「ドラッグオンドラグーン」
空中に出現した巨大な白ウサギはそのまま重力に任せて地上に落下した。そこは東京からずっと西に離れた地点にある日本を代表する山の一つであり、そして日本で最も大きな標高を持つ山であった。
「富士山の近くに落ちたようじゃな」
十轟院家の屋敷の縁側に腰を下ろしながら、頭首である十轟院厳吾郎が両目を閉じたまま静かに呟いた。客として招かれていた亮は顔色一つ変えずにそれを聞き、麻里弥の実兄である十轟院猛が亮と同じく平静を保ったまま言った。
「麻里弥は失敗したということですか?」
「いや、麻里弥はちゃんとやっていたようだ。途中で邪魔が入ったようであるな」
麻里弥と猛の母親である十轟院多摩が室内であぐらをかき、厳吾郎と同じように両目を閉じながら答えた。猛はその自分の腰ほどの背丈しか持たない母の言葉を聞いて眉をひそめ、彼女に近づいて言った。
「邪魔とはいったい?」
「わからぬ。異物の混入はおトヨ様が気づかぬほどに一瞬の出来事だったのだ。そしておトヨ様の視界をお借りしている私達も同じく、いつ誰が邪魔をしたのかとんとわからなかった」
「そうでございますか」
多摩の言葉を受けた猛が無念そうに顔をしかめる。一方で亮は厳吾郎の方に近づき、目を開けて疲れたようにため息を吐いていた彼の隣に座って尋ねた。
「あの、ちょっといいですか」
「おう先生、何事ですかな」
「今何をしていたのですか? 視界を借りていたとは?」
「おうそれか。いや、言葉どおりの意味じゃよ。霊力を通してトヨの・・ああトヨというのは麻里弥を見張っていた儂の妻じゃ、そのトヨと視界を共有していたのじゃよ。ただこれを行うにはかなりの霊力を使うでの。猛や麻里弥にはまだ出来ない芸当なのじゃよ」
「なるほど。だから猛さんは何が起きたのか確認していたのですね」
「そういうことじゃ」
厳吾郎がうんうんと頷く。それから彼はついでに亮に、多摩が自分の妻を「おトヨ様」と恭しく呼ぶのは、彼女が他家からこの家に嫁いできたからであるということを説明した。亮はそれを「ああそうなのか」と頭の片隅に置いてからゆっくりと縁側の縁の上に立った。
「おや、どうされた?」
「富士山に落ちたんですよね。そこに行ってきます」
「おお、行ってくれるのか」
「そういう約束でしたから。ではこれで、失礼させていただきます」
「少し待たれよ先生」
だが亮が中庭に降りようとしたところで、立ち上がっていた多摩が彼を引き留めた。それからそちらの方に体を向けた亮に多摩が近づき、そのまま彼の横を通り過ぎて真っ先に中庭へと降り立った。
「私も一緒に行く。娘を放ってはおけんでな」
「おお多摩。お前も行くか」
「母上、私も行きましょうか?」
「お前は厳吾郎様と共にここに残っているのだ。家を守る者も必要であろう」
それから多摩は室内の方へ向き直って芯の通った声で言い放った。それから彼女は自分に問いかけてきた猛にそう返し、亮が得心した顔で座ったまま頭を下げたのを見届けた後、最後に亮に目を合わせて言った。
「待たせたな先生。では参ろうか」
「わかりました。それじゃ自分の機体を呼びますので、お母様はそれに乗って」
「いや、それには及ばん。わざわざ我々のために骨を折りに来てくださったお客人に、さすがにそこまでさせる訳にはいかないでな」
「いえ、でもここから富士山まではかなり距離がありますが」
「心配せんでも良い。むしろ私が先生をそこまで運んでやろう」
何を言ってるんだこの人は。多摩の言葉を聞いた亮が目を点にしてそう思っていると、彼の横で厳吾郎が笑いながら言った。
「大丈夫じゃ先生。うちの多摩は凄いぞ。先生を運ぶことくらい朝飯前じゃよ」
「いったいどうやって?」
「まあ見てればわかる」
