母親
数時間前。
総合ショッピングセンターシルフィーは春休みに入った事もあり、賑わいを見せていた。
感染症が騒がれているが、彼らにとってはあくまでも対岸の火事だ。
都心からも離れ、近くに空港もない大高市で閉じこもっている人間は少数であった。
定期バスが止まり、降りる中で母と子の姿があった。
優しげな顔立ちをしたまだ若いであろう母親と生意気ざかりの小さな男の子だ。
「ほらほら、気をつけて。危ないよ?」
小さく小言をいう母親に、その迫力はない。
子供は聞く耳も持たず、元気に街を駈け出した。
途中で止まり、振り返り、
「ママ、遅いよー?」
「和君が早いのよ」
頬を膨らませる母親の姿に、
「あら、おばさん!」
驚いたような声がかかった。
彼女が振り返れば、高校生ほどの少女がクレープをかじっている。
ポニーテールを小さく揺らし、健康的に身体が引き締まっていた。
休みであるはずが、着ているのは娘と同じリボンのついた制服姿だ。
肩に長い棒を入れたような袋をかけている。
「えっと。琴子ちゃん?」
確認するように名前を呼べば、少女――秋峰琴子は嬉しそうに頷いた。
「ええ、買い物ですか? でも……」
と、子供と母親を見た琴子は誰かを探すように周囲に目を配った。
その様子に、母親は気づいたように。
「明日香はいないわよ。あの子昨日も映画見ちゃって。起きれないって」
「相変わらず好きものなんだから」
苦笑して、諦め気味に笑う琴子にごめんねと母親は小さく頭を下げた。
「そういう琴子ちゃんはお買い物?」
「道場に練習に行ったんだけど、部活も休みみたいで」
そう言って、肩から下げる袋を手にした。
「練習熱心ね。あの子もそういう趣味を持ってくれればいいのだけど」
「はは、明日香が運動しているとこって想像できないですよ」
「それが困りものなのよね」
肩をすくめた、母親――二見陽菜は困ったように小首を傾げた。
「お母さん早くー」
「はいはい。ごめんね、じゃ……」
小さく頭を下げて、娘の友人と別れようとした。
その瞬間、悲鳴があがった。
Ψ Ψ Ψ
それは耳を覆いたくなるような、絶叫だった。
痛みよりも、突然の事態に何かわかっていないような叫びだ。
振り返って、そこに男に覆いかかる老人の姿が見える。
齢八十は超えているであろう――どうやら掃除夫が、手にしたモップや箒を放りだして、男にのしかかっている。
のしかかれた男は、筋肉質の若い男性だ。
タンクトップの上からでも、その力がはっきりとわかる。
だが、男は老人をはねのける事が出来なかった。
組みしだかれたままに、声をあげている。
デート中であったのだろう、その近くには女性がいたが。悲鳴をあげながらも立ちすくんでいた。
「ちょ、ちょっと」
驚いた声を出したのは琴子だった。
よほどあの男が、悪いことをしたのだろうか。
そう思って一瞬、違うとすぐにわかった。
鮮血だ。
男の盛り上がった肩に、老人は噛みつき――食んでいる。
あがった鮮血が、路上に飛び散って、悲鳴は連鎖した。
「か、噛んでるぞ!」
「警備員を呼べ!」
叫びが連鎖して、慌てて近くから散っていく。
あるいは不謹慎にも、携帯電話を取り出して話す者や写真を撮る者の姿があった。
陽菜も、近くにいた和馬を抱いて目を隠す。それだけしかできない。
あまりの光景に、人は一瞬で判断力を失われるものだ。
逃げないと、警察を呼ばないとと思うが、出来る事は子供を抱きしめるだけだった。
動いた。
そう思ったのは、風を感じたから。
近くにいた琴子がスカートを翻して走る。
袋から長い――そう、長刀を取り出して走り、気合を一閃。
振り抜いた。
さすがに刃は避けて、柄の部分を見事に老人の鼻を潰して、振るわれる。
「何してるのよ!」
との、怒りの声は――けれど、顔をあげた老人によってかき消された。
食んでいる。
ちぎり取った肩の肉を、無表情でただ咀嚼している。
くちゃくちゃと音がなるたびに、血で染まった口の中から得体の知れない肉が見えた。
吐きそうになる。
その一瞬で、老人は走った。
次の狙いは琴子だ。
それがわかって、咄嗟に石突きで老人の腹を叩き、跳ね返った長刀が老人の顔を殴打した。
それは日頃の練習で培われたもので。琴子も意識して使った技ではない。
だからこそ、容赦はなかった。
刃引きがされているとはいえ、長刀の刃は鉄製のものだ。
それが容赦なく振るわれれば、いかなる男子とはいえ意識を失うだろう。
けれど、老人は一瞬頭をそらしただけだった。
速度が緩まない。
振り切っている琴子の身体は、すでに逃げようにも身体がぶれてしまっている。
いやと叫びかけた琴子の前で、老人の身体が吹き飛んだ。
Ψ Ψ Ψ
