「イゾルデ赤」
その町の住人の疲労はピークに達していた。彼らは主に精神的に参っていたのだが、その許容量を越えた疲労は心を飛び越えて肉体をも蝕み始めていた。
そもそもの災難の始まりは牛頭の怪物による専横だった。その町を新たに縛り付けた法律、罪を犯した者を容赦なく殺していくその法は元からそこにいた住民全てを戦慄させた。確かに犯罪は減ったが、その代わり住民の心から安息というものが消え去った。二十四時間、起きてから寝るまでたとえほんの僅かでも神経に緊張を強いるような生活を続けて、元気でいられる人間はその町にはいなかった。
そしてなんの前触れもなくその怪物が消え去り、ようやく平穏が戻ったと思いきや、その矢先に自分達の頭上を宇宙戦艦の群が覆い尽くした。さらにそれに呼応するように灰色のドームで町が覆われ、逃げることすら叶わなくなった。終いには宇宙戦艦から鎧と剣で武装したトカゲ人間が多数降り立ち、まるで自分達の住処であるかのように大手を振って道という道を闊歩する始末だ。
まるで夢を見ているようだった。それも非常に詳細で生々しく、現実的な悪夢だった。もう勘弁してくれと彼らは声にならない悲鳴をあげた。しかしどれだけ叫ぼうが新しい朝を迎えようが、その目の前に広がる悪夢が晴れることは決してなかった。それは全て夢ではなく現実であったからだ。
人々は家にこもるようになった。どこから物資を調達しているのかは知らなかったが、とにかく生活に必要な物を最寄りのスーパーやコンビニで買う以外の目的のために、彼らは外出をしなくなった。外にでれば否応なく現実を突きつけられる。好き好んでそれを味わいたがるような人間はいない。
家の中なら安全だ。せめて家の中なら、現実を知らずにいられる。誰もがそう考えていた。確かにそれまでならその理屈は通った。
しかしその理屈は、ある瞬間を境に幻想へと成り下がった。
「おい、みんな大丈夫か?」
「なんとかね。ローディは? 平気?」
「ご心配なく。こちらも大丈夫です」
「助かったぜローディ。バリア張ってくれなかったら今頃死んでた」
「簡易式の防御結界です。とにかく、間に合ってよかった」
最初にそれが起きたのは町の中にある一軒の家、益田という一家が住んでいる家だった。その二階にある益田家の一人息子、浩一の私室が、何の前触れもなく爆発した。
そしてその爆発を皮切りに、それと同じ規模の爆発が町の至る所で発生した。火元は全て、益田家と同じ一軒家だった。
爆発の連鎖は五秒ほどで終了した。しかしその五秒の間に、二百五十二もの家が破砕された。中にはその破壊の波が強烈すぎたために、地上から丸ごと消滅した家も何軒かあった。二階の特定の空間だけが吹き飛んだ益田家は、まだ軽い方だったのだ。
「コーイチ! あれ!」
浩一たちがそれに気づいたのは、ローディが防御結界を解いたすぐ後のことだった。彼らはかつて窓があった場所、今では周囲の壁ごと根こそぎ吹き飛ばされて床から天上まで届くほどの大きな穴が空いていた部分から外の光景に目をやり、そして町の至る所で黒煙があがっていたのを目にしたのだった。
「浩一! 今のはなんなの!?」
「大丈夫か浩一!」
一階で寝ていた両親が階段を駆け上がりながら声を張り上げる。しかしその息子を心配する声は、浩一の頭には届かなかった。この時彼は全く別のことを考えており、それで頭がいっぱいになっていたのだ。
「イゾルデか」
浩一が短く呟く。ローディが頷いて答える。
「彼女ならやれます。あれはそういう妖精だ」
「最悪」
呆然と滞空しながらソレアリィが呟く。
「ここまでする?」
「言ったはずです姫様。イゾルデは勝つためならなんでもすると」
外では消防車や救急車のサイレンがけたたましく鳴り始めていたが、それらは彼らの耳にはまるで遠い世界で起きている事柄のようにか細く響いていた。
次の日の昼前には、その夜に起きた爆発による詳細な被害が報告された。町の住人はテレビのニュースを通してそれを知った。
