「心の怪」
「モノとは、正確に言えば妖怪ではない。生き物でもない。そういった妖怪や怪物の大元、それらを作る素というべきか。とにかくそんな奴だ」
「モノ」の入った瓶を手の中で転がしながら多摩が言った。幼女と言ってもいいほどの背丈しかないこの麻里弥の母親は、自分の娘を心配して来てくれた客人二人に対して、娘と自分達が今何をやっているのかを説明しようとしていたのだった。モノについての説明もその一環であった。
「こいつを動かすのは人間の恐怖心だ。人間が恐怖し、恐怖によって生まれたイメージが、こいつになる。モノは人間の心でもあるんだ」
「なんで恐怖心なんですか?」
「人間が発する精神エネルギーの中で最も強力なものが、恐怖に根づくものだからだ。何かを恐れ、怯える際に発せられる心の力は、怒りや憎しみよりも遙かに強い。まず相手に恐怖を覚えさせて、初めてモノは妖怪になれるのだ」
だがそれを聞いた亮とエコーはなおも要領の得ない顔を見せており、それを見た多摩はどうしたものかと言わんばかりに頭をかいてから再び口を開いた。
「あー、なんだ、もっと簡単に言うとだな。これは紙粘土だ。工作用の紙粘土。で、これを組み立てるのはお前達。このモノを見ている人間だ」
「……つまり?」
「モノというのは決まった形を持たないのですわ。雲や霧のようにぼんやりとした存在であり、自分で自分の形を表現することは出来ないのですわ。モノの形を決めるのはそれを見た人間、その人間の想像力なのです」
麻里弥が多摩の後を継いで言った。それから麻里弥は暫し考え込み、慎重に言葉を選びながら話を進めた。
「たとえば、ある一本道の最中にモノがあったとしましょう。そして、その道を歩く中でモノと出くわした二人の人間がいます。ここまではいいですね?」
「あ、ああ。続けてくれ」
「この二人の人間、仮にAとBとしましょうか。この時AとBはここを通る前に、この道を歩いていると妖怪に出くわすかもしれないと聞いており、この道を歩く前からここに現れるとされる妖怪の姿を想像していました。そして目の前にモノが現れた時、彼らはその自分がイメージした妖怪がやって来たと思いました」
そこで一旦言葉を切り、暫く考えてから麻里弥が語りを再開した。
「まずAは、そこには自分よりもずっと背が高くて強そうな鬼の姿を思い浮かべました。その一方で、Bは自分よりも背が低くて可愛らしい猫の妖怪を思い浮かべていました。そして今、彼らの目の前には、まさに彼らの想像した通りの妖怪が姿を現していたのです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。確か二人の前に現れたのはモノなんだよな?」
「そうです」
「じゃあこういうことなのか? そのモノっていうのは、その時出くわした人間が想像していた奴に、この場合は妖怪の姿に変化したっていうのか?」
「少し違いますが、おおむねその通りですわ。ちなみにもう少し補足を加えますと、モノはモノのまま二人の目の前に飛び出してから彼らの望む姿に変化をしたのではなく、最初から彼らが想像した姿で出現したのですわ」
「ううん……?」
麻里弥が説明を続けるが、二人はわかったようなわからないような曖昧な表情を浮かべた。多摩が口を開いた。
「最初に言っただろう。モノとは妖怪を作る素で、モノの形を作るのは人間だって。私たちはそれをモノとして説明してるが、さっきの話に出てきたAとBにとっちゃ、それはもうモノじゃない。本人達がここに出てくるのは鬼と猫の妖怪だと想像した瞬間から、それはもう鬼と猫の妖怪なんだよ」
「モノとは見る人によって、それを認識した人によってその形を変える存在なのですわ。そしてどの形が正しくて間違っているのかということもないのです。AにはAの、BにはBの想像した姿で現れる。それが彼らにとってのモノの姿となるのです」
「人間の想像力がモノの形を決める・・モノを何かの妖怪だと認識した瞬間から、それは何かの妖怪になるというのか?」
多摩と麻里弥の言葉を受け、そして前に言われたことを反芻しながら亮が言った。彼の言葉を聞いた二人は軽く頷くが、その直後に今度はエコーが言った。
