「死の淵」
優が次に意識を取り戻した時、開けた視界に一番最初に入ってきたのは真っ白な天井だった。初めは波打つように歪んで見えたそれは、意識がはっきりしてくるにつれて陽炎のようにゆらめきながら明確な形を取り戻していき、やがて完全な天井の姿へと戻っていった。はっきりと見えるようになったその天井は、シミ一つないくらい綺麗だった。
「ここは……」
それから意識がはっきりしてくるにつれて、優は自分の周りにあるもの、自分が今「装備」しているものを次々と認識していった。
背中に感じる低反発素材の柔らかい感触、体の上にかけられたシーツ。左腕に突き刺さった針とその針を通して体内に薬品を注入する点滴装置。横で規則正しく鳴り響く心電図の音。口元に当てられ、どこかへとチューブが伸ばされたた呼吸器。それらから放たれ、自身の鼻をくすぐる消毒液の匂い。
そしてそれらの体感した情報から、優は今自分が病院のベッドの上に仰向けに寝かされているということを認識した。ついでに三つ編みもほどけて、癖だらけの長髪が跳ねっ返りまくっていたことも。。
「病院の……」
おかしい、と優は真っ先に思った。
自分は少し前まで町のド真ん中で戦ってたはずだ。巨大化して、怪獣の姿になって、牛頭の怪獣とドンパチやっていたはずだ。しかし空から光を浴びて、そのあまりの眩しさに思わず目を瞑って、そして気づいたらここにいた。
おかしい。優は再度思った。そしてそのことを再認識した直後、彼女は自分の体が鉛のように重くなっていることを自覚した。風邪を引いた時に感じる気怠さに似たものだったが、こちらはそれとは段違いの重さだった。まるで自分はこれから死ぬのではないのかと思ってしまうくらい、全身から力が抜け落ちていたのだ。
自分が今どんな状況に置かれているのかわからず、覚醒した頭は今や混乱の極地にあった。
「気づいたか」
不意に横から声がした。自分を気遣うような、必死さの滲み出た男の声だった。
「誰?」
言いながら首を右に回す。その動きは酷く緩慢で、まるで動かすまいと何者かによって上から頭を押さえつけられているかのようであった。
「無理するんじゃない」
やがて完全に首を回し終えると、その優の視線の先には椅子に座った新城亮の姿があった。その顔は不安に満ちて、優の顔を捉えて離さなかった。
「お前は満身創痍なんだ。まだ体を動かしちゃいけない」
「まんしん、そうい?」
優がオウム返しに尋ねる。その言葉は荒い息に混じって切れ切れでに放たれたものであり、いつ意識が途切れてもおかしくない状態だった。
実際、この時の優はとても酷い顔をしていた。顔からは血の気が失せて全面真っ青で、死人といっても通じるくらい真っ白で生気を感じることが出来なかった。おまけに彼女の口に当てられた呼吸器と彼女の隣に置かれて一定のリズムを刻む心電図の存在が、優の置かれている状況の深刻さを言外に物語っていた。
「そういえば、体がうごかない」
そんな自分の状況を知ってか知らずか、優は首を亮の方に回したままそう言った。それから優は笑おうとしたが、口の端をひきつらせるのが精一杯だった。
「なんでですか? なんで私、こうなっちゃったのかな?」
亮の方を見ながら優が言った。その言葉は死期を悟った患者のように弱々しかった。首を元の位置に戻す気力も体力も無かった。
縋るような目で優が言った。
「なんで?」
助かりたかった気持ちもあるだがそれ以前に、優は知りたかった。自分の身に起きた出来事を知らずに死ぬのは絶対にごめんだった。
「わかった」
そんな優の気持ちを悟った亮が口を開いた。彼の説明は非常に簡潔な物だった。
「今から数時間前、二匹の怪獣が戦ってる時にいきなり空が雲に覆われてな。そしてその雲からいきなりレーザービームのような光が怪獣二匹に向かって放たれて、怪獣のいた辺りが丸ごと抉られてクレーターになった。で、そのクレーターの中心部に、私服姿のお前が倒れていた。満身創痍の状態でな」
「そういうことですか。もう一匹の方は?」
「影も形も無かった。あそこにいたのはお前だけだ。本当にヤバかったんだぞ」
「そうなんですか」
本気で心配する亮に対して、優の返答は素っ気なかった。そんな予想より軽い反応を受けて鼻白む亮に、今度は優の方から声をかけた。
「じゃあ、あのとき戦ってたのは私だってこと、先生は知ってるんですね」
「ああ。それに俺だけじゃない。あの時教室に残ってた奴らはみんな感づいてた」
「そうなんですか」
優がため息混じりに答える。それから優は無理に笑おうと口の端を吊り上げて、目を細めて亮に言った。
「私があの時、なんて名前の獣に変身してたか、知りたいですか?」
