「肉体言語」
芹沢優が蚩尤の元に向かったのはちょうど月光学園で帰りのホームルームが始まった頃、朝五時に十轟院家の地下鍛錬場で起床して家人の誰にもその存在を悟られないようそそくさと自宅に帰り、我が家で適当に時間を潰した後であった。
この時、優の脳内には自宅に帰った後で学園に向かうという選択肢は無かった。普通に面倒くさかったからだ。
「久シブリダナ。今日ハナンノ用デココニ来タ?」
「統括府」と呼ばれている蚩尤の住まう建物の中に入るには許可証が必要であり、それを持っているのは蚩尤に認められた者だけであったのだが、獣使いとして契約を結んだ優は特別に顔パスで自由に出入りする事が出来た。この時優は片方の手に膨れ上がったビニール袋を持っていたが、誰もそれを気にかけなかった。
それから優は迷いのない足取りで二階にある部屋の一つへと向かい、そしてノックもせずに室内に入った優を見て、その中にいた蚩尤は懐かしさのこもった声を上げた。
「酒盛リカ? 宴カ? 何ヲシニ来タノダ?」
漆黒の獣毛に覆われた大柄な体。雄々しく伸びる二本の角を生やした牛の頭。いつの間にか再生していた、体と同じく滑らかな毛に覆われた筋骨隆々の腕。ルビーのように爛々と赤く輝く二つの瞳。それら全てが人間とは一線を画した存在感を放っており、生半可な覚悟で相対した者ならば一瞬で気を失ってしまうほどの威圧感を持っていた。
その彼が住まうこの部屋はこの日の前日に優が訪れた場所、十轟院家の地下にある鍛錬場ととても似ていた。床と壁と天井は全て木材で組まれ、照明の代わりに篝火が部屋の四隅に焚かれて煌々と光を放っていた。篝火の炎は赤く、部屋の中は薄い橙色に染め上げられていた。
室内に収納棚や作業用のビジネスデスクといった類の備品は一つも置かれていなかった。ただ部屋の真ん中に座布団が一つ、部屋の隅っこに来客用の急須と紙コップ、そして予備の座布団が堆く積まれているだけでだった。
「マア座レ。立チ話モアレデアロウ」
つい先日回収して装着したばかりの左手を上げて真上に突き出した人差し指をくるくる回しながら蚩尤が言った。一方でその蚩尤の指の動きにあわせて積まれていた座布団の一枚がひとりでに浮遊し、蚩尤の向かい側の位置に向かってゆっくり飛行し、やがてその位置に着地する。
そうして置かれた座布団の上に優が腰掛ける。ミニスカートを履いてきたにも関わらず彼女はその上で胡座をかき、そして手に持っていたビニール袋を互いの間に置いた。
「ソレハ?」
「最後の晩餐」
優が素っ気なく返す。蚩尤は気にすることなくビニール袋の中に手を突っ込み、その中に入っていた物を引っ張り出した。
その蚩尤の手にはウイスキーを満たした瓶があった。軽く驚いたように蚩尤が言った。
「ホウ、本当ニ宴ヲスルツモリナノカ?」
「まあね。言ったでしょ、最後の晩餐だって」
酒瓶と優を交互に見つめながら蚩尤が尋ねる。
「ドウイウ意味ダ」
「契約の履行に来たの」
優が蚩尤をまっすぐ見つめる。蚩尤もまた優の目をまっすぐ見つめ返し、そのうち優が口を開いた。
「お前を封印しに来た」
ホウ、と蚩尤が声を漏らす。そこに非難や恐怖の色は無く、ただ驚きと「今になって来たのか」という呆れの感情が含まれていた。
「随分ト遅イナ。三日経ッタラスグニ来ルモノダト思ッテイタゾ」
優と蚩尤が交わした契約は「蚩尤はこの町で好きなように行動してもいいが、優が封印をすると言ったら素直にそれに応じなければならない。ただし契約を結んでから三日の間は、優は蚩尤を封印することは出来ない」というような内容のものであった。この契約を結んだとき、蚩尤はてっきり三日経ったらすぐに優が飛んできて自分は封印されるものだと考えていた。
だが実際に優がこうして訪れたのは、契約を結んでから二週間以上も経過した頃であった。契約を結んだ獣使いが自分の想像以上に職務怠慢な存在である事に、蚩尤は驚きを隠せなかったのだった。
「ヤル気ガ無イノカ?」
「やる気っていうかさ、お前普通にいい統治してたじゃない? だから変に封印しなくてもいいかなって思ってね」
蚩尤からの問いかけに優が答える。心底どうでも良さそうな、素っ気ない口振りだった。蚩尤は表情にこそ出さなかったが、内心ではこの相手のやる気のない態度を見て呆然としていた。