それだけ言って厳吾郎は口を閉ざし、一人中庭に立つ多摩をじっと見つめた。亮も空気を読んでそれ以上は何も問いかけず、厳吾郎と同じように多摩に視線をやった。猛も同様にそこから動かずに自分の母を見た。
その男三人の視線を受けながら、多摩が縁側の真ん中に移動してから目を閉じ、両手を平坦な胸元で合わせて精神を集中させる。
その次の瞬間、多摩の足下から風が迸った。初め一陣の風であったそれは瞬く間に厚みと速さを増していき、あっという間に小さな竜巻とも言うべき風の奔流へと変化を果たした。
その逆巻く風の壁は多摩を包み込み、渦を巻いて上へ上へと昇っていった。その白く染まった竜巻に亮が驚き見入っていると、不意にその竜巻が内側から破裂するようにして立ち消えた。
そして雲散霧消した竜巻の中から姿を現したそれを前にして、亮は思わず腰を抜かした。
「……すごい」
その場にへたり込みながら亮が呆然と呟く。を恐怖から尻餅をついたのではない。一瞬にして姿を現したそれがあまりにも美しく、あまりにも神々しくて度肝を抜かれたのだ。
「こんなすごいの、見たこと無い」
「うちの自慢の嫁じゃ」
感嘆に満ちた声を漏らす亮の隣で厳吾郎が「してやったり」な顔を浮かべて言った。その二人を悠然と見下ろしながら、「かつて多摩であったそれ」がゆっくりと口を開いて言った。
「さあ、次は先生の番であるぞ。はよう支度なされよ」
蛇のように長く、大木のようにがっしりと身の詰まった巨躯。体の表面に生え揃った鱗は全てが汚れ一つない純白にそまっており、背筋に沿って揺らめき生える毛もまた白く輝いていた。二つの目は赤く爛々と輝き、鰐のように前に突き出た口には鋭い歯が生え揃い、頭からは鹿のそれに似た一対の角が雄々しく伸びていた。当然顔も角も体と同様に白く染まっていた。
「……龍」
亮の前には、一体の白く輝く龍が鎮座していた。それも西洋のドラゴンのように邪悪な存在ではない。神聖不可侵な存在、どこまでも雄大でどこまでも優雅な、思わず土下座して頭を下げたくなるほどに壮麗偉大な龍がそこにいた。
「あなたのご子息は、このような、その、凄いお方と結婚なさったのですか?」
不意に多摩がこの家に嫁入りに来たことを思い出し、亮が座り込んだままの姿勢で厳吾郎に問いかける。厳吾郎はそれには答えず、しかし自分の息子と結婚した女の本当の姿を誇らしげに見つめながら、亮に力強い声で言った。
「さあ先生、ご準備なさってください。時は待ってはくれませんぞ」
「地上に降りた例のウサギは、その後すぐに東に向かって前進を開始。今現在も進行を続けています」
ウサギが降下してから五分後のこと。エコーはデルタ号を地上に降ろした後、そこからは動かずに部下からの報告をじっと聞いていた。彼女が部下に命じたのは件のアラタにそっくりな白ウサギの動向を逐一報告することであり、そして最初の報告から一貫して動きを変えないウサギを前にしても彼女は自分から動こうとはしなかった。
そしてエコーは同様に生徒達にも今は動かないよう厳命していた。それにはもちろん理由があったし、生徒の方もそれを知っていたからこそ彼女の命に素直に従っていた。
「後部デッキ前に生体反応。あの子のようです」
その内部下の一人である細身の男が、自分の間の前にある船員用モニターに映る監視カメラの映像を見ながら船長に言った。それを聞いたエコーはすぐに「連れも一緒か?」と尋ね、それを受けた部下は言葉で答える代わりにエコーの方へ振り向いて神妙な面持ちで頷いた。
「二人で来ています」
「よし、デッキをおろせ。その二人を中に通すんだ」
「わ、わたし、様子見てきます!」
生徒の一人がそう叫びながら自動ドアを開けてブリッジを出て連絡通路へと飛び出し、それに続くようにして数人の生徒がブリッジから姿を消していく。彼らは次々と通路へと向かっていき、気づけばブリッジに生徒の姿は一人もいなかった。
