「赤い国」
エコーを介してアスカの指示を受けた巨大な白クジラ、もといエコーの部下であるアルファがその目的地に向かって地中を進み始めてから、ちょうど五分が経った。それまで堅い岩盤を力任せに掘り進んでいたクジラの体が、その瞬間、地中に出来た広大な空間の中に投げ出されたのだった。
「ふえっ?」
クジラは一瞬、自分がどのような目に遭っているのか理解できなかった。だが次の瞬間に自分がその地中に存在する半球状の広大な空間の天井をぶち破り、ちょうど空中に投げ出された格好になったのを察知した瞬間、クジラは半狂乱の雄叫びをあげた。
「ひえええええっ!?」
クジラの頭の中は真っ白になった。自分の体が引力に従って自由落下をしている事にも気づかなかった。クジラの体内にいた面々は彼女が「落下」しているのを知ることは出来なかったが、中にまで響いてきたその冷静さを欠いた悲鳴を聞いて、何かまずい事態が起きているというのは察する事が出来た。
「お、おい、なんだよ? どうしたんだよ?」
「なんか、まずくねえか?」
「ちょっと、いきなり叫ばないでよ! 不安になるじゃない!」
クジラの恐慌が生徒達にも伝わったのか、彼らの中から悲鳴か、もしくは悲鳴混じりの叫び声をあげる者が続出する。叫ばない者もいるにはいたが、彼らにしてもその顔を恐怖と不安で歪めていた。
だがそんな彼らの中にあって、アスカは一人直立不動で堂々とした面構えを見せていた。そして彼女はそのまま制服のポケットからタッチ式の携帯端末を取り出し、液晶画面の上で指を走らせてからそれを耳元に当てた。
「アームを起こしてクダサイ。目標は落下してる白いクジラデス」
端末越しにアスカが言った。それは誰の耳にも入らない、囁きといってもいいほどの小さな声だった。
しかしアスカがそう呟いた次の瞬間、クジラの体内を軽い衝撃が襲った。それはまるで猛スピードで進む車が急ブレーキをかけたかのような、一瞬ながら全身に襲いかかる代物であった。
「今度はなんだ!」
突然体を襲った衝撃によってよろめき、転びかけながらもなんとか踏ん張った亮が大声で言葉を放つ。亮は外で何が起きているのか全くわからなかったがためにこのような存外大きな声を発してしまったのだが、それは何も彼だけではなかった。アスカ以外の全員が、今外で何が起きているのか全くわからずにいた。
「な、なんですかこれぇっ!?」
この時、クジラの到達した半球状の空間の底の方から二本の巨大なロボットアームがクジラめがけて伸びていき、それぞれの先端についた上下二本のマニピュレータでクジラの腹を左右から挟み込んでその場に固定していのだ。
気づいたときには落下を始めていて、そしてまた気づいたときには底から伸びてきた機械の腕で自分の体を拘束されていた。クジラの驚きは相当なものであった。
「や、やめてくださいぃ! 離してくださいぃ!」
拘束から逃れようとクジラが体を左右に振る。だがクジラの腹を掴んだロボットアームはその振動を前にしてもびくともせず、その巨体をがっちり固定したまま伸ばした部分をゆっくりと縮めていき、クジラを慎重に地面の方へと誘導していった。それは騒音も振動も発生しない、とても静かな運搬作業であった。
「オー、皆さん落ち着いてくだサーイ」
そんなクジラの運搬が進んでいることなど露ほども知らないD組の面々に対して、アスカがひときわ大きな声で呼びかけた。それを聞いた面々が一斉にアスカに注目し、そんな人々の視線を集めたアスカは胸を張り自信満々に言った。
「なんの問題もありまセーン。白クジラさんをちょっと誘導しているだけデース」
「誘導? どこに?」
「地下の王国、アルフヘイムにデス」
「なんだって?」
「じゃあ、今俺達がいるのは」
察しのいい生徒の何人かが興奮で上擦った声をあげる。それに黙って頷いてから、アスカがにっと笑って言った。
「お察しの通りデス。クジラさんとワタシ達がいるこここそ、地下帝国アルフヘイムなのデース」
アームに掴まれてからたっぷり十分かけて、白クジラの巨体は赤いタイルの敷き詰められた地面の上にゆっくりと載せられた。この頃にはクジラ、もとい本来の姿であるクジラに戻ったアルファも落ち着きを取り戻しており、そしてクールダウンした頭を再び高速回転させながら両目をしきりに動かし、周囲の光景を一心不乱に見渡していた。
「うわあ……」
アルファの口からはただ驚嘆の声しか出なかった。そこは前にも言った通りドーム状の空間であり、敷地面積はアルファの体が豆粒のように見えてしまうほど広大であった。そしてその地面から天井までの高さも相当なものであり、少なくとも飛行船が壁や天井、そして高層ビルを気にせず優雅に空を飛べるくらいには、このドームは巨大であった。アルファは実際に自分の頭上を飛び交う飛行船の群を見てそう判断した。
ドームの端と地面は隣接しておらず、地面の端は垂直に切り立った崖っぷちとなっていた。アルファはその崖っぷちから僅か十メートルほど前の位置に置かれていた。
「ひいっ」
それを知った途端、アルファは反射的に悲鳴をあげた。そしてその崖の下には底なしにも思える溶岩溜まりが広がっている事を知ったとき、アルファは恐怖で石のように硬直した。
