避難所3
扉を開けると、そこには怒りに肩を震わせる琴子と蹲る青野弘子の姿があった。
振り上げた平手が、彼女が青野を殴ったという事を伝えている。
田向井が心配げにしゃがみ、青野の肩を抱いていた。
よほど強く殴ったのであろう、青野がかけていた眼鏡が、廊下に落ちていた。
「――秋峰?」
浜崎の問いかけるような言葉に、はっと琴子は手を下げた。
そのっと――言葉を探す琴子に近づいて、肩を押さえる。
その肩はいまだに小さく震えていた。
「何をするのよ!」
非難するような言葉は、青野からだ。
打たれたのであろう頬は、手形に赤くはれ上がっており、驚きとともに怒りが見える。
けれど。
「青野先生。いまのは私たちが悪かった」
田向井の言葉に、裏切られたように青野が田向井を見た。
しかし、その視線を向けられても田向井はゆっくりと首を振るだけだ。
「わ、私はっ!」
苛立ちを浮かべて、田向井を睨みつける。
そんな光景が、扉を開ければ眼前に広がっていた。
千葉も殴った琴子を取り押さえてよいのか迷っているらしい。。
本来であれば、すぐにでも取り押さえるべきであろう。
だが、田向井の言葉によって行動ができないでいる。
助けを求めるような視線が、須藤を向いた。
同時。困ったような浜崎の視線を受ければ、優も大きなため息を吐いた。
どうすると一度、二人は視線をかわし、
「とりあえず。何が起こったか説明してくれないか?」
ため息混じりの言葉が重なった。
Ψ Ψ Ψ
外を出た琴子を待っていたのは、数学教師の青野弘子であった。
疲れたような、そして不安げな様子が顔色に現れている。
本来であればまだ若く、綺麗だった髪もぼさぼさになっている。
「どうしたんです、青野先生?」
「ええ、ちょっといいかしら?」
呼ばれたと聞いて声を出せば、青野は先導するように少し廊下の脇にずれた。
田向井が続き、琴子もそれに続いた。
「いま、どこにいるのかしら?」
「えっと、それは――」
言いかけて琴子は、口をつぐんだ。
自分の居場所は出来る限り話さないという方針は、当初から決められていた。
須藤が嘘をついたように、琴子たちもまた拠点の場所を簡単にはあかせない。
口ごもった琴子の様子に、青野は心配げに彼女の背中を撫でた。
「大丈夫よ。ここは安全だから――秋峰さん。もう大丈夫よ?」
「は。はあ?」
なぜそんなに心配をされているのか、説明を求めても青野は答えを返さず、困ったように田向井を見れば、田向井も様子を見るように彼女を見ていた。
意味がわからない。
ここで話をしている間に、優たちは須藤と情報交換をしているだろう。
「えっと、よくわからないですけれど。私、戻りますね」
「待って」
袖口をもって引き止められて、少し苛立ったように琴子は青野を振り返る。
「秋峰さんは上に上がっていて。浜崎くんたちにはあなたはここで保護するようにいうから。もう大丈夫」
冗談じゃない。
なぜそんなことになっているのか。
浜崎たちと別れる?
「保護って。何を言っているんですか、青野先生?」
「だ、だから。ここは安全だから!」
「秋峰にも手伝ってもらいたいんだ」
堂々巡りしそうになった会話に、田向井が割り込んできた。
告げるのは、ここにいるのは子供たちだけで大人の手が足りないという事だ。
そんな状態になっていたとは知らず、なるほどと一度は頷いて見せた。
ただ、声に残る不機嫌さは消えない。
「なら、最初からそういえばいいじゃないですか?」
「残ってもらいたいのは秋峰だけなんだ。その、前回の避難所でもね。子供に罵声を浴びせる人もいてね。子供も男性に対して敏感になっている」
「浜崎たちは追い返すってことですか?」
自分の声が剣呑なものになるのを、琴子は隠せなかった。
いや、隠すつもりもない。
生まれて初めて、琴子は教師である田向井を睨む。
その視線に、田向井は戸惑ったように――首を振った。
「追い返すという言葉は。そうだな、そういう事になる。ただ、物資は支給するよ。ここにはおいておくことができない」
「なら、お断りします」
はっきりとした言葉に、青野が琴子の肩をゆすった。
「秋峰さん。何があったの?」
「何があったって。おかしいのは先生たちじゃないですか。仲間を見捨てるなんて、出来るわけないでしょう?」
「仲間――?」
