「承諾」
その町の住民は今やその殆どが上空にある浮遊大陸に避難したが、ごく一部の人間だけは避難勧告を受け入れず、まだその町に残り続けていた。自分の家を捨てることなど出来ないと意地を張る者や、どうせどこに逃げても危険なことに変わりはないと諦めの境地に至っていた者がその代表だった。
彼らはそれ以外にも様々な理由から地上に留まり、宇宙から来たトカゲ人間達が実験と称して開いているコンビニやスーパーに嫌々赴いては他のトカゲに紛れて食料や水を買い、それ以外では全く外に出ること無く、ひっそりと生き延びていた。中には日の光を浴びることさえ拒絶し、一日中窓にカーテンをかけて閉めきりの中で生活する者さえいた。地上から大半の人間が消えたことによって賃金収入は無くなり、いずれ手持ちの資金が尽きればトカゲの店で物を買うことが出来なくなるにも関わらず、それでも彼らは頑なに浮遊大陸の方へ引っ越そうとはしなかった。
月光学園校長の松戸朱美もその一人だった。彼女は「余所者には絶対に屈しない」という意地から地上に残ることを選択し、今もなお地上に留まり続けていた。なお亮とその関係者以外で地上に残った月光学園の教員は彼女だけだった。生徒も全員アルフヘイムに避難していた。
朱美はそんな教師と生徒を当に見限っていた。我が身可愛さに学園を見捨てるような連中とつるむ気は毛頭無かった。そして「結局本当に学園を愛しているのは自分だけなのだ」と自らに言い聞かせ、この本当はもうどうにもならないとわかりきっている状況の中にいる自分を奮い立たせながら、彼女は今も自分だけで生き残ろうとあがき続けていた。
そしてこの時、朱美はそんな自分を奮い立たせるための一環として、月光学園の中を歩いていた。彼女が目指していたのは校長室、そしてその中にある、かつて自分がこの学園で絶大な影響力を持っていた時に座していた自分専用の椅子であった。その玉座に腰掛ければ自分が女王であった時の記憶を思い出し、理解不能の事象の連続で萎み疲れた体に活力が戻っていくのだ。自分はまだやれる。自分はまだ負けてはいない。私はまだ、この学園では真理そのものなのだ。
朱美にとって、かつて自分が味わっていた栄華と権勢の記憶こそが、今の世界から自身の心の均衡を守る最後の砦となっていたのだった。
「ん?」
そうして自身のなけなしの気力を再び回復させ、前よりも幾分か軽い足取りで玄関口に向かおうとしたその時、上の階からどっと笑い声が響いてきた。玄関と校長室は共に一階にあり、そして今学園には自分以外いないはずだった。なのに上から声が聞こえてくる。これはいったいどういうことだ?
朱美は確かめずにはいられなかった。渡り廊下から階段を使って二回に上る。声はその二階にある教室の一つから聞こえてきた。そうして今も声が聞こえてくる教室の引き戸の前に立ち、そこがどのクラスなのか確認する。二年D組。
その文字を見た瞬間、朱美の表情が嫌悪に歪んだ。このクラスの連中はいつだって自分を苦しめてきた。学園のルールに従わず、常に自分達のやりたいようにやって来た。朱美はこのクラスの連中を心から嫌っていた。
しかし同時に、朱美は扉の奥から聞こえてくる声を耳にして、この教室の奥では何が起きているのかと己の好奇心を刺激された。まるで友人の誕生日会であげるような愉快な笑い声が聞こえてくる度に、この奥ではいったい何が起きているのか、自分はこんなに苦しんでいるのに、ここの連中は何をそんなに楽しんでいるのかと嫉妬や劣等感にも似た欲求が心の中で鎌首をもたげるのだ。
朱美は当然、その欲求と戦った。しかし十秒と保たなかった。結局彼女は欲求には打ち勝てず、引き戸を少しだけ開けてその隙間から中の様子を窺おうとした。
「あなたは誰ですか?」
しかし朱美がほんの少し引き戸を開けた直後、教室の中にいた誰かが廊下側にいた人間にそう声をかけつつ、その戸を思い切り開いた。突然のことに驚き一歩引き下がった朱美の前に現れたのは、全身をローブで包み頭にはフードを被った異様な風体の人間だった。
「失礼。どちら様でしょうか?」
相手からの返事が返ってこないことを不審に思ったローブの人間が再び朱美に問いかける。しかし目玉が飛び出さんばかりに見開かれた朱美の目はローブの人間を見ておらず、彼の後ろにある物を凝視していた。
「あ、あ、あ」
あれはなんだ。朱美はそう言おうとしたが、驚愕のあまり口が満足に開かなかった。ローブの人間はその朱美の表情から彼女が驚いていることには気づいていたが、一体何を見て驚いていたのかまでは気づいていなかった。
「うしろ?」
そのうち、そのローブの人間は朱美が自分の後ろにある物をじっと見ていたことに気づいた。そして自分もまた首を回して背後にある物へ目を向け、それからまた何事もなかったようにその視線を朱美に向けなおした。
「あれがどうかしましたか?」
