「熊対手」
人体から切り離された、それぞれに一振りのナイフを持った二本の腕が冬美に迫る。しかし冬美はそのおぞましくも迷い無く突進してくる腕を前に微動だにせず、やがてナイフの切っ先が顔面のすぐ間近に迫った瞬間に顔を真横にスライドさせるように動かし、それを紙一重で避ける。
「次!」
初撃をかわした直後、すぐさま冬美が体を後ろへ向ける。一方でギリギリの所でかわされ狙いをはずした腕は、しかしすぐには止まらずに暫く直進した後で垂直に上がり、そしてその勢いのまま冬美を見下ろせる位置まで上ったところで急ブレーキをかけて唐突に動きを止める。そしてそこで腕の向きをわざとゆっくりしたスピードで百八十度変え、大仰な動作でもってナイフの切っ先を冬美に向ける。
「……」
「え?」
だが空に浮かぶ二振りのナイフの切っ先と目を合わせた次の瞬間、冬美は思わず息をのんだ。その時、冬美の視界には全身を真っ黒に染め抜いた山のような大きさを持つ巨人が、腰から上を地面をぶち抜くようにして地上に現し、眼前に立ちふさがっていたように見えたからだ。
「あ……あ……?」
何が起きたのか一瞬わからなかった。冬美はすぐさま正気に戻り、目の前に腕だけが浮いている事を再認識すると同時に唖然とした。
巨人などどこにもいない。今冬美の目の前にいるのは宙に浮きながらナイフを持った二本の腕だけだ。しかし一瞬たりともそう思いこまずにはいられないほど、彼女の頭上に陣取る腕は息が詰まるほどのプレッシャーを周囲に放っていたのだ。腕の大きさやナイフの大きさ自体は普通の人間のそれと変わらないと言うのに。
あれは一体なんなんだ。冬美は着ぐるみの中で冷や汗をかき、一瞬着ぐるみの冷房機能を強めに設定してしまったのかと勘違いするほどの猛烈な寒気を全身で味わった。
「くっ!」
そう半分本気で怯える冬美に向かって、ナイフを持った腕が再び迫った。頭めがけて急降下するナイフの気配とそこにこもる殺気を感じ取った冬美はそんな胸の内に芽生えた畏怖の気持ちを強引に噛み殺し、最初にしたのと同じやり方で天から迫るナイフを紙一重で飛び退いて避ける。
またしても後一歩と言うところで敵に避けられたナイフは、今度はそのままのスピードで舗装されたコンクリートに深々と突き刺さる。一度着地してから再度後ろに跳んで距離をとった冬美はその様子を見て、そのナイフの切れ味の鋭さと腕の力強さを前に軽く戦慄したが、同時に地面に刺さったナイフを抜き取ろうと腕が手の部分を方々に動かしてもがく間抜けな姿を見て小さく苦笑を漏らした。
さっさと手放した方が早く済むのに。それともあれは手放したくないほど大切な武器なのか。そう考察出来るくらいには心の余裕を持てるようになった冬美だったが、その余裕は次の瞬間に完全に消滅した。
「嘘」
それまでナイフを抜こうともがいていた二本の腕が柄の部分を押し込むように動かした直後、それの刺さった周りのコンクリートを丸ごと抉り取って、山なりに盛り上がったコンクリートの固まりを突き刺した状態で自由の身になったナイフをそれぞれ片手で持ち上げたのだ。
「なんのつもりだそれは」
刃物から一瞬で鈍器に変わったそれを見て、冬美が呆れと驚きの混ざった声を漏らす。そんな冬美めがけて、二本の腕はその即席ハンマーを二つ同時に高々と持ち上げ、冬美めがけて右手に持った方から振り下ろした。
「ちぃっ!」
紙一重で避けても衝撃でダメージを食らってしまう。そう判断した冬美はワンテンポ早く飛び退き事なきを得ようとしたが、その判断は半分間違いだった。狙いを外れたハンマーはそのまま地面と激突してそこに敷かれていたコンクリートを粉々に打ち砕き、それによって生まれた無数のコンクリート片のいくつかが冬美の方に向かって飛んできたのだ。猛烈な勢いで振り下ろされたハンマーの衝撃によって生み出されたその大きな石つぶては、弾丸とほぼ同じ速さとそれ以上の重さをもって冬美に猛然と牙を剥いた。