驚いたような言葉を発したのは、田向井だ。
目を開いて、琴子の表情を見ている。
「彼らは仲間なのか。無理やり連れられているわけじゃなく?」
「浜崎たちは私の大切な仲間です」
強い視線を受けて、まいったなと田向井は頭をかいた。
いまだに琴子にしがみつく、青野に田向井は首を振る。
「青野先生。どうやら私たちは勘違いしていたようですね」
「勘違い?」
「ああ、すまない。青野先生が心配されていたんだ。君が強制的に連れられているんじゃないかってね。元々、彼らとは仲も良くなかっただろう、秋峰は」
「そういう事ですか」
だから、保護という言葉が出たのかと、納得したというように琴子が頷いた。
無理やり彼らの仲間に入れられていると勘違いされたのだろう。
確かに優等生である彼女と、浜崎たちには接点もない。
今回のことがなければ、卒業まで話すこともほとんどなかっただろう。
だけど、接点が出来て、彼らを知った。
そう思えば、琴子は微笑を浮かべた。
「心配なさらないでください。私は自分の意思で浜崎たちと一緒にいるんです。それに、一人じゃないですよ。ここにはきてませんけど、明日香もいるし。他にもたくさんの信頼できる仲間がいますから」
「二見も? そうか――」
琴子の微笑に感じるところがあったのだろう。
田向井は信じたように、頭をかいた。
「それはすまない事をいったな。忘れてくれ」
「何を言っているんですか、田向井先生!」
その言葉を消したのは、いまだに琴子にしがみつく青野だ。
「いい。浜崎なのよ、あの今宮なの。秋峰さん、だまされちゃ駄目よ!」
「青野先生。いい加減にしないと怒りますよ?」
「いい加減にするのはあなたよ、目を覚まして。いまは何もしないかもしれないけど、必ず襲われるわ。その時に後悔してもおそ――」
気づいたら、左手を振り切っていた。
Ψ Ψ Ψ
「なるほど、それは失礼した。こちらが悪い」
「叩いたのはこちらの落ち度だ。出来れば何もなかったって事にしてくれるとありがたい。浜崎――先に車に戻ってくれるか?」
「田向井先生、青野先生を上へ」
二人の指示で、それぞれ肩を抱かれながら廊下を歩いている。
いまだに怒り覚めやらぬらしい。
青野は琴子を睨みつけており、琴子は彼女と視線を合わせようとしない。
これは後が大変だなと息を吐けば、須藤も同様の表情で肩をすくませていた。
「生徒思いのいい先生ではあるのだが、少し精神的に弱くてね。言い訳にはならないかもしれないが」
「秋峰は考えるより先に手が出るからな。言い訳だけれど」
優が冗談混じりに肩をすくめれば、須藤が小さく笑った。
もはや交換する情報はなく、先に進んだ琴子たちに遅れて、ゆっくりと二人は廊下を進んだ。
「ああ。そうだ――千葉さん」
扉の前で、須藤が千葉を振り返った。
手を差し出せば、千葉はポケットから一台の通信機を取り出す。
小型の無線機だ。
「本隊との連絡用で使っている。チャンネルを変えれば、この場所とも通信ができるはずだ。避難場所には置かれているもので、これは予備になる」
「いいのか?」
「こちらももらってばかりでは悪いのでね。何かあれば、連絡してくれたらいい。ただ本隊との連絡は受信のみで、送信は出来ないようになっている」
「わかった。ありがたく使わせてもらおう」
通信機を受け取り、手斧の隣に突っ込んだ。
外は既に太陽が中天まで昇り、夏の暑さが飛び込んできていた。
強い日差しに、小さく目を細めた。
「次は小学校に向かうのかい?」
「そのつもりだ」
「ああ。そうか、さっきも言ったが十分に気をつけてくれ」
「スタンフォードの監獄だろ。理解している」
「ならばいい。二見さんにもよろしくな」
強く頷いた優は、須藤の言葉に驚いたように振り返った。
そこに口元に微笑を浮かべる、須藤の姿がある。
なぜとの問いかけに対して、須藤は腰にさした手斧を指差した。
ぶら下がる二つのストラップ。
「そんなものをもっているのは彼女くらいだからな。生徒会でも、彼女の『大丈夫』には良く助けられたものだ」
「いまも助けられているよ」
お守り代わりのストラップを撫でれば、優は笑い――公民館を後にした。
Ψ Ψ Ψ
公民館を出発した車は、一時――住宅街のはずれまで移動する。
左右に幅のある広い道路を見つければ、そこでゆっくりと停車した。
十二時だ。