「変わる町」
蚩尤が消えた。
その噂がまことしやかにその町に流れたのは、突如現れた黒雲がビームを放ち、町に大きなクレーターを作った後のことだった。思えばあの時、確かにクレーターの中心部には蚩尤の姿は無かった。ビームの爆心地には蚩尤ともう一匹別の怪獣がいたのにも関わらずだ。
噂は瞬く間に町の全域へと広がっていった。そしてさしたる確証も無いまま、住民の意見は真っ二つに分かれた。蚩尤は消えたと主張するグループと、蚩尤はまだこの地に留まっているとするグループである。前者は監視役によって監視されていた面々が中心となって結成されており、後者は蚩尤によって選ばれた件の監視者達が中心となっていた。
両者の対立は少しずつ、しかし確実に深くなっていった。まだ物理的な衝突は起きてはいなかったが、その溝は見るからに大きくなっていっていた。まるで冷戦期のアメリカとソ連のように、内部からの爆発を必死に抑え込みながら水面下で腹の探りあいをしていたのだ。
町には緊迫した空気が流れていた。表面上はいつも通りの町の営みが繰り広げられていたが、二つのグループの見えない衝突がもたらす不穏な緊張感は、そこに住む人間の精神を蝕みながらあっという間に町を飲み込んでいった。
そんな蚩尤が消えたという噂を聞いたとき、警察関係者はその上から下まで、全員が一人残らず安堵のため息をもらした。中にはそれを聞いて大っぴらに喜ぶ者もいた。彼らにとって蚩尤とは単なる邪魔者でしかなかったからだ。
本来、この国の治安を守るのは警察の役目である。だがあの蚩尤とかいう怪物は何の前触れも無しにどこからともなく現れ、当たり前のようにこの町の統治を始めてしまったのだ。それまで議会が行っていた政治活動、そして警察が行っていた町の治安活動を全否定し、自分なりのアレンジを加えた新たな統治機構を確立したのだ。議会や警察と足並みを揃える気はさらさら無いように見えたし、実際その通りであった。
その傍若無人な振る舞いは、まるでそのような公安組織など初めからいないかの如き性急で強引なものであった。当然それに不満を抱く者も少なからず現れたが、しかし人間はその蚩尤の蛮行を誰ひとりとして止めることが出来なかった。蚩尤の住まう建物に乗り込んで直接不平不満をぶつけること自体は誰にでも出来たが、蚩尤はそれをあぐらをかいたまま右から左に聞き流し、全く聞き入れようとしなかったのだ。そして誰にも止められないまま、瞬く間に蚩尤による新たなシステムが完成していった。
そんな蚩尤の行いに対して、警察組織は言うまでもなく憤慨した。だがそれ以上に彼らをやきもきさせたのは、彼が新しく敷いた統治システムは彼らが想像していた以上にまともに機能し、一定の成果をあげていたことであった。町中に監視員を配置して「度をすぎた悪」を働く者を見つけた場合はその場で殺害しても構わないという過激すぎる監視社会システムにしても、死人が出過ぎるという点に目をつぶれば犯罪発生率の低下にしっかり貢献しており、実際町の治安は警察が動いていたときよりも良くなっていた。
「こんな、こんなことが許されていいのか……!?」
屈辱でしかなかった。この蚩尤が敷いた過激で不自由きわまる監視社会は、それまで日本が民主制と共に掲げてきた自由主義、平等主義と真っ向から対立するものであった。だがそんな宿敵とも言えるシステムが、それまでこの町にあった自由平等な統治方法よりも確実に上の成果を残していたのだ。
警察官は日本の治安を守る存在であり、人々の自由と平等を守る存在である。だがそんな彼らの全てが自分は日本の自由と平等の守護者であるという自覚を常日頃から持っていたりする訳ではない。自分は仕事をしているだけであって、そんなご大層なお題目を掲げているつもりはないと思っている者もいる。これは別に恥ではない。人間の思想は十人十色であり、このような考えを持って職務に当たる者がいるのはごく自然なことである。
だがそんなバラバラな考えを持っていた彼らが、この時ばかりはその意思を一つにしたのだ。彼らの心の奥底に刻み込まれた「自由平等こそ正義である」という信念が、蚩尤の生み出した監視社会を真っ向から拒絶したのだ。
「こんなことが許されていいのか? 否! 絶対に許されるべきことではない! これ以上奴の好き勝手にはさせん!」
実際にそう主張した人間がいた訳ではなかったが、警察内部の空気はおおむねこの意見で統一されていた。だが警察が結束したときには、事態は既に修正不能な領域に到達していた。
蚩尤の統治は完璧に機能し、犯罪発生率は大きく下がった。おまけにもし犯罪が起きてもその場で対処され、わざわざ警察を呼ぶこともなくなった。おまけに警察官僚の中の数名が「不義を働いた」として蚩尤直々に処分されたのだ。一致団結した矢先の出来事であった。