死亡者数七十二名。負傷者数二百名以上。大惨事である。
「ビーム照射十秒前。八、七、六」
しかしそうして死んでいった者達を弔うことは無かった。上空に停止している宇宙戦艦から数隻の円盤が射出され、それらは爆発の被害を受けた場所に向かうなりそこめがけて一種の光線を発射し始めた。物質変換修正光線と呼ばれるそれは、かつてそこにあった「物質」を全て、たちまちの内に修復していった。正確には修復ではなく、家から人まで、そこにあった物全てを「以前あった状態」へと戻していったのだ。
「その星の時間軸に干渉してその場所の過去の状態を検索し、それに従って現在の状態を修正しているのです。タイムマシンの応用ですね。過去と同じ状態を、現在に再現するんです」
どんな原理で動いているんだ、という地球人からの質問に対して、その円盤に乗っていたトカゲ人間の一人はそう答えた。地球人達にはまったくちんぷんかんぷんな答えだった。
とにかく、この爆発によって死亡した人間はその全員が「修復」されてこの世に戻ってきた。それは紛れもない事実であったので、人間はその時はそれについて深く考えることはしなかった。
しかし、そこから「さあ犯人を探そう」という空気にはならなかった。ただでさえ疲弊していた住民達は、この無差別爆撃によって更に心をへし折られたのだった。むしろ「もう俺たちのことは放っておいてくれ」と投げやりに考える者の方が圧倒的であり、この厭世的な空気は警察関係者の方にも少なからず伝染していた。彼らは住民の安全を守るプロフェッショナルである以前に一個の人間であり、そしてこの町で起きている出来事はそんな人間の持つ価値観を鼻で嘲笑うものばかりだったのだ。
それが短い間の出来事ならば、警官としての矜持をもって己の精神の均衡を無理矢理保たせることも出来ただろう。しかしその常軌を逸した出来事は連続して、長期間発生し、しかも目に見える形で自分達の前に現れていた。
限界だった。警察官達も疲れ切っていたのだ。彼らだけではない。消防士や救急隊員、政治家といった面々も疲れ果てていた。
町のほぼ全てが倦怠感の中に包まれていたのだった。
無差別爆破の犯人が捕まったのは、その次の日のことだった。
「ここの連中、あそこまで驚くとは思わなかった。まったく肝の小さい連中ね」
それはその日の朝方、二つのビルの間に出来た狭い路地の中で身を屈めていた。その手元には一枚の紙が握られており、そこには複数の同心円とミミズがのたうち回ったような文字で構成された複雑な模様が刻まれていた。
「でもまだまだ。お祭りはまだこれからよ。もっと派手なことしてやるんだから」
それはそう吐き捨てると共にその紙を足下に落とし、拾い上げることもせずゆっくりと立ち上がった。それから何食わぬ顔で路地から歩道に戻り、今ではすっかり人通りの絶えた道を鼻歌混じりに歩き始めた。
それは一人の女性だった。白い髪を腰まで伸ばし、金色の瞳と低い鼻を持ち、フリルをふんだんにあしらった深紅のロングスカートとVネックのシャツを身につけ、そしてシャツの上から胸元から上だけを隠す程度に裾を切り詰めた革製の上着を羽織っていた。その上着もまた真っ赤であった。
その女性はいつの間にか歩道のど真ん中でスキップを始め、さらに愉快さや嬉しさを表現しようとスキップの勢いを利用して地面を蹴り上げ、小さくジャンプした。そしてジャンプの力を使って両手を広げながら空中で一回転し、前を向いた状態でふわりと着地した。
「もしもし! そこの人!」
女性の背後かそう声がかかってきたのは、彼女が一回転して片足で地面に着地したまさにその時であった。女性が思わず足を止めて後ろを振り向くと、そこには白い質素なワンピースを身につけた少女がこちらをじっと見つめながら立っていた。
「これ落としましたよ!」
その朴訥な見た目の少女はそう言って片手を突き出し、その手に持っていた物を女性に見せた。それを見た直後、女性は顔を凍り付かせた。
「さっきあっちの路地で落としましたよね! 私見てましたよ!」