その崖下に広がる灼熱の溶岩の放つ赤色によって、この崖の近くは赤く照らされていた。なお、このドームはあまりにも巨大であったがために、壁のある一定の高さから上にかけては地上の一切の光が届かず、そこだけ夜になったのかと見間違えるほどの漆黒に閉ざされていた。
「は、離れなきゃ……」
アルファが誰にも聞かれないようにこっそりと呟き、体を小刻みに動かして少しずつ左側にずれていく。そんな彼女の左手側には摩天楼がそびえ立つ大都会が広がり、そのビルの間をミニチュア模型のような大きさの車や人がせわしなく動いていた。そこは溶岩の放つ赤い光ではなく人工の白い光で満ちており、地上の町とあまり代わり映えしなかった。
都会とアルファの間には鋼鉄で出来た壁と門が建てられていた。黒く無骨な光沢を放つ壁は都会をぐるりと囲い込み、門もまた壁と同じ色合いで頑強な雰囲気を醸しだし、前に歩哨を二人置いた状態でぴったりと閉じられていた。更に門の両側には物見の塔が建てられ、その中にも見張りの兵士が駐屯していた。
もっともその壁と門は、アルファの背丈の半分もないほど小さな物であったが。
「な、なんだあれは?」
「でかい……」
「まさか壁よりも巨大な存在がいたとは」
彼らは横向きのまま少しずつ近づいてくる謎の物体を見て警戒心をむき出しにしていたが、同時に都会を囲む防護壁よりも巨大なその存在を前にして、若干及び腰になってもいた。彼らの容姿は皆うら若く、髪と瞳は目が覚めるほどの金色で耳は鋭くとがっていたが、この時のアルファにそれを察する余裕は無かった。
「こ、これくらいで、大丈夫かな?」
ある程度崖から離れた所でアルファが安堵のため息をもらす。その時、安心したアルファの体内から彼女の脳内に向かってエコーの声が響いてきた。
「エコー、どう? もう落ち着いた?」
「あっ、キャプテン。もう私は大丈夫です。はい」
「そう。良かった。じゃあ良かったついでに、私達を外に出して欲しいんだけど」
「わかりました。それじゃあ口開けて通路作りますんで、それまで少し待っていてください」
「わかったわ」
そう言った後、エコーからの声が途切れる。一方でアルファもまた意識をそちらから自身の体内に向け、胃と口を結ぶ食道を「艦橋」と「出入り口」を繋ぐ「通路」へと変質させるための準備に取りかかった。
「動くな!」
通路へと変質を終えた食道を通ってクジラの口内から外へ出たD組の一行は、タイル敷きの地面に足を降ろすと同時に銃口を突きつけられた。
「大人しくしろ!」
「そのままだ、じっとしていろ!」
彼らに銃を突きつけてきたのは門前に立っていた歩哨と同じ顔の特徴を持った二人の兵士だった。金色の瞳に金色の髪、鋭く尖った耳を持つ彼らは暖色系の迷彩塗装を施された野戦服を身にまとい、服と同じ塗装をされた自動小銃を両手で構えてこちらに狙いを定めていた。彼らの目には未知の物に対する僅かな恐れと、その恐怖心をはねのけるだけの強い意志の光が宿っていた。愛国心に溢れる若者の目だった。
「お前達、見ない顔だな。外の世界からやって来たのか?」
「偶然ここに迷い込んできたはずもあるまい。いったい誰の手引きでここまで来た? 言え!」
二人の兵士がそう言い放ち、銃口をこちらに向けたまま詰め寄ってくる。生徒をかばうようにその矢面に立っていた亮は表情を崩さぬまま「さて何と言えば納得してくれるだろうか」と必死に考え込んでいた。
が、結局彼は「正直に話すしかない」という結論に思い至った。下手な嘘は我が身を滅ぼす。謙虚に、正直に振る舞うのが、長生きをする秘訣なのだ。
この間わずかコンマ一秒。ほんの僅かな思考の後、亮は行動に移った。
「ああ、実は」
「私がここに招きまシタ」
だが亮が何事か言い掛けた所で、彼の後ろからよく通る声が聞こえてきた。驚いて後ろを振り返ると、そこには腰に手を当てて仁王立ちになったアスカの姿があった。その顔は不敵に笑っていた。
「私が招待したのデス。何か問題でも?」
そんな自信満々なアスカの立ち姿を見た瞬間、兵士二人はその顔を凍り付かせた。
「も、申し訳ありません! サー!」
即座に構えていた銃を垂直に持ち直し、両足を揃えて背筋を伸ばす。その突然の態度の変化に何も知らない面々は戸惑うばかりであったが、そんな中ですたすたと亮より前に出たアスカは、そのまま姿勢を崩さない兵士二人の前に立って得意げな顔で言った。
「任務ご苦労。君達は持ち場に戻ってもいいデス」
「ほ、本当によろしいのですか?」
「彼らはワタシが連れていきマス。心配は無用デス」
「はっ。了解しました!」
アスカの言を受けた二人はその場で回れ右をして、後ろを振り返る事無くしっかりした足取りで元いた場所へ戻っていく。その光景をじっと見つめていたアスカはそれから亮達の方に向き直り、満面の笑みを浮かべて彼らに言った。
「じゃあ今から案内しマスので、ついてきてくだサイね」
「あ、ああ」
お前はいったい何者なんだ、とは聞けなかった。どれだけ場慣れしようが、予想外の事態に直面すれば誰だって思考を停止させてしまうのだ。今の彼らもまさにその状態だった。頭の中は完全に真っ白になっていた。
そんな彼らを引き連れたまま、アスカは慣れた足取りでタイル張りの地面を歩いていった。その顔はやけに上機嫌であった。