決意
ガラスの欠片を踏みしめて室内に入る。
今日はガラスに縁がある日だと、優は小さく息を吐いた。
慎重に音を立てないように心がけた努力も無駄のようだ。
一歩進めば、割れたガラスが澄んだ音を立てた。
室内は昼間だと言うのに、薄暗い。
それは電灯が付いていない事も原因であったが、何より窓がない事が大きいだろう。
真っ直ぐ続く廊下と受付らしきカウンターが並んでいる。
その先では電源の入ったパソコンが、淡い光を出している。
停電と言うわけではないようだ。
ならばと、周囲を見渡してカウンターの先に、優は目当てのものを発見する。
電灯のスイッチだ。
ゆっくりとカウンターに近づく優の背後、ガラスが割れる音がした。
「い、今宮君――」
酷く小さく明日香が名前を呼んだ。
不安げに、しかし恐る恐る室内に足を踏み入れている。
怖いならば入ってくることもないだろうと、優は苦笑したが、この異常な状況下で一人外で待たされる方が、明日香にとってはよほど恐ろしい事だった。
ゆっくりと扉をくぐる明日香に、優は手をひらひらと振った。
その軽い様子に、明日香は小さくほっとしたように笑みを浮かべた。
「ちょっと待って。いま電気を――」
「今宮くんっ!」
悲鳴に似た叫び声。
笑みが一変して、恐怖を浮かべている。
その表情から、振りかえらなくてもわかる。
だから、優は迷うことなく手にしたヘルメットを振り抜いた。
ぐしゃっと骨が軋む音と共に、振り返った優の眼には顔面をヘルメットによって打ち砕かれた男の姿が映った。
同じだと、優は奥歯を噛み締めた。
強化プラスチック製のヘルメットは、確実に男の鼻骨と前歯を砕いている。
大きく顔をのけぞらせて、男は仰向けに倒れながら――だが、その表情に浮かぶのは苦痛でも、そして獲物を見つけた愉悦でもない。
ただ、ただただ――感情がない。
生きる上で当然あるであろう感情と言うものを完全に消し去っている。
残ったのは、能面のような白い顔。
男女の――そして年齢の違いはあれど、人間の顔立ちと言うのは感情を消してしまえばここまで似ているものだと、優は初めて気づいた。
知りたくはなかったが。
そのまま倒れた男が置き上がるのも、想定通りだ。
相変わらず、まるで身体の関節にバネが付いているように――足を曲げることなく、起き上がりこぼしのように男は立ち上がった。
その顔面へもう一度叩きつける。
ヘルメットを振り上げた、その瞬間――甲高い破裂音が室内に響き渡った。
その衝撃で、男は一瞬顔を後方へとのけぞらせる。
優は殴っていなかった。
だが、男の顔には――ちょうど鼻の横に一つの黒い穴があいて、そこから赤黒い液体が噴き出している。
動く。
例え、顔に穴があいたとしても――男の動きに、まったくの怯みは見られない。
伸ばした手が優の身体に届く、その前に、さらに連続した破裂音が響き渡った。
次々に男の顔に、親指大の穴が開いた。
それが額に開いて、後頭部から噴水のように脳を吐きだす。
そこでゆっくりと男の身体は後ろに傾いて、カウンターの後方に倒れていった。
「そんなに簡単に拳銃って使っていいもんだったのかよ」
何が起きたか。理解したように振り返りながら、優は呆れた声をだした。
そこに想像通りの人物を発見して、振り上げていたヘルメットをゆっくりと下ろす。
大丈夫だろう。
銃で頭を吹き飛ばされて、それで生きていたとすればお手上げだ。
それでも、その男はいまだに銃を構えたままで、厳しい視線を向けていた。
返り血なのだろうか、体中を血に染めながらも、堂々とした様子で回転式の拳銃を握り締めている。
「大丈夫か?」
との、男の問いかけに、優は一度うなずき。
「終わったよ、もう動かない。だから、それを下ろしてくれ、叔父さん」
いまだに銃を構える、叔父の姿に――優は苦笑をして見せた。
Ψ Ψ Ψ
「噛まれてないか?」
近づきながらの問いかけに、優と明日香は頷いた。
