「観測員四千一号」
午後八時。
白い満月が闇夜の中に浮かぶ頃。
月光学園の近辺に存在する市街地の中に建つ高層ビルの屋上に、一人の人影が立っていた。
無個性な少女だった。帽子を目深に被って質素な白いシャツと水色のズボンを身につけ、大学ノートと同じサイズの灰色の端末を小脇に挟んだ出で立ちの、これといって特徴のない淡泊な少女だった。
「……」
彼女は屋上の縁に立ったまま、その眼下に広がる夜景を無感動に見つめていた。そこは車のライトや店の窓から漏れる照明に溢れ、だがその宝石とも形容される光の群は、彼女にとってはすばらしいとか幻想的とか言うよりも、まず目が痛くなるような光景だった。これを宝石と言い切ってしまえる連中の感性が正直わからなかった。
彼女としてはむしろ、目の前に広がる光景が瓦礫の山の状態から僅か一時間で復元された物であるという事の方が驚きだった。彼女は自分の表情は変えないまま、自分たちの知らない未知のテクノロジーを前にして己の好奇心が沸き立つのをはっきりと自覚していた。
だが技術方面の調査は自分の管轄ではない。任務外の物に勝手に手をつけるのは御法度である。
「……ん」
そう彼女が思っていると、不意に脇に挟んでいた端末が振動を始めた。呼びかけがある度にいちいち鳴られてもうるさいだけなので、予めマナーモードに設定しておいたのだ。
端末を両手に持ち、指で灰色の表面をスライドする。直後、その端末の上に黄緑色の球体のホログラムが浮かび上がり、それと同時にノイズ混じりの声が聞こえてきた。
「定期報告の時間である。貴官の管轄内における生命体の推移を報告せよ」
低い男の声だった。少女は眉一つ動かすことなく、それまで立っていた縁の上に腰掛けてからその球体に向かって話し始めた。
「今日までの一ヶ月間でこの町にやってきた地球外生命体の数は四千七百七十八名。その内ここに定住する意思を示した者は四十名。残りは全て観光か、何らかの調査のために一時滞在したと思われる」
少女が抑揚のない低い声でそれに答えた。そしてその返答の後、前と変わらない調子で男の声が響いた。
「前年度と変わらずか。他に特筆事項は?」
「戦闘狂獣が一体、人間態の姿で地球の学校に転入した」
「なに?」
男の声が翳りを含めた物に変わる。気にせず少女が報告を続けた。
「転入先の学校の名前は月光学園。私のパートナーから報告を受けた」
「お前のパートナー、彼女か」
「そうだ。四千二号だ」
一呼吸おいてから少女が続けた。
「そちらは既に知っていると思うが、月光学園は四千二号が通学している所だ。偶然にも自分の通っている学校に面白い奴が来たと、四千二号はひどく興奮していた」
「羨ましいのか、四千一号」
「……別に」
四千一号と呼ばれたその少女が投げやり気味に返す。一呼吸おいてから再び男の声が聞こえてきた。
「わかった。報告は以上か」
「そうだ。通信を終わらせるぞ」
「ああ、待て、四千一号」
「?」
そう不意に呼び止めてきた男の声を聞いて、今まさに側面のスイッチを押して通信を切ろうとした四千一号の指が止まる。そして表情も声色も変えずに、抑揚のない淡々とした調子で四千一号が言った。
「なんだ? まだ何かあるのか?」
「そうだ。お前の任務とは直接関係ない事なんだが、どうしても聞いておきたい事だ」
「任務に関係ないのなら手短に済ませろ。何が聞きたい?」
「自分の名前は決めたか?」
一瞬、四千一号の眉間に皺が寄せられた。だがそれはすぐに消え去り、最初と同じ能面のような無表情に戻った。
「我々はお前達を道具として創造したのではない。それはわかっているな、四千一号」
そんな四千一号の耳に男の声が聞こえてくる。我が子を窘めるような調子の声だった。
「シリアルナンバーは生まれたばかりの個々人を区別するためにつけられた便宜的な物に過ぎない。それはお前達の本当の名前ではない。そのことはお前も」
「わかっている」
男の言葉を遮るように四千一号が強めの口調で言い返す。そのまま矢継ぎ早に四千一号が続ける。
「そんな事、お前に言われなくてもわかっている。自分の名前は自分で決める」
そして相手の返答も待たないまま、力任せに端末の側面にあるスイッチを押して通信を切った。
「……わかっている……」
そして音声と緑色の球体の消えた端末を眺めながら、四千一号は沈んだ声で誰に言うでもなくそう答えた。
その姿はひどく弱々しかった。
富士満とアラタがが月光学園に転入し、二年D組に編入されてから既に四日が経った。既に満は転入初日から早速クラスメイト達と打ち解け合い、アラタもアラタでD組の生徒達と良好な関係を築き上げていた。主に満は気の合う友人として、アラタは頼れる姉貴分として周囲から認知されている節があり、本人たちもそう認識されている事について満更でもない様子だった。
こうして、月から来た二人は順調にD組の色に染まっていった。肝心なのは彼らが同調したのはD組のカラーであって、学園の掟には全く馴染もうとしなかった。それどころか、彼女達はそれに対して真っ向から拒絶の意思を見せたのだった。
「君が月から来たという転入生か。ここにくる前はよその星で大層名を鳴らしていたそうだが、ここで同じようにデカい顔出来ると思わないことだ」
「あ?」
二人がその意思を明確に示したのは転入二日目の事、釘を刺そうとやってきた執行委員の一人をメンチを切って追い返した時であった。
