいシャープな体の輪郭をしているが、同時に気品を感じさせる柔らかさも残っている。蜜を塗られた木の幹のような色をした、深い茶色の髪がほつれて肌に貼りついていた。雪のように白い肌をしているので、一見すると石膏のように見えるが、彼は確かに情けなくぶるぶると震えて、鳥肌を立てている。恋人にでも追い出されたのだろうか。しかし隣に住んでいるのは人形趣味の暗い青年だ。でなければ趣味だ。自分の美しい体を見せに外へ出たが、大雪のせいで歩く人がおらず、個別訪問に切り替えたのだ。
彼の、ウルトラマリンに似た青い瞳と何秒か見つめあう。そして目を覚ますように、はっとした。そうだ、おれはその色が欲しいのだ。しかし、と思う。ベルじいさんの画材屋の閉店時間は午後8時だ。玄関先の全裸の男を押しのけてまで急いで買いに行くほど急を要してはいないだろう。友人からもらったハーブティーがまだあったことを思い出す。
いい天気ですね、といって扉をゆっくり閉めようとする矢先、
「ここはとても寒い。入れてくれ」
全裸が喋った。