良かったと、安堵をしたように栄治は銃を下げる。
それの言葉に疑問を浮かべた優に苦笑を向けながら、栄治は隣に立つ明日香へと視線を向けた。
「それより、デートにしちゃ随分とムードのないところを選んだなぁ」
からかうような言葉を受けて、明日香が頬を染めた。
その隣で、優が呆れたようにため息を吐いた。
「どこの誰がデートに警察署を選んだよ。冗談言っている場合じゃないだろう」
「こんな時だし、冗談くらいでもな」
そう言って、気遣う視線を明日香へと向けた。
えっと目を丸くする明日香は、自分の手を見た。
先ほど、目の前で人が吹き飛ぶと言う衝撃的なシーンを見たばかりだ。
怖くて、震えていた――その震えが、唐突な栄治のからかいの言葉に止まっている。
その言葉に、優しい人なのだと栄治の事を理解した。
顔は怖いが……そう考えて、明日香は思いだす。
目の前の人物は、先日優を迎えに来ていた人だ。
そのいかつい顔立ちは、深く印象に残っている。
だが、それは栄治にとっても同じであったようだ。
「そういえば、この前会いましたな――はは、優の叔父をしている今宮栄治と……」
「こう見えても、現職の警察官だからな。だから怖がらなくていい」
「こう見えてってどういう意味だ」
眉をひそめた栄治の様子に、明日香は一瞬言葉を理解し損ねた。
「え。けいさ……え、えええええええっ!」
驚愕の叫びだ。
先ほどのゾンビよりも、そして銃声よりも大きく驚いているようだ。
あんぐりと口を開く様子に、優が顔をそむけ肩を震わせる。
「お前の学校は、本当に酷いなっ!」
栄治が絶望的な声をあげた。
Ψ Ψ Ψ
すみませんとしきりに謝る明日香に、栄治は少し落ち込み気味だ。
笑顔に元気がない。
それに何度も頭を下げる明日香の様子に、優は楽しげに笑った。
「ま、まあ良く言われる事ですから。優は笑い過ぎだ」
「ごめん。はは、あんなに驚くとはね」
いまだ楽しげに目尻の涙を拭うと、優は栄治の顔を見上げる。
すっと親指で背後を差す。
その先にはカウンターがあった。
「それより噛まれてないってどういうことだよ、あれは何なんだ?」
疑問の言葉に、それまで栄治は引きつった表情を浮かべた。
言葉に迷うような雰囲気であったが、やがて気にしたようにカウンターを一瞥し、口を開いた。
「狂人病ってのは知ってるだろう。それだ」
と、短い口調であったが、その言葉は優の予想通りの言葉であった。
やはりという印象を受けたが、明日香はそうでなかったようだ。
驚いた様子だった。
「あ、あれが病気なんですか。で、でも撃たれても」
「さて。ああなった事がないのでわからないが」
そう前置きをしながら、栄治は言葉を続けた。
「どうも感染すると痛みとか感情が消えるらしくてね。死ぬまで奴らは襲い続ける」
「死ぬまで?」
「ああ。そうだ――人間と言うのはもろいようで、存外に強くてね。普通なら、頭に穴けばあっさりとあの世行きだが、どうも完全に脳が止まるまで動き続ける」
「そ、そんな。ま、まるでゾンビ映画じゃないですか!」
「お嬢さんのいってる映画がどれかはわからんが。想像している事でおおむね正解だろうな。こちらも最初は何とかしようと努力はしたがね。犠牲が大きくてな――」
何せと、そこで栄治は本当につらそうに、苦虫を噛み潰してみせた。
「空気感染の率は低いが、厄介なのは接触感染だ。つまり――噛まれれば確実に」
ああなると、栄治はカウンターの背後を顎で指し示した。
「おまけに空気感染とは違って、接触感染は発病するまでやけに早い」
だから噛まれたかどうか、最初に確認したのだろう。
最悪だなと――明日香の隣で、優が呟いた。
「つまりは――ここの人は何かから逃げたってわけじゃない。むしろ逃げだしたってことか」
その言葉に、一瞬明日香は意味がわからなかった。
けれど、それがドアを指し示している事に気づいた。