「でも、そのAとBは同じ一つのモノをそれぞれ別の妖怪として見てるのよね? 語弊が生じたりはしないの?」
「もちろんそれは生じるとも。相手が自分と同じ存在を前にして、それでいて自分が見ているのとは全く違う存在の姿を言っているのだからね。お前は何を言っているんだと互いに不審に思うだろう」
「じゃあそうなったらどうするんだ」
「妖怪の仕業にすればいい。妖怪に化かされているんだと思えばいいんだよ。昔の人間は実際そう考えた」
なるほど、と二人は閃いたような表情を浮かべた。わからないことがあったら妖怪のせいにすればいい。確かに簡単で、かつ効果的なやり方である。
「まあ長々と話したが、要はモノって言うのは見る人間によって姿の変わる不思議な物体ってわけだ。妖怪の素であり、また妖怪そのものでもある」
「いまいちよくわからんが、まあなんとなくわかった」
「ついでに申しますと、先日町中に現れた黒い雲、あれも全てモノですわ」
麻里弥の不意に発した言葉に、亮とエコーは体を石のように硬直させた。続けて麻里弥が口を開く。
「わたくし達は、あれら全てを導くために準備を進めているのですわ。もし失敗すれば、あれ全てが町中にあふれ出すことになる」
「かなり大きいことをしようとしてるんだな。怖くはないのか?」
「怖くないと言えば嘘になりますわ。ですが一家の中で最も力を持っているのはわたくしですから、モノの誘導はわたくしが最も適任なのです。わたくしにしか出来ないのなら、わたくしがやる。わたくしも退魔師の端くれですから」
そう断言する麻里弥の目には覚悟と誇りが漲っていた。それを見た亮は思わず息をのむ。目の前にいるのは自分よりもずっと年下の女子高生であるはずなのに、今彼は自分よりもずっと大きな存在と相対しているような錯覚に陥ったのだった。
「でも麻里弥ちゃんってそんなに強いんだ。一家の中で一番力があるって言ってたけど」
「ああ、さっき言ってたのは別に霊力とか妖力とか言ったもんじゃないよ。もっと物理的なもんさ」
「物理的?」
そんな亮の隣で疑問を放ったエコーに対して多摩が答える。それからそれを聞いて首を傾げたエコーに、多摩が横にいた麻里弥の腕を掴んで言った。
「これだよ」
「これ?」
ひゃあ、といきなり腕を掴まれて悲鳴を上げる麻里弥を無視して多摩が続ける。
「腕っ節。結局はこれがものを言うのよ」
「ああ」
「もう、お母様。いきなり人の腕を掴むのはやめてくださいな」
エコーが納得したような空返事を返す。途中から多摩の話を聞いていた亮も理解したように頷いたが、彼の脳裏にはそれとは別の思いが巡っていた。
「本当に親子だったのか……」
「ん? どうかしたかね?」
「え? あ、いや、なんでもないです」
しどろもどろな口調で多摩の追求をかわしてから、亮は話題を逸らす意味も含めて前々から気になっていたことを口にした。
「そういえば、モノについてもう一つ聞きたいことが」
それを聞いた十轟院家の親子二人の意識が、視線と共に亮の方に傾く。それを肌で感じ取った亮は表情を引き締めて言った。
「あの時の黒い雲、モノは、なんで芹沢達を狙って攻撃をしたんですか?」
問いかけながら、亮の脳裏にあの時の光景がまざまざと蘇ってきた。青空を埋め尽くす黒雲。雲の表面をジグザグに走る青白い電流。そして地上で戦う二匹の怪獣めがけて放たれた光の柱。
「まさかモノは、あの時暴れ回ってた怪獣を敵だと認識していたんですか?」
「ああ、あの時のことか。あれは簡単だよ」
そんな亮に対して多摩はそう言ってから一度湯飲みの中身を飲み干し、急須を手にとって新しく茶を入れ直しながら言った。
「怖がらせたかったのさ」
「怖がらせる?」
「そう。自分を見ている人間に恐怖心を植え付けたかったんだ」
自分で新しく入れた茶を一口飲んでから多摩が続ける。
「モノが形を得るためには、人間に自分の姿を想像してもらう必要がある。まず自分を怖い存在だと認識させた上で、人間にその心の中で細かい姿を設定してもらう必要があるんだ」
「そして、モノはモノでなくなり、その人間の想像した姿の妖怪になる」