警察は意気消沈した。その時反骨心は完全にへし折れた。だが心の底では、まだ反抗の炎が僅かながら燃えていた。
そして今、その炎が再び燃え上がろうとしていた。蚩尤が姿を消し、統治機構が崩壊したという噂を聞いたからだ。
「噂かどうかは、統括府に乗り込めばわかることだ」
この時統括府は地下から地上へと移転されていた。蚩尤が姿を消す直前、ほんの二、三日前のことである。警察官の中でも取り立てて若く情熱に満ちた数名が、その統括府に狙いを定めながらそう言った。彼らは刑事としてではなく、あくまで個人として統括府に乗り込もうと画策していたのだった。
ベテラン刑事連中はそれを黙認していた。統括府自体には誰もが気軽にその中に入れ、その気があれば予約無しで蚩尤に直接面会することだって出来たのだ。もっとも、人間離れした外見と圧倒的な威圧感を放つ蚩尤と正面から対峙しようという人間は殆どおらず、仕事以外の用件で統括府に足を運ぶ人間は少なかった。
彼らはそれをしようとしていたのだった。
「さあ行くぞ。噂が果たして嘘か誠か、はっきりさせるんだ」
緊迫した町の空気を改善しようと警察官達が無駄な努力を行っている間、最初にそれを提案した若い刑事達はまっすぐに統括府に向かった。そしてそこに足を踏み入れるなり、彼らはそこに広がる光景を見て絶句した。
「ザイオン、情報はあらかた取り終えまシタ。といってもそれほど重要なものはあんまり無かったデスけどネ」
正面入り口を通って中に入った彼らが目にしたのは、時代錯誤な西洋の鎧で全身を固めて盾と槍で武装した人間達に囲まれながら、呑気に携帯電話で何者かと通話している一人の少女だった。水色のシャツと白のズボンを身につけたラフな格好、金髪碧眼、モデルのように均整の取れた体つき、要するに美人であった。
「蚩尤が別の何かを呼び出したという痕跡もありませんデシタ。呪いをかけるときに使う呪具や方陣もありまセン。生け贄の祭壇みたいなものは見つけまシタが、使われた形跡は無かったデス。本当に自分と人間だけでどうにかしようとしてたみたいデスね。」
その少女は新たに中に入ってきた人間には目もくれずに通話に没頭していた。その声は普通に大きく彼らの耳にも入ってきていたのだが、彼女が何を言っているのかは理解できなかった。
「オーケーネ。じゃあ手に入れた情報はそっちに寄越しておくから、後はそっちにお任せヨ」
「お、おい、君」
そこで刑事の一人が思い切って少女に声をかける。それに気づいた少女は会話を切り上げ、自分を呼んだ者の方に目を向けた。
「私に何か用デスか?」
少女が親しげに声をかける。同時に彼女を取り囲んでいた鎧人間が一斉に動きだし、少女を守るようにその前に立つ。少女は彼らを盾にするような格好のままで続けて彼らに話しかけた。
「見ての通り、ワタシは今とても忙しいのデス。ご用があるならまたの機会にお願いしマス」
「い、いや、君こそここで何をしてるんだ。ここにはもう人はいないはずだぞ」
蚩尤が消えたという噂が立ってから、この統括府からは目に見えて人が消えていった。これもまた蚩尤が消えたという説の信憑性を増すことになっていたが、否定派はそれでもなお蚩尤の実在を信じ続けていた。
「なのにどうしてここに」
「ワタシは今日は仕事でここに来ていマス。立派な仕事ネ」
だがその刑事の問いかけに少女はさらりとそう答えた。言うまでもなく刑事連中は困惑したが、少女はそんな相手の反応などお構いなしにズボンのポケットからマッチ箱を取り出し、中からマッチ棒を一本取り出して顔の高さにまで持ち上げ、その先端に赤い塊のついた棒をまじまじと見つめた。
「な、なにをするつもりだ」
その様を見た別の刑事が問いつめる。少女はそちらの方を向かずにさらっと答えた。
「だから、仕事デスよ。最後のまとめデス」
「まとめだと? なんのつもりだ」
「先手必勝」
少女がそう言いながらマッチ棒を箱の側面と擦りあわせて赤い先端に火をつけ、それから彼女はその火のついたままのマッチ棒を足下へ落とした。
火のついたマッチ棒が床に到達する。直後、マッチ棒の落ちた場所から炎がまるで生き物のように地面を這って八方向に広がっていき、そしてある程度離れた所で動きを止めてその周囲にあるものを巻き込んで盛大に燃え広がった。
「う、うわっ!」
突然の出来事に刑事達が驚きの声を上げる。そんな彼らの周りにも容赦なく火の手が広がっていくが、彼らは驚きと恐怖のあまり体が硬直し、そこから動けずにいた。