ここに入る前、優は言っていた。
警察ですら逃げ出す何かがいたと。
だが、そうではないと優は言った。
その疑問を込めた視線に、優は気づいたように小さく肩をすくめた。
「取り押さえようとすれば、当然警察の中にも犠牲がでるだろう。当然、病院に連れていくだろうが、軽傷だったら署に連れてくるんじゃないかな」
言葉に、あと明日香は短い声をあげた。
確かにそうだろう。
ちょっと噛まれたくらいで、病院に行く時間もないはずだ。
手当くらいはするだろうし――あるいは、仕事の後に必ず戻ってくるはず。
だが、栄治は何と言ったか。
――噛まれれば確実に感染する。
さらに二週間の猶予すらない。
その恐ろしさを理解して、明日香は小さく震えた。
栄治は苦笑する。
たった少しで、理解した優秀な甥を呆れたように見ながら、言葉を続けた。
「最初は助けていたがね。だが、いきなり噛まれた奴は隔離しろって話しになった。けど、いきなり放りだせるわけもないし、何より。噛まれただけでいきなり変わっちまうなんて、想像できるわけがない」
「そんな事すれば、噛まれたとしても隠そうとするのが人間だろうしね」
「ああ。いきなり無事と言ってた同僚が仲間を襲い始めてね。どうにもならんと、つい先ほど撤退命令がでたところさ」
「酷い話だ」
そう呟いたのは、警察ですらどうにもならないという事なのか。
あるいは、多くの犠牲が出た事に対することだろうか。
厳しい表情を浮かべる優と栄治からは、その答えを読み取る事はできなかった。
「叔父さんは逃げなかったのか?」
「はん、馬鹿な甥が尋ねてくるんじゃないかと思ってな」
優の言葉に、栄治は口の端をあげた。
呆れたように苦笑しながら、
「あっそ」
と、優はそっけなく呟いた。
その顔に――明日香は疑問を感じる。
呆れたような口調で、そして表情は苦笑が浮かんでいる。
けれど、違う。
一瞬だが、優の表情に浮かんだのは――。
悲しみだよね。
答えを探そうとした明日香の耳に、小さな舌打ちが聞こえた。
栄治だ。
胸ポケットから煙草を取り出して、ポケットをしきりに叩いている。
何かを探している様子で、やがて諦めたように呟いた。
「ない」
「あ?」
「優。ライターを忘れた――ちぃと、捜査一課の部屋からライターとってきてくれよ」
「そりゃ禁煙しろって神様からのお達しじゃねえの?」
「うるせぇ。俺は神様だろうが悪魔様だろうが、禁煙はしねぇ。ほら、ごちゃごちゃ言わずに行った」
背中をおされ、優は廊下へと進む。
思わず後に続こうとした明日香を、栄治の大きな手が止めた。
「お嬢ちゃんは、ここで待ってな。一応、誰もいなかったが奥はまだ見てないんだ」
「そんなところに、甥を行かそうとするなよ。おまけに煙草のために」
呆れたように優が呟き、しかしひらひらと手を振りながら、明日香を止めた。
「何分もかかるわけじゃない。ま、怖いだろうけどとって食う事はないだろうから、ちょっと待っててくれ」
「オイルライターだからな。隣の奴のやすっちいライター持ってくるんじゃねえぞ?」
「あんたは少し遠慮しやがれ!」
叫び、優は廊下の先を曲がった。
Ψ Ψ Ψ
廊下の先に消えた優を、明日香は見守っていた。
先ほど感じた疑問が不安となって、胸を締め付ける。
なぜ悲しそうな顔をしたんだろうと。
まるでそのまま遠くに行ってしまいそうで。
そう考えれば、明日香の胸はますます締め付けられた。
ふうと、明日香の動きを止めたのは、大きな呼吸音。
見上げれば、栄治が立っている。
大きく息を吐きだす、そこから盛大に紫煙が漏れ出た。
煙草だ。
口にくわえた煙草が煙をあげながら、じりじりと音を立てている。
え。
あまりにあたり前の光景に、一瞬当然のように思ったが、すぐにおかしいと思った。
なぜ、優は彼女から離れたのか。
「ライター持っていたんですか!」
驚いたような、そして非難するような口調に栄治は口の端をあげる。
