姫君、人間界へ逃げる
楽しいドタバタが書けたらいいなぁと思います。
昔々あるところに天界と人間世界と魔界と3つの世界がありました。
魔界には魔界の住人がいましたが、そのなかで吸血鬼の一族は魔界を統括する派閥として君臨していました。
その吸血鬼の中で一人異色の吸血姫がいました。
彼女は吸血鬼の真祖の一族の姫でありながら、吸血行為をしようとはしませんでした。ただし、自分も何かを奪わねばいきていけないので庭にある小さな植物から生気を吸って生きていました。利己的で快楽主義の吸血鬼たちとは一線をひき、争いを好まずおだやかな心優しい娘でした。
姫には親が決めた立派な許婚がいました。魔界を統括する十三貴族につらなり、凛々しく知性と武勇にすぐれ、魔導をおさめた立派な青年でした。周りのとりまきはこぞってこの青年に憧憬と賞賛の声をあげ、その吸血姫には勿体無いとこきおろすのでした。
実は姫はこの若者が苦手でした。初めてあったときは彼の麗しさに驚いたものの、気がつくとじーっと熱っぽく見つめてくるし、いつもふらっと突然やってきては嫌がる姫の肩口に強引に唇をはわせ、彼女の血をすっていくのでした。その行為はたびたび続き、彼女は年を重ねるごとに悩みました。
あるとき姫は思いました。
自分は血を見るのも嫌いだしきっと神様がとりちがえて両親のもとへやったのであって自分は吸血鬼では
ないのだろう。きっと私は人間だったに違いない。このままここにいてもいつも強引に自分の血をすする若者の妻になるなんてぞっとする。婚約の日は日を追うごとに近づいてきているのだから今のうちにここから逃げ出そう。
そう考えた姫は両親にも何も言わず魔界を飛び出し人間界へと赴きました。
最初は右も左もわからず右往左往していましたが、一人でどこへ行こうか困って立ち往生していると気のいいおかみさんが声をかけてきました。良かったら住み込みで自分の家が花屋をやっているのだが売り子になってくれないか?と。彼女はいつも感謝しながら自分の糧となってくれる美しい花が好きだったので喜んで彼女についていきました。こうして彼女は人間のなかにまぎれこむことに成功しました。
店も最初は慣れないことばかりだったものの、彼女の純粋無垢で心優しく、人を惹きつける美しさが評判でたちまち繁盛していきました。こうして彼女は人の世の生活に序々に慣れていきました。
そんなある日の事。
おかみさんの頼みでなんとか配達を終えた彼女は家路へと急いでいた。
いくら元闇の住人である吸血姫だったからといっても夜の闇は引きずり込まれそうで怖いのは怖い。
恐怖心に後押しされて自然と早歩きになる彼女の手首を路地裏の闇から突き出た手が強引につかんだ。
「っ!!」
あまりの突然のことに恐怖と驚きで硬直していると闇の中から見覚えのある男がでてきた。
その顔は暗がりであんまり覚えていないが、昼日中熱心に彼女を口説いていた男だったように思う。
人とあまり接したことがなく、あまりに鈍感な彼女はそんな彼の好意に気づかなかったが。
それがなんで、と思う間に好色な下卑た笑いと酒臭さがただよってきた。
とっさに悲鳴をあげようとするも口をふさがれ男がのしかかってきた。どんどん近づいてくる顔に恐怖で
何も言えず、もう駄目だと怖くてされるがままになっていると、いきなり衝撃音が響いた。
男がつぶれたガマ蛙みたいな声をあげたかと思うと一気にはるか後方へふっとんでいった。
見上げると空に浮かぶは美しい満月。
それを背にして神の彫刻のごとき美丈夫がたたずんでいた。
紫水晶の双眸を煌々と光らせて。
青年は上等なローブをまとっているものの、その麗しさは微塵も隠れることなく、黒髪はつややかな夜の闇をきりとったかのよう、そして意思の強そうな瞳は濡れたアメジストのように紫電の瞳がひたと彼女を見据えていた。
姫はその苛烈すぎる視線を受けて彼がここにいるという事実に戦慄した。
それは見まごうことなき自分の許婚だった。青年は静かに彼女に怒りを向けていた。それは明らかに黙って家をでたリュシエラに対して針をさすかのような刺々しい憤りだった。彼はおもむろに口をあけると艶を含んだ美声が姫をとがめるようにこぼれた。
「一体どういうつもりだ?リュシエラ。もう婚約も間近にせまっているというのに家を出奔するとは。ご両親も心配しているぞ」
「イ・・・イリューザー!!」
恐れおののきながら彼の名を口にすると、青年は厳しい目つきで睨み付けてきた。
あまりのこめられた殺気にリュシエラは蛇ににらまれた蛙の気分を味わいながらも、震える唇で抗議した。
「ど、どうしたもありません!婚約がイヤだったから家を出たんです!私は最初から吸血鬼なんかじゃないの!だから人間の世界にまぎれて普通に平和に暮らすんです!」
と彼女は必死に訴えた。
それを聞くと青年は数回まばたいてから目を伏せ、大げさにため息をつくと、呆れたようにつぶやいた。
「また子供のような駄々を。お前が吸血姫じゃないだと?吸血鬼の始祖につらなる真祖の名家に生まれたお前が何を言う」
「だってそうですもの!私は他の人たちみたいに人間に吸血して隷属にしたり、血がほしいなんて思ったことないもの!血なんて見るのもイヤだわ!」
と彼女は涙目で訴えた。
その言葉を聴いたイリューザーは姫をギロリとにらみつけると
「婚約がイヤだと言ったな?まさかお前、相手が俺なのが不服なのか?」
彼は低い声でうなるように問いかけた。
それは今にも姫を殺すような殺気をはなっていた。その気配にたじろぎながら負けない、と心で叱咤しつつ今まで心につかえたものを吐き出すようにリュシエラは本音を吐露した。
「うッ・・・。そ、そうです!いつも私を組み伏せて無理やり血を吸っていく貴方なんか嫌いよ!」
「あれは・・・・お前、意味がわからないのか?」
「意味?意味って何があるの?私にとっては屈辱以外の何物でもないわ!」
「それは悪かったな。その意味はあとで追々教えてやる。それはいいからさっさと帰るぞ。お前、吸血姫なのに人間に襲われそうになっていただろう?一族のものが知ったら笑い話しかならんぞ」
そして手をつかんで連れて行こうとするがリュシエラはその手を勢い良くふりほどいた。
「だからイヤだって言ってるんです!お父様にもお母様にも私は死んだって伝えてください!」
「バカなことを。俺とお前は家が決めた許婚でもうすぐ婚約するんだぞ?今更なかったことにされるなんて冗談じゃない」
有無を言わさぬ眼力でにらみつけてくる青年の迫力にリュシエラは口ごもった。
「と、とにかく私は人間として暮らすんです!邪魔しないで!」
ここで負けちゃいけないと精一杯涙を目にためて訴えるリュシエラ。
お互い黙ったままにらみ合っていると青年が根負けしたようにはーっとため息をついた。
「わかった。お前の好きにするといい。ただし、俺もここに住むぞ」
いきなり許嫁の爆弾発言に、リュシエラにとっては青天の霹靂だった。
「えーっ!!?イリューザー!!貴方公爵を名乗る生粋の貴族でしょ?本気でこんなとこに住むの?」