見上げれば、隣に雲に届くばかりの巨体があった。
身長は2メートルを超えているだろうか。
角刈り頭の、巨人の様な男だった。
「は、浜崎!」
驚いたように、琴子はその名前を呼んだ。
彼女の通う高校で知らぬ名前はなく、近隣の学校でも大高の浜崎と言えば有名である。
それが突き飛ばしたのであろう、手を前に出したまま立っていた。
「琴子ちゃん、大丈夫?」
焦ったような声に、ようやく意識を取り戻した琴子は助けてくれたのだと、そう理解した。
「あ、ありがとう……」
「別に、さして労力も使ってねぇ」
照れた素振りもなく、浜崎は腕を小さく振った。
「ちょ、浜崎さん何してんすか!」
「あぶねーっすよ?」
「って。誰かと思えば、秋峰か」
「はん、完全無欠の委員長様も通り魔にはお手かー?」
けらけらと笑い声をあげながら近づくのは、その取り巻きであろう男たちだ。
思い思いのカラフルな服装に、軽い口調で近づいている。
今まさに異常な状況があったと言うのに、気づいていない。
端的に言えば、馬鹿ばかりであった。
一瞬浮かびかけていたお礼の気持ちは、すぐに消えていった。
思えば、彼らは彼女の親友を傷つけた馬鹿なのだ。
「うるさいわよ。お礼なら言ったでしょ、さっさと散って」
「あぁっ!」
気色ばむ男たちはおいて、浜崎は動かない。
どこを見ているのかと、疑問を感じた琴子の耳に声が聞こえた。
「大丈夫?」
男性の連れの女性が、慌てたように駆け寄って怪我を確認している。
心配そうなら、助けてあげれば良かったのにと思わなくもないのに。
「ねえ、大丈夫。やばいって、これ」
血が付く事が嫌なのか、噴き出す肩の出血を触ろうとしない。
そんな姿に呆れながら見ていると、それまで絶叫をあげていた男性は身体を起こした。
「ちょ、何そんなに怒ってるのよ?」
黙っている。
「大体あんたが悪いのよ。いつも誰にも負けねぇっていってんのに、おじいちゃんにおし――ひゅぐっ」
言葉が最後まで言えなかった。
男性の顎が、女性の首を噛み千切ったからだ。
目の前で噴き上がる鮮血に、女性の頭が力を失って後方に倒れていく。
ぬらぬらと濡れる咬み痕からは血に混じった白い脂肪がぷつぷつと浮かび上がっていた。
「う、うおおおおおっ!」
声をあげようとした琴子よりも先に、浜崎の取り巻きが声をあげた。
それまでの軽い感情とは打って変わって、心底驚いたような絶叫だ。
何か違う。
ただの光景じゃないと、一歩後ろに下がった先で硬い何かにあたった。
見上げれば巨体――浜崎が、その状況にも関わらず、やはり視線を戻さずじっと立っていた。
何故と、その視線を追う。
無表情の老人が、すぐそこにいた。
Ψ Ψ Ψ
「おおっ!」
握りしめた拳を、浜崎は老人の顎に撃ちこんだ。
その光景は、トラックと正面衝突した人間のようだった。
老人の細い身体が浮かび上がり、数メートルを移動して地面に叩きつけられる。
すぐに身体が反転して、足を振り抜いた。
それは女性の首を噛みちぎってなお、走りだした男性の腹部をとらえ――弾き飛ばす。
ごろごろとアスファルトの上を転がる男性に、それまで無様に上げていた声の主が指を差した。
「み、見たかこれが浜崎さんの実力。大高の『黒夢』を舐めんじゃねぇっ――」
さした指が、消えた。
ぱくり、そう聞こえんばかりの音に意味が理解できない。
女性だ。
首をかじりとられ、頭をそらしていた女性。
その口に、新鮮な男の指がくわえられている。
ぽりぽりとまるで、焼き菓子をかじっているような音が広がり、
「逃げろ、加持!」
浜崎の叫びよりも先に、加持と呼ばれた男は女性に組み抱かれていた。
それは官能的な光景ではなく、肉が咀嚼される音だ。
首筋をちぎられ、えぐられていく。
必死に抵抗としようとした男が、次第にその顔色を失っていった。
「あ、あ」
吐きだしそうな光景に、目を奪われて、その手が取られた事に気付いた。
「何ぼっとしてんだ。逃げんぞ!」
「で、でも加持が――」
「てめえも仲間になりてぇのか! さっさと行くぞ!」
強い口調でたしなめられて、浜崎が琴子の頭を掴んで強制的に視線を動かせた。
老人――そして、男性だ。
あれほど強烈な打撃をくらったというのに、そこには何事もなかったように走りだす二人の姿がある。
それぞれ思い思いに近くにいた買い物客に襲いかかり、肉を咀嚼する。
こちらに来なかったのは、幸いだったかもしれなかった。
きっと、いまの琴子は対処が出来ない。
というよりも。
「こ、腰が抜けて動けないのよ、馬鹿!」
へたり込んだ琴子に、浜崎は――実に珍しい事に、呆れたような笑いを浮かべ。
片手で彼女を抱き上げると、逃げだした。
取り巻きの男がそれに続き、陽菜も息子を抱えると必死で走りだした。
