「芹沢優」
芹沢優の父親が亡くなってから、今年で五年が経つ。
死因は心臓発作。突然の死だった。優もその死に際に立ち会ってはいない。
「ただいま」
自宅に帰った優がまず初めにすることは、寝室にある父の仏壇の前に立って手を合わせる事だった。目を閉じて手を合わせる彼女の眼前には、父親の写真と位牌、そして火のついたお線香があった。
ちんまりとした、飾り気のない小振りな仏壇だった。
何も言わずに黙祷する。
「……」
優の母親は、彼女を産んですぐに命を落とした。特別体が弱いわけでは無かったが、運が悪かった。優もまた、このことを必要以上に悲しんだりはしなかった。母の顔は写真でしか見たことが無いので、実感がわかなかったのだ。
それからの十数年、彼女は父親によって育てられた。生まれつき心臓が弱く定期的に服薬していたが、仕事熱心で子煩悩な、良い父親だった。
「いいかい優。今からパパはお仕事をしに行くから、パパがこのお部屋から出てくるまで、このお部屋のドアを開けてはいけないよ」
もっとも、「仕事」と称して二、三日自分の部屋にひきこもったり、かと思えば一週間くらい外出して姿をくらましたりと、ときどき不思議な行動を取るのが幼い頃の優にとっては気になる所ではあった。そうして父親がひきこもった自室の引き戸の向こうから重苦しい呪文のような音の羅列が聞こえてきたり、何か硬い物をを打ち付ける金属音が聞こえてきたりもした。
年を重ねるごとにその怪しさに気づいていったが、それでも優にとっては自慢の親だった。父親は自分のために仕事をしていると考えれば怪しいと思う気持ちも薄れていったし、一人きりになるのも、家事全般のスキルを高められると考えれば苦にならなかった。本音は幼いながらも父親を困らせたくないという子供心だったが。
「よくできたな。偉いぞ」
そしてまだ小さな優が四苦八苦しながらも家事を終わらせた所を見ると、父親は必ず優を褒めた。どんな時でも例外なく褒め称え、優はそれが嬉しかった。ますます父親のために頑張ろうと思った。当然派手に失敗すれば怒ることもあったが、優はそれでも父親を誇りに思い、日々健やかに成長していった。
「失礼。芹沢誠一さんのお宅ですか?」
そんなある日、優の自宅に警察がやってきた。三人の若い刑事だった。彼らは戸惑う優に向かって、彼女の父親が捕まった事を知らせに来た。
午後六時四十二分。優が十一歳の時の事である。
「うそ」
罪状は痴漢だった。
「うそ……うそ……!」
優は一瞬目の前が真っ暗になったが、すぐさま刑事たちに向かって反論した。
「そんなはずない! そんなはずありません! お父さんはそんな事しません! そんな、そんな!」
何度も何度も反論した。声を大にして訴えた。だが次第にその声はかすれ、視界は涙でぼやけていった。場慣れしていなかった若い刑事たちはその異様な剣幕に驚いたが、「とにかく、そういう訳だから」とフォローもせずに逃げるようにしてその場を後にした。
「違います! 私はそんな事してません!」
優だけでなく、当然父親本人も無罪だと主張した。だが警察は全く聞く耳持たずに彼を責め立てた。そして苛烈で一方的な事情聴取を受けさせられ、大した証拠も無いまま問答無用で留置所送りにされた。このとき警察では痴漢撲滅キャンペーンを実施しており、是が非でも痴漢件数を減らそうと躍起になっていた節があった。
その間、一応優と父親が面会する機会は与えられた。だが窓越しに見る父親の顔は見るからに憔悴しており、とても痛々しかった。
「ちがう……ちがう、私は、私はそんなこと……」
そして三回目の事情聴取、既に疲労困憊だった父親を強引に引きずり出しての席で、それはなんの前触れもなく起こった。いつも通り父親を責め立てる刑事たちの目の前で、父親は突然胸を両手で掴むように押さえてえづき、そのまま椅子を滑り落ちて床に倒れたのだ。
「おい! どうした!」
それを間近で見た刑事たちは咄嗟に緊急事態だと悟った。彼らはすぐさま救急車を呼んだが、その時には既に手遅れだった。
搬送された病院で父親の死亡が確認された。
心臓発作。
肉体的損傷は見られず、度を過ぎた事情聴取による精神的ストレスが死の原因とされた。
「え」
死亡確認から十分後、刑事に連れられてとある個室に入った優が見たのは、白い布を被せられた父親の姿だった。眠っているようにも見えたが、その顔は何かが抜け落ちたかのように真っ白だった。