だがその次の瞬間、目を細めて蚩尤を睨みつけながら優が真剣な声で言った。
「でもこっちの方で急に用事が出来てさ。そうも言ってられなくなったのよ」
「用事トナ? ソレハナンダ?」
「悪いけど言えない。詳しくは私も知らない」
「ナルホド」
蚩尤が納得したように頷く。その一方で心の奥では一瞬で変貌した優の顔と雰囲気を前にして「やればできるのか」と彼女に対する評価を改めていた。
蚩尤がそんな事を考えている一方で、優がやや体を前のめりに傾けて詰め寄るように言った。
「そういう訳だから、封印させてもらうわよ。まだやりたいこともそれなりにあったんでしょうけど、悪く思わないで」
「仕方アルマイ。ソレガ契約ダカラナ」
「本当に義理堅いのね。人間とは大違い」
「我ヲ屑共ト一緒ニスルナ」
「ごめんなさい。謝るわ。それじゃあ謝るついでに、最後に一つ願い事を叶えてあげる」
「ナンダト?」
蚩尤が目を細める。優の発言の意図を掴み損ねている感じであった。
「サッサト封印スレバイイモノヲ。何ガ目的ダ?」
「いや、だってほら、お前にしてみればいきなりな話だったでしょ? まだ覚悟とか心の準備とか十分出来てないかもしれないって思ってさ」
「見クビルナ。ソノクライノ覚悟ナラトウノ昔ニ出来テイル」
「あ、そうなの。さすがは蚩尤様。じゃあこの話は無しで」
「待テ」
嫌味たっぷりに言葉を吐きながら立ち上がりかけた優を蚩尤が引き留める。それから蚩尤は元の席に座り直した優を見据え、恥ずかしげもなく堂々と言い切った。
「誰モイラヌトハ言ッテイナイ。ソノ権利、我ハ使ウゾ」
「あら、そうなの?」
「モラエル物ハモラウ。ソレダケダ」
「ふうん。まあ私はどっちでもいいけどさ」
言いながら優が軽く首を回す。その彼女の前でウイスキーの蓋を開け、一飲みで中身の半分を一気に飲み干した後、蚩尤がげっぷ混じりに言った。
「封印サレル前の最後ノ願イ。聞イテモラウゾ」
「いいわよ。でも内容はちゃんと叶えられる程度のものにしてよね。世界征服とか言われても無理だから」
「ソンナ大ソレタ事デハナイ。モット単純ナ事ダ」
「何がしたいの?」
優が尋ねる。残り半分を飲み干し、口の端を拭いながら蚩尤が言った。
「ソレハナ」
二分後、新宿の町のド真ん中で二匹の巨大怪獣が激突した。片方は全身を黒毛で覆われた牛頭の人型の怪獣、もう片方はワニの頭と手足とウミヘビの体を合体させた長大な体躯の怪獣だった。
牛頭の人型怪獣は蚩尤がそのまま巨大化したもの。ワニ頭の蛇怪獣は芹沢優が変化した水棲の獣であった。彼らは「封印される前にもう一度優と戦いたい」という蚩尤の提案を受け入れ、今こうして町中で激突していたのだった。
「もらった!」
「ヌウウ!」
そしてその町中に突如出現したワニ蛇は、今まさにその長い体を利用して蚩尤の全身に巻き付いていた。そして体から生やしたワニの前足で牛の両肩をがっしりと固定し、口を大きく開いて蚩尤の牛頭にかぶりつこうとしていた。
「おおっと! 蛇怪獣が牛怪獣に噛みつこうとしている! これはもはや万事休すかーッ!?」
いつの間にか周囲にカメラつき円盤を配置し実況を開始していたラ・ムーが声を大にして叫ぶ。そしてその次の瞬間、大口を開けていたワニがやや顔を後ろに引いた後、牛頭めがけて一気にかぶりつこうとした。
「フザケルナァ!」
だが自身の頭がワニの口内にすっぽりおさまった瞬間、蚩尤が叫んで両腕に力を込めた。
蚩尤の膂力はワニ蛇のそれを遙かに上回った。蚩尤が両腕を大きく振り上げると同時に、それまでその体に巻き付いていた蛇体が強引にふりほどかれた。
「ちいっ!」
すんでのところで拘束を破られたワニ蛇は、しかし冷静さを失わなかった。頭を後ろに引いて口を閉じ、すぐさま地面を這って距離を取った。そこにある車や標識、信号機などを根こそぎ吹き飛ばしながら蚩尤から離れ、そしてある程度間合いを取った所で蚩尤と向き合い悪態をついた。
一方の蚩尤もワニ蛇が自分から離れようとした所で、今度は自分が相手を拘束してやろうとその蛇体めがけて手を伸ばしていた。だがワニ蛇の動きは迅速であり、結局まっすぐ伸ばされた蚩尤の手は虚しく空気を掴むだけであった。
