避難所7
音楽室と書かれた教室に連れ込まれれば、外側から閂がかかった。
扉を押す。だが、硬く閉ざされた扉は明確に外への通行を拒否していた。
「夕食には間に合いそうもないな」
約束の十七時が回った時計に、優が小さく苦笑した。
夏が近づき、いまだに外は明るい。
それでも電気がつけられず、厚い板で窓を塞がれている室内は薄暗かった。
静かな室内で、揺らぐ人影がある。
どうやら先着は一名だけだったようだ、近づけば椅子に座る男が見えた。
その男に、浜崎は驚いたように目を開いた。
男に見覚えがあるわけではない、驚いた理由はその服装だ。
迷彩服。
それは自衛隊員が着用している迷彩服だ。
二十代後半だろうか、短い髪をはねさせて、浅黒く日焼けをした男だ。
細身の体ながら、今までみた自衛隊員の誰よりも鍛えているようにも見えた。
「見ない顔だね」
浜崎の接近に気づいて、男は顔を上げた。
その表情にゾンビによる襲撃や牢屋での生活での疲れはない。
意思を持った精悍さの中に、子供のような悪戯げな笑みを宿していた。
なぜ自衛隊員が――と、浜崎の視線を感じたのだろう。
「民間人を働かせる事に拒否をしたら、ここに入れられた」
そう拗ねたように告げる男の口調は、ともすれば浜崎たちよりも若く見える。
なるほどと、苦笑しながら優は周囲を見渡す。
最初に入ってきたとおり、ここに入れられているのは彼だけであり、他に姿はないようだった。
「他にも何人か入れられていると思ったけど」
「みんな三日もすれば出て行くよ。やはり外の方がいいみたいだ――俺は上への連絡を恐れてか、ずっと入れっぱなしだけどな」
「どれくらい?」
「一ヶ月くらい経ったのかな」
なんでもない事のように、男は肩をすくめた。
一ヶ月もの間、この室内で閉じ込められているにも関わらず、男の様子に変わりはない。
通常であれば室内に閉じ込められれば、男のように三日もすれば外に出たくなるだろう。
たいした精神力だと思うと同時に、このような男をこの現状で閉じ込めるのはもったいないと浜崎は思った。
きっと彼であれば、ゾンビに対しても堂々と戦った事だろう。
「上は何も言ってこないのか?」
「全国で避難所が何箇所あると思う?」
浜崎の問いかけに、男は苦い顔をしてみせた。
「どこの避難所も大なり小なり苦情はあるだろう。ここのように酷い状況ではなかったとしても、救助が遅い、配給が足りないとかね。そして、それら全てに対して対処するには、あまりにも人員が足りない」
「うん。そういう事――上からすれば、ゾンビを倒せばいいって考えているのだろう。もちろん、最終的にはそうなんだろうけど。結局、こういう苦情は後回しさ。ま、元々上は現場の意見を無視するのが通常だったけど」
そう言葉にすれば、男は初めて疲れたようなため息を吐いて見せた。
「失礼。民間の方に言う言葉じゃなかったね。俺は立花茂久三曹――ここの小隊の第二分隊長、ああ、いまは元第二分隊長だったというべきかな」
「浜崎隆文だ」
「今宮優。元高校生だった。いまは無職をしている」
互いが名乗れば、優の自己紹介に立花は小さく笑った。
近くにあった椅子を差し出した。
「最近はここにも誰にも来なくなってね。久々に話し相手になってほしい。外はどうなんだ?」
「避難所か、それとも避難所の外のことか?」
「出来れば、どちらも教えて欲しいね。なに、時間ならたくさんある」
Ψ Ψ Ψ
避難所には本日来たばかりであり、外の様子もテレビやラジオを通したものでしかない。
それでも全てを話し終わるころには、時刻はすでに十八時を回っていた。
外は既に夕闇が迫り、薄暗くなっている。
必然的に室内も暗くなっていたが、目が慣れてきたのか見える範囲はそれほど変わらなかった。
壁にかかるベートベンやモーツァルトといった有名肖像がはっきりと見える。
あまり長いしたい場所ではないことは確かだった。
無造作に運ばれてきた夕食代わりの乾パンを齧りながら、立花は首を振った。
「そこまで酷くなってるとはね」
「何とかならないのか?」
浜崎が問いかけた言葉は、今後に対して誰もが思っていることだろう。
助けは来るのか――果たして、元の生活に戻れるのか。
立花は乾パンを口に入れたままで、しばらく迷ったように止まった。
どう答えるべきか思案。
だが、優の視線に気づけば、やがてゆっくりと首を振った。
「大丈夫といいたいところだけれど。それじゃ信じてくれないだろう?」
「その理由が明確でない限りは、基本的には信じないようにしている」
「応用的が知りたいけれど。そうだね、明確な理由をもってとなるとそうはいえないな」
