「ノーと言えない男」
ここを通るのも久しぶりだな。新品同様に設えられたグレーのスーツを着こなし、新品同様に塗り固められた真っ白な廊下の上を歩きながら、亮は一人思案にふけった。今自分が歩いているのは「元」月光学園一階の廊下の一つ、自分の左手には窓ガラスが、右手にある壁にはそれぞれ違う教室に続く扉が規則的に並んでいる区画だった。この廊下に沿ってある教室の数は全部で五つ。しかし今、勉学のためにやってきた生徒に満ちている教室は一つしかなく、それ以外の四つはもぬけの殻と化していた。ちなみに他の教室にも人はおらず、真の意味での「教室」として機能していたのはまさにその一室だけだったのだ。そして亮はその唯一存在している「教室」に、教鞭を取るために向かっていた。
「……」
自分以外に誰もいない廊下の中で、乾いた靴音だけが響いていく。人気の無い学校は冷たく、不気味な静寂に満ちていた。まるで心霊スポットで授業をするかのようだ。そう考えた亮は軽く身震いした。騒がしすぎるのはどうかと思うが、静かすぎるのも考え物であった。
「ここか」
やがて亮は一つの扉の前で立ち止まった。扉の上にあるネームプレートには「一年C組」と刻まれていた。ここが月光学園だった頃の名残だ。亮は特別悲しいとは思わなかった。亮は視線を元に戻し、窪んだ取っ手に指をかけてゆっくりと扉を開いた。
扉の下溝をまたいで教室に入る。直後、中にいた「生徒」達の視線が一斉に突き刺さる。亮は四面楚歌というものがどういう状況を指しているのかを、この瞬間身をもって知った。
その空間の中に亮以外の人間は一人もいなかった。
「おおう」
教壇の前に立って教室の中を見回した亮は思わず驚きの声をあげた。地球の外に広がる「異世界」の縮図がそこにあったからだ。
人間は一人もいなかった。動く何かの動物の骸骨や巨大なカマキリ、四本腕で六本足の生物といったまだ地球人でも理解できるような形を持ったものから、中心部に一つの球体を収めた紫色のガスの塊や緑に発光するスライムのような不定形の物体、一昔前のコンピュータグラフィックスで作られたような白一色の刺々しい浮遊物のような、もはや生き物であるかどうかすら判断できない無機質な生命体まで、様々な存在がそこにひしめいていた。中には大きすぎて椅子に座れず、仕方なく天井に頭をこすりつけながら教室の後ろで立っていた者もいた。
「……」
亮はその光景に圧倒されていた。見惚れてさえいた。この目の前に広がる「人種の坩堝」とも言うべき混沌とした世界を前に、亮はその自分の中に宿していた冒険心をツンツン刺激されていたのだ。本当なら今すぐにでも自分の仕事を辞めて、教壇を飛び越して彼らの中に混ざり、彼らの住んでいる世界について様々なことを聞いてみたいと思っていたほどだった。
しかし彼はまず自分の仕事を優先することにした。自分の欲望を抑えるのと目の前の「異形」達の注目を自分に向けるために一度咳払いをした後、亮は思惑通りこちらに注目してきた面々を前に良く通る声で言った。
「やあみんな。おはよう」
思いっきり地球の言語であった。通用するかどうか亮もわからなかった。わからないんだからやれるだけやってやるという、半分ヤケクソな部分もあった。
しかしその熱意は伝わった、のかどうかはわからなかったが、その声を聞いた面々はそれぞれ大なり小なり反応を返した。片手、もしくは片手らしき部位を重々しく持ち上げながら声を返す者や、声ですらない電子音だけを細々と返す者、音を出さない代わりに全身を震わせて何らかの意思表示を示す者など、そのリアクションは多岐にわたった。もっともここにいる者達は、今日のこの集まりに自分から志願して参加した者達ばかりであったので、ある程度協力的な面々が集まっていたのは当然のことであった。
しかしそれでも、こちらの行動に対して何らかのアクションを返してくれるのはありがたかった。亮は幾分か気持ちが軽くなるのを感じながら、目の前の教壇に両手を置きながら慎重に言葉を選びつつ言った。
「今日は集まってきてくれてありがとう。色々と戸惑っている部分もあると思うけど、まずはお互いのことを知り合うことから始めようと思う。だから軽い自己紹介からしていこうか」