それは少女の言うとおり、自分が路地で落としていった紙だった。複雑な模様の描かれた一枚の紙。しかしそれは、女性にとってはただの紙では無かった。
「ちょ、ちょっと、見てたって」
「駄目ですよごみはちゃんとごみ箱に捨てなきゃ! コンビニの近くにごみ捨て場がありますから、そこで捨てて来てくださいね!」
あからさまにうろたえる女性の反応を無視して少女が件の紙を持ったまま近づいていく。そうして少女が一歩近づいて来るにつれ、女性はその顔をより一層険しいものに変えていった。
「こ、来ないで」
「ここから近いコンビニは、確か、あそこかな? 歩いて二分くらいしかかからない所にですね」
「近づかないで!」
女性が声を荒げる。それと同じタイミングで、少女が突如足首を挫き、バランスを崩して前のめりに倒れる。
「わっ!」
この時、女性の目に少女の姿は映っていなかった。その目が捉えていたのは、少女の手を離れて空高く舞い上がった件の紙だった。
「わ、わっ」
女性の頭の中で警報が鳴り響く。しかしそれとは裏腹に、彼女の体は恐怖に凍り付いて全く動かなかった。まるで足の裏とコンクリートの地面が結合したかのようだった。
しかしそれでも脳はフルで動き続ける。警鐘を鳴らすかのように情報を吐き出し続ける。
逃げろ。
まだ間に合う。
あれは光を浴びて作動する。
咄嗟に女性が目を動かす。その視界の先には、雲一つ無い青空が広がっていた。
燦々と輝く太陽。
その視界を遮るように、宙を舞っていた紙が女性の顔に貼り付く。
瞬間、そこを起点とした大爆発が発生した。
「ミナ! ミナ大丈夫か!」
「おうシンジョー! エコールも!」
「何があったの? さっきの爆発は何?」
「なんか知らないけど爆発したんだ! 目の前でドカーンだ!」
「目の前って、お前は平気なのか? どこか怪我してないのか?」
「全然平気だぞ! なんたって私はダスティアンなんだからな!」
それから暫くして、自分のすぐ近くでそのようなやり取りがあったのだが、赤服の女性がそれを知ることは無かった。
周囲の建物の窓ガラスを根こそぎ粉砕した爆発が収まった後、その爆心地にあったのは、かつて赤服の女性の肉体を構成していたであろう両足だけだったからだ。
「あれだ! あれが捨てた紙が爆発したんだぞ!」
「あれって」
「足しか残ってないぞ」
その後、足だけ残してこの世から吹き飛んでいった女性は例の物質変換修正光線を受けて元の体を取り戻し、そして元通りの人の形に戻ると同時に、娘とも言うべきミナの安否を確かめにここにやって来ていた亮の手によって拘束された。そしてその後の尋問で、彼女は自分が先日の無差別爆破の実行犯であることを認めたのだった。
「それにしても、この天才イゾルデ様の邪魔をするなんて大した度胸ね! あんた新城亮って言うんだっけ? その名前と顔、絶対に忘れないんだからね!」
そして自慢げに「あれは自分がやったのだ」と自ら白状した後、イゾルデと名乗ったその赤服の女性は亮に対して剥き出しの敵意をぶつけてきた。この時尋問は「雰囲気がそれっぽいから」という理由でランスロット達が持ち込んできた城の中にある石造りの小部屋の中で行われたのだったが、鉄拵えの扉越しにその亮とイゾルデの会話を聞いていたランスロットとモードレッドは同時に頭を抱えた。
「また厄介なのが来ましたね」
「トリスタンはまた首輪をつけ忘れたようですね」
「どういうことだよ?」
彼らと一緒に小部屋の会話を盗み聞きしていたD組の生徒達を代表してアラタが二人に疑問をぶつける。しかしそれにランスロットが答えを返そうとした刹那、曲がり角から姿を見せたグィネヴィアがそのランスロットを見つめながら声を放った。
「ランスロット様、モードレッド様、お客様が見えておられます」
「お客様?」
「どちら様ですか?」
モードレッドがグィネヴィアに返す。視線を彼の方に移してグィネヴィアが言った。
「トリスタン様でございます」