「別にお前がいるなら場所はどこでもかまわん」
彼はさも当然といった感じで憮然とした態度で答えた。
「仕事は?どうするの?」
「魔術で空間をつなげて必要な分だけ送ってもらうさ。どうせ事務処理だけだし、たいしたことはない」
「そ、そうなの。え、えーとやっぱり帰ってくださらない?」
「お前を連れ帰ると義父さんと義母さんに約束している。お前が帰るまで俺が帰るわけないだろう」
「私は帰らないわ!いいからさっさと帰ってください!」
「ふん、そういうのも今のうちだ。いずれ現実を見て帰りたくなる。いいからさっさとお前の部屋へ案内しろ」
あきらかに帰ることを前提としてイリューザーは有無を言わさずリュシエラに今定宿にしている住まいへ案内するよううながした。
ちっとも折れない許婚にむかってうーっとうなっているとふと、複数の視線を感じた。周りを見るとここから少し離れた場所で取り囲むように女子がたむろしている。そして、その視線は明らかに隣の美麗な男性にほとんど熱のこもった視線で注がれていた。ひそひそと話し声がこちらまで聞こえてくる。
「みて、あの人すごくカッコよくない?」
「ほんとだよねー。なんであんな地味な子と一緒にいるのかしら、彼女なの?」
「やだ、釣り合わないよー。もしそうだったらムカつくー」
と好き勝手に話している。
しまった、とリュシエラは思った。イリューザーといるといつもこうだ。
本人は全く気にしてないのだがその眉目秀麗さからすぐに目立って女子の視線を独り占めしてしまう。
しかもイリューザーはそれを全く無視するものの、こっちは隣にいるだけで女子からの嫉妬と憎しみの集中砲火をあびてしまうのである。
居心地の悪さを感じながら、リュシエラが戸惑って動けないでいると
「何してる。さっさと行くぞ」
無造作にリュシエラの手をつかんできた。思ったより大きい手で立派な男の人なんだな、と再確認するも
その途端、きゃーっと非難の声があがる。うう、違うんです、この人が勝手にひっぱるんです、となかばひきずられながら泣く泣くリュシエラはその場をあとにした。
ようやくアパートメントにもどると玄関先で大家さんが外の通りを掃除していた。
この1階が花屋でその同じ敷地の奥の家の別邸に大家さんは住んでいる。リュシエラは部屋が空いているからというこの花屋の2階を借りていた。その前に蜂蜜色の髪をまとめた品のいいマダムがたっていた。
おかみさんはリュシエラに気づくとつかみかかるかの勢いで近寄ってきた。
「もう、リュシエラ、心配したのよ!あなた配達にでかけてこんなに夜遅くになるから、うら若い娘に
一人歩きさせてるなんて心配で心配で―――。でも良かったわぁ。無事に帰ってきて」
リュシエラをみて心配が募ったのか泣きそうな顔をするおかみさんにリュシエラは心底すまないと思った。
しかし後ろの来訪者の姿をみて怪訝な表情をする。
「あら、コチラの方は?リュシエラの知り合い?」
「え、えっとおかみさん、この人は――――」
何て言おう―――そう逡巡する間にイリューザーの方を見るとありえない光景を眼にした。
青年は恭しく礼をとると明らかに女性を虜にさせるような爽やかな笑みを浮かべると
「初めまして。マダム。『私の』リュシエラがお世話になっております。私はリュシエラの婚約者のイリューザーと申します。どうか以後お見知りおきを」
と後光がさすほどの紳士かつ善人っぷりである。
先ほどの自分との態度に比べてこの豹変ぶりにリュシエラは唖然としてぐうのねもでない。
しかも婚約なんかまだしてないし!それがイヤででてきたんだし!それにいつから貴方のものになったの!?と心の中で愚痴っているとイリューザーが横目で冷ややかな視線を投げかけてきた。どうやら余計なことは言うなということらしい。
そんな二人のやりとりなど知らずにおかみさんはイリューザーの微笑にやられたのか顔に手をあてるとみるみる赤面していった。
「あらあら。あらあら。リュシエラったらこんないい人がいつの間にいたの?水臭いわ。話しておいてちょうだいな」
「おかみさん、違うんです。この人がいきなり―――」
このまま誤解されちゃいけないと思い、リュシエラが反論しようとするもいきなりぐっと腰に抱き寄せるような形でイリューザーが手をのばしてきた。思いがけない反撃でされるがままになっているが、明らかに恋人を抱き寄せるような優しいものじゃなく、何気にギリギリとしめつけてくるので圧迫してるわき腹とお腹が苦しい。
「突然たずねて申し話ない。私のリュシエラが急に家をでていってしまったので心配で心配でこうしてやってきたという次第です。それで、今日は日も遅いのでリュシエラの部屋に泊まろうかと」
「そうはいっても・・・・いくら婚約者同士だからって未婚の男女を二人きりにするのはちょっと・・・」
とおかみさんが難色を示すとリュシエラは心の中でその意気です!それでこの男を追い出してください!と俄然必死でお願いするも
「大丈夫ですよ。いくら婚約者だからといってまだ結婚もしていないのですから、その日が来るまで
間違いをおこすつもりも神に誓ってありません。私はリュシエラを大切に思っていますし。
ただリュシエラとつもる話もあるし、もうこれ以上離れるのは心配なので今はそばを離れたくないだけなのです。どうか信じてください」
イリューザーが胸に手をあてて真摯なまなざしで見つめると、おかみさんは安心したように頷いた。
「わかりましたわ。長旅だったようだし、今夜はとまっていってくださいな。リュシエラ、あなたも
それでいいわね?」
「えッ!!?私はイ―――ッ」
イヤです、と言おうとするとおかみさんの死角から絶妙な位置でイリューザーが絶対零度のまなざしを向けていた。
明らかに「てめぇ、余計なこと言ったら殺す」オーラに、こうなるともう抵抗する気にもなれない。
はぁ、おかみさんに追い出してもらおうと思ったけど作戦失敗か―――と内心ため息をつくと
「わかりました。おかみさん、心配かけてごめんなさい。また明日ね」
「はい、二人でごゆっくり――」と意味深な表情で笑いながらおかみさんは二人を見送った。
部屋に戻ると今日のことが色々ありすぎてどっと疲れがでてきた。
「もう、どうして婚約者なんて言うの!?まだ許婚ってだけで婚約なんてしてないのに」
とリュシエラは先ほどから頭にきてたことをイシューザーにぶちまけた。
「いいじゃないか。いずれ最終的には結婚するんだし。それより腹がへったから飯作ってくれ」
「はぁ!?なんで私が作らなきゃいけないの!?イリューザーは勝手に好きなの食べたらいいじゃない!!」
そう反論すると彼にしてはめずらしく照れたようにそっぽ向きながら
「お前の手料理が食べたいんだよ。お義母さんからリュシエラは料理が得意だって聞いてたし」
彼なりに自分の気持ちを伝えたつもりだったが、残念ながらそういうことにはとんとうといリュシエラには全く通じていなかった。
だからってどうして私が作らなきゃいけないのかしら―――。横暴だわ!
