「誘導策」
その日の夜、伊達の眼帯を当て海賊の衣装に身を包んだエコーはようやっと直った自分の宇宙船「デルタ号」の舵を取り、地球の空、日本の空の上を悠然と飛んでいた。これには今まで宇宙船を動かしていなかった自分の勘を取り戻すのと直ったばかりの船の慣らし運転を兼ねてのことであったのだが、それらとは別にもう一つ、彼女には船で日本の空を飛ぶ理由があった。
「いた」
そしてエコーは今、その「もう一つの理由」をモニター越しに見つめていた。教師から宇宙海賊へジョブチェンジした彼女に「一緒に空を飛んでみないか」と誘われてこの船に乗り込み、今彼女の周りに立っていたD組の生徒達もまた、そのモニターに映るエコーの三つ目の理由を注視していた。
「なんで俺らのこと誘ったんですか?」
「多い方が盛り上がるでしょ」
なお、誘われた生徒達の一人からの問いかけに対し、エコーはこうさらりと返した。実際それだけが理由だった。なので色々と深読みしていた生徒は肩透かしを食う羽目になった。
ちなみに改修されたデルタ号のブリッジは非常に広い作りをしており、生徒三十余人を同じ空間の中に置いてなお余裕のあるスペースを持っていた。
自分と部下含めて四人で動かす船にしてはあまりに無駄な広さと言えるが、これはデルタ号が改修前より三倍近く巨大化した煽りを受けてのことであり、なぜここまで大きくしたのかについて、巨大化プラン発案者のエコーは堅く口を閉ざしていた。
それはともかく。
「あれが昨日言ってた?」
「すげえ……」
彼らの目線の先には、一つの黒雲があった。それは薄く広がり、町一つを覆い尽くしてしまうほどの大きさを持った、小刻みに蠢く漆黒の雲だった。
「モノって奴か」
「直接見てみると、なんか、怖いね」
「でもあいつ、町から離れていってる感じがするぞ。なんでだ?」
巨大な「モノ」を見た生徒の数人が怯えた声を出し、その中でモノの挙動を見た別の生徒が疑問を呈する。するとそれを聞いたエコーが「たぶんこいつが原因だろうな」と言いながら操舵輪の右隣に浮かんでいた操作パネルの上で指を走らせ、正面モニターの一部を拡大表示させた。
そこには蠢く黒雲の上に立つ、一人の人間の姿が映っていた。
「あれは……」
「麻里弥ちゃん!?」
生徒の一人が叫ぶ。他の生徒もつられて目を細めてその姿を視認し、それが自分達のクラスメイトであることを悟った。
「ほんとだ。あいつだ」
「でもなんか変だぞ」
「なんだあれ? どうなってんだ?」
悟ると同時に眉間に皺を寄せる。生徒達が気になったのも無理はない。なにせこの時、そこにあった彼らの知る十轟院麻里弥と思しき人影は全身を黒雲と同様に真っ黒に染め上げ、そして自身の腰から下を雲の中に埋めていたのだ。見ようによっては、それは人影と雲が完全に同化しているようにも見えた。
見ている内に何か不安な思いを抱かずにはいられなくなるような、どことなく不気味な光景であった。
「あいつ、なんかどこか指さしてないか?」
するとそのうち、そこにいた生徒の一人の益田浩一がそう言って、まっすぐモニターを指さす。浩一の指さす先に他の面々が視線を向かわせると、確かにその影は腕をまっすぐ前に突き出しているように見えた。
おまけによく見ると、その影は口らしき部分をしきりに開閉して、何かを喋っているようにも見受けられた。それを見たエコーが前方の一段下の部分でそれぞれの席に着いていた部下に声を放つ。
「集音装置を使え。何を言っているのか確かめるんだ」
「へい、大将」
真ん中の席に座っていた筋骨隆々の大男がそれに答え、それからコンソールを操作してそれまで自分がにらめっこしていた眼前の液晶モニターを更に食い入るように見つめる。
すると彼らのいたブリッジ全体にノイズが響き始める。そのノイズは次第に薄れていき、代わりにノイズ混じりの一人の少女の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「……っと……っと、と……」
「?」
それを聞いたエコーは思わず首をひねった。何を言っているのかわからなかったからだ。
「これ集音機能とか強く出来ないの?」
「これ以上は無理です~。正確に聞きたかったから、ここから更に接近しなきゃダメです~」
D組の生徒の一人である富士満が前方のエコーの部下達に問いかけ、右斜め前に座っていた女性が間延びした声で返す。
「これで最大出力です~。接近しないと無理です~」
「どうします? 近づきますかい?」
いかにものんびり屋と呼べるような間延びした女性の声を聞いた大男が後ろを振り返ってエコーに問いかける。だがエコーがそれに答えるよりも前に、エコー達から見て左斜め前に座っていた細身の男が口を開いた。