それらは視界いっぱいに拡散し、冬美の退路を完全に塞いだ。逃げ場はどこにも無かった。
「クソ!」
悪態をつきながら冬美が両手で顔を覆ってガードする。そのガードの上から砕かれたコンクリート片がいくつも飛来し、次々と着ぐるみに突き刺さってはその度に中にいる冬美本人に猛烈な衝撃を与えていった。
その一瞬、ほんの一瞬ではあったが、ガードに回った冬美自身は全く動けずにいた。そしてその生じた隙を、二本の腕は見逃しはしなかった。
ハンマーを地面に打ち付けたままの右手に替わって左手が冬美の眼前にまで先行し、その脳天めがけて手にしたハンマーを振り下ろす。その瞬間の光景は冬美には見えていたが、その意思に反して彼女の体は言うことを聞かなかった。
「させるか!」
なので冬美は別の方向へ己の意思を働かせた。止める、と冬美が念じた瞬間、まず初めに着ぐるみの背面部分が左右に割り開かれてその奥からランドセル状のバックパックが出現し、次に表に出たバックパックの両側面からそれぞれ一本ずつロボットアームが、そしてそのロボットアームの先端部分から人の手を模した五本指のアタッチメントが、順繰りに、しかし目にも止まらぬスピードで次々と展開されていき、あっという間に二本の機械の腕を作り出した。
そうして出現した腕をすぐさま前に回し、振り下ろされたハンマーを十本のマニピュレータで受け止める。指とハンマーが接触した直後、その反動によって冬美の両足がコンクリートの中に深々とめり込み、そしてまたがくりと大きく膝を曲げる。だが、それでも冬美は根性でもって二本の足で立ち続けた。
そしてその後の明暗を分けたのも彼女の根性だった。
「がああああっ!」
冬美が腹の底から雄叫びをあげ、ロボットアームで受け止めていたハンマーをゆっくりとであるが押し返していく。その後も腕の抵抗を物ともせず力任せにハンマーを押し戻していき、完全に直立姿勢へと戻った次の瞬間、そこから更に力を振り絞ってそのハンマーごと腕を持ち上げ、反対方向へと叩きつけた。
「あああああああッ!」
叩きつけられた衝撃によって衝突した地面が半球状に陥没する。それはまるで小さなクレーターのような有様であり、その中心にいた左手はピクリとも動かなかった。その代償として持ち上げた時点で右側のロボットアームが煙を吐き出し、叩きつけた時点で表面が爆散する。どうでもよかった。
左手を力任せに地面とキスさせた直後、今度は右手が冬美へと迫る。それを察した冬美は焦ることなく右側ロボットアームを根本からパージ、同じ部分から新しいアームをにょきにょき生やし、展開を終えると同時に肉迫する右手の方へと振り返る。
右手のハンマーと冬美の振り向きざま前に掲げた四本の腕が接触する。接触の瞬間、その両者のぶつかった地点の中心から衝撃波が発生し、周囲に建ち並ぶビルや家屋に据えられたガラスというガラスを根こそぎぶち破っていく。
「ぎ……っ、があっ!」
そしてその衝撃波の影響は当然、爆心地に一番近い位置にいた右手と冬美が最も強く受けた。それは下手をすれば人間の四肢が吹き飛んでもおかしくないほどの強烈な威力を持つものであった。
だがそれほどの力を正面から食らっても、両者は断固としてその場から動こうとはしなかった。ここで相手よりも先に膝を折る事は負けを認めるのと同じであると、互いにどちらからともなくそう考えていたのだ。
「ぐぐ、くそ……っ!」
先の衝撃で作ったばかりの右側ロボットアームが枯れ葉のように吹き飛んでいく。ナイフに突き刺したコンクリートの塊がクッキーのようにぼろぼろと崩壊していく。
それでも両者は動かない。相手が根負けするまで決して諦めない。こんな奴に負けるくらいなら死んだ方がマシだ。
