「熊と月」
「とても良い方でしたよ」
その次の日の昼休み、麻里弥は新しく赴任してきた教師の印象について、自分の周りに集まった同じクラスの生徒達に話して聞かせた。その内容は概ね好意的な物であり、そしてそれを聞いた同級生達はその内容を額面通りに受け取った。
「麻里弥さんがそこまで評価するのって、凄い珍しいですよね」
額が見えるほどに前髪を整えた、黒縁眼鏡をかけた小柄な少年が意外そうに呟く。
「マリヤは人を見る目はあるからねえ。たぶんその人は信用できるんじゃない?」
鼻梁にそばかすを残したおさげ髪の少女が、使い古されたカメラをいじりながら言った。
「まあ、実際の所はこれからつき合っていけばわかるんじゃないか? ここで結論出しても意味ねえだろ」
先端に黒いメッシュのかかった金色のショートヘアを持った少年がけだるげに返す。他の面々もそれぞれ十人十色の感想を言い合っていたが、その中に警戒する声こそあれ、麻里弥の感想を根本から否定するような意見は飛び出してはこなかった。
麻里弥の人物評は彼らの中では非常に正確で参考になるものであると認知されていたからだ。
「確かに一日二日顔を合わせただけでその人の人となりを全て把握する事は出来ませんわ。それでもわたくしは、新城先生の事は信じても良いと思いますの」
そしてその中でもっとも彼を評価する発言をしていたのが、唯一ファーストコンタクトを果たしていた麻里弥であった。彼女は昨日と同じように背中に日本刀を背負いながら、目を閉じて昨日の事を思い出しながら感慨深げに言葉を紡いでいった。
「わたくしはあの方と話して、あの方はわたくし達と同じ属性の方だと確信しましたの。会話をしたのはほんの少しですけれど、それだけでもわたくしはシ、シ……シャンハイとか言うような感じのあれをですね」
「シンパシーじゃねえの?」
「そう。それですわ。シンパシーを感じましたの」
金髪の少年の指摘を受けて麻里弥が満足げに返す。それをきいた同級生達はいつもの事ながら一様に苦笑をこぼす。
「ちょっと遅れたクマ」
教室のドアが開き、その声と共に一つの影が教室に入ってきたのはまさにその時だった。
「あ、冬美じゃん。遅かったね」
「購買部に言ってたんじゃないんですか?」
そばかすのおさげ少女と小柄の眼鏡少年の言葉を受けて、冬美と呼ばれたその子は申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめんクマ。戻る途中でちょっと喧嘩があって、それに構っていたら遅れたクマ」
そう言ってビニール袋片手に集団の中に混じっていったのは、一匹の熊だった。身長百六十八センチ、まんまるにデフォルメされた熊の着ぐるみであった。手足もまた同様にデフォルメされており、それはもう四肢ではなく肩口や股関節からくっついた一本の柱であった。当然指などというものは一つも無く、代わりにその柱の先端部分の縁に、申し訳程度に三角形の突起が三つついていた。
「喧嘩? なにかあったの?」
しかし周囲の面々はその熊の着ぐるみに全く驚いた様子を見せず、おさげ髪の少女もまた同様に友人に話すように自然な調子で冬美に話しかける。熊の着ぐるみもまたごく自然にそれに答えた。
「うん。うちの先生を助けてたクマ」
「新城先生を助けたんですの?」
「どういうこと?」
「執行委員に絡まれてたクマ。先生、最後通告も無しに攻撃されてたクマ」
その冬美の言葉を聞いた瞬間、その場の全員が一斉に黙り込んだ。それからややあって、それを聞いた一人がぽつりと呟く。
「先生はシロだよ」
外から新しくやって来た生徒や教師に執行委員が干渉してくるのはよくあることであった。彼ら生徒会執行委員は学園の理念を守り支えていくことを自らの存在意義とし、その信念のもと来たばかりで何も知らない彼らに高圧的な態度で接し、脅迫紛いの方法でもって学園の理念を押しつけていくのだ。
逆を言えば、外から来た人間にいきなり直接攻撃を仕掛けてくるような事は滅多にない。攻撃を受けるのは脅迫を受けてなお執行委員に反抗的な態度をとり続けた者か、学園のルールに大きく逆らった者だけである。