立花の口元で、乾パンが音を立てて咀嚼された。
「基本的に上の考えは、ライフラインと避難施設の防衛とゾンビの駆逐が目的だ。まあ、アメリカさんとか中国さんは都市ごとゾンビを破壊して、更地に新たな都市を建設するって凄技をもっているけど、日本は基本的に都市を破壊するような兵器は持っていないからね」
そうなるとと、立花は困ったように手を広げた。
「こちらは一つ一つの区画に対して戦闘を仕掛けるしかないわけなんだが、ゾンビの数が多いし、人手も足りない。おまけに開放しても、別の場所からゾンビの襲撃に備えなきゃいけないから、防御にも振り分けなきゃいけない。結果として、また人員が減ってくるという次第でね。さらに言えば、新たに人員を増やそうにも難しい――結果として、ばかげたようだけど、民間から協力者を募るという、うちの小隊長の案がまかりとおってしまう」
ゾンビの発生とともに崩壊した社会システムは、容易に回復するものではない。
そもそも災害の発生の対応は、歴史から学ぶことが多い。
次に何が起こりえるのか、どのような問題が発生するのか。
それらを考えて、それでも発生した場合には甚大な被害をこうむる事になる。
考えもしなかったゾンビの大量発生に対して、とるべきマニュアルなど存在しないのだ。
予想も出来ない上に、それが最善であるのかどうかすらわからない。
それは現場で活動する自衛隊の人間であってもそうであって、生き残るために活動するというのが現状であった。
「だから、正直なところ俺にもわからない。ううん、きっと上のお偉方ですら、どうなるのかわかっていないんじゃないかな」
そう告げれば、伺うような視線を浜崎へと向けた。
助けが来る、元通りになるといえばどれだけ楽だったろう。
だが、それは優の否定とも取れる言葉によって奪われてしまっていた。
明確な理由なんて存在するわけがない。
武器も、燃料も、人員も全てにおいて足りていないのだ。
魔法のポケットのように、あるいはゲームのように永続的にそれが手に入るなら問題ない。だが、それらを作り出すのも人間であって、その多くの人間が失われてしまっている。
だから、それを告げるのは非常に勇気が必要だった。
もし避難所の中でその事を口にすれば、わずかに残っていた精神的な支えを完全に破壊することになる。
けれど、今日来たという彼らにならば告げても大丈夫なような気がした。
そして、実際にその言葉に対して浜崎が深くため息を吐いた――ただそれだけだった。
「随分と冷静だな」
「まあ、予想くらいは出来ていたからね」
「まったく。前にも言ったが、悪い予想だけは良くあたる」
「それなんだが。どうも、悪い予想しか出来なくなっている気がする」
「そっちの方が問題だな」
そう言って冗談を言いながら、笑いあう。
そんな二人の様子に、立花は緊張が途切れるのを感じた。
絶望的な状況を前にしても、わずかばかりの冗談で日常を楽しんでいるように感じた。
いや、彼らからすればこれが日常なのか。
それを少しでも楽しめるようにしている。ただ今まであった過去を懐かしみ、求めるのではなくて――今を楽しんでいる。
そんな考え方もあるのだと、頬が緩みかけたとき――かたんと、音楽室の閂が外れた。
Ψ Ψ Ψ
扉は実に楽に開いた。
夕食を運ばれれば、あとは次の朝食まで扉が開くことはない。
初めてのことに、慎重に立花が扉を開けば――そこに、自衛隊の女性がいた。
大場香奈三士。
まだ学校在学中に緊急に呼び出された若い隊員だ。
その名前を思い出しながら、周囲を見渡せば――周囲に人の気配はない。
緊張した面持ちで、支給されている89式自動小銃を手にして、彼女は滑るように室内に入った。
扉を閉める。
「大場三士だったかな。どうしてここへ?」
疑問の言葉を立花が告げれば、緊張しているのかすぐに言葉は出てこなかった。
視線が泳ぎ、迷い、それでも覚悟を決めたように大きく息を吸った。
「助けてくださいっ」
告げられる言葉に、優と浜崎は視線を向けて、疑問を深めた。
普通は立場的に逆だろう。
閉じ込められている彼らが助けを求めるならともかく、扉を開いた彼女が助けを求める理由がわからない。
答えを求める視線を立花に向ければ、立花自身もわからないと首を振っていた。
「とりあえず、落ち着いて。ここには水くらいしかないけど、水でも飲んで――それで、どうしたのか教えてくれないか?」
立花が子供をあやす様に大場の肩に手を置いて、椅子を勧める。
ペットボトルから紙コップに水を移せば、それを大場に握らせた。
「あの、あの後――」
水を手にしたまま震える言葉で、大場は呟いた。