そう言って背を向けたローブの人間の背後には、生徒用の机の方を向きながら宙に浮くティラノサウルスの頭があった。正確にはそれは空間に開けられた穴の中から頭だけを「こちら側」に飛び出させており、そしてそのティラノサウルスは自分が生きていることをアピールするかのように首を振り回し、時折大きく口を開けて大音量で叫び声を放っていた。
「ただの恐竜じゃないですか」
ローブの人間はなんでもない事のように言ってのける。その間にも首だけのティラノサウルスは威嚇するように吼え声を上げ、そしてその叫び声を聞く度にその反対側にいた者達は愉快そうに歓声をあげる。あまつさえ、もっと他には無いのかと催促の声があがる始末であった。そしてその催促の声を受ける度に、ティラノサウルスは、前よりも一段階勢いを増して叫び声を放つのだった。
「いいぞー!」
「すげー! 本物だー!」
「もう一回! もう一回!」
朱美には何もかもが未知の領域だった。理解不能だった。自身の頭が目の前の状況を全力で否定していた。こんなことが現実であって良いはずがない。こんな常軌を逸したことが学園で起きていいはずがない。朱美は自分の理解の外にある目の前の出来事を全力で否定した。
その直後、生徒の方を向いていたティラノサウルスが朱美の方を向いた。
「ひっ」
ティラノサウルスを目があった瞬間、朱美がひきつった声をあげる。その声に反応するかのように、ティラノサウルスが朱美の方を向いたまま雄叫びをあげた。その口が大きく開かれた瞬間、目の前の恐竜は自分を丸飲みにするしようとしているのだと錯覚した瞬間、松戸朱美はその意識を手放した。
「あ、なんかいる」
他の面々が泡を吹いて仰向けに倒れる朱美の姿に気づいたのは、それから少し経った後の事だった。ここにいたのはそれまで亮達の関わってきた守護騎士関係者以外の面々が全員集まって来ており、その全員が松戸朱美の無防備な姿を目の当たりにしたのだった。ちなみにランスロットとグィネヴィアとモードレッドは独自にこの変わり果てた世界の調査を進めており、トリスタンとイゾルデは外のことなどお構いなしに二人の生活を送っていた。
「何してんだこんな所で」
「さあ?」
「見張ってたとか?」
その内の何人かが朱美の姿を見ながら声をあげる。そしてそのままローブの人間の方を見やるが、彼らはティラノサウルスの鼻先を押して空間の奥へ押しやりながら「全くわかりません」と返答した。
「おそらくこれに驚いて倒れたのでしょうけれど、それ以外のことは何も。なぜここにいるのかもわかりませんし、そもそもこの人が誰なのかすら知りません」
「その人はこの学校の校長ですよ」
「そうなんですか?」
亮の言葉に五人組が反応する。亮は気まずい表情で頷いた後、恐竜の頭が引っ込んで閉じられていく空間の穴――五人組が自分達が並行世界から来たことを証明するために開けた「異世界同士を繋ぐ穴」を見つめながら、五人組に向かって言った。
「まあ、それでもこの人がなんでここにいるのかは全然わかりませんけど」
「学校が恋しくなったとかではないのか?」
宇宙海賊の一人である、紫色のドレスに身を包んだ少女トトが亮に尋ねる。亮は「そうかもしれない」と曖昧に答え、それからミナによって両足を掴まれ教室の中に引きずられていく校長を見ながら言った。
「知らんものは知らん」
「随分無責任なことを言うのだな」
「変に期待されても困る」
トトにそう返す亮の目の前で、ミナが教卓の前に朱美の体を投げ捨てた。そして額を手で拭いながら「こいつ重い!」と不満げに漏らした。
「無駄に脂肪ばっかり溜めやがって! 少しは痩せたらどうなんだよ!」
朱美の体は醜いまでに肥満体と言うわけでは無かったのだが、それでもいくらか肥えてはいた。そんなミナの姿を苦笑混じりに亮が見ていると、その亮に向かって件の五人組の一人が話しかけてきた。
「それより、ミスター新城。先の話についてなのですが、本当によろしいのでしょうか?」
五人組が表情と雰囲気を引き締め、一斉に亮を見る。その目は期待に満ちていた。その一方、アルフヘイムのザイオンから一方的に「案内役」として推薦されてしまったその元宇宙刑事は、面倒くさそうに頭をかきつつ、諦めに満ちた声でそれに答えた。
「まあ、やりましょう」
「お前は昔から人の頼みを断れない奴だったな」
一つ目の怪物、もとい亮の元上司であるドグが愉快そうに言った。亮はそんな自分の元上司をジト目で睨みつけ、亮を知るほかの面々はそれを苦笑いを浮かべつつ、しかし誰も助け船を寄越そうとはしなかった。
「先生、がんばってくださいね」
「なんとかするクマ」
「色々見所はあると思うし、なんとかなりますよ。たぶん」
「お前らなあ」
他人事のように言いやがって。亮は言葉にせず、視線で周りの連中に訴えた。周りの面々は表情を変えなかった。