Ψ Ψ Ψ
「駄目ね、こっちもつながらないわ」
逃げだした先は、従業員専用と書かれた通路だ。
細い通路を走れば、そこは倉庫であったのだろう。段ボールが山と積まれた空間があった。
当初は、働いていた従業員が外に出そうとしたが、通り魔に襲われた事を告げれば、電話でどこかと連絡を取って、慌てたように外へと出て行った。
全員、思い思いに携帯をいじり、警察を呼ぼうと連絡をしている。
けれど、電話の声はみんな同じで。
『おかけになった電話は、現在混み合って……』
なじみの機械音声だった。
「な、何なんだよ、畜生。つかえねぇ!」
怒り任せに取り巻きである男の一人が、携帯電話を床に叩きつけた。
電池が外れて、床面を転がりながら、情けないと琴子は呟く。
けれど、彼の気持ちもわからないでもない。
あの異常な風景に、頼りが奪われたのである。
日頃は気づかなかったであろう警察という存在が、この非常時にどれだけ救いとなっていたか。もっとも、それがつながらなければ、何の意味もないのだが。
「電話つながったよ?」
それは、幼い声だった。
小さな男の子が、携帯電話を母親へと向けている。
「餓鬼が嘘ついてんじゃねぇぞ。全部お決まりのセリフじゃねえか」
「で、でも。つながったよ」
「てめ、いい加減にし――」
叫んだ男の頭に、拳が落ちた。
蹲る男の傍に、拳を落とした琴子の姿がある。
「うるさいのはあんたよ」
「ってぇ。て、てめぇ――」
「井上……」
怒りを浮かべる男が、言葉に硬直した。
静かな浜崎の声が、井上と呼ばれた男を止めた。
「少し黙ってろ。二度は言わん……続けてくれ」
そう呟かれて、一瞬戸惑いをみせながらも、陽菜はゆっくりとしゃがんで息子の頭を撫でた。
「あら、和君。どこにつながったの?」
「お姉ちゃん」
陽菜の言葉に、和馬は笑顔と携帯を向けている。
「すぐに警察に行ってくれるって」
「そう。それなら安心ね」
微笑みながら頭を撫でられて、和馬は嬉しそうに笑った。
自信を浮かべながら。
「明日香がねぇ――」
きっと弟思いのあの子の事だろう。
慌てて着の身着のままで走りだす、明日香の姿を想像して小さく笑う。
その背後から声がかけられた。
「明日香というのは、二見か?」
「ええ。そうよ、明日香のお母さんの二見陽菜さんと和馬君」
浜崎の声に、そう言えば自己紹介もしていなかったと二人の親子を琴子は指し示した。
そうかと浜崎は、奥歯を噛み締めながら。
ゆっくりと動いた。
彼が動けば、まるで山が動いたような印象がある。
その動きを全員が視線で追った。
近づく浜崎の姿に、陽菜は疑問を浮かべ。
「すまなかった」
謝った。
その光景があまりにも、意味が不明であって、誰もが固まった。
謝られた陽菜でさえも。
「えっと。助けられた私達が、何で謝られてるのかわかりませんが」
「あなたの娘さんには失礼なことを言って傷つけた。母一つで育てているあなたを、その……夜の仕事をしていると」
「ちょ、ちょっと浜崎。それはあんたが言ったんじゃないでしょ」
思わず、琴子が言葉をかけた。
それは息子がいるからか、非常に言葉を和らげているが、淫売だとか売女だとか、相当な侮辱の言葉があったらしい。だが、聞くところによると、それは浜崎自身がその場にいたわけではない。
全てはその取り巻きが――彼のいない時に、デートに誘おうとして、断られた部下が言った言葉だ。
その瞬間、近くに通りがかった今宮の手によって全員が病院に運ばれ、おまけに駆け付けた浜崎と殴り合いになった経緯があるのだが。
だが、琴子の言葉を聞いていないように深々と浜崎は頭を下げた。
何で謝るんですかと――動揺しているのは、それを言った本人であろう、井上だ。
だが、それらの言葉を無視して、黙って頭を下げる。
それに。
「あら、そんな事があったの」
微笑みながら答えるのは、陽菜の柔らかな笑顔だ。
夜の仕事? と無邪気に疑問を浮かべる息子の頭を撫でながら。
「だから、最近学校から電話が多かったのねぇ。確かに、私は夜働いているからこの子達に寂しい思いをさせているかもしれないわね。けど、私はそんな素敵な仕事は残念だけどできないわよ」
くすっと小さく笑いながら、息子にはそれが、顔の良い女性だけが出来る素敵な仕事だと伝えた。
お母さんも綺麗だよと呟く息子を撫でながら、
「そう。そんな事が……でもね、明日香は傷ついてなかったわよ。むしろ、凄く嬉しそうに、幸せそうに帰ってきたのだから」
怯んだのは浜崎だ。
目を丸くして、下げた頭のままでじっと陽菜の顔を見ている。
「でも、これからは娘と仲良くして頂けると嬉しいわね」
彼女の言葉に――その器の大きさに、浜崎は黙って、もう一度頭を下げた。