内心ため息をつきながら、しぶしぶリュシエラはフライパンを握った。
さて問題はとっぷり暮れた夜にやってきた。
「あ、あのイリューザー?」
「どうした?」
「あのね、ベッドが一つしかないからソファで寝てくれない?」
そういってイリューザーの顔色をうかがうと怪しいくらいニッコリと笑うので、良かったー、納得してくれたと安心していると、いきなりぐわし、と大きな手で頭を握りつぶされるかの圧力でわしづかみされた。
「い、イタタタタ!」
「な・ん・で、俺がソファなんぞで寝なきゃならんのだ?第一、あんなしょぼいソファで背がスマートに
高い俺が入るわけないだろうが!」
「い、イタイ!イタイ!じゃあ床で寝ればいいじゃない!」
「もっと却下だ!」
「う~、だって私達まがりなりも男と女なのよ?寝所を別にするのは当たり前でしょー?」
開放された頭をおさえながらリュシエラが涙目で抗議した。
「別にいいじゃないか。ベッドは一つしかないんだし、お前は俺と一緒に眠ればいい」
「エーッ!?冗談じゃないわ!!そんなのできるわけないでしょ!?だったら私、床で寝る!」
「バカ言うな。女が固い床で寝たら体を痛めるし、体を冷やす」
「・・・・」
反論できずに黙っていると、おもむろに彼が舐めるような視線で見つめるとあからさまに怪しい笑みをたたえて大げさに両腕をあげて抱きしめるような動作をした。
「さ、そーいうことで一緒に寝ような、リュシエラ。さぁ、こっちにお~い~で~」
そういいながら不気味に笑いながら抱きしめようとするのでリュシエラは戦慄した。慌てて毛布で防御の姿勢をとる。
「いーやーッ!!こっちこないでー!!なんで抱こうとするのよ!」
「もちろん、お互いかた~く抱き合って寝たほうが寝心地いいだろう?」
こいつ、なぐりたい―――!!
しれっとそんなことを言う彼にリュシエラは殴りたくなる衝動をなんとかおさえた。
結局イリューザーの魔の手から逃れるべく、部屋の中を走り回った挙句――――。
「いいッ!!絶対ここの線からこっちに入ってこないでね!」
と眉をつりあげながら、必死にイリューザーに向かって注意していた。どうやらそんなに広いとも言えないベッドに二人眠ることになったらしい。
「はいはい」
「もう!入ってきたら承知しないからね!」
聞いているのかいないのか適当な返事をするイリューザーにくどいほどに念を押すと、ふとんのなかに
もぐりこんでいった。しばらくするとイリューザーの横暴に怒っていた彼女も時間がたつと小さな寝息をたてていた。それを横で確認すると彼は静かに眼を閉じた。こうして二人の夜はふけていった。
すると深夜、寝静まった中に隣で寝ている彼女をおこさないようにそろりと起き上がる影があった。
隣ではリュシエラがすやすやと寝息をたてている。それを見ると昼とはうってかわって穏やかな瞳
でリュシエラを寝顔を見つめるとくすりと笑った。
そして長く節ばった形のいい指で可愛らしい寝顔で眠る許婚の頬をそっとなでると
「おとなしくて人見知りのお前が人間界に行ったと聞いたときには、いてもたってもいられなくて。心配で気が狂うかと思ったぞ。・・・・でもまあ、それなりにうまくやれてるようじゃないか」
と優しくささやいた。
そしておもむろに彼女の流れるような長い髪をひとふさつまむと
「お休み、リュシエラ。良い夢を」
と愛しげにキスを落とした。それは彼の内なる秘めた思いをこめた夜の秘め事だった。
翌日、リュシエラが早く起きると彼は朝からもうすでにおきていて部屋の隅においてある机に書類仕事
をしながら座っていた。どうやら今集中しているらしい。朝食ができたといっても生返事なので
イリューザーの分を残しておくと、リュシエラは仕事に行かねばならいので放っておいた。
次の日、いつも通り配達に行くと小さな公園を通りかかった。すると近くから子供の泣き声が聞こえる。
あわててそちらへ行くと子供がしゃがみこんで一人で泣きじゃくっていた。
「どうしたの?」
「うッ・・・ひっく、ひっく。転んで怪我したの。血がとまらないよぉ」
見ると派手に皮膚の皮がめくれていて血が流れ出していた。血は苦手だがとても痛そうだった。
目をこすりにがら顔を真っ赤にして泣く子供をリュシエラはほっとけなかった。
彼女は少し迷ったような表情を浮かべたが、あたりに人がいないのを確かめると、強い意志でひとつうなずき、
「ちょっとまっててね。お姉ちゃんがおまじないかけてあげる。ほーら痛いの痛いのとんでけー!」
と子供の擦り傷手のひらを当てるとぽぅっと明るい光が集まっていった。それを怪我の部分にあてると
みるみる傷口がふさがれ、しまいには元の何も傷がない状態になっていた。
子供もこれには驚いてぴたっと泣くのをやめていた。そして目をキラキラさせるとリュシエラにつめよった。
「すごーい!お姉ちゃん!今の、今のどうやったの?魔法??」
「んー、君の傷が早く治りますようにってお祈りしただけだよ。あのね、このことは誰にも内緒にしてくれるかな?」
「えー、言っちゃ駄目なの?そっかー、うん。治したもらったお礼!誰にも言わないよ!」
にっこり笑って子供は素直にうなずいたのでリュシエラはほっと一息ついた。誰にも見られてないなら大丈夫だろう、そう思った。しかし、背後から絡み付くような視線を気づくことは、残念ながら彼女にはなかったのである。
