「一夜明けて」
「……以上が、当該エージェントより送られてきた映像です」
窓一つ、灯り一つない真っ暗闇な部屋の中で、男の声が朗々と響いた。元々大人数での会議を目的としたその部屋は広々としており、そして部屋の中央に長テーブルとそれを囲むようにして参加者と同じ人数分の椅子が用意されていたのだが、ここには照明が無いため室内にいた者達は自分の座っている椅子以外のそれがどこにあるかわからず、また一寸先も見えないほどの暗闇に閉ざされていたために室内には閉塞感が漂い、部屋そのものが実際よりも狭く感じられた。
そんな健常な人の精神を苛むような環境下にあった部屋の壁面の一つに、天井に据え付けられたプロジェクターによって一つの映像――黒い達磨と白いウサギが対峙した一部始終が映されていた。その映像の放つ光によって室内は完全な闇というわけではなかったが闇を完全に晴らすにはまるで足りず、全く意味の無い光と化していた。
また先に声を放った男の輪郭は映像から距離を置いて周囲の闇と完全に同化しており、全身像を掴むことは出来なかった。
「それとこの映像に付け加えるようにして、これを報告したエージェントより追伸があります。曰く、これは氷山の一角にすぎないだろう、と」
壁面にでかでかと映された黒ウサギに目を向けながらその男が言った。まだ言葉の端々に軽薄さの残る、十代後半と言っても通用するくらいの若い声だった。
次いで男は手にしていたリモコンをいじってプロジェクターを止め、その部屋を完全な闇の中に置いた。映像を止めた後、男は暫く無言で視線を左右に動かしていたが、そのうち彼の視線の先から別の男の声が聞こえてきた。
「少し見ない内に凄いことになっているな。あの国は昔から節操なしだったから、まあ特別驚いたりはしないが」
しわがれ、年老いた老人の声だった。姿は闇に紛れて見えず語り口ものんびりとしていたが、その声には一本の強靱な「芯」が通っており、そのことから彼がただの「ボケ老人」ではなく、老いてなお深遠な知性と強靱な意志を持ち合わせた「偉大な先人」であることを示していた。
「もっと映像は無いのか? 他にも何がいるのか、もっと詳しい事が知りたいぞ」
そしてその老人は好奇心にかられた子供のように声を弾ませ、プロジェクターを止めた男に言った。見るからに今の状況を楽しんでいるようであった。
一方でその声を聞いた男は言葉に詰まった。日頃からこの老人と一緒に仕事をしていたこの男は、彼は好奇心の塊でありかつ未知の知識に対して非常に執念深い性格であることを知っていたからだ。だからここで「もう無いです」と正直に話したところで、一度知的好奇心を刺激されたこの老人は簡単には納得しない。しないどころか、自分から現場に飛び出して納得するまでそこに居座ってしまうだろう。もう齢九十を越え背骨もひん曲がっているというのに、この老人はそれだけの事を軽々とやってのけるだけの活力と胆力をそのしわくちゃの体の中に漲らせていたのだ。
「なんだ? 無いのか? これだけなのか?」
そう男が渋っていると、嬉々とした声で老人の方から尋ねてきた。考える猶予はもはや無い。
沈黙か回答か。もうどっちに転んでもダメそうだった。
「無いんだな? そうなんだな? そうならもう、こっちから直接乗り込んでもっと調べてやるまでよ」
「お待ちください老師」
だがそこまで言って勢いよく立ち上がった老人を、不意に新たな声が制止した。それは女性の声であり、この部屋の中にいる最後の人間、落ち着きのある清楚な大人の声であった。
「あなたはここの重鎮。お気持ちもわかりますが、そう軽々と外に出られては困ります」
相変わらず姿は見えなかった。だがその声は川を流れる清流のように穏やかで軽やかな調子であったが、その実そこには先の老人と同じように強靱な「芯」が、はっきりとした意志の光が宿っていた。
そしてその声は相手の反論を許さなかった。
「向こうから追って情報が送られてくるでしょう。それまではここで待機していてください。よろしいですね?」
「だがしかし……」
「彼も言っていたように、あなたはこの国の代表、この国を背負って立つ存在なのです。そう易々と出歩かれては困ります。どうかご自愛ください」
「むう……」
女性にそっと諭された老人は、闇の中で短く唸った後完全に沈黙した。己の好奇心に火がついた老人を完全に止める事が出来るのは、「この国」に住む者達の中での中で彼女だけだった。
そしてその様子から老人が「外出」を断念した事を理解した男は一つ安堵のため息を吐き、その後闇の中にいる二人が座っていると思われるところに交互に視線を動かしてから朗々とした声で言った。
「とにかく、これに関してはまた次の報告を待つということで。両名ともそれでよろしいですね?」
「異議なし」
「同じく」
闇の中から二つの声が響く。その後粘り着くような濃さを持った闇の中から女性の声が聞こえてきた。
「次はいつだったかしら?」
「一週間後ですね」
「随分長いのう」
それに対する男の返答を聞いた老人がボヤく。それと同時に老人の声のした方から椅子を引くような擦過音が小刻みに響き、そんな周りに気づかれないよう少しずつずらしていくような音を耳聡く聞きつけた女性が声量を上げて言った。