そんな彼らとは対照的に、火を放った少女は恐れるどころか僅かに微笑みさえたたえた顔を浮かべ、お供の兵士達と共に正面玄関へと歩いていった。少女の足取りはまるで散歩を楽しむかのようにゆったりとしたものであり、そしてその道中、なおも怯え竦んで動けずにいる刑事の一人の肩をすれ違いざまに軽く叩いて少女が言った。
「急いで脱出するネ。早くしないと、丸焦げになっちゃうヨ?」
その言葉が刑事達の尻をひっぱたいた。我に返った刑事連中は周囲の状況を再確認すると同時に大急ぎで回れ右をして、そこから若干ふらつきつつも全速力で駆け出し、先に動いていた少女を追い抜いて我先に玄関へと走っていった。
「必死デスネー」
置いてけぼりにされた少女は、しかし怒ることもなく悠然とそう呟きながら再び玄関を目指して歩き始めた。既に火の手はその階層だけでなく建物全体を覆っていたが、それでも少女は歩くペースを変えようとはしなかった。
勉吉と浩一とソレアリィが統括府に到着したのは、まさにその時だった。そして轟々と燃えさかる炎に包まれた建物の中から、ソレアリィは件の少女がのんびり出てきたのを発見したのだった。
「あ、あれ! なんか出てきた!」
ソレアリィの指さす先に二人が視線を向ける。この時向こうの方も浩一達に気がついたらしく、片手を大きく振り上げながら彼らの元へ走っていった。
「オー! 皆さんこんな所で会えるとは奇遇デース! どうかしたんデスかー?」
合流するなりそう言ってきた少女を見て浩一達は驚いた。炎の中から出てきたそれが自分達のよく知る少女だったからだ。
「アスカ、何があったんだ? 火傷とか大丈夫なのか?」
浩一が心配するように声をかける。アスカ・フリードリヒは満面の笑みを浮かべて浩一に答えた。
「全然平気デース! ワタシは今日も平常運転デース!」
「そ、そうか。なら良かった」
相変わらずテンションの高いアスカを前に、浩一がしどろもどろになりながら応答した。彼女の言う通り、その体には目立った傷は無かった。火の海の中にいたのが信じられないくらい綺麗な体をしていた。
「でもいったいどうしたんですか? 燃えてる建物の中から出てくるなんて。何かあったんですか? 何か問題にでも巻き込まれたんですか?」
「ノンノン、それは違いマス。ワタシは別に命を狙われている訳ではありまセン」
それから勉吉からの問いかけにアスカが首を振って答える。それを聞いた浩一が「じゃあなんで燃えてる建物の中から出てきたんだよ」と疑問を呈し、それに対してアスカがさらりと言った。
「ワタシが火をつけまシタ」
「は」
一瞬、相手が何を言っているのか理解できなかった。目を点にする勉吉と浩一とソレアリィを目の前にして、アスカが自分の懐をまさぐりつつ言葉を続けた。
「いや、ワタシも最初からここを燃やそうとは思っていなかったんデスよ? ザイオンから頼まれてデータ収集をしに来ただけなんデスから。でもその途中でちょっとヤバイ奴と出くわしてしまいましてネ。そいつが好き勝手暴れたりすると非常に面倒なことになりマスから、そうなる前に倒してしまおうと思った訳デスよ」
「だから建物ごと燃やしたのか」
「イエス」
「そうまでしないといけないなんて、いったい何を見つけたんですか?」
勉吉からの問いにアスカが「チョット待っててくださいネー」と答えつつ懐を探り続ける。そしてその直後にアスカは「あった!」と嬉しげな声を放ちながら懐から手を抜き取り、そして手を広げてその中にあるものを三人に見せた。
アスカの手の中にあったのは一つの小さなガラス瓶と、その中に閉じこめられた「何か」だった。
「これは」
そこまで言って、浩一は言葉を失った。こんな物は見たことがなかった。
「なにこれ。雲?」
「でもこれ、なんか動いてますよ。生き物なんでしょうか?」
ソレアリィが片眉をつり上げ、勉吉が眼鏡を押し上げながら興味深そうに言った。その彼らの横で浩一がアスカの方を向き、彼女に向かって尋ねた。
「アスカ、これはなんだ?」
「モノですヨ」
「え?」
意味がわからなかった。再度浩一が尋ねる。
「だから、これはなんだ」
「モノです」
「モノ?」
「モノ」
「どういう意味だ」
「モノとしか言えまセン。これに名前は無いのデス」
やっぱり意味がわからなかった。揃って頭の上に「?」マークを浮かべる三人に対して、アスカは瓶を握ったまま腕を組んで「うーん」と唸った。これについてどう説明すればいいのか、いい言葉が見つからず考えあぐねているようだった。
それから暫くの間、彼女は難しい表情を浮かべたまま微動だにしなかった。が、やがて顔を上げ、開き直った表情で彼らに言った。
「十轟院の人に聞けば何かわかるかもしれまセンよ。これは元々あそこの人達が取り扱っている奴デスから」
結局、彼女は問題を他人に丸投げした。