「表と裏」
その日、橘潤平は午後の授業を早退して自宅に戻っていた。彼が家族と共に住む家は学園に近い駅を使って電車で三十分ほど離れた所、都会の外苑部に建てられており、一昔前に「億ション」と呼ばれていた高級高層マンションであった。その中の一室、窓から町の姿を一望できるほどの高さの位置にある所を借りていたのだ。
「帰ってきたか」
エレベーターで目的の階にたどり着き、自宅の玄関のドアを開けてまっすぐリビングに向かう。そして彼がリビングに到達すると、そこにいた一人の男がそう声をかけてきた。男は潤平の視線の先にある一面に張られたガラス窓の方を向いて、潤平に背を向ける格好で立っていた。
男の放った声はしわがれていたが、それでいて存在感を失わない重厚な声だった。
「ただいま帰りました。父上」
その声を聞いた潤平が背筋を伸ばして答える。そして潤平が声を放つと同時に、男がゆっくりと振り返った。
「ああ。よく戻ってきた」
父と呼ばれたその男は非常に険しい顔立ちをしていた。眉間には皺が刻まれ、眉は太く、目は研がれたばかりの刃のようにギラギラと光を放っていた。口元は堅く引き締められ、頬と顎も同様に引き締まっていた。皺こそあれど、無駄な贅肉は欠片も存在していなかった。
それは幾度も修羅場を潜り抜けてきた男の顔、老いてなお最前線で戦う男の顔だった。人によってはその見た目から「鬼軍曹」というあだ名を考えつくかもしれない。だが大抵の人間はそれを考えついたとしても、この男の放つ威圧感を前にして面と向かってそれを言う事はできなかっただろう。
「まあとにかく座れ。それからゆっくり話をしよう」
彼の名は橘兵庫。橘潤平の父。
「少し、お前に話したい事があってな」
元警察庁長官にして「警察のご意見番」、そして橘潤平の父。
彼はとにかくおっかなかったのだ。
「話ですか。今日はどのような内容なのですか? 自分にはこのあと午後の授業があったのですが」
だがそんな鬼のようなおっかない男を前にしても、潤平は動じなかった。それどころか彼は自然な動作でさっさとソファに座り、互いが対等の立場にいるかのように堂々と不満を口にした。
「試験に支障がでます」
「一時間の遅れくらい、お前ならどうとでも出来るだろう」
そしてその潤平の不満を受けても兵庫は動じなかった。彼はテーブルを挟んで潤平の反対側の椅子に腰を下ろし、素っ気ない口振りで潤平に答えた。
「今日お前を呼んだのは、お前と話がしたかったからだ。とても大事なことについてだ」
「大事? 学生にとって授業よりも大事なことがあると?」
潤平が目を細める。それを受け止め、さらに自分も目を細めて相手を睨みつけつつ兵庫が言った。
「そうだ。大事なことだ」
「そうなんですか。それはいったいなんなのでしょうか?」
「人を纏めること。指導者として持つべきスキルのことだ」
ほう、と潤平が声を漏らす。兵庫が続ける。
「お前は将来、人の上に立つべき男だ。俺の跡を継ぐべき男だ。だからこそ、お前には今、この話しをしておくべきだと思ったのだ。ずばり優れた指導者、優れたリーダーになるために必要な話をな」
「前置きはそれくらいで十分です父上。つまりあなたは何が言いたいのですか?」
潤平が急かすように言葉を放つ、彼はこの父の癖、何かにつけて勿体ぶるような、やたらと時間をかける言い回しが苦手だった。
言いたいことがあるならさっさと言えばいい。時間の無駄だ。潤平はいつもそう思っていた。だがそんな潤平の心の内を知ってか知らずか、兵庫は息子と話すときは決まって前置きを長くしたり勿体ぶった言い方をするのだった。
「お前、どうして最後までやらなかった?」
「何をです」
「体育館でのあれだ。ほら、数日前の」
やっと本題に入ったように見えて、やはり本筋が見えてこない。何を最後までやれと言っているのか?