退かない。負けない。相手が根を上げるまで膝は曲げない。
「そのままでお願いします」
冬美の頭上からそんな声が聞こえてきたのはまさにその時だった。それを聞いた冬美が顔をあげるよりも早く、その声の主は右手のすぐ後ろに降り立った。
それは純白のウェディングドレスを身にまとい、ブーケの代わりに身の丈ほどもある無骨な黒い大鎌を両手で持ちつつ肩に担いだ、どこか幸の薄い沈んだ表情をした女だった。
冬美はその女に見覚えがあった。
「おまえは」
冬美がそう言い終えるよりも前に、女は無表情のまま手にした鎌を縦に一回転させてその右腕を真上から突き刺し、そのまま刃先ごと地面に叩きつけた。
ズン、と腹の底にたまる重い音が響き渡る。相手からの抵抗を感じなくなった冬美は大きくよろめくが、すんでの所で踏みとどまる。そしてなんとか姿勢を立て直してから鎌を地面に突き立てたウェディングドレスの女と相対し、相手への警戒を解かずに口を開いた。
「……すまん。助かった」
「お気になさらず。私も仕事でやっただけですから」
ウェディングドレスの女が素っ気なく答える。そして今度はその女が冬美に尋ねる。
「ところで、あなたとは前にお会いしましたよね?」
「ああ、そうだ。前にあの、秋葉原にある地下闘技場で」
問われた冬美が素直に頷く。彼女も元々それを確認したくて口を開いたのだ。嘘をつく必要は無かった。
それを聞いた女が納得したように、しかし沈んだ表情は変えずに首を縦に振りながら言った。
「ああやっぱり。あの支配人のご友人と一緒に来てた方でしたか。あなたって結構特徴的な格好してるから、一目見てすぐにピンときました」
「う、うん、まあ、この格好してる奴はあまりいないだろうし、それも当然か」
「そうですよ。町の人がみんな着ぐるみ着てる訳でもないし」
「それはそうだろうな」
これまた冬美は素直に頷く。そうとしか言えなかったからだ。というか、会う人全てが自分と同じ着ぐるみを着ていたとしたら、それはそれで異常な光景だろう。
と、そこまで考えたところで、冬美はいつの間にか話の流れを目の前の女に握られていると感じた。このままではなあなあの内に話を打ち切られ、何も知ることの出来ないまま終わってしまうだろう。冬美は焦りを感じた。
「いや、それよりも……そういえばまだ名前を聞いてなかった」
なので冬美は、そう言って強引に話の主導権を自分に引き寄せた。いきなり全部を聞き出そうとするのは不可能だし、偽名でも良いからせめて名前だけでも聞いておこう。そう考えたのだ。そうした地道な積み重ねが、最終的に相手を知るきっかけとなるのである。
対する女はこれといってリアクションを見せず、困ったように眉根を下げながら冬美に問いかけた。
「名前、ですか?」
「ああ。名前だ」
「私の?」
「そうだ。ついでに自己紹介もしておこう。偶然とはいえこうして顔合わせしたんだから、それくらいしてもバチは当たらないだろう」
答える冬美を前に女が小首を傾げる。が、すぐに頭の位置を元に戻し、冬美の目をまっすぐ見つめながら言った。
「それもそうですね」
「そうか。良かった。ではどちらから?」
「私からで構いませんか?」
「ああ。では頼む」
冬美に促され、一つ咳払いをしてから女が口を開いた。
「早乙女幸子といいます。賞金稼ぎをしています」
「賞金稼ぎ?」
「はい」
問い直す冬美に笑顔で答え、続けて幸子が言った。
「よろしくおねがいしますね」
その笑顔は線が細いながらも見る者のささくれた心を癒す力を持ったとても穏やかな物だった。だが一方で、その全身からは少しでも隙を見せれば八つ裂きにしてしまいそうなほど強烈な殺気を放っていた。
そんな幸子の放つ気配を正面から受けて、冬美は指一本動かすことが出来なかった。