「外の概況」
地上の町は大きくその形を変えた。建物だけでなく、信号機やガードレール、看板、ついには舗装された道路までもが歪み始めていた。おおよそ人工的に生み出された物は全て、等しくその存在を「歪められて」いた。
その光景は常軌を逸していた。「素」の地面の上から敷き詰められたコンクリートがその地面から剥離するようにめくれ上がり、思うままに空に向かって反り、曲がり、捻れていったのだった。その様はジェットコースターのレールのようであり、中には同じように歪んだ建物に直撃し、その建物を倒壊させながらなおも伸びていく物まであった。一度大地の中に潜り込み、別の地点から顔を出している物まであった。
車や徒歩で進めるような道は殆どなくなっていた。この世にある「道路」と呼べる物は、その全てがその姿を醜く変えていた。そしてそれは日本だけでなく、この地球にある他の都市全てで同じことが起きていた。人種も国境もなく、全てが平等に歪んでいたのだ。
もはやそこは人間が住める環境では無かった。大気の組成はこれまでと同じであったが、人工物はその限りでは無かった。常人ならば眺めているだけで気分を害してくるような異常な風景の中で心を休めようとする者はまずいないだろう。
おそらくそれは「この世界」が多くの異世界と交わったために「この世界」の存在する次元が歪み、それに反応するように建物等の人工物が歪んでいったのだろうと、次元監察局の面々は推測していた。とにかく地球上に存在する都市の大半はもはや人間が住むに適した形を有しておらず、そして人間に代わって異世界からやってきた者達がその歪みきった町の中に住み着き始めていた。人間の姿は殆ど無かった。
かつて人間が作り出した空間の中に、その人間の居場所は殆ど無くなっていたのだ。これは悲しいほどに皮肉であると、地球上にある都市の「観察」を終えた次元監察局員の一人はそう呟いた。
ザイオンが地上に降ろした元地下都市「アルフヘイム」も、その歪みの影響から逃れることは叶わなかった。大地の部分はそのままに、その大地の上に作られた都市部は地上の町と同じように歪んでいったのだ。今では少し高い所にあるというだけで、アルフヘイムと地上の町は全く同じ姿をしていた。
しかし当のアルフヘイムの管理人であるザイオンは、そのことに対して全く気に病んではいなかった。彼は自分の妻と二人の護衛役の三人を引き連れて、歪みきった町の中で平然と生活を始めたのだった。これくらいは慣れればどうとでもなる。ザイオンは後にそう言った。
そしてザイオンは自分達の新しい居場所を確保するだけで満足はしなかった。その後彼は妻と護衛役を引き連れ、空を飛ぶ専用の機械を使ってかつて秋葉原と呼ばれていた地域に向かっていった。そうしてその軽自動車からタイヤを抜いて可動式のジェットエンジンを装着させた特別製の機械に揺られながら秋葉原に着いた三人は、その後迷いのない足取りで一つの建物の中に入っていった。そこは他のビルと同じく上部が大きく歪んでいたが、入り口の部分は昔と変わらず来客を素直に中に招き入れた。
そこは一見して何の変哲もない雑居ビルであった。しかしその何の物件も入っていない空っぽのビルは、地下に存在する闘技場への入り口の一つであったのだった。
どれだけ地上の世界が歪もうとも、リトルストームは平常運転であった。地下に存在するその闘技場は地上の物質のように歪んだりはせず、平時と同じ形を保ちながら平時と同じ業務を続けていた。
闘技場は相も変わらず満員御礼であった。唯一それまでと異なっていたのは観客や出場選手の中から地球人の多くが姿を消し、参加者の大半が「その世界」の中にある外宇宙からやってきた者達で構成されていたことであった。最近では異世界からやってきた「異邦人」達もその中に混じり始め、ここが地球の施設とは思えないほどのより一層混沌とした様相を呈していた。