やがて帰宅するとソファの縁に長い両足をのせながらイリューザーが座っていた。リュシエラが視線をそむけようとするが彼の紫の瞳はひたと彼女を見据えていて、なんだか居心地の悪い気分だった。そして唐突に質問が来る。
「リュシエラ。お前、自分の能力を人間に見せたりしてないだろうな?お前の能力は自己治癒力が高い俺たちにはたいして必要ないが人間共にとっちゃ喉から手が出るくらい欲しがる能力だからな。」
ギクッ
リュシエラは動揺する自分をなんとかなだめながら、平常心を保つので精一杯だった。
「も、もちろんよ。そんなことするわけないでしょう?」
「どうかな。お前も止せばいいのに筋金入りのお人好しだからな。人間共に泣き疲れて、ほいほい能力使いそうだしな。言っとくがお前の能力はおいそれと使うんじゃないぞ。あれはお前の生命力を変換させて分け与えているだけだ。下手をするとお前が死にかねん。人間にとっては奇跡に等しい行為だ。お前の治癒の能力は」
諭すように強い意志の瞳で話しかけてくるイリューザーに正論で何も言えないリュシエラは悔しかったので
「わかったわよ!私もう疲れたから寝るね!」
とそそくさとベッドへ向かった。このときイリューザーの忠告をちゃんときかなかった彼女はあとでひどく後悔するのだが、それはまた後日の話。
さていつもの配達が終わり、家路へ急ごうとリュシエラは石畳を急いで歩いていた。
「やぁ、リュシエラさん。お久しぶりですね」
ふいに声をかけられ、振り返ると人のいい顔をした青年がたっていた。
「フリードリヒ先生!お久しぶりです!」
リュシエラが駆け寄ると青年は嬉しそうに破顔した。フリードリヒと呼ばれた青年は絵描きの先生でよくリュシエラがいる花屋から花を買ってくれるお得意様だった。
「今日はどうされたんですか?先生」
「いやぁ、今日こそリュシエラさんに絵のモデルになっていただこうと思いましてね」
「あッ・・・そういえば・・・なかなか都合がつかなくてごめんなさい」
そういえば前から絵のモデルになってくれと頼まれていたことに、リュシエラはようやく記憶の底から
思い出した。約束を忘れていたことに申し訳なく思ってしまう。けれども先生はそんなことは気にしていないようだった。
「いえいえ、いいんですよ。けれども今日はご都合いかがでしょう?」
「今日ですか?夕方から配達が入ってるのでそれまでに戻れれば大丈夫ですけど」
「それは良かった!ではさっそく私のアトリエに行きましょう」
そういうとリュシエラは先生と連れだって先生のアトリエに向かった。
先生のアトリエは小さな木造貸アパートの1階にあった。部屋の中に案内されると数々の大きなキャンバスがかざってあった。室内にテレピン油のにおいがかすかに広がっている。絵はどれも書きかけであって、
抽象画なのか絵心がわからないリュシエラでも、作者の気迫がこめられているような絵をみると価値のあるものだとわかった。
「わぁ、ここが先生のアトリエなんですね」
「こじんまりしてるでしょう?狭い部屋でお恥ずかしいのですが」
「いいえ。私絵は描いたことないのですが、芸術家の方って独特のセンスをもってるからうらやましいですわ。ちなみにこれは何を書いてる途中ですの?」
リュシエラがキャンバスの一つを指さすと興味深げに尋ねた。
「それはお恥ずかしいですが、故郷に残してきた恋人です」
「まぁ、そうなんですか・・・・彼女の方はこちらにはいらっしゃらないんですか?」
「そうしたいのはやまやまなんですがね・・・・彼女は持病をもってましてなかなか家から出られない状態なんです。
そんな彼女に少しでも薬の代金を工面したくてね。ようやく絵を描きながら微々たるもんですがなんとか薬代を工面できるようになりました」
「先生も大変ですね。私で何かできることがあったらおっしゃってくださいね」
「ええ、貴方には是が非でも協力してもらわないと困るんですよ」
先生の声色が暗いものになったとたん、リュシエラはなぜか背中に悪寒が走った。是が非でも、というところが妙にひっかかったからだ。
「えっ!?・・・」
リュシエラが困惑すると同時に後ろから薬品の匂いのするハンカチを電光石火の素早さでかがされる。
まずい、と思う間もなくリュシエラの意識は闇の底に沈んでいった。
ぴちょん
ぴちょん
水の滴る音が暗闇に響く。
朦朧とする意識の中で、なんとか水滴のしたたる音を頼りに意識を覚醒させると、気が付けば薄暗い石造りの部屋にいた。部屋は広く四、五十人が入れるような大広間だった。
「っッ・・・・何これ!?」
自分が寝ているのは石造りの寝台の上で、妙に手が重いと思ったら両手をつりあげるようにして鎖と鉄の輪でできた手枷がはまっており、足も同じ枷がはまっていた。身動きできない状態に何事かとパニックになりそうになる。
そんな彼女に場違いなほど穏やかな声がかけられた。
「ああ、やっと目覚めたんですね」
「先生!?これは一体どういうことなんですか!!」
「どうも、こうもないですよ。善良な人間の皮をかぶった卑しい魔女め!」
昼間の優しい態度とうって変わって汚物でも見るように醜く顔をしかめ、ののしられた事実にリュシエラは信じられないでいた。
「ま、魔女っていったいどういうことですか?」
「しらばっくれるつもりか?私は見たんだぞ!公園で泣いてる子供に貴様が手をかざしたら、みるみる傷が消えていったのをな!」
しまった!!見られてたんだ―――――あれほどイリューザーに忠告されてたのに自分の浅はかさを呪いたくなった。