今のところそれを食らったのは亮と、その彼が担任となった二年D組の生徒達だけであった。そして亮のように就任して僅か数日の内に攻撃を受けるような人間など初めてである。
「でも先生は一回もやり返してなかったクマ。相手の攻撃は全部受け流して、自分からは全く反撃しなかったクマ。ちょっと凄かったクマ」
何かを考えるように黙りこくる面々を後目に、冬美が淡々と呟く。
「あの先生、面白いクマ」
そしてそう続けてから、冬美はビニール袋に丸太のような手を入れて平面な手の先にコッペパンをくっつけるようにして取り出した。そしてもう片方の手についた突起でパンの周囲をなぞり、そして出来た切れ目に突起を差し込んでそれをくるんでいたラップを綺麗にはがしていった。
彼女の口は開閉式だった。
同じ頃、亮は屋上で一人たそがれていた。原因は当然、あの執行委員達の事であった。
「……」
見積もりが甘かった。これまで亮は、この学園で異常な感性を持っていたのはあの校長と、またはそれを含む一握りの教師だけだろうと考えていた。生徒達はその教師達によって苦渋を強いられていると考えていたのだ。
「あなたは、この学園にとってふさわしくない行動をとられました」
「先生方の言葉は絶対です。そして学園の規則もまた絶対的なものです」
「あなたには灸を据えることにします。この場のルールを乱す者を放置して置くわけにはいかない」
だが実際は違った。執行委員含む生徒達もまた、あの校長と同じ側の存在であったのだ。
「はあ……」
いきなり執行委員に襲われたあの時、亮達は校舎二階の廊下にいた。当然ながらそこには自分達以外にも大勢の生徒がいた。だが自分が襲われたとき、彼らは他の教師に助けを求めに行った訳でもなければ自分から仲裁に入ることもなかった。それどころか、彼らはその全員が執行委員を応援し、亮が倒されるのを望んでいた。
「学園のルールは絶対だ!」
「執行委員に楯突く奴はやられちまえ!」
誰も彼もが執行委員の味方に付いていた。教師連中に洗脳されたのか、それともここで生活するにつれて毒されていったのか、もしくは自分の意志で変わったのか。そうなった経緯についてはわからなかったが、とにかくここが自分の想像していた物とは大きく異なっていたのは嫌と言うほど理解できた。
しかし、その中にも常識的な子達がいることもまた理解していた。昨日会った十轟院麻里弥、そして今日自分が襲われた時に自分を助けてくれたクマの着ぐるみ。あの子は麻里弥と同じく自分のクラスの生徒で、確か名前は進藤冬美だったか。
全部自分の所の生徒じゃないか。
「あれ? 新城さん何してんの?」
そんな亮の思考を中断するように、彼のすぐ隣から聞き覚えのある声が聞こえてきた。それを聞いた亮が声のした方に目を向けると、そこには自分のよく知る顔があった。
「富士さん」
「満でいいって」
軽く驚いた声を出す亮に対し、満が笑いながら答える。そして後ろに下がって距離を離しつつ、満が亮に言った。
「なんか随分困ってたみたいだけど、何かあったんですか?」
「まあ、いろいろとね。それより君はどうしてここにいるんだ?」
「今日は見学に来ました。地球の学校の見学です」
「学校の見学?」
「はい。月の学校と比べて地球の学校がどんな所なのか気になりまして」
「事前に予約とかしなかったのか」
「アポ無しで行った方が色々わかると思ったんですよ。その学園の本当の姿とか」
そこまで言ってからその表情を一気に渋いものに変えて満が言った。
「……でもここ、ちょっと酷いです」
「酷いって?」
「いろいろな所がです。新城さんに会う前に窓越しに授業の様子とか色々見てたんですけど、先生とかいつも雰囲気悪いし、学生達もなんかピリピリしてるし。エリート校ってあんな感じなんですか?」
「全部がああって訳じゃないんだけどね」