悶々とする潤平に対して兵庫が続けて言った。
「お前のいる学園に、反抗的な連中がいるんだろう? そいつらを一度シメるために体育館に呼び出して、一網打尽にしようとしたそうじゃないか」
「ああ、あれの事ですか。確かにやろうとしましたね。それが何か?」
素っ気ない態度をとる潤平に、兵庫がテーブルの上に身を乗り出して詰め寄る。
「あれはお前が音頭を執ったのか」
「違います。あれはうちの生徒会副会長が全て自分でやったことです。私はただ許可を出しただけです」
「なら、最後までその副会長のケツを支えてやったのか?」
「は?」
何を言っているんだ、と言わんばかりに潤平が渋い表情を浮かべる。ソファに座り直して兵庫が言った。
「あれの事は俺も聞いてる。最後どうなったのかもな」
「そうですか」
「そもそもその計画の立案者がその副会長・・牧原忍とかいう奴だということも知ってる」
「知ってるならなぜそのことをわざわざ聞いたのです?」
「さっき言っただろう。お前は最後までそいつを支えてやったのかと」
兵庫がその表情をより一層険しくして、続けて言った。
「お前はリーダーだ。リーダーはただ上に立って指示を出すだけではない。指示を与えた人間を支えてやることも大事なのだ。ほったらかしにするだけでなく、面倒を見てやることも大事なのだ」
そういうことか。潤平は父の言いたいことを理解すると共に、すぐさま父に向かって反論を述べた。
「それは部下を甘やかすことになるのではないですか? 与えられたタスクをこなすことは、つまりその人間の成長に繋がります。手取り足取り面倒を見てやるというのは、その成長の機会を潰す事になる」
「確かにそうだな。お前の言うとおりだ。ヘルプも度が過ぎればただの邪魔でしかない」
「そういうことです。だから」
「だがお前の場合は違う。やり過ぎなのだ。お前の場合は行きすぎた放任主義、いや、ただの面倒くさがりだ」
決めつけるような兵庫の言い分に潤平が顔をしかめる。お構いなしに兵庫が続ける。
「お前は指示だけ出して終わりだ。あえて何もしないのではない。何もしようとしないのだ。部下の手綱を持とうとすらしない。この違いがわかるか?」
「それが何か問題でも?」
「大ありだ。リーダーが部下を引き締めなくて誰がそれをするというのか。あの牧原忍にしたところで、お前が放任したりせずにしっかり手綱を握っていれば、あんな事にはならなかったのだ」
牧原忍、という名前を出されて、潤平がその顔を一気に苦いものに変えていく。その名で呼ばれた少年は現在「地底騒乱罪」という名の罪に問われ、地下深くに存在するとされる都市空間の中にある刑務所に服役していた。
忍は地上で怪獣ニ体がビッグマンデュエルを行っていた際にも地底に留まっており、そのおかげで亮達のように一度町ごと死んだりせずにすんでいた。だが今では、その「刑務所にぶちこまれた」という部分だけが一人歩きして「月光学園のエリート様が刑務所行きになった」というゴシップへと変化してネット上を駆けめぐり、月光学園の評判をさらに貶めていた。
誰が最初にこの噂を広めたのか。それは忍にも、学園長を初めとする教師陣にもわからなかった。
「さて、これくらいやっておけばもう十分だろう」
「あんたも結構ゲスい事考えるよなー。悪党の鑑だぜ」
この時件の地底都市ではそこの管理人である禿頭のザイオンとそこの用心棒を務めるチャラ男のセイジが、パソコンのディスプレイを前に揃って悪どい笑みを浮かべていた。当然地上の連中はこのことに気づいていなかった。
「とにかく、お前にはリーダーとしての自覚が足りん。足りんからこそ、この状況を生んだのだ」
その事実を知らないまま、兵庫が潤平に向けて言葉を放つ。ほとんど事実であったので、潤平は何も言えなかった。
その潤平に対して兵庫が言葉を続ける。
「お前はこれから、ここで上に立っていかなければならないのだ。わかるな? この人間の世界でだ。だからこそ、お前は人間の気持ちに敏感でなければならない。何よりもまず、相手の人の心を知らなければならないのだ」
「……」
潤平は黙ってその説教を聞き続けた。その後も兵庫による「ありがたい話」は続けられた。
だがその話の中に、「人間以外の生命」の話題は欠片も出てこなかった。昔の価値観に囚われていた橘兵庫にとって、その発想はついぞ浮かんでこなかったのだ。