まだなんとか説得できるかもしれないと、リュシエラは必死に弁明を試みた。
「待ってください!!私は魔女なんかじゃ――――」
「言い訳は無用ですよ。リュシエラさん。これから儀式を始めるんですから。魔女を供物にしてその心臓と血を不死の妙薬にする儀式がね」
信じられない言葉にリュシエラは昏倒しそうになるのを必死になってこらえた。
「ぎ、儀式ってどういうことですか!?」
「ああ、私はこう見えても黒魔術を傾倒してましてね。街の地下で夜な夜な鳥や猫や鼠をさばいたりして、不老不死の妙薬を作る研究をしてるんですよ。やはり、同じことを願う人間はいるもんですね。私に賛同する信者達がどんどん増えて今じゃちょっとした新興宗教の教祖をやってるんですよ。そして貴方は長年探し続けた恰好の獲物だ・・・・今宵貴方という生贄をささげて心臓をえぐりだし、その血液をも魔術で不死の妙薬とする大事な計画のね!」
人の良かった先生の恐ろしい裏の顔を知ってしまった事実に、リュシエラは怖さと驚きで何も言えなくなってしまった。
そういえばいつの間にか先生の後ろに何百もの信者たちの眼がこちらを見つめている。どうあっても逃げられない絶望的な状況に人知れず涙がこぼれた。
「や、やめて!やめてください!私は魔女なんかじゃ――――」
「ああ、せいぜい泣き叫ぶといい。その方がなぶり殺しがいがある。せいぜい私の野望の礎となってもらいましょう!」
あきらかに獲物をなぶるようなぎらついた目でリュシエラをながめると、フリードリヒは懐から短剣を取り出した。
短剣がまさに乙女の柔肌につきたてようとした時――――――。
そのとき、闇の中で艶やかな嘲笑が響いた。
「不老不死の妙薬だと?たかがそこら辺の小動物殺したぐらいで、そんなものが簡単にできると信じてるなんて、ずいぶんおめでたい連中だな」
ざわつく信者共の中の中央。一人だけ異彩を放つオーラをもつフードを目深にかぶった男が佇立していた。
紫の両眼を爛々と光らせて。
「だ、誰だッ!!貴様はッ!!」
「人のよさそうなツラしてかよわい女さらうような下種に名乗る名はないさ。それより俺の女に唯一本ふれてみろ。
お前らに何度でも、死んだ方がマシだという地獄を味あわせてやる」
聞き覚えのある傲岸不遜な物言いに、リュシエラは全身で歓喜した。
「イ、イリューザー!!」
「だから言ったろう、リュシエラ。お前の能力を軽々しく見せてはいけないと。いったそばからこんな
面倒なことに巻き込まれる」
見知った顔の出現に、泣きそうになってるリュシエラに、出来の悪い生徒をめっと叱るように穏やかな口調でイリューザーはリュシエラのそばに近寄ってきた。しかし、そんな彼の行く道をさえぎるかのように信者共は立ちはだかり、いきなり現れてきた侵入者に対して恐ろしく殺気立っていた。
「な、なんだアイツは!?どこから入ってきやがった!?」
「かまわねぇ!!皆とっととやっちまえ!」
口ぐちに好き勝手なことをほざいて襲い掛かってくる信者共をイリューザーは冷たい瞳で一瞥すると
「カァッッ!!」
と口を大きく開けた。すると信者たちの体から淡い光の筋みたいなものが彼の顔面に集まっていき、光球と化した。と、同時に誰もかれもが力が抜けたように意識を失ってバタバタと倒れていく。やがて光球がひとしきり大きくなりフリードリヒとリュシエラ以外全員が倒れるとイリューザーは目の前にあった光の珠をごくんと飲み込んだ。
「ば、化け物・・・」
「はぁ?これくらいで、化け物呼ばわりならほんとたいしたことない黒魔術師どのだな、お前。魔術師もどきもいいところだ。失せろ、うっとうしい」
祭壇の前でへたり込んでいるフリードリヒをイリューザーは煩わしそうに眉をひそめると、ぞんざいに片手を払った。
すると。触れてもいないのに彼の体が壁へ激突し、肉のつぶれる音と一緒に無様な悲鳴をあげた。
しかし、それでも足りないのかイリューザーが近づいていくとフリードリヒの胸倉をつかんで強引にたたせた。
「ヒ、ヒィイッ!!もう許してくれ!わ、私はただ重病の彼女のために万能の妙薬を作ろうとしただけだッ!!」
「だったら人様を殺してでもいいってか?たいした大義名分だな、それでも病気と闘いながら健気に生きてるやつなんてたくさんいるんだよ。第一、こんな方法でもし治ったとしても魔術は等価交換だ。人を殺した業の分、今度は彼女が化け物に成り果てるだろうさ。とめてもらって感謝しろ、このド素人が!!」
「そ、そんな・・・」
「彼女にしてみりゃ、アンタが絵を描いて薬代稼いでくれるだけで幸せだろうよ。わかったらさっさと故郷にでも帰ってそばにいて支えてやった方がいいんじゃないのか?ま、決めるのはアンタの勝手だが」
さらに胸倉をしめあげて顔を近づけると
「リュシエラの力のことももろもろ忘れてもらうぞ、俺の眼を見ろ」
と言い放った。言われるがままに彼はイリューザーの眼を見つめると、目があった瞬間にかくりと気を失った。
「よし、記憶操作完了っと」
そんなやりとりを横目でみながらリュシエラは、こちらに近づいてくる足音に妙に緊張してしまった。やがて、視界いっぱいに端正な顔立ちの青年が現れた。相変わらず腹がたつくらいに綺麗な顔立ちだったが、その口からでるのはとても紳士的な言葉じゃなかった。
「ずいぶんふぬけた格好だな?リュシエラ。どうだ?人の忠告を無視して痛い目にあった感想は?悪い娘にはお仕置きが必要だと、そう思わないか?」