あの後とは、おそらく山野と加藤を殴り倒した後のことだろう。
迷惑をかけたかと思うが、別段、謝罪の言葉は浮かんでこない。
けれど、それは立花にしては初耳の話だった。
「えっと、何の後?」
「あ。あの、すみません。本日、訓練と称して山野一士と加藤二士が、そちらの民間の方に近接戦闘を挑まれたのですが」
「あの馬鹿が」
苦々しげに立花は呟いた。
元々は同じ分隊の部下であった隊員の名前だ。
自衛隊において格闘訓練を受けたため、自信を身につけていた。
それだけならいいが、自信のあまり訓練を受けていない民間人を見下す様子がある。
隊に配属された時に、二人を相手に自信を砕いた記憶があったが、完全に性格を矯正することは出来なかったようだ。申し訳ないとばかりに、二人に振り返れば、確かに暗くて見にくかったが浜崎の体にはいくつかの痣が見えた。
「それが、山野一士と加藤二士が負けまして」
「え?」
謝罪の言葉を口にしようとして、漏れた言葉は、驚きの声だ。
あっさりと敗北――普通であれば、民間人相手にはありえないことだ。
常人に負けないようにするための訓練である。
訓練を受けていない人間と受けている人間では、攻撃の質も違えば、技術も違う。
何か格闘技をしていたのだろうか。確かに二人の体格は、立花の目で見ても鍛えられたものだった。特に浜崎ほどの巨体であれば、立花自身も力比べはご遠慮願いたい。
しかし、敗北か。
これで自信を打ち砕かれば、少しは謙虚になってくれるだろうか。
わずかばかりの期待は、唇を噛み締めた大場の声に裏切られた。
「でも。それで、二人が――今度は『階級なし』の人を鍛えるといって、狩り場に連れて行かれました」
「なに?」
立花の顔が、怒りに歪んだ。
怒りの感情を浮かべる立花とは違い、置いていかれたのは優と浜崎だ。
何やら立花が大場に問いかける様子から、『狩り場』とやらが危険だという事はわかる。
ただそれがどれほどに危険であり、何の意味を持つのか理解が出来ない。
「小林三尉はその事を?」
「もちろん、報告しました。でも、ちょうどいいとおっしゃられて……許可がおりました」
「何がちょうどいいんだ」
「わかりませんよ!」
争うように言葉を重ねる二人に、浜崎が気になったように優を向いた。
置いてきぼりの外で、同じように二人の応酬を聞いていた優に、
「わかるか?」
「ま、想像は出来る」
浜崎が苦笑すれば、言葉を止めた立花と大場が優に視線を向けた。
凝視している。
二人の視線を受けて、想像だけどと一度前置きをして、優は口を開いた。
「自衛隊が民間人に負けたという事だけを放置しておくのはまずい。下手をすればそれが切欠になって、暴動が置きかねないからね。その前に、負けた件を印象に残すのではなく、逆らったら連帯で責任を取らされるという印象の方を強くしたいのだろう。だから、ちょうどいい」
言葉の意味を理解した浜崎が眉をしかめた。
「つまり俺たちの巻き添いか?」
「結果としては――もっとも、悪いのはそれを考えた彼らの方であって、俺たちがどうのと悩むことじゃない」
何て少年たちだと、その言葉を大場は呆然と聞いていた。
その判断力と精神力は、とても高校生のものとは思えない。
でも、だからこそ。
じっと見つめていた大場を我に返らせたのは、立花の言葉だった。
優の話した理由に苦い顔を浮かべれば、
「わかった。すぐに行こう――武器はあるか?」
「あ……はい。三曹の個人装備は取り出しています」
「よし」
小さく頷いて、動き出そうとして、大場の視線に気づいた。
優を見ている。
何かを言おうとして、それで戸惑ったようにじっと。
視線を感じて、首を傾げれば――優は小さく頭をかいた。
「で。その、狩り場ってのはどんなところなんだ?」
「ここから一キロほど西に離れた大型のスーパーです。ゾンビは少ないのですが、街から流れてくるゾンビがいるため定期的に狩らないとすぐに増加していました」
ゾンビが増殖すれば、いずれはこちらに来るゾンビも増えるだろう。
さらに言えば大型スーパーのため、ある程度の物資も存在する。
物資の補給もかねて、またはゾンビに対抗する場所として『狩り場』は存在していた。
「だから、狩り場なわけか。で、その狩り場ってのは今まで夜に行った事は?」
「いいえ。なかったと思います」
夜は視界がただでも狭い。
ましてや屋内の大型スーパーでは危険度も増す。
今まで行われていた狩りは全て昼間帯に行われていた。
そう告げれば、優は厳しい表情をした。
「そう。なら、やめておいた方がいい。危険だ」
その言葉に興味深げに立花の目が細めた。