「おと」
そんな変わり果てた父親の姿を見た直後、優もまたその場に崩れ落ちた。その後は魂が抜け落ちたかのように脱力しきっていた。誰も何も言えなかった。優も何も言わなかった。
家に返されても、優は抜け殻のように大人しくしていた。
警察はこの件を他言無用とした。これに関する会見の類も行われなかった。だが二日も経たない内にマスコミがこれをすっぱ抜いた。人の口に戸は立てられないものなのだ。当然バッシングの嵐が巻き起こった。
警察はすぐさま会見を開き、カメラの前で謝罪した。しかし加熱するバッシングの波はこれだけで収まらず、ついには優の父親を痴漢だと言って突き出した女にまでその矛先が向けられた。攻撃されるや否や女は「あれは間違いだった」と手のひらを返したが、それは火に油を注ぐ行為でしかなかった。
「……」
どうでも良かった。
優は父の死を目の当たりにした瞬間から、この世の全てに対する興味を失っていた。家事も食事も通学もせずに、ただのもぬけの殻同然の状態となって一日中ベッドの中にいた。優の一家に起きた凶事は彼女の通っていた中学校にも知れ渡っており、彼女を心配した教師や友人が彼女の家を尋ねてきたりもしたが、優はそれら全てに反応しなかった。呼び鈴すら聞こえていなかった。玄関出入り口にはしっかり鍵をかけ、誰も中に入れようとしなかった。
それから二年、彼女は一日を家の中で過ごした。もちろんその間、飲まず食わずでいたわけではない。優本人は食事をする気力も失せていたのだが、優ではない別の誰かがそれをさせたのだ。
その存在は父親が亡くなるずっと前から優の自宅にいた。優にその正体を悟られる事無く、ひっそりと、しかし確実に、家の中にに住み着いていたのだ。
「優ちゃん。優ちゃん」
その「第三者」の一人が、仏壇を前に黙祷を捧げていた優の背中に声をかけた。
「ご飯できましたよ。みんなで食べましょう」
その声を聞いた優が黙祷を終え、ゆっくりと後ろを振り返る。そしてそこに立つ者を視界に納め、柔和な声で答えた。
「うん。今行く」
「早く来てくださいね。じゃないと、ほかの子に料理全部取られちゃいますから」
それは服を着ておらず、頭からペンキを被ったかのように全身真っ赤であった。体の細かい部分や顔のパーツさえも全て赤色に塗り潰され、まるで人型の輪郭をしたのっぺらぼうにさえ見えた。その異形の存在はそうやんわりと言い残した後、手を触れずに背後のドアを開け、音もなく後ろ向きに寝室から退出していった。
その間、優は全く動じなかった。それは彼女の父が残していった遺産の一つであり、今は彼女の所有物であったからだ。
「これが今回のターゲットですか」
「そうだ。どうにも最近、ここら一帯を騒がせているらしい」
同時刻、秋葉原地下に存在する地下闘技場「リトルストーム」の中にある控え室の一つで、二人の男女がテーブルを挟んで向かい合って話し込んでいた。男はリーゼントヘアと出っ歯が、女はその身に纏った純白のウエディングドレスが特徴であり、両者の目線はテーブルに置かれた数枚の写真に向けられていた。
「とても人には見えませんね」
「そりゃそうよ。これがただの人なら、わざわざ俺達を頼りに来たりはしないって」
女の言葉に男がおちゃらけた声で返す。だがすぐに真面目な様子に戻り、視線を写真から女に向けなおして言った。
「マジな話、かなり被害が出始めているらしい。まだ表沙汰になるほど派手にやってるようじゃないらしいが、人の目に触れるのも時間の問題だ。警察はただの通り魔として処理するらしいが、これはあいつらに解決できるヤマじゃない」
「承知しています」
女が写真に目を落としたまま、しっかりした声で答える。
「目には目を。怪物には怪物を。そういう事ですね」
「そういう事だ」
男が満足げに頷く。その一方で女はテーブルの写真をかき集めて懐に納め、そしてゆっくりと席を立った。
「それではこの仕事、引き受けさせていただきます」
「おう。迅速に、かつ安全にな」
続いてリーゼントの男も立ち上がり、ドレス姿の女と向き合う。
「頼むぞ、早乙女」
「はい」
男の言葉に、早乙女と呼ばれた女がしっかりと頷く。そして次の瞬間、女は風だけを残して男の眼前から消え去った。