「やめた方がいいだろう。あれはなんて言うかこう、近づいたらいけないような気がする」
「なんだよそれ。何か理由でもあるのか?」
「理由はうまく言えないが、とにかくそんな気がするんだ。あれに近づいたらいけない」
長身痩躯の部下が真剣な面持ちで言った。それからその部下は視線を大男から自分の上司へと移し替え、前と変わらず真剣な表情で言った。
「船長、あれに近づくのはやめましょう。なんだか嫌な予感がします」
それはなんの証拠もないただの憶測だったが、しかしエコーはそれを一笑に付したりはしなかった。この男の直感はよく当たるのだ。つきあいの長いエコーはそれをよく知っていたし、実際その直感に何度も助けられていた。宇宙怪獣の巣を回避したり、宝くじで一等を引き当てたりとあらゆる局面でエコーの力となり、エコーもまた他の部下と同じくらい彼に対して言葉では言い表せないほどの感謝の念を抱いていた。
それ故に、エコーは今回もこの細身の部下の直感に頼ることにした。
「じゃあこのままの距離で行こう。アルファ、速度このまま。今の距離を保ちながら行くぞ」
「了解です~」
自分の名を呼ばれた女の部下が間延びした声で答え、手元のコンソールをいじりつつ目の前の乗組員用小型モニターとにらめっこする。その一方でエコーの側に立っていた生徒の一人である進藤冬美が、いつもと同じように熊の着ぐるみを身につけたまま、ふと思い出したように言った。
「そう言えば、今日はユウはここにいないクマね」
「芹沢のことか? そういやいねえな」
冬美の言葉を受けて男子生徒の一人が辺りを見回す。それから彼は横にいた女生徒に向けて小声で言った。
「ちゃんと連絡回したんだよな?」
「もちろんちゃんとやったよ。でも芹沢さん、今日は用事があるとか言ってきてさ。結局断られちゃったのよ」
「どんな用事なのかは聞いてないクマ?」
「ごめん。聞くの忘れちゃった」
そう言って申し訳なさそうに顔の前で両手をあわせる女生徒を前に件の男子生徒が呆れたようにため息をつき、冬美が無言で首を横に振る。
「まあ、ユウのことだから特に問題はないと思うけど」
「だな」
「でも、やっぱり気にはなるわよね」
正面モニターに映る麻里弥と思しき人影に目をやりながら、その三人はそれぞれ言葉を漏らした。
「ふう」
これ以上近づく気配はなさそうだ。
一定の距離を保ちながら自分の跡を付けてくる宇宙船を見ながらそう結論づけて、十轟院麻里弥は安堵のためいきをついた。ここで他の人間に不用意に近づかれたら、こちらの作戦が台無しになってしまうからだ。ちなみにこの時彼女は自分の腰から下を黒雲の中に埋めており、そんな雲のように形を変えながら蠢く「モノ」と文字通り一体化していた。人間としての下半身は完全に消失し、この不気味に蠢く雲が麻里弥の新たな下半身となっていた。
「足の感覚が無いというのは不思議なものですわね」
そして今、モノは麻里弥の完全な制御下に置かれていた。また麻里弥はモノと肉体的に融合する一方で己の意識とモノの意識の同一化、精神的な面でのモノとの融合は完全に防いでいた。自分と中途半端に融合したモノの至近距離に人間の姿はない。
この状況、麻里弥とモノが同化し、麻里弥の意識が完全に残り、そしてモノの周囲に麻里弥以外の人間がいないこの状況こそが、麻里弥を初めとする十轟院家がモノの問題を解決するために選択した最も最良な状態だったのだ。
「このまましばらく動き続ければ、被害を抑えることができますわ。では遠くへ! もっと遠くへ!」
全て順調。麻里弥は安心しきっていた。
十轟院家が百鬼夜行を止める為に行った作戦とは、蓋を開ければ至極単純なものだった。
まず一族の中で最も頑強な肉体と精神と腕力を持った人間をモノと同化させる。これを行うためには予め選ばれた人間の持っている霊力を根こそぎ消失させ、不純物のない空っぽの状態でモノの一部を飲み込み、モノに限りなく近い状態の存在になる必要があった。
モノは自分と同じ存在であれば疑うことなく即座に一つになろうとするため、準備を万全にしておけば融合自体はとても簡単に行える。
「でも融合って、危なくないんですか」
「大丈夫じゃよ新城先生。融合自体は準備さえ怠らなければ簡単じゃ。難しいのはむしろその後なのじゃ」
「その後?」
「左様」
そして融合を終えた所で次の段階に入る。この時モノと同化した人間はモノと全く同じ属性になっていながら、同時に人間としての形も保っている状態にあった。意識はモノと繋がっていたが、まだその精神と肉体は完全にモノの一部とはなっていないのだ。町一つ覆い隠せるほどの大きさを持ったモノの中に人間を一人放り込むような感じである。
