「鎌不幸女」
それを最初に見たとき、亮は自分の目が信じられなかった。簡単に言えば言葉が出ないほどに驚愕した。なにせ自分の目の前に、ゆらゆらと空中に浮く両足があったのだ。たとえどれだけ過去に宇宙刑事として腕を鳴らしていたとしても、驚くときは驚くのだ。
「さ、早乙女ちゃん? それなによ?」
そしてテーブルを挟んで亮の向かい側に立っていたケンもまた同様に、驚きの顔を浮かべ及び腰の姿勢で眼前のウェディングドレスの女「早乙女幸子」に向かって話しかけていた。また彼らだけでなくこの部屋に初めからいた面々は一人残らず驚愕の表情を浮かべており、そしていったいどうすればいいのかわからずにその一人と一つの乱入者を交互に見比べながら脂汗をかいていた。
「……来る!」
その沈黙を破ったのは、浮遊する足と相対していた早乙女幸子の放ったその言葉だった。幸子がそう呟いた直後に二本一組の足は土踏まずの部分から緩やかに曲がった刃物を突き出し、幸子を挟み込むように大きく弧を描いて左右から急接近した。
「シィィィィィッ!」
鋭い刃先を前に出して二本の足が左右から同じタイミングで襲いかかる。幸子は慌てることなく鎌を回し、右から来る足を鎌の刃の腹で、左から来る足を鎌の柄の先端で同時に受け止める。幸子はそれらを受け止めると同時に鎌を更に一回転させ、阻まれてなお愚直に前に進もうとする足を弾き飛ばした。
「幸子殿! それはなんでござるか!」
「私も知りません!」
弾き飛ばされ、回転しながら距離を離して静止する二本の足を視界に納めながら、幸子が鎌を構えつつ後ろからのフリードの声に答える。
「控え室で休んでいたら、いきなり襲われたんです!」
「なんだって!」
「なにか心当たりはあるのか?」
驚きの声をあげるケンの横で亮が問いかける。それに対して幸子は黙って首を横に振ってから答えた。
「いいえ、まったく。誰かから恨みを買った覚えもありません。なのにこんな、ああ、なんて不幸な私・・!」
「おい、来るぞ!」
唐突に悦に浸り始めた幸子に向けて冬美が叫ぶ。正気を取り戻して視界を開いた幸子に向かって、土踏まずから刃を突き出した足が再度幸子へ飛びかかっていく。
「しつこい!」
それを見た幸子が苛立たしげに口走り、鎌を自分の体に引き寄せて刃が足下に、刃先が前方を向くよう構えを取る。
その幸子に向かって二本の足が迫る。そしてその足から飛び出した刃が己の間合いに入った瞬間、幸子は自分の左右にそれぞれ斜めに円を描くように鎌を大きく振り回した。
「あっ」
瞬間、冬美が驚嘆の声を上げる。幸子が鎌を振り終えてまた元の構えに戻った直後、彼女に向かって飛んできていた足は二本とも縦に真っ二つに切り裂かれていた。綺麗に四等分にされた足はバラバラにされるや否や加速を失い、真っ黒な断面部分を上にしてそれまでの勢いが嘘のようにその場にボトボトと落下していった。
「すごい」
「お見事!」
亮が無意識のうちに賞賛の言葉を漏らし、フリードが見るからに嬉しそうな顔で拍手を送る。遠巻きに見ていた選手たちも一様に声を上げ、一瞬で勝負を決めた幸子に向けて一斉に声援や拍手を送った。
「やったな早乙女ちゃん!」
そんな中、ケンが嬉しさを隠そうともせずに幸子の方へ近づいていく。当の幸子も構えを解き、刃を地面に置くようにして鎌を片手で持ちながら大きく息を吐いた。
「ああ……また不要な殺生をしてしまった……」
「相変わらず見事な鎌捌きだったよ。いやー惚れ惚れしちゃうね」
「私は静かに暮らしていきたいだけなのに……不幸だわ……」
顔を俯かせ、ため息混じりに幸子が呟く。すぐ隣に貼り付いたケンの言葉は彼女の耳に届いていなかった。
「あの人はいったいなんなんだ」
「幸子殿は筋金入りのナルシストでござる」
「なんだそれはクマ」
そんな幸子の姿を見て首を傾げた亮と冬美の元にテーブルを乗り越えて近づきながらフリードが説明を始めた。
「彼女は、自分はこの世で一番不幸な存在であると思いこんでいるのでござる。そしてそんな自分で勝手に設定した境遇に酔いしれているのでござる」
「なんだそりゃ」
「面倒くさい女クマ」
「でも普段は真面目で気配りも上手で、とてもいい人でござる。時々自分の世界に入り込む癖さえなければいい人でござる」
「最後の方で台無しになってると思うんだけどな」
フリードの説明を聞いた亮が渋い顔でそう答える。そしてそれから三人はテーブルの周りを回って幸子の元へ、正確には幸子から少し離れた位置に落ちていたかつて足だったパーツの落ちていた所へ向かった。
「これは……ッ」