「凄い行動力だ」
「それだけあの子が心配ってことなんでしょう」
「青春してますね~。うらやましいですね~」
エコーが感心したように腕を組んで呟き、それを受けて細身の男とのんびりした雰囲気の女がそれぞれ言葉を返す。そして最後に筋肉の鎧を纏った大男が定時報告を行った。
「目標、相も変わらず東へ進行中……あれ?」
「どうした?」
その大男の語勢の変化を敏感に悟ったエコーが問いかける。大男は目の前の小型モニターに目をやりながら自分の主に言った。
「なんか、東の方から何かがこっちに近づいてきますぜ」
「何か? それはなんだ?」
「わかりません。見たこともありません。コンピュータで照合しても一致するものは無かったです」
「それの内包しているエネルギーの総量は測定できるはずだ。それを見たお前の意見が聞きたい。どうだ? そいつは強そうか?」
「強いです」
「そうか。強い、か」
エコーが腕組みを解き、口元に人差し指の背を軽く押し当てながら考え込む。三人の部下の中で最も巨漢であるブラボーは、滅多なことでは初見の相手に対して「強い」という評価を下さない。それは自分が銀河で一番強いと自負しているからであり、実際強い。腕っ節だけで言えばエコーなど足下にも及ばない。
一年に一度開かれる銀河統一トーナメント個人の部で二十連覇を果たしたのは後にも先にもこの男だけだろう。二十一連覇を逃したのは単にこの時エコーの率いる海賊団が内部分裂を起こしたからであり、そちらの事態の収拾を優先して大会出場しなかったからである。出ていれば間違いなく二十一度目のトロフィーを獲得していたであろう。それくらい強いのだ。
そんな彼がはっきりと「強い」と相手を評した。単純なパワーで言えば彼と互角以上のものを持っていると言うことだろう。
無論力押しだけで勝負が決する訳ではない。先述したトーナメントにも力だけで言えばブラボーと同等かそれ以上の物を持つ者も星の数ほどいた。だがブラボーは自分より力で勝るそれらを根こそぎ倒し、幾度もチャンピオンの座についている。力だけで勝敗が決することは決してないのだ。
だからそれが実際はどの程度の力量を持っているのかは、直接相対してみないとわからないのが実情であった。だがその一方で、こちらに近づいてくる「それ」が強大なパワーを秘めていることに関しては充分留意しておくべき事柄でもあった。なんだかんだ言って力があるというのは脅威でもあるのだ。
「ところで、子供の方はどんな感じだ? 大丈夫そうか?」
そこまで考えた後でエコーが話題を変えた。そしてそれを受けた女の部下は、相も変わらずおっとりとした声でそれに答えた。
「ええっとですね~。特に問題は無さそうですね~。助けられた方の子もちゃんと息してるみたいです~」
「そうか。良かった」
船内に入れられた要救助者の安否を知り、エコーが安堵のため息を吐く。彼女がここにデルタ号を止めて動かなかったのは、件の要救助者を助けるためでもあったのだった。
十轟院麻里弥。それが要救助者の名前だった。
「その子はどうだ? 話せそうか?」
「はい~。というよりもたった今、生徒の皆さんとお話ししているみたいです~」
「む、そうか。今起きてることの説明が聞きたかったが、手間が省けたか。ならそれが聞きたい。マイクの感度を上げられるか?」
「お任せください~」
そう答えながらその女の部下のアルファがコンソールの上で指を走らせる。しばらくして、彼女たちのいるブリッジの中に後部デッキ内で行われている会話が聞こえてきた。
「あれはモノが暴走した状態。精神レベルで深く繋がった人間の思念と恐怖をダイレクトに感じ取って、それを持て余している状態なのですわ」