そうやって艶っぽい声で、彼女の足元からすねへとを長く細い指ですすすと撫で上げる。さきほどの安堵とは別に一気に怖気が背中にまで走った。
「やぁッ!!そんなのはいいからさっさと助けてよ!」
心底嫌そうに身をよじると、イリューザーは呆れたように嘆息した。そして手で斬るような仕草をすると、あれほど頑丈だった鉄枷も鎖もいとも簡単にきれてしまった。
もうこれ以上、セクハラされてはかなわないと、自由になったと同時にリュシエラはばね仕掛けのように飛び起きた。が、すぐにふにゃりと倒れてしまった。
「え・・なんで?」
「よっぽど怖かったんで腰がぬけたんだろ?しょうがないなぁ。俺が連れてってやるか」
クククと陰険に笑いながら、まんざらでもなさそうにリュシエラを強引に抱き寄せると横抱きにしてその場を去ろうとする。抱き起されて気づいたが、大勢の信者が二人を中心にして倒れていた。
「さて、雑魚は片付いたし、さっさと帰るぞ」
「待ってください!あの人たちは?」
「この期に及んでお前をひどい目にあわせた人間どもの心配か?しょうがないお人好しだな」
「殺してはいないさ。お前が植物にするようにあいつらの生気を俺が吸っただけだ。たいしてうまくもないがな」
「そう、良かった」
そう会話しているとすでに地下の怪しげな部屋から脱出し、いつも通り街の石畳の歩道に出た。
てっきり花屋に戻るのかと思ったら、止まる勢いのないイリューザーにリュシエラは恐る恐る尋ねた。
「あ、あの花屋に戻るんじゃないの?」
「何を言ってる。もう十分人間界は堪能しただろう?お前の能力も人間にバレたことだし、いい加減魔界に帰るぞ」
「え―――――ッ!?嫌です!下ろしてください!!」
「そういうと思った。だからさっさとこのままさらっていこうってワケ」
しれっと言うイリューザーにリュシエラはむーっとにらんだ。そんなリュシエラをまったく気にもせずにイリューザーは続けた。
「言っておくがもうあそこにはおられんぞ。一応首魁には暗示でお前の能力からお前の存在まで消したが、他の奴らまでは手がまわらなかったからな。あとで配下のものを使って記憶操作しておかなきゃならん」
「みんな、私が魔女だって記憶は消えるんでしょ?だったら戻ったって―――」
「あのなぁ。一応かけてはいるものの、また記憶の元の存在のお前がホイホイとそこらへん歩いてたら
いつフラッシュバックするかわからないんだよ。また同じように騒がれたいのか?」
「ぐっ・・・・」
彼のあまりの正論にリュシエラはぐうの音もでない。
・・・せっかく、居場所ができたのに――――。
優しくしてくれたおかみさんの顔が思い浮かべて、もうお別れなのだと思うとぽろりと涙がでてきた。
「リュシエラ―――」
涙に気づいたのか、彼にしては珍しく気遣わしげな声音で名前を呼んでくるが、リュシエラは眼をこすってごまかした。
「と、とにかくもう下ろしてください!自分で歩けますから!もう逃げませんし!」
気合のこもった顔でイリューザーに伝えると本人は不満そうだったが、素直に下ろしてくれた。
あたりはもうまっくらで石畳の道路をガス灯が優しく照らしていた。
するとおもむろにイリューザーがじーっとこちらを見つめてくるので居心地の悪さを感じ
「な、なんですか?」
とたじろぐと、いきなりリュシエラの服の襟をつかむと、勢い良く胸元までひんむいた。
幸い心臓のあたりから鎖骨部分までで勿論全部が見えてるわけではないのだが、外灯の下であらわになる白い双丘にリュシエラがわけもわからず硬直していると、イリューザーが遠慮なくまじまじと彼女の胸元を見つめ、
「―――――ない。 良かったな。心配だったんだ。ナイフで少しでもあいつらがお前の白い肌に傷つけてたら全員ぶち殺してやるところだった。それにしても、お前。思ったより胸があるな」
「な、なななななな」
ばっと後ろにあとずさって開かれた襟元を隠しながら
「何するんですかー!!?」
と力のあらん限りバチーンと彼の頬を平手で盛大に打った。
が、当の本人は詫びれもせず、微動だにしない。
「何って俺の大事な婚約者に傷がないか調べただけだろ」
殴られても何もなかったのかのようにけろりとしている。
あれだけ力いっぱい殴ったのに手の跡すら残っておらず、相変わらず麗しい顔でけろりとしているのでさらに殺意がわいた。
「ううう、もうお嫁にいけない・・・・」
周りに人がいなかったことを感謝しながら、涙ぐみながらしゃがんで服を元にもどしていると
「別にいいだろう。ちゃんと俺が責任とってやるし」
「貴方ねぇ!そもそも私達、まだ婚約もしてないんですよ!赤の他人じゃないですか!?」
「つれないことを言うな。婚約はまだでも親が決めた許婚同士じゃないか。親公認なら決まったも同然だろ」
「でもでもッ!私は本当に好きな人と結婚したいんです!イリューザーだってご両親の遺言をもう気にしないで、無理して私と結婚することないじゃない!」
「無理して?俺が無理してお前と結婚したがってるっていうのか?」
地を這うような呪いの声にリュシエラはびくっと縮こまった。
「ち、違うんですか?」
「断じて違う。俺は望んでこの結婚を受ける!」
意志の強い瞳でひたとリュシエラを見つめるイリューザーにリュシエラはもう反論する気はなくなってしまった。
――――――その時。
ドクン!!