また、モノは人間の恐怖とそこから生じる想像によって姿を定める存在であるが、モノと同化した十轟院の人間は支配権を握る際にそのモノの特性を利用する。彼らはまず自分から進んで怖いと思う姿をイメージしてモノに形を与え、モノを実体化させる。次にそうやって明確な形を得たモノを物理的な力で完膚無きまでに叩き潰し、力ずくで従わせるのだ。
「結局力押しなんですね」
「しかし先生よ、こっちの方が実際手っ取り早かったりするんじゃぞ?」
「それにそもそも、モノにはこっちの言葉は通じませんからね。力押ししか方法はないんですよ」
モノは生まれた瞬間から進化することを止めた原始的な存在であり、知能はおろか素の状態で自分を自分と認識する能力にさえ欠けていた。テレパシーとも呼ばれる鋭敏な精神感応能力を使って他社の想像力を感じ取り、それを参考にして自分の形を作らなければ、自分の形を認識することが出来なかったのだ。しかし太古における絶対唯一の掟である「弱者は強者に従う」という不文律に関しては本能のレベルでその意識の中に刻まれており、これが十轟院家による力の支配を可能としていた。
しかしこの時、実存化するモノの数は十や百では効かなかった。そうして襲いかかってくるモノの大群を、たった一人で、しかも霊力に頼らない純粋な力のみで全て平らげなければならないのだ。これが十轟院家の中で麻里弥が融合役に選ばれた一番の理由である。素の腕っ節の力で彼女に敵う者は一人もいなかった。
「だからあの子を向かわせたんですか」
「麻里弥は昔っから腕白でのう。子供の頃はよく手を焼かされたものよ」
「そんな妹にケンカ殺法とかいうよくわからない戦法を教え込んだのは母上だったはずですが?」
「猛よ、余計なことを言うでない」
そうして支配権を勝ち取った人間は、ここに来てようやく作戦を実行に移す事が出来る。完全に制御下に置いたモノを人間のいる場所から遠く離れた所にまで連れて行き、そこでモノの気が晴れるまで適当に動き続けるのであった。だいたいは一、二時間も遊覧すれば、モノはすっかり落ち着いてその場で雲散霧消し、何処かへと消え去っていくとされていた。
「しかしこれには問題もある」
「問題ですか」
「うむ」
しかしこの時近くに人間がいると、モノの興味はすっかりそちらに傾き、支配権を握っていたはずの人間の命令も無視して新しく出現した人間の方へまっしぐらに向かってしまう。こうなってはもう作戦はおじゃんである。
この一連の作戦を十轟院家は何百年も前から続けており、人的被害を一切出さず大成功に終わった時もあれば、何らかのつまづきによって予定が狂い大失敗に終わる時もあった。そして失敗に終わった場合、ほぼ例外なく町は大混乱の坩堝に叩き落とされる事になった。
「そうならないためにも、どこを飛ぶかに関しては常に気を配っておる。地上を進むなど論外じゃからの」
「飛行機に近づいてもアウトなんですか?」
「もちろんそうじゃ。何に乗っていようが、とにかく人間が来たら終わりなんじゃよ。まあ今はトヨが麻里弥を見張っておるから、何かあったらまず真っ先にトヨが連絡を寄越してくれるはずじゃ」
そこまで語り終えて、縁側に腰掛けていた十轟院厳吾郎は娘である十轟院多摩の淹れてきた茶の入った湯飲みを持ち、中身を少しすすってから亮に言った。
「今のところ問題は無さそうじゃが、もしもの時は、よろしくお頼み申す」
「はい」
隣に座る亮が小さく、しかし強く頷く。それを見た厳吾郎が再度茶を飲み、それから大きく笑って不安を吹き飛ばすように言った。
「まあ今回はなんの問題も無いじゃろう。麻里弥はうちの自慢の孫じゃからな」
「え?」
麻里弥が初めて「それ」を感じた時、彼女は今の状況がもう手遅れな所まで進んでいることを自覚した。
「それ」は空の上から「落ちて」きた。モノが浮かぶ空よりもずっと上、遙か頭上から、「それ」は自分の身一つでモノめがけて落ちてきたのだ。
顔を上げてその姿を見た麻里弥は、それが自分のよく知る人物であることを察した。
「なんで」
だが麻里弥がそこまで言った次の瞬間、空の上から「落ちて」きた「それ」はまっすぐにモノと激突した。なんの躊躇いも見せずに蠢く黒雲の中へと突っ込んでいったのである。
しかし最初にモノと接触したのは「それ」そのものではなかった。正確には、「それ」が両手で持っていた物の先端が真っ先にモノの表面に接触したのであった。
それは金色の剣の切っ先であった。その剣を先頭にして、落ちてきた「それ」は無抵抗のまま黒雲たるモノの中へと沈んでいったのだった。
もう手遅れだった。