「そういうこと。前にも言ったけど、モノは自分で自分の形を決めることは出来ないからね。でも今の人間は昔と違って、妖怪の存在を本気で信じていたりはしない。科学が発達して、その分だけ人間の教養も豊かになったからな。今のご時世じゃ、いきなり空が黒い雲で覆われたからって一々驚いたりはしないだろう」
「確かにあれを見ても、普通なら雨雲が出てきたとか、にわか雨でも降るんだろうなとかくらいにしか考えないでしょうね。いきなり出てきたことには驚くでしょうが、少なくとも怖いとは思いません」
「傘を忘れて全身びしょ濡れになるんじゃないかってくらいには怖がるかもしれないわね」
多摩に向けて放たれた亮の言葉にエコーが答える。それを聞いて小さく笑みをこぼした後、麻里弥が多摩の後を引き継いで言った。
「ですから、モノは実力行使に出たのですわ」
「あの攻撃のこと?」
「そうですわ。今の人間は自分が姿を現しただけでは恐怖しなくなった。だからその横っ面をひっ叩いて、強引に怖がらせようとしたのです」
「ずいぶん力任せなのね」
「でも手っ取り早いのは確かよ。少なくとも、ただ出現するだけよりはずっと効果的だった」
呆れるように言ったエコーに多摩が答える。その後多摩は顔をしかめ、「それがまずいのよ」と全員に聞こえる程度に小声で言ってから言葉を続けた。
「あの時モノが空に現れたのは、百鬼夜行の日が近いから。それまでいろんな場所に潜んでいたモノが一斉に動き出し、一時的に一つの巨大な存在へと変わったのよ。一つになって思考を共有し、再び分離した後も全てのモノが等しく知恵を備えている状況を作ろうとしたの。でもまだ本番の日ではなかったから、そうして集まったモノは眼下の町や人間を空から偵察するだけに留めておいた」
「どうすれば人間を怖がらせられるかを調べていたってことですか」
「そういうこと。そしてモノは、ついにその怖がらせ方を知った。だから百鬼夜行の当日、もしモノがそのまま町中に解き放たれたら、あれは積極的に人間に襲いかかるわ」
「そして襲われた人間は恐怖し、その場で自分を襲ったのは誰なのかと相手の姿を想像してしまう」
亮の言葉に多摩が頷く。一拍置いて多摩が言った。
「モノ自体に殺意や敵意はないの。ただ相手を怖がらせて、形を得ることが目的なだけ。だから昔は先日のように空を覆ったり、突風を吹かせるだけでよかった。でも今の人間はその程度じゃ驚かない。だからモノは人間を直接襲うことで恐怖を煽ろうとしている。それがまずいの」
「襲われた人間は、そのモノを自分に直接危害を加える存在として認識してしまうでしょう。自分に敵意を抱いている存在、もしくは、自分を殺そうとしている存在であると。そしてモノは、人間の想像し認識した通りの性質を持った姿に形を変える」
多摩に続いて放たれた麻里弥の言葉に、亮とエコーは背筋が凍る思いを味わった。
「それが町中いたるところで起きる。どういうことになるか、後はもうわかるわよね?」
「……人間は自分に殺される」
亮が重々しく言った。エコーが顔色を変え、それからちゃぶ台の上に身を乗り出して鬼気迫った表情で麻里弥と多摩に言った。
「どうやって止めるの?」
「今はまだ、詳しいことは申せませんわ。ですが必ず、最悪の結果は回避してみせますわ」
「何か手伝えることはないのですか?」
「その時になったら、何か頼むかもしれないわね。でも今は、少なくともその時ではない。やきもきするかもしれないけど、今は私たちに任せてほしい」
多摩がそう言って、エコーに続けて問いかけてきた亮の目を見つめる。亮はそのまっすぐな目を受け、一つ息を吐いて肩の力を抜いてから言った。
「わかりました。今は待ちましょう。エコールもそれでいいな?」
「……ダーリンがそう言うなら」
亮に問われたエコーもまた、体から力を抜いてゆっくりと元々座っていた場所に腰を下ろす。そんなこちらの意図を理解してくれた二人に対して多摩は「すまないが、よろしく頼む」と座ったまま頭を下げ、麻里弥もそれに続いて頭を下げた。
亮とエコーも「こちらこそ」と、同じ所作で返す。
「ちなみに、百鬼夜行はいつ始まる予定なのですか?」
頭を上げたところで亮が尋ねる。多摩がなんでもないことのようにさらりと言った。
「明後日だよ」
亮とエコーの頭の中は真っ白になった。