全身泡立つような感覚に怖くなったリュシエラは自分自身を抑えるように抱きしめた。
彼女の異変にイリューザーもすぐに気づいた。
「は――――」
「・・・? どうした?リュシエラ」
いぶかしげに思いながら彼女に触れようとすると
「来ないでッ!!」
彼女らしからぬ力の強さでイリューザーを突き飛ばすと、一目散に暗闇の街へと消えて行ってしまった。
突き飛ばされたことよりも拒絶されたことに少なからずショックだったイリューザーだが、リュシエラの異変の症状に心当たりがあった。
「あれは、まさか――――待てッ!!行くな、シエラァ!!」
――――街に夜の帳がおりるころ。
青年は家路へ帰ろうと帰路を急いでいた。すると夜の街頭の下に見知らぬ女が顔をうつむかせていてたっている。
髪はセミロングで品のいい紅茶色の髪をしていて、肌は絹のようになめらかで白い。体つきも華奢でほっそりとした長い脚が印象的だった。気が付けば思わず声をかけていた。
「どうしたんですか?こんな夜も遅い時間に?ここもあまり治安のいいところじゃないし、危ないですよ」
呼びかけられた少女は面をあげた。その瞳は禍々しい金色の瞳だった。彼女の元の瞳の色はターコイズブルーだというのに。
少女の眼と眼があった瞬間、青年は電撃に撃たれたように硬直し、もう彼女のことで頭がいっぱいで他のことがどうでもよくなっていた。
「ねえ、お兄さん。アタシ、とっても喉がかわいてるの。貴方の血をちょ・う・だ・い」
甘えるようなねっとりとした声で舌なめずりをしながらリュシエラは囁いた。しかし、普段の血を嫌う清純な彼女と違って今の彼女はとても淫靡で、あきらかにいつもと別人だった。
青年は声をかけられただけで、歓喜の涙をながし、偶然通りかかった自分が彼女の生贄になる幸運に感謝した。
みれば、少女の可愛らしい歯の間から牙のようなものが垣間見えており、自分が彼女の咢に喰われるのだと
想像しただけでゾクゾクした。
「は、はい!どうぞお吸いになってください、ご主人様!」
「いい子ね・・・じゃあ、じっとしてて頂戴ね」
少女は青年を抱きしめるように腕を首にまわすと、牙を彼の首筋につきたてようとした。
・
・
・
しかし、青年がいつまでまってもその瞬間は訪れなかった。
見たこともない美青年が彼女の手をつかんでいたからである。
「こりゃ、おっそろしい魅了だな。完璧に自我がなくなってる」
急いできたのだろう、肩で息があがっているが、美青年は少しもつかれたそぶりはなかった。青年は思いっきり今から始まる神聖な行為を邪魔されたことに苛立ちと怒りの視線を送った。
だが、美青年はそれに気おくれすることもなく、青年と眼があうと美しい紫紺が青年の意識を支配した。
「もういい。危ないところだったな。傷物になるまえにさっさと帰れ」
青年は素直にこくんとうなずくと急いで走ってその場をあとにした。
残されたのは麗しい男女二人。しかし、あきらかに少女は美青年にいらだった声をあげた。
「イリューザー!!アンタなんてことすんのよッ!!せっかくの下僕第一号が誕生するところだったのに!!」
「あんなたいしてまずそうな人間がいいのか?初物にしては良くないだろ」
「そんなことアンタには関係ないでしょ!」
「―――ある。リュシエラの初めての相手は俺だけでいい。――――ところで」
イリューザーは一呼吸おいて、目の前の人物に問うた。
「誰だ?お前は」
「ふん!失礼な奴ね!アタシはリュシエラよ!!正確にはアタシもリュシエラなの、というべきかしら?」
自分の胸に手をあて少女は誇らしげに名乗った。しかし、いつもの自信なさそうなリュシエラと違い、こちらは傲岸不遜が服をきて歩いてるようなものだった。
「そうか。これまた過激な性格だこと」
あきらかにおかしい事態なのにあっさりと納得したイリューザーの態度が、これまたリュシエラは癇に障った。
「うっさいわね!ずうずうしいアンタには言われたくないわよ!いいからそこどいて!アタシの狩りの
邪魔をしないで!」
「ところがそうはいかない。お前は俺の血で封印する」
「封印ですって・・・?アンタまさか私に『目覚めの血』を与えるつもりなんじゃ・・・」
獲物を狙うような眼で静かににじり寄ってくる許嫁にリュシエラは思わず後ずさった。沈黙が肯定のようなのでさらに戦慄する。
「そうはいくもんですか――――おいで、闇の猟犬たち!イリューザーを食い殺しておしまい!」
リュシエラが手を振ると、彼女の影が波打ち、闇の中から何頭もの鋭い牙をもった猟犬たちが出現した。すべての獣たちが舌をだらりとたらし、爛々と目を光らせてイリューザーを獲物として見つめている。すると一頭がかけだすと他の獣たちも我先にとイリューザーめがけて突進してきた。
「くッ!?」
己をかばうように両腕を交差させてかばいながら、防戦一方の雰囲気にめずらしくイリューザーが焦りの声が聞こえたとき、リュシエラは勝利を確信した。
彼を背にしてさっさと逃げようとする。
「あはははッ!さすがにイリューザーも数には勝てないみたいね?いい気味だわ!」
後ろを振り返りながらすでに離脱しようとしていた彼女は完璧に油断していた。
そう、目の前に後ろで苦戦しているはずの彼がいなければ。いきなりの彼の出現にリュシエラの体はすぐに止まれなかった。
思わず彼の胸に飛び込む形になってしまう。
「なッ!?アンタ後ろで手こずってるはずじゃ――――」
「残念。あれは俺の分身でやられるフリしてただけ。それじゃ遠慮なく」
戸惑いながらも抵抗しようとするリュシエラの手をつかむと、問答無用で引き寄せた。しかしリュシエラも往生際が悪く彼の胸の中でまだ暴れている。
「いやッ!!やっと出てこれたのに・・・やっと自由になれたのに・・・あんな卑屈で根暗な私のどこが
いいっていうのよ!!」
なおもリュシエラは逃げようとするが、男でしかも吸血鬼である彼に華奢なリュシエラが勝てるわけもなく、びくともしない。
「それでも、アイツに救われた奴だっているんだ。お前にはわからないさ」
「ひとまず、俺の血でふたをしよう。戻ってこい、シエラ」
限りなく優しい声でイリューザーは元の彼女に呼びかけた。いつのまにか伸びた長いかぎ爪で手を傷つけると赤い血が流れ出す。それを口にふくみ、彼女の頤を支えると、ついばむようにキスをした。
「戻ってこい。シエラ」
薄れゆく意識の海の底の中でリュシエラは誰かに呼ばれた気がした。
シエラとよぶのは懐かしい・・・・彼が自分につけた愛称だった。
懐かしいな・・・あれはいつのときだったっけ?記憶をたどると過去の記憶が泡のようによみがえってきた。
あれは7歳の誕生日だったときだった。毎年のように開かれる盛大な誕生日パーティーにつかれて、リュシエラがバルコニーで一休みしていたところに、きれいに着飾った少年が近づいてきた。
彼は照れ臭そうに、けれどもややぶっきらぼうに手の中にある可憐な青薔薇を彼女に手渡した。