「やめてください」
「……まだ何もしてないのに」
誰に何を止めるよう明確に言ったわけでもないのにそう声を返す時点で、老人が何かをしようとしていたことは明らかであった。男は再びため息を吐き、それから椅子の上で姿勢を正しながら正面の二人に言った。
「それでは、本日の会議はここまでとします。また何か情報のあった時はこちらから追って連絡しますので、どうかしばらくお待ちください」
「うむ」
「わかりました」
この日の会議はこれでお開きとなった。そして出席者三人の内の老人と女性が退出したのを椅子を引く音とドアの開閉音から察した男は、再びリモコンを操作してそれまで見ていた映像を再び壁に映し始めた。
「あのウサギ……」
そしてその映像の中に登場する白いウサギをじっと見つめながら、男は闇の中で静かに呟いた。
「暴れすぎだっつーの」
その声には呆れ半分、嬉しさ半分といった響きが含まれていた。それから男はすぐに映像を消し、リモコンをテーブルの上に置いて自分も室外へと退出した。
廊下はそれまでいた場所と同じように照明が殆どなく、全てが闇の中に沈んでいた。
「ま、これで暫くは退屈しねーかな」
だがそんな無謬の闇の中を、廊下に出た軽い雰囲気の男はそう呟きながらスタスタと歩いていった。
それはまるでこの環境が彼にとっては当たり前の物であるかのような、迷いのないしっかりとした足取りであった。
早朝、校門を越えた所で中庭に転がる「それ」を見た橘潤平は、一瞬呆気にとられた後苦虫を噛み潰した表情を浮かべた。「それ」は潤平以外にも朝早くから登校してきた全ての生徒達が目撃しており、その全員が「いったい何が起きたのか」と囁きあい、目をひそめ、「それ」の惨憺たる有様を前に怯えきった様子を見せていた。
彼らの視線の先には土手っ腹に風穴を開けられた状態で足をだらしなく伸ばして座り込む、達磨のような形の黒いロボットの姿があった。
「うわ、ひど……」
「なにあれ、誰がやったの?」
「どっかの誰かが喧嘩で使ったのかな?」
潤平の耳に周りの生徒達の声が聞こえてくる。彼らはあれが生徒会役員の一人が操っていた機体であると言うことを知らないようだったが、この機体がもう使い物にならないと言うことに関しては全員が察していた。
「でもこれ、もう動かせねえだろうな」
「あれだけ派手にやられたんだ。数日で直せる訳ねえよなあ」
「コクピットは無事なのかな?」
「場所によるんじゃね? まあどこにあったとしてもダメなもんはダメだろうけどね」
それらの声は潤平の耳には入ってきたが、頭にまでは届かなかった。この時彼の脳内を占めていたのは林大和がしくじったという事と、そして襲撃をやりすごしたD組の面々がこちらに報復に来るのではないかという懸念であった。
「……まずい」
それはまずい。奴らはこの学園に存在するルールに平然と唾を吐けるような連中だ。腕っ節も立ち、話し合いで譲歩できるような奴らではない。特にあのウサギはまずい。
他の連中だけでも非常に面倒なのに、あれが混じってくると更に面倒な事になる。あれの強さは規格外だ。前に一度叩きのめされている潤平はその時の記憶を思い出し、額から嫌な汗を流しながらそう考えた。
そんなウサギを筆頭にして、あの二年D組の連中がまとめて「お礼参り」にやってくる。あの学園に刃向かい続ける問題児軍団が。考えただけでも最悪だ。もちろん連中がすぐにアクションを起こす可能性は百パーセントでは無いが、
向こうが動き出す前に、こちらから手を打たねばならない。
「会長さん、おはようございますなの」
その時、自分の背後からそう声をかけてくる者があった。潤平が振り返って声のする方を見ると、そこには小柄な一人の女生徒が立っていた。
「ああ、おはよう。確か君は」
「執行委員の朝倉若葉でっす」
朝倉若葉。生徒会の下部組織である執行委員に籍を置く、月光学園の一年生である。癖の強いショートヘア、小振りな顔にくりくりとした瞳、低い鼻に小さな口と、どことなく小動物を思わせる顔立ちをした一年生であった。
そんな若葉は潤平に軽く挨拶を済ませた後、彼の横に立って未だ周囲の視線を集める達磨ロボットに目を向けた。
「うわあ、随分やられちゃってますねえ」
髪の端っこをいじりながら若葉が弾んだ声で言った。
「パイロットの方ももう使い物にならないかな?」
そして目を細め口の端を吊り上げ、嗜虐に歪んだ笑みを浮かべて吐き捨てる。だがそれを聞いた潤平は特に彼女を咎めたりはしなかった。彼も同じ事を考えていたからだ。
「あ、そうだ先輩。副会長から伝言あります」
と、いつもの可愛らしい顔に戻った若葉が潤平の方を向いて言った。潤平が若葉を見つめて問いかける。
「副会長が? なんだい?」
「はい。お昼休みに話したい事があるそうです。執行委員も生徒会役員も全陰参加して欲しいとの事です」
「そうか。わかった」
頷く潤平を見て、若葉は「じゃあ伝えましたから」と言ってそのままテクテクと学園の方へ歩いていく。そしてそれに続くようにして、潤平もまた学園の中へと入っていった。
この時二人の中で、林大和の存在はもはやあってないような物と化していた。