「まあ知りたいって言われたら知りたいが、今はお前の治療が先だ。お前が健康になって退院したら、そのときに聞く。だから今は休むことに集中しなさい」
「ケガが治ればいいんですよね?」
釘を差した亮に優が平然と言い返す。何が言いたいのか、と勘ぐる亮に、続けざまに優が口を開いた。
「ジャヒー、います? あの全身真っ赤なの」
「あののっぺらぼうか」
「そうです」
「あの人なら今廊下にいる。D組の生徒も一緒だ」
「みんな来てるんですか?」
「ああ。もう遅いから帰れって言ったんだが、お前が無事かどうかわかるまで帰らないって駄々こねてな。でも病室全員ドカドカ入り込むのは失礼だからって言うんで、代表して俺が確認取りに来たって訳だ」
「……いま何時なんですか?」
「夜の七時だ」
「もうそんなに」
優が愕然として呟く。そんな優を見つめながら、亮が「ジャヒー呼ぶか?」と小声で問いかける。
優がわずかに頭を上下に揺らす。それを見た亮は立ち上がって病室のドアをわずかに開け、そこから顔だけ出してジャヒーを呼んだ。
「芹沢が呼んでます。来てください」
亮に呼ばれて病室に入ったジャヒーは、その優の惨状を見て一瞬気配を強ばらせた。だがすぐにそれをほぐし、優と亮、そして自分自身を安心させるために言葉を吐いた。
「大丈夫よ。生きてるならどうとでもなる」
それからジャヒーは優の方を見て静かに言った。
「私を呼んだってことは、あれをするってことでいいのかしら?」
「ええ、おねがい」
「いいの? この人に見せちゃって」
「いい。先生は、だいじょうぶな人だから」
「……わかったわ。じゃあ早速やるわよ。じっとしててね」
「ええ」
「何をする気だ」
亮が訝しんでジャヒーに尋ねる。ジャヒーは右手を頭の位置まで持ち上げ、その手の周りに緑色のエネルギーを纏わせながら答える。
「治療よ」
その直後、ジャヒーはその緑一色に染まった手をシーツの上から優の腹に突き刺した。
手を刺した周りのシーツが内側から真っ赤なシミで染まる。優がかっと目を見開き、息の詰まるような苦悶の声を上げる。
「な……っ!」
驚きのあまり、ジャヒーと優を交互に見ながら亮が言葉を詰まらせる。だがジャヒーはそんなことお構いなしとばかりに、何も言わないでじっと突き刺した手を見つめ続けていた。
「もういいわね」
その内ジャヒーがそう呟き、ゆっくりと手を引き抜いていく。亮にとっては酷く長い時間に感じた瞬間だったが、実際は十秒も経過していなかった。
また不思議なことに手が突き刺さった部分のシーツに穴は開いておらず、ジャヒーの手にも返り血のような物は微塵もついていなかった。シーツの一部分は真っ赤に染まっていたが、そのシミにしたところでそれ以上広がる様子は無かった。
そして何より不思議なことは、ジャヒーが手を引き抜いたその瞬間から、優の顔色が目に見えて良くなっていたということであった。
「これは」
亮が驚くのも無理はなかった。それまで死人のように青ざめていた優の顔が、見る見る内に血の気を取り戻していっていたのだ。
そして数秒もしない間に亮の目の前で優はいつも通りの血色の良い顔色を取り戻した。さらに彼女はその直後、自力で上体を起こしてシーツを取っ払い、呼吸器を片手でひっぺがし、それを投げ捨てると同時に自分の身につけていた貫頭衣の襟元から中に手を突っ込み、胸についていた心音検知用の電極を丸ごとむしり取った。
ちょっと前まで死にかけていた人間とは思えないほど暴力的で、活力に満ちた振る舞いだった。
「お、おい、お前」
亮はその様子をおっかなびっくり見つめていた。本当は回復しているように見せかけた、ただの空元気なのではないかと疑わずにはいられなかった。
だがそんな担任の心配などお構いなしに、優はついにベッドから降りて自分の足で立ち上がった。よろめくことも倒れることもない、自然な動作だった。
完全に健康体の人間が見せる動きであった。
「……大丈夫なのか?」
唖然としながら亮が尋ねる。優はそれを聞いて、今度こそニヤリと不敵な笑みを浮かべて答えた。
「ええ。もう大丈夫よ、先生」
それから優は、亮とジャヒーと共に病室から廊下に出て行った。そこには学校から直でここまで来たために制服姿のまま不安げに待ち続けるD組の面々の姿があり、彼らは病院に連れ込まれて数時間で完全復活した優の姿を見て安堵よりもまず驚愕の表情を前に出した。
「え、もう?」
「なんで?」
「全治半年はかかるとか言ってなかったっけ」
そして生徒達はそんな胸の内の疑問を解消しようと、互いに顔を合わせて話し始める。亮達のことなどお構いなしだった。