「シエラ。お前誕生日だろ?これやるよ」
青薔薇は自然界には存在しておらず、錬金術により交配させためったに見れない貴重品だった。リュシエラの家の薔薇園も見事だったがイリューザーの家の薔薇園は吸血鬼の間では随一とよばれるほど、素晴らしいものと評判だった。
そんな中彼がわざわざ自分の為に摘みたての薔薇を持ってきてくれたことが嬉しかった。彼の青薔薇を受け取った時異変はおこった。
「有難う!嬉しい!!あ・・・・いたっ」
「?どうした、シエラ」
リュシエラの白くて小さな手から赤い血が小さな珠となってしたたりおちていた。それを見て彼はバツの悪そうな顔をした。
「あー、ごめんな。庭師がトゲぬいてたはずなのにぬき忘れがあったんだろうな。すまん」
そういうとためらいもなくリュシエラの指を口に含んで一筋の血をなめた。いきなりのことに幼いリュシエラが赤面する。
「あ、あのもう大丈夫だよ!もう放して・・・」
「ああ、もう止まったみたいだな。大丈夫だ」
そういうと少し名残惜しそうに手を放した。リュシエラはイリューザーのすこしの変化に気づいていた。
頬がほんのり赤く、どこか熱に浮かされたような表情をしている。
「イリューザー?どうかしたの?」
「い、いやなんでもない。じゃあなシエラ」
彼は顔をそむけると、そそくさと帰ってしまった。
さらに暗転。
時はさらにさかのぼる。リュシエラとイリューザーが初めて出会って数か月のころ、5歳の時。リュシエラの両親とイリューザーの両親は昔から仲が良く、ほぼ同時期に子供ができたということで友達として会わせたのが数か月前。
今や人見知りなリュシエラはすっかりイリューザーと一緒に遊ぶのが日課になっていた。
ここはシエラの家の近くの花畑。蓮華の花が一面に咲いてピンクの絨毯となっていた。
何かいいことがあったのがイリューザーはご機嫌である。なぜならこの前の誕生日に父から何が欲しい?と聞かれて、初めて会った時からシエラ姫に一目惚れしていたイリューザーは、リュシエラが欲しいと子供心にねだったのだ。
父は苦笑して
「まだ幼いのに真祖の姫君が欲しいと願うか。困った子だ」
といってイリューザーの頭をなでた。
しかし、子供に甘いヴァイルシュミット公(イリューザーの父)はひげをなでながら思案した。
「ふむ、ならばカイル殿に打診してみるか。我らとしても五大頂と密接なつながりをもつことはわが家の基盤もさらに盤石になるし、我が子は初恋の姫君を娶れるというもの」
「しかし、イリューザーよ、人の心とは打算などでは動かぬもの。姫君に結婚を快諾してもらえるかどうかはお前にかかっているのをこころするのだぞ」
「はい、父上!」
というわけで、リュシエラ本人の知らないところで、許嫁に決まったことを知っているイリューザーは
嬉しくて朝からにやついているのだった。
となりで蓮華の花冠を作っていたリュシエラはけげんそうにしていた。
するとイリューザーは上気した頬を向けて
「知ってるか?シエラは将来俺と結婚するんだぞ」
「どうして?」
「どうしてって親同士が決めた許婚だからさ。将来大きくなったらシエラは俺のお嫁さんになるんだ」
「・・・・・」
「どうした?」
「私、お父様に行ってそんなのとりやめにしてもらうようにいってくる!」
「な、なんでさ。リュシエラは俺が相手だとイヤなのか?」
「だって結婚って好きな人同士がするものでしょ?イリューザーの気持ちも無視して好きでもない私と結婚
するなんておかしいもの!」
「ばッ―――――俺は・・・(嬉しいに決まってるだろ)」
とゴニョゴニョと言葉をにごす。
「イリューザー?」
「と、とにかくもう決まってるんだから変更なんてできないんだよ!もうシエラは俺のものなんだからな!」
と真っ赤になってリュシエラを力任せに抱き寄せた。するとリュシエラのもっていた花冠が、手から滑り落ちる。
「イリューザーはそれでいいの?」
「お、俺は――――ま、まあしょうがないし?まあ誰か知らない奴とくっつけられるよりかは気心の知れたお前の方がいいかな」
彼は顔を赤らめながら、本当は飛び上がりたいくらい嬉しいくせに、必死に自分の本心がばれないように冷静に
努めて言った。
「いいか?シエラは俺のものなんだから他の男と親しくしちゃ駄目なんだからな」
「え―――?」
「なんか文句あんのか?」
うってかわって絶対零度の視線を受けて、幼いリュシエラは凍りつく。
「う、ううん。そんなことないよ」
さすがに身の危険を感じて必死にこくこくとうなずく。
「わかればよし。心配するなって。世界で一番幸せな花嫁にしてやる」
といって落ちた花冠を拾うとぽんとリュシエラの頭に置いた。そのときリュシエラが見た彼はまぶしく
輝いてるような晴れやかな笑顔だった。
ここまできて記憶の海の泡がはじけた。急速に視界が真白くぬりつぶされ、最初に感じた感覚は、唇からほのかに感じる血の香りだった。ゆっくりとイリューザーの血が口腔へと流れていく―――。
おい、しい――――――。
こくんと嚥下しながら感じたのは極上の甘いワインを飲んでいるかのようだった。あれだけ血が嫌いだった自分が信じられない。ふと視線を感じてまぶたを開けると、紫の瞳が自分を写していた。彼との視線がからみつく。
ついで自分の恥ずかしい今の状況を理解したリュシエラは慌ててイリューザーから離れた。あわててごしごしと手の甲でしめった唇をぬぐう。
「どうだった?『俺』の味は?極上品だったろう?」
心底意地が悪いにやにやうすら笑いを浮かべながらリュシエラを見つめている。
「イリューザー!貴方、何したかわかってるの!」
「わかってるさ。なんかわけわからん人格が血の渇きを訴えてでてきたから俺の血で封印したんだよ」
「そうじゃなくて!異性の吸血鬼同士の血の交換は”血婚”といってそれなりの深い仲の婚約者同士か、もしくは夫婦じゃないとしちゃいけないのよ!」
「別に異論はあるまい?俺たちはもう婚約者同士だし」
「ちっが――――う!!まだ許嫁なだけ!本来なら未婚で覚醒した場合は両親から血をもらうのに・・・」
「別にいいだろう。いずれ夫婦になるのだから。血婚の儀が早まったと思えばいいさ」
「ううううう・・・・あっ」
イリューザーの発言に頭を悩ませていると、ほんとにくらくらとめまいがしてきてリュシエラはバランスを崩した。
すかさず優雅に手をひき、いつの間にかちゃっかり自分の胸の中にリュシエラを抱き寄せて彼は優しくささやいた。
「まだ血の渇きに覚醒したばかりだから体がついていってないんだろう。家に戻るぞ。ご両親が心配している」
さすがに父母のことを言われるとどうしようもなくて、リュシエラはとうとう素直にうなずいた。
と、同時に強烈な睡魔に襲われ、重いまぶたに逆らえなくて、そのまま眠りについてしまった。
そんな愛らしい姫君をくすりを笑うと愛おしそうにほおをなで、大事そうに横抱きにして青年は帰路へついた。