潤平はそんな父の話を、子供の頃から聞かされて育っていた。それが彼にとって絶対の価値観になるのに、そう大して時間はかからなかった。
「例の物が動き始めました」
十轟院家の居間で中庭に面した縁側に腰掛けていた十轟院厳吾郎は、背後から聞こえてきたその言葉を受けて表情を堅くした。
「お前も見たか」
「はい。麻里弥からもあれを見たと、メールをもらっています」
厳吾郎があぐらをかいたまま、無言で声のする方へ体を動かす。そして自分の背後にいた、正座をしてこちらをじっと見つめるスーツ姿の男と目線を合わせ、厳吾郎が重々しく言った。
「タケルよ、どうやら予定を前倒しにしなければならんようだ」
「そうなりますか」
「うむ。おちおちしてはおられんぞ」
そう言いながら顔を険しくする厳吾郎を前に、タケルと呼ばれた男もまたその妹に似て端正な顔を引き締めた。
十轟院猛。十轟院麻里弥の実兄である。
「細かい準備は儂とトヨの方で進めておく。お前はまず、スケジュールが前倒しになったのをマリヤに伝えるのだ。それから例の、獣使いのユウにもな」
「わかりました。詳細な日程については?」
「それは追って説明する。今はとにかく、決行日が早まるかもしれんということをあの二人に伝えてくれい」
「わかりました」
猛が座ったまま頭を下げる。それを見た厳吾郎は一つ頷いてから立ち上がろうとしたが、片膝を上げたところで猛が彼を呼び止めた。
「お爺様、少し」
「なんだ?」
その場に座り直して厳吾郎が問いかける。真剣な眼差しで猛が言った。
「警察には連絡なさるのですか?」
「もちろんそのつもりだ」
「彼らが素直に聞くでしょうか」
猛からの言葉を受けて、厳吾郎は腕を組んで押し黙った。その顔は苦虫を噛み潰したような酷い物だったが、それを見ても猛は特別動揺したりはしなかった。むしろ「ああやっぱり」と半ば予想していたかのように呆れた顔をしていた。
「素直に聞いてはくれませんか」
「聞いてくれるだけマシというところだ。最近の奴らはこちらの話を聞こうともしない。なんでもかんでもただの迷信で片づけようとする」
「迷信ですか」
「そうだ。そんな物あるわけないと頭ごなしに否定してくるのだ。自分の価値観がこの世の全てであると思いこんでいるんだよ」
「ばかばかしいですね」
猛が頂垂れながら言葉を漏らす。その声は本当に気疲れしていた。厳吾郎もその彼の言葉に頷き、それから視線を下げたままの彼に向けて言った。
「だが、それでも儂らはやらねばならない」
「この国のために」
「この国の人のためだ。それが退魔師の使命だ」
厳吾郎が一層強い語調で言い放つ。それを受けた猛は重い腰を上げ、立ち上がった後でスーツの襟を正しながら厳吾郎に言った。
「わかりました。では行って参ります」
「頼むぞ」
猛が頷き、厳吾郎に背を向けて居間を出て行く。そして猛が居間からいなくなった後、厳吾郎は再び縁側の方に体を向けて中庭に目を移し、その池と砂利と木立で出来た景色をぼうっと見つめながら言った。
「さて、儂もあの馬鹿共に話してくるか」
この時厳吾郎の脳裏には先ほど自分が言った馬鹿共の顔、警察の高官連中の顔が次々と浮かんでは消えていっていた。こちらの忠告を一蹴し、それどころか退魔師を「子供の遊び」と鼻で笑う蛆虫共。
そんな連中の顔を思い出すだけで、厳吾郎は腸が煮えくり返るような怒りを覚えた。宇宙人や怪獣、最近では牛頭の怪物まで現れたというのに、奴らはそれでもなお自分達の価値観が最も正しいと思っている。奴らは己がこの世の頂点に立っていると思いこみ、心の成長を、想像の翼を広げることを止めてしまっているのだ。
歳を取ったから、は言い訳にはならない。人はやろうと思えばいつでも成長出来る。だが奴らはそれをしようとしない。井の中の蛙とはまさに奴らの事を言うのだろう。
「ああ、まったく嫌になってくる」
そんな頭の中に現れては消えていく穀潰し共の顔を頭を左右に振って意識の外に追い出しながら、厳吾郎が立ち上がる。あいつらに事の説明をするのは本当に嫌な仕事であるが、これも退魔師の使命である。厳吾郎はそう割り切って、声を張り上げてトヨを呼び出しながら警察に向かう支度を始めた。
この時、彼が意識から追い出した顔の中に、橘兵庫の顔もあった。厳吾郎にとってはその顔も十把一絡げの一つにすぎなかった。