「逃ゲ足ダケハ速イナ」
その前に突き出された手をゆっくりと引き戻しながら蚩尤が呟く。ワニ蛇は人語で答える代わりに顔を低めて前に突き出し、先端が二股に分かれた舌を震わせて威嚇した。
「蛇怪獣、負けないとばかりに威嚇を始めた!」
「シャーッて鳴いてますね。やっぱり元は蛇なんですね」
空中ではそれを見たラ・ムーの実況に合わせてソロモンが解説を加えていく。
状況が動いたのはまさにその時だった。
「逃ガスト思ッタカ!」
蚩尤がワニ蛇めがけて一直線に駆け出した。進行方向上にあった歩道橋を吹き飛ばし、高層ビルを正面からぶつかって粉砕しながら、まっすぐにワニ蛇を目指していった。
ワニ蛇は逃げなかった。体を後ろにまっすぐ伸ばし、頭を持ち上げて蚩尤を睨みつけながらじっとその場に留まっていた。
蚩尤が飛びかかる。漆黒の巨体がワニ蛇に覆い被さらんとする。
「ふん!」
だが蚩尤が落下を始めた瞬間、ワニ蛇は待ってましたとばかりに体をくねらせ、猛烈な勢いで前を向いたまま後退していった。
ワニ蛇を踏みつけようとしていた蚩尤の両足がむなしく道路に着地し、周囲のコンクリートごと接地面を陥没させる。
蚩尤が着地し、膝を曲げて衝撃を殺す。その一瞬の隙をワニ蛇は見逃さなかった。下顎が地面につくほど姿勢を低くし、前脚で地面を叩く。
直後、ワニ蛇の体が跳んだ。地面を叩いた反動を利用し、ワニ蛇の長大な体躯がまるで槍のように、蚩尤めがけてまっすぐ飛びかかった。
「あーっ! 跳んだ!」
ラ・ムーが叫ぶ。だが彼が叫んだ時にはワニ蛇は既に口を開けながら蚩尤に肉薄していた。
蚩尤が着地してからワニ蛇が飛びかかるまで、全てコンマ数秒の内に行われた事だった。衝撃を殺しきり顔を上げた蚩尤がそれに気づいた時には、もう手遅れだった。
ワニ蛇が蚩尤の左腕に噛みつく。そして飛びかかった勢いのままに蚩尤を押し倒し、地面に倒れ伏した蚩尤を再び蛇体で拘束した。
「そして噛んで! 押し倒す! 形勢逆転!」
ラ・ムーが声を大にして叫ぶ。その間にもワニ蛇は噛む力を強めて蚩尤の腕を噛み千切らんとする。
蚩尤も当然もがいたが、今度の場合は片腕が激しく噛みつかれていたので力を出し切れずにいた。痛いから動けなかったのではない。噛まれた事によって腕がその場に固定され、思い切り動かすことが出来ずにいたのだ。
体を左右にねじって脱出をはかろうとするが、巻き付いた蛇体はびくともしない。仰向けに倒された蚩尤の目には蛇の体と、その向こうにある澄んだ青空が映っていたが、それらに意識をやる余裕は蚩尤には無かった。
そんな蚩尤の目に映る青空に、突如として異変が生じた。それまで雲一つ無かった空のある一点から青白い電流が放射状に迸り、そしてその電流の生まれる中心部から湧いて出てくるように、突如としてひとかたまりの黒雲が出現した。それはまるでビーカーに満たされた水の中に、黒いインクの滴を垂らすような現れ方であった。
「ん? あれは……」
「なんでしょうか……?」
そうして生まれた雲はその後も中心部から湧き水のように瞬く間に周囲に広がっていき、空を一瞬で覆い尽くしてしまった。雲の表面では絶えずどこかで青白い電流が迸り、地上にまで届くほどの雷鳴を響かせた。
「アレハ……」
その一瞬で変わり果てた空を目にした蚩尤が思わず呟く。その蚩尤の体からは力が戦意と共に抜け落ちていき、ついには巻き付いた蛇体に寄りかかるかのような形になっていた。
戦っている場合ではないと悟ったのだ。
「ん?」
そんな蚩尤の気配の変化と空の異変を嗅ぎ取ったワニ蛇が、それまで噛んでいた腕から口を離し顔を上げて空を見上げる。そして絶えず電流の流れる黒雲の群を認めた直後、ワニ蛇は顔を下げて真下の蚩尤に目を向けて言った。
「あれはなに? お前がやったの?」
「違ウ。我ノ妖術デハナイ」
「じゃあ誰が?」
「知ラン。ソレヨリモ、オ前ハ早ク我カラ離レヨ。コノ戦イハ中止ダ」
「どういう意味よ」
ワニ蛇が怪訝な声を漏らす。だが蚩尤はそれに答えず、空に向けていた目を見開いて大きく口を開けた。
「来ルゾ!」
刹那、空から放たれた極太の柱状の光がニ体の怪獣を直撃し、周囲の町並みを巻き込んで大爆発を引き起こした。