亮はその生徒達を一通り見渡してから手を叩いて彼らの話を中断させ、それと同時に彼らの意識を自分の方に向けさせた。そして亮の思惑通り全員の目線が三人の方に向けられ、それを見た亮は言い聞かせるように言葉を放った。
「みんな、とにかく芹沢はもう大丈夫だ。まだ油断は出来ないが、とにかく回復はした」
「でも先生、いくらなんでも速すぎます」
「それはわかってる」
「先生は何が起きたか見てたんですか?」
「まあ見るには見てたが、そのとき何が起きたのかについては俺もよくわからん。もちろんあの時何をしたのか俺だって知りたいが、今日はもう遅い。今日はこれくらいにして、詳しいことを聞くのは明日にするんだ。いいな?」
亮の言葉を受け、生徒達はいそいそと帰り支度を始めた。中には納得行かない表情の生徒もいたが、それでも彼らは教師の言うことに従うことにした。
「先生、私はどうすれば?」
「お前は今日はここにいなさい。一応お医者さんに診てもらうんだ」
「もう私は大丈夫なのに」
そして優からの問いかけに亮はそう答え、それを聞いた優はため息混じりにそう返した。その優のわき腹を小突きながらジャヒーが言った。
「先生の言う通りにしておきなさい。第一、今日担ぎ込まれたばかりの患者がいきなり姿消してたら、ここの医者達がびっくりするでしょ?」
「ああ……それもそうね」
ジャヒーの説明を聞いて優が納得する。それから優は「じゃあ先生、今日はこれで」と亮に軽く挨拶をすませてから横開きのドアに手をかける。
「あ、そうだ先生」
だがそのドアを半分ほどあけた所で優は動きを止め、自身もそこから離れようとしていた亮に向かって声をかけた。
「なんだ?」
亮が振り返って優の方を見る。その亮に優が言った。
「先生はあの雲の正体、知りたいですか?」
「なに?」
「私達を倒したあの黒い雲です」
「お前はあれを知ってるのか?」
亮の問いかけに、優は首を横に振った。それから優は亮をまっすぐ見つめて言った。
「でも、あれを知ってる人なら知ってる」
「それは誰なんだ」
「十轟院麻里弥」
「あいつが?」
優が頷く。そういえばD組の生徒たちが揃ってこの病院に集まった時、麻里弥だけがここにいなかった。亮はそのことを思い出した。
だが亮が何か言おうとしたところで、優が先に言葉を発した。
「詳しいことはあの子に聞いてみたら。何かわかるかもしれないですよ」
「あ、おい、待て」
亮の呼びかけもむなしく、優はジャヒーと共にさっさと病室に入ってドアを閉めた。亮はそのドアをこじ開けて強引に聞き出そうとは考えなかった。いくら回復したと本人が言っていたとしても、相手は今日運ばれてきた重傷患者なのだ。これ以上負担をかけるのは止めた方がいい。
「細かいことは明日だな」
結局、亮はそれだけ言って病院を後にした。この時、件の病室の中では優がベッドの上にあぐらをかいて座り、亮がドアを開けて中に入って来るのを待ち構えていたのだが、いつまで経っても音沙汰がないのを前にしてがっくりと肩を落とした。
「来ると思ったんだけどな」
「そこまで強引な性格してるようには見えなかったけどね」
不満げに口を尖らせる優にジャヒーが答える。そのジャヒーを睨みつけながら優が言った。
「ところでさ、なんでお前がここにいるのよ」
「監視よ」
「なにそれ」
「あなたが変なことしないで、ちゃんと寝てくれるかどうかを見守るの」
「余計なお世話よ」
そういって顔ごと視線を逸らす優の肩をジャヒーが掴み、力任せにベッドの上に押し倒す。
「なにを……!」
そう言い掛けた優の顔に、ジャヒーが自分の顔を近づける。優の鼻の頭とジャヒーの平坦な顔の表面がくっつくほどの至近距離だった。
そうして威圧感で優の言葉を封じ込めた後、ジャヒーが顔を離してから優に言った。
「今日はもう寝なさい。いくら獣の魂で回復したと言っても、あなたが数分前に死にかけていたのは事実なの。病み上がりが無理しちゃいけないわ」
「それは」
「いいから。寝なさい」
ジャヒーが畳みかける。その言葉は柔らかく、子供をあやす母親のような声だった。優は納得行かないとばかりにジャヒーを睨みつけていたが、そのうち観念したのか自分でシーツをかけ直して眠る姿勢を作っていった。
「おやすみ」
そしてぶっきらぼうに優がそう告げながら目を閉じる。ジャヒーはそんな優の姿を見ながら、それまで亮が座っていた椅子をベッドのすぐそばにまで移動させ、それに腰掛けて優の寝顔を見つめた。
やはり疲れていたのか、ジャヒーがそうして見つめる頃には優は既に眠りについていた。そんな小さく寝息を立てる優の目元にかかった前髪を優しくかきわけながら、ジャヒーが小さな声で言った。
「おやすみなさい」