その地下闘技場「リトルストーム」の支配人であるケン・ウッズは、もちろん地上の状況を知っていた。知ってはいたが、自分から動こうとはしなかった。彼はこの一連の事象は全て自然発生したものであり、起きてしまった物は仕方ないと割り切っていた。福支配人で宇宙怪獣のイツキはもっとドライであり、自分達の経営の邪魔にならなければどうでもいいと考えていた。ケン本人は何か手伝えることがあるならやりたいと思ってはいたが、同時に素人が下手に首を突っ込んで今以上に状況を混乱させるわけにはいかないとも思っていた。
そんなケンとイツキの元にザイオンら三人がやってきたのは、この世界が特異点となってから半年後のことだった。予め約束していた時間通りにやってきたザイオン達は受付係に連れられて応接室に入り、そこでケンとイツキに会った。彼らが顔を合わせるのはこれが初めてだった。
それから挨拶もそこそこに、ザイオンはまず自分達がここに来た理由を語った。簡潔に言うとそれは「地下に新しく居住空間を作りたいからそちらの力を借りたい」というものであった。なんでそんなことをするのかとケンから尋ねられると、ザイオンは真顔で「神からそうするよう言われた」と言った。ケンとイツキは同時に「こいつは頭がおかしいんじゃないのか」と思った。
そんな二人をよそにザイオンは話を続けた。彼曰く、最初神はこの事態を新たな試練として人間達に課そうとしていたが、日を増すごとに悪化していく世界情勢を鑑みて「これは危険すぎる」と判断し、急遽避難用の施設を作るようザイオンに命じたのだという。神は人類により強くあってほしいと思ってはいたが、だからといってやりすぎて人類そのものを滅ぼすのは本意では無かったのだ。
そう話し終えて、ザイオンは「朝令暮改も程々にしてほしい」と、まるで笑い話を披露したかのように笑って見せた。しかしそんな話を聞かされたケンとイツキは揃って顔を見合わせた。一時彼らはこの目の前の男は本当に狂っているんじゃないかと冗談抜きで考えたりもした。
しかしザイオンの表情は真剣そのものだった。冗談を言っているわけでも発狂しているわけでもなかった。彼の思考は極めて正常であり、真面目に物を頼みに来たことがその顔つきからハッキリと伺えた。彼の両隣に座っていた二人も真ん中に座っている老人を止めたりはせず、黙って彼の話を聞いていた。それを小馬鹿にしたりそれを聞いているケン達に対して申し訳なさそうに表情を曇らせたりはしなかった。
説明を全て聞き終えた後、イツキは「全てケンに任せる」とここの支配人に決定を託した。問題を丸投げしたとも言える。そしてケンはザイオンの提案に乗ることにした。彼としても地上で途方に暮れている人達を放ってはおけなかったのだ。相変わらずお人好しですね、と彼の賛成理由を聞いたイツキは呆れたように言葉を発したが、その顔は本気で彼を蔑んではおらず、呆れてはいたがその顔には信頼の色がありありと浮かんでいた。
それを聞いたザイオンは素直に喜びを顔に表した。そしてケンの手を取って「ありがとう」と感謝を示した後、喜びもそこそこに懐から長方形の端末を取り出してそれを目の前のテーブルに置き、それのスイッチを入れた。すると端末の表面が淡い緑色に輝き、その上の空間に自分が計画している地下施設の3D映像を表示させた。緑色に光る格子で構成されたその図は自動で回転しながらそれの全体図を周囲に見せ、そして回転する図の周りに施設内部の詳細な図解と情報を次々と表示させていった。
それは複数の小さな正六角形からなる巨大な正六角形の物体だった。小さな方の六角形は全て同じ大きさであり、その六角形の中で更に個人用のスペースが割り当てられていた。そのスペースを何に使うかは個人の判断に任せるとされており、単純な住居としてもいいし何かの店を開くために利用しても構わないとされていた。