すがるように問いかけてくる満に亮が言葉を濁す。確かにここは雰囲気は悪いが、だからといって全てのエリート養成校がこうという訳ではない。亮は一人の教師として、月人である満が地球の学校に対して偏見を抱いてしまわない事を何よりも気にかけた。
「それにあのシッコー委員とか言う連中、いきなり新城さんに襲いかかってきてるし……」
「……あの時のも見られてたのか」
しかし自分の醜態を見られるのはさすがに恥ずかしかった。どこか苦そうに言葉を漏らす亮を見て、一気に表情を暗い物にして満が言った。
「あ、ご、ごめんなさい。本当は助けたかったんですけど、私喧嘩とか苦手で、その」
「いいんだ。あれくらいは慣れっこだから」
「そうなんですか?」
「ああ。ここに来る前のことなんだけど、もっと酷い目にあってるからね」
「でもあの時、五人に一斉に襲われてましたよね」
その内の二人は青竜刀を、二人は薙刀を、最後の一人は日本刀を手に持っていた。完全に殺しにかかっていた。
「あれくらい軽い方だよ。全部の挙動を見切ればそんなにキツい物でもない」
「格好良いなあ……」
しかしそれらをなんでもない事のようにさらりと片づけてしまった亮に対して、満が純粋に尊敬の眼差しを向けた。
「私、先生が担任のクラスになら入ってもいいかなあ・・なんて」
「君は月の学校に行ってるんじゃないのか?」
「もちろんそうですよ。さっきのは軽い冗談です」
亮の問いかけに満がそう答えた時、昼休みの終了を告げる鐘の音が鳴り響いた。これは同時に授業開始五分前の合図でもある。
「あ、もう時間ですか?」
「ああ。そろそろ行かないと」
「じゃあ、私もこれで。そろそろ私の学校でも授業始まりますし」
「ああ、それじゃあ――いや」
どうやって帰るんだ。亮がそう言いかけた時には、満の姿は完全に消えていた。どこを見ても自分以外に人の姿はなく、亮は腕を組んでため息混じりに呟いた
「まったく――」
「君は神出鬼没だな」
「そうですか?」
その次の日、試合当日。
亮は自分の座る観覧席の隣にちゃっかり腰を下ろしていた満に向けて言葉を発していた。
「一昨日といい、昨日といい、いったいどうやって移動してるんだ?」
「それにしても新城さん、今日の試合領域の中にはあの学園も含まれてるんですね! ていうか学園を中心に領域が広がってるみたいですよ!」
「人の話はちゃんと聞こうか」
亮の問いかけを無視して前方に置かれた巨大モニターに映された光景に目をやりながら声を弾ませた。この時彼らがいたのは試合領域より三十キロ離れた地点に敷設された一般用の特設観覧会場で、そこには彼ら以外にも多くのギャラリーで埋め尽くされていた。その中には亮のクラスの生徒達全員の姿があった。
「先生、その人は誰クマ?」
そして亮を挟むようにして麻里弥の反対側に座っていた熊の着ぐるみが、亮の向こう側を覗き込みながら言った。このクマこそが昨日生徒五人に襲われた亮を助けた少女、進藤冬美である。
亮は自分の隣でモニターにかじりつく月人を見て小さくため息をつき、それから冬美にこれまでの事を話して聞かせた。
「先生の知り合いだったかクマ」
「それほど付き合いが深い訳じゃないんだけどな」
「で、その人がここにいるのは、その人がビッグマンのファンで先生のファンだからかクマ?」
「俺のファンって訳でも無いような気がするけど」
「さっきの話聞いてたらそんな感じに受け取られてもおかしくないクマ」
「あ! 先生見てください! そろそろ選手入場しますよ!」
その冬美と亮の会話を遮るように満がモニターを指さして叫ぶ。
「始まりますよ! 始まりますよ! うわー緊張してきたー!」
「いいから落ち着きなさい。もうすぐ始まるんだから」
「今日はマリヤが出る事になってるクマ。マリヤの戦い方は面白いから、先生もよく見ておくといいクマ」
顔を真っ赤にして興奮する満をたしなめる亮に、冬美がのんびりした調子で言った。そんな彼らのモニターの向こうでは、例の円盤に乗った豚と鶴が再び姿を見せていた。
「レディース! エーン! ジェントルメーン!」
本番開始を告げる声が高らかに轟いた。