この時睨まれた執行委員は、後で「目が四つあって真っ赤に光っていた」と仲間の委員にそう話したというが、実際どうなっていたのかは定かではない。とにかくこの件を受けて執行委員はこの月から来た転入生を敵と認識し、教師陣の中にも彼女を警戒する者が出始めた。
しかし当の満とアラタはそういった周囲の動きに全く関心を寄せず、「好きにすればいい」という考えを崩さなかった。そして周りから寄せられる奇異と畏怖と警戒の視線を堂々とはねのけつつ、二人は地球での初めての学園生活を満喫していた。
だがそんな彼女も、現在進行形で一つの問題を抱えていた。
「満はどうした? まだ来てないのか?」
「いませーん」
「またどっかで道間違えたんだと思いますよ」
「またか……」
方向音痴だったのだ。おまけに地図も読めなかった。今日のように朝のホームルームが始まっても姿を見せないのはいつもの事で、酷い時には午後の授業が始まったときに全身汗だくの状態で教室に入ってくる事もあった。
「道が複雑すぎるのがいけないのよ!」
そして遅れてきた時にその時限の担当の教師やクラスメイトから「もう少し速く来れないのか」と問いかけられた際、満はいつもそう答えていた。自分は悪くないと思っている節があったが、実際彼女は毎朝七時に目を覚まし、余裕を持って学校に向かうようにしていた。夜更かしをする事もあるが、少なくとも寝坊するような事は一回も無かった。
しかしそれだけ周到に準備をして家を出ても、満が問題なく学園にやって来れた事は一度も無かった。彼女の住んでいるマンションは学園から歩いて十分の所に建てられているというのに、どこをどうしたらそんなに遅れる事が出来るのか。亮のみならず彼女の友人達も不思議に思っていた。
「まあ確かに東京は道が複雑な所があるけど、いくらなんでも遅すぎなんじゃないのか?」
「多分今日は二時間目くらいに来るんじゃないですか?」
「ミチルちゃんは宇宙人だから仕方ないと思いまーす」
空席なままの満の座席を見て頭をかきながら渋い表情で呟く亮に、女生徒の一人が手を挙げて返す。そしてその発言を受けて「それもそうだよなあ」と小さく言った亮に、そばかすとおさげ髪が特徴の少女が言った。
「じゃあ先生がミチルに教えてあげるとかどうですか。この辺りの道とかいろいろなこと」
「え?」
突然の提案に亮が驚いた声を上げる。
「芹沢、どうして俺なんだ?」
「だってミチル、先生のこと特に気に入っているみたいですし」
正確には獲物として狙われてるんだけどな。亮はおさげ髪の生徒「芹沢優」の言葉に対して、やれやれと言った具合にそう返した。だが亮がそう言った間にも、芹沢によって火をつけられた生徒達のテンションは上がり続けた。
「そうだよそうだよ、先生がミチルちゃんに教えてあげればいいんだよ」
「ミチルもアラタも、先生の事すごい気に入ってるんだぜ。絶対喜ぶって」
「先生は私たちよりここに詳しいですよね? だから先生がやった方がいいと思います」
「好感度あげるチャンスですよ、先生!」
やがて芹沢のように亮に意見を述べる生徒達がぽつぽつと現れ始め、ついにはクラスが一丸となって亮に催促を始める。そんな朝から元気な生徒の様子を見て、亮は思わずため息をついた。
彼もそんなに若くはなかったのだ。
「で、お前俺になんの用だよ」
同じ頃、満に変わって表に出ていたアラタは、薄暗い路地裏の真ん中で一人の少女と相対していた。彼女がここにいたのは単純に道に迷ったからであり、そこは学園とは真逆の方向にあった。アラタと満は自分が道に迷っている事には気づいていたが、自分が学園から遠ざかっている事には気づいていなかった。
そして今アラタの前に立っているその少女は、アラタがそこに入り込んだ直後、その真上から彼女の目の前に落ちてきたのだ。
「……」
それはぱっと見没個性な少女だった。無地の白いシャツと水色のズボンを身につけ、帽子を目深に被ったその姿は、自己主張とはほど遠い存在であった。だがその少女は直立姿勢のままで空から垂直に落下し、膝を曲げる事もせずに二本の足でアラタの眼前でしっかりと着地したのだ。その中身が人間でない事は明らかであった。
そんな少女を見据えながら、アラタが鋭い目をさらに細めて威嚇するように言った。
「いきなり空から落ちてきやがって。なんのつもりだよ?」
だがその帽子を目深に被った少女は何も答えず、代わりにアラタをまっすぐ指差した。
「なんだよ」
僅かに空恐ろしさを感じながらアラタが問いかける。するとそれを聞いた少女が小さく口を動かした。
「お前は月光学園の生徒か」
「あ?」
「お前は月光学園の生徒か」
感情のこもっていない、寒く暗い声だった。そして思わず聞き返したアラタにその少女は再度同じ言葉を投げかけたが、それは最初の言葉と抑揚もトーンも全く一緒で、それを聞いたアラタはまるでロボットが喋っているかのような印象を受けた。
「ああ、そうだ」
藪蛇な結果にしてはいけないと考えたアラタが素直に答える。対してそれを聞いた少女は安堵したように小さく息を吐き、それから前と変わらない口調でアラタに言った。
「私を連れて行け」
「なに?」
「月光学園まで私を連れて行け。そこに用があるのだが、道がわからない」
直後、アラタの頭の中は真っ白になった。
「お前は生徒だろう。道くらい知っているはずだ」
「お、おう……」
四肢を震わせながらアラタが答える。この時アラタは、自分がギロチンの台の上に首をおいたような錯覚を覚えた。