「喫煙者がライターを手放すなんざ、ありえないなぁ」
「じゃ、じゃあ……」
「明日香ちゃんだっけ?」
と、明日香の言葉を止めた響きは、疑問形のものだ。
先ほど一度しか名乗っておらず、明日香は戸惑いを浮かべながら頷いた。
ゆっくりと明日香の前で動きがあった。
礼だ。
深く頭を下げて、明日香の前で栄治が頭を下げている。
その様子の意味がわからず、明日香はますます困惑した表情を浮かべた。
「優の事を頼むな。あいつは妙に冷めたところはあるし、人から嫌われる才能は持っているが……出来れば、君は嫌いにならないでいてくれたら嬉しい」
言葉に意味が理解できず、明日香は大きく瞬きをする。
「ど、どうしてそんな事を」
「あいつがどんな人間になるのか、結構楽しみにしていたんだが。俺は見れそうにないからなぁ」
「あ、あの。どうしたんですか、急に!」
意味がわからず、思わず大きな声を出す明日香に、栄治は寂しげに笑った。
「さっき、噛まれたら終わりっつたろ?」
頷いた明日香の前で、栄治がゆっくりと袖をまくりあげる。
歯型だ。
手首の一部を噛みちぎられた後があり、そこから血が噴き出していた。
それは返り血に混じって、栄治の服を汚していく。
ひどいと顔をしかめる明日香の前で、栄治はゆっくりと肩をすくめた。
「噛まれちまってな、俺も。不思議なもんだ、こんなにひでぇのに痛みが全然かんじねぇ」
ま、そういうことだと栄治は――まるで他人事のように呟いた。
「びょ、病院に!」
「無駄だよ。病院に行った同僚が助かった何て話しはねえしな。ま、連絡自体つかないんだが」
「で、でも」
それでも、何とかしなくてはと明日香は思った。
わずか数分しか会っていない。
けれど、その数分だけだけど、優に似た人だと。
そう思った。
だから何とかしたいと思ったが。
具体的な方法は一向に思いつかない。
今まで見たホラー映画を必死で思い出そうとする。
酒をかければ、いや塩が。
そう思い返そうとして、だが――目の前の栄治の様子に明日香は泣きそうになった。
映画なんかじゃない。
これは現実だ。
目の前で――栄治がいて、ゾンビになろうとしている。
なのに、何故、この人は笑えるのだろうか。
「そんな顔しねえでくれよ。仕方ねえさ」
「な、何が仕方ないんですか! だって、おじさん、今宮君の成長したところがみたいって、いま……仕方がないなんて諦めないでください」
「あー。仕方がないって言ったのはゾンビみてえになる事じゃねえ」
「じゃ――」
「俺は警察だからな」
「――!」
明日香は言葉を失った。
「警察が人を襲えるわけがねえだろう。ああ、そうなっちまった同僚もいたが、少なくともあいつらはそれを理解していなかった。けどな、俺は理解しちまった。あと何分かもしれば、きっとそうなっちまうだろうって。だから、だから――」
仕方ねえのさと、栄治は肩をすくめた。
何と声をかければいいのだろうか。
たった数分しか会っていない彼女の言葉は届かないのではないか。
優を呼ぼうと思ったが、放つ言葉が声にならなかった。
それは覚悟を持った視線。
わざわざ優を遠ざけた栄治の意志に反して、優を呼ぶ事が正しいのかどうか。
明日香はわからなかった。
だから、迷っていた前で――ゆっくりと栄治が離れた。
呼びとめる言葉もなく、その前で。
「頼むな、お嬢ちゃん。あいつは、寂しがりだからよ」
最後まで、栄治は甥の事を――優の事を心配していた。
向かったのはカウンターの奥。そこから階下へと向かう階段だ。
ゆっくりとした足音を響かせながら、栄治の姿は遠ざかっていく。
地下へと続く階段は、真っ暗で――その姿はあっという間に消えていった。
わずかに残るのは、煙草の小さな小さな灯りだけだ。
だがそれも――。
「安物のライターしかなかったんだけど。それで我慢しろよ」
どこか寂しげな声が、背後から聞こえた。