彼は本気なんだ。イツキはここに至ってザイオンの真意を悟った。一方でケンは真剣な眼差しでそれを見つめ、ザイオンはその様子を同じく真剣な面持ちで見守っていた。
面白い。これは面白い。ケンがザイオンのプランに完全同意を示したのは、それから十秒後のことだった。
「これが今のところの大まかな状況ですね」
麻里弥に連れられた部屋で亮から今現在の周辺の情勢を教えられたその元月光学園教師の男は、口を半開きにしたまま体を硬直させていた。アルフヘイムから降りてきたばかりで町の詳しい事情を知らないその男は亮の言葉を受けて大きく動揺していたのだった。アルフヘイムの建物が歪み始めていたのは事実であったので、嘘をつくなと全てを突っぱねることも出来なかった。
「海外も似たようなことになってます。都市部は人が住めるような状態にはなっておらず、人間の代わりに異世界から来た者達が住み着き始めています。追い出された人間達は代わりの居場所を求めて当てもなくさまよ、そのうちの大半が次元監察局に保護されています」
テーブルを挟んで反対側に座っていた亮が淡々と説明する。男は生唾を飲み込み、否定も肯定も出来ずにただその話に聞き入っていた。
「まあ、そんな感じですね。何か気になった部分とかありますか?」
「えっ、あっ、えっと」
そして突然話を振られ、男は目に見えて動揺した。それからややあって何とか平静を取り戻した男は、一つ咳払いをしてから亮に尋ねた。
「じゃあ一つ」
「なんでしょう」
「あなたはここで何を?」
男からの問いかけに、亮は即答しなかった。少し間を置いてから、考え込むような素振りを見せつつそれに答えた。
「一言では言えませんね」
「どういう意味です?」
「やることが多すぎて全部説明するのに時間がかかるんです」
そう言った後、亮は男に聞こえない声量で「どこから話せばいいのか」と言いながら再び考え込んだ。その本気で悩んでいる亮の姿を見ていると、男の後ろにあった観音開きの扉が開き、その奥にあった闇の渦の中から音もなく一人の人間が降り立った。
「先生、時間ですよ」
声に気づいた男が後ろを向くと、そこには自分の知る顔が立っていた。二年D組の芹沢優。その元教師である男がかつて問題児の一人として認識していた生徒の一人だった。
しかし当の優はその男には一瞥もくれずにまっすぐ亮の方を見つめ、寄りかかるように片足に重心を乗せて淡々とした口調で言った。
「百五号室でみんな待ってますよ。今日講習を受けるのは十人です。それとそれが終わったら二百四号室で異世界の人達と会談があります。それから二十分ほど経った後に三百十五号室で情報統合の会議に来てください。あと今日の夜やる予定だった武術会は明日に延期となりました。武術会の後でやる祝賀会もついでにキャンセルです。端末の方にスケジュール送っときますんで、よろしくおねがいします」
男は最初、この少女が何を言っているのかまるでわからなかった。しかし亮は優の言葉をすぐに
理解し、得心した顔で言った。
「わかった。わざわざすまんな」
「気にしないでいいですよ。人手不足ですから。それからエコーさんも会談に参加するそうですよ」
「エコールが? 今日は確か一日オフだったような気がするんだが」
「暇だから来たそうです」
「ああ、うん。わかった。じゃあお前も頑張ってな」
亮の言葉を受け、優は一礼した後で踵を返し、「普通の」ドアを潜るように闇の渦の中に吸い込まれていった。その様子を見ていた男は状況を全く把握できないまま眉間に皺を寄せ、声を絞り出すように亮に言った。
「今のが?」
今のがあなたの「仕事」なのか。男の言葉をそう捉えた亮は、苦笑いを浮かべながらそれに答えた。
「一個三時間くらいかかりますね」
男はなんと答えていいかわからず、真顔のまま曖昧な返事で答えた。