その頃、冬美によって「墜落地点」から救出された麻里弥は真っ黒に染まった白装束を着てデッキの壁にもたれかかりながら、自分を取り囲むクラスメイト達に今起きている状況の説明をしていた。それから彼女はついでに、どうやって自分がモノと別れて地上に行き着いたのかも説明した。
彼女は何かの「異物」がモノの中に混ざり込んだ時にそれまで完全に制御下に置いていたモノから拒絶され、その場で弾かれ空中に投げ出されたのだった。しかしその後も彼女はパニックにならずに落ち着いて姿勢を整え、大の字になって速度を落としながら落下し、両足でしっかりと着地した。膝をちゃんと曲げて衝撃を殺したので、体にかかる負荷も最低限に抑えることが出来た。
そのため目立った怪我はなく身体的には無事で済んだのだが、長いことモノと同化していたことによる精神的な疲労は凄まじいものであり、満足に動けずにいたところを探しに来た進藤冬美によって助けられここに辿り着いたのだった。実際、今の麻里弥は疲れ切った顔をしていた。
「……あそこって、高度どれくらいあったっけ?」
「三千とか、四千とか?」
生徒達にとってはそのついでの部分が最もショッキングな話題であった。やっぱりこいつは人間じゃない。誰もがそう思った。
「オー! とっても凄い話デース! マリヤさんはもう人間ではありませんネー!」
なんかもう当たり前のように溶け込んでいたアスカ・フリードリヒが明るい声で言った。エコーにもD組の生徒であると認知されてしまうほどの溶け込み具合であったのだが、そのことについてはもうD組の誰もが指摘することを諦めていた。ついでに言うと先ほどのアスカの台詞についても「お前も人間じゃねーだろ」と突っ込んだりする者はいなかった。
「で、それはどうするんだ? 止めるのか?」
アスカの台詞を放置して益田浩一が麻里弥に問いかける。麻里弥は目に力を込めて浩一を見つめ返し、目と同様に声にも力を込めて言った。
「当然ですわ。あれを放置するわけにはいきません」
「じゃあどうすればいい?」
「力ずくで止めるしかありませんわね」
「なんだ、簡単じゃん」
麻里弥の言葉を聞いた満が言った。麻里弥と浩一が彼女に目を向け、二人の視線を受けながら満が言った。
「いやさ、きっとこれも変な術とかいるのかなーって思ってたんだよね。でも良かったよ。それならこっちだけでもやれる」
「どういう意味ですの?」
「多分そのままの意味だろうな」
麻里弥の傍についていた冬美が素の口調に戻りながら立ち上がる。浩一は首筋に手を当ててゆっくりと首を回し、満は胸元で右拳を左手で受け止めつつ不敵な笑みを浮かべた。
誰も何も言わなかったが、これから何をしようとしていたのかは誰の目にも明白だった。そしてそれを察した麻里弥が声を荒げて言った。
「それは! それは駄目です! そんな危険なことを皆さんにさせるなど!」
「でも今お前にそれをやることは出来ない。違うか?」
「それは……!」
冬美からの問いかけに麻里弥が反論しかけて言葉を詰まらせる。その通りだったからだ。
「お前はここで休んでろ。後はこっちに任せろ」
「そういうことデス。マリヤさんはそこで休んでてくだサイ」
「ですが、いくらなんでも」
開きっ放しのハッチから外に出ようとする浩一とアスカの背中を見つめながらマリヤが声を発するが、すんでのところで冬美に肩を叩かれその突然の驚きで言葉を中断してしまう。そして意識と視線を咄嗟に冬美の方に向けると、そこにあったデフォルメの効いた熊の着ぐるみの頭が穏やかな声で言った。
「たまには頼れ。いいな?」
麻里弥はもう何も言えなかった。それから彼女は自らも立ち上がって浩一とアスカの後に続いて外へと出ていった冬美の背中を無言で見つめていた。