それはただ単に興味本位の行動であった。だがそれのすぐ近くまで接近した瞬間、三人は反射的に鼻と口を手で覆い、そんな浅薄な行動をとった自分たちを大いに恨んだ。
「お、おい、どうしたんだ」
「来ないほうがいい」
その様子を見て怪訝に思ったケンに、亮が顔をしかめて言葉を吐いた。そう言う間にも三人は逃げるようにそれから距離を取り、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むように深呼吸を始めた。
「どうかなさったんですか?」
今度はそれを見た幸子が問いかける。その問いに対して息を吸いすぎてせき込んでいたフリードが咳混じりに答えた。
「くさいでござる」
「え?」
「なんというか、腐った卵のような、そんなにおいがするでござる」
「硫黄臭だな。それもかなり強烈な奴だ」
フリードの言葉に亮が涙目になりながら補足を加える。それを聞いたケンが首を傾げた。
「こっちにはそんなの届いてないけどな」
「ある程度近づかないと匂わないようになってるんだろうな。においが真上に向かってるというか」
「そんなにヤバいのか?」
その亮の話を聞いた選手の何人かが、怖い物見たさでそれに近づく。だがそれのすぐ真上に顔を寄せた瞬間、彼らは短い悲鳴を上げながら速攻で逃げ散っていった。
「や、やべえ! なんだそれ、やべえ!」
「本当にまずいぞそれ。お前等も近づかない方がいいぞ」
そんな本気の反応を見てケンと幸子もそれに対する警戒心を強める。見ればそのパーツは真っ黒に染められた切断面からまるでコールタールのような黒くどろりとした粘液が漏れ始めており、それは先に経験者の伝えた悪臭と相まって見る者に強烈な生理的嫌悪感を与えた。
「ひい、グロい」
「これ、早く片づけた方がいいんじゃないか?」
「でもこれにはもう近づきたくないでござる。長い間近くにいたら鼻が腐りそうでござる」
それを見た幸子が率直な感想を漏らし、その隣でケンが口元を押さえながら意見を述べ、それを聞いたフリードが首を横に振りながら拒絶の意思を見せる。その後もこの部屋にいた面々はじりじりと間合いを取りながら黒い粘液を吐き出し続ける足の残骸を見つめていたが、そんな衆人環視のまっただ中でそれは突然に起きた。
「えっ?」
それを見た何人かが驚きの声を上げる。それまで粘液を吐き出していた四つの断面全てから、親指ほどの大きさを持った針が何十本となく生えてきたのだ。
「きもっ!」
冬美が嫌悪に満ちた声を上げる。その声に反応するように粘液の流出がピタリと止まり、それまで全く動く気配の無かった四つのパーツが揃って小刻みに震えながら宙に浮き上がった。一定の高度に到達した後も動きを止めることはなく、ただその場で浮遊しながら不安定そうにグルグルと回転を続けていた。
驚きとそれ以上の警戒心を持って、全員が固唾をのんでそれを見守る。
足の動きが止まった。
「お、おい!」
次の瞬間、四つのパーツがそろって同じ方向を向き、一目散に出口へ向かって飛んでいった。
「まずい!」
ケンが叫ぶ。その声が口から出終わるよりも前に、そこにいた全員の体が出口に向かって動く。
「止めろ! あれを外に出すな!」
自らも走りながらケンが叫ぶ。亮と冬美とフリードを先頭にしたその一団は、前を行くパーツを追いかけて通路をひた走る。
「こっちに非常用階段があるでござる!」
いくらか走った所で、フリードが不意に眼前の十字路の右側を指さしながら言った。
「それを使えば、ずっと早く地上に出られる!」
「どこに出るんだ!?」
「正面入り口前!」
「挟み撃ちにするぞ!」
フリードの言葉を聞いた亮が叫び、それを聞いた後続も彼の言わんとする事を察して次々に地上組と地下組に別れていく。亮と冬美とフリードは地上組に、ケンと幸子は地下組になった。
「螺旋階段か!」
「勾配きついな!」
非常口のドアを開けてその階段を目にした亮と冬美が思わず愚痴をこぼす。だがそんな二人を後目にフリードはさっさと階段を上り始めており、それに遅れまいとその二人と後ろから来た選手数名も次々と階段を上っていく。
この時彼らは事を穏便に納めようと考えていた。だが結局、その企みもいくつかの計算違いによっておじゃんとなってしまった。
「まずい、外に!」
一つは逃げ出した足のパーツの速度が予想以上に速く、彼らが地上に出たときには既に正面ロビーから外へ逃げおおせていた事。二つ目はその玄関から外に飛び出したバラバラにされた足のパーツを、二つの人影が通行人の行き来する往来のど真ん中で縄を使って簀巻きにしていたこと。
「動くな! 警察だ!」
「持ってるそれを地面に置いて、両手をゆっくりあげろ!」
そして三つ目は、そこに警察がいたことだった。