次元監察局主導による「文化研究機関」の最終候補地は、案の定月光学園に決まった。ここが特別優れていたというわけではなく、世界各地で候補地としていた場所が未だ混乱の極みにあり、安全に機関を設立出来る場所がここしか無かったからであった。
「そんな理由でいいんですか?」
「いいんです」
疑問に思った亮に対し、監察局員はそうさらりと返した。彼らが言うにはいずれ他の候補地にもここと同じ施設を作るつもりであり、最初にどこに作るかはその順番が前後するだけであるとのことであった。そういった理由で月光学園が最初のポイントとなり、彼らはその校舎を丸ごと利用することに決めた。
次に監察局員は月光学園の補修と改良に乗り出した。といってもまだどこの誰がここに来るかわからなかったので、本校舎の中は必要以上にいじったりはしなかった。彼ら曰く「必要に応じて順次改良を施していく」とのことであった。
監察局員はそのことを、ここに住んでいた人達に食堂で説明した。住む場所を無くすと懸念している人達に対しては、この敷地内に別の居住空間を作るつもりであるということも説明した。それを聞いた者達は一応納得したが、同時にそれを聞いた一部の人間はそれとは別の懸念を抱いた。
「それって、ここを勝手に改造するってことですよね」
「そうなりますね」
「そんなことして大丈夫なんですか?」
「一応ここの責任者に話しをするつもりであります。ところでここの責任者が誰か、ご存じないですか?」
監察局員からの質問に、住民の一部が揃って天井を見上げた。しかしその目は天井ではなく、もっと上の方を見据えていた。
「月ですよ」
その内の一人が呟くように言った。監察局員が「月?」と問いかけると、それを答えた者が頷きながら言った。
「月に国があって、そこの女王様が地球の人と共同でここを作ったんですよ」
それを聞いた監察局員の行動は迅速だった。彼らは早速ワープ装置を使って月に向かい、そこで月にあるという国の所在地を突き止め、アポイントメントを取った上でその国に無かった。
「ええ。そのようなことでしたら許可しましょう」
そして玉座の間で監察局員から事情を聞いた月の女王ヨミは、二つ返事でそれを了承した。すんなり行ったことを不思議に思った監察局員に対し、ヨミは真剣な顔で言った。
「今、地球は混乱の極みにあることがわかりました。そしてその混乱から脱するためには、他の方々と手を取り合うことが大切なのです。あなた方がそれを可能とする場所を作っていくというのであれば、私はそれを支持いたします」
「しかし、あれは一部とはいえあなたの資本で作られた物のはず。他人にいじられるのは不快ではないのですか?」
「個人の感情で物事で決めていい場合ではないはずです。私が地球のために出来ることは少ないですが、出来ることがあるなら可能な限り手助けしていくつもりです」
監察局員はそのヨミの言葉と態度に大きく感銘を受けた。そして礼を述べて地球に戻った後、さっそく機関の設立に取りかかった。そしてその一環として、今現在この世界と繋がっている世界の「異邦人」に呼びかけ、自分達が協力者と共に作ろうとしている機関の設立に協力してほしいということを訴えた。
反応はある意味局員の予想通りだった。返事をよこしてきたのは全体の六割で、協力的な姿勢を見せていたのはその内の半分だった。しかし監察局員達はあまり悲観はしなかった。むしろ初回でこれだけ集まったのは上々の成果だと思っていた。
そして次に監察局員は、協力の意志を見せてきた彼らに対して情報提供を求めた。同時に局員は、情報提供に応じる彼らの話を聞く人物の素性も明かした。
それは新城亮という名前の地球人だった。
安請け合いするんじゃなかった。今になって亮は後悔してもいたが、それでも受けたからには完遂しなければならない。亮はそう思い返しつつ、自己紹介を終えたばかりの一同を見渡しながら声をあげた。
「じゃあ、次に自分の世界について話してもらおうかな。いい部分も悪い部分も、全部ひっくるめて話してくれると助かる。それじゃ、右端の方から順にやっていこうか」
まあ、なるようになるさ。亮は気持ちを切り替え、懇親会兼情報収集会談を進めていった。
これから世界がどうなるかは誰にも解らない。なら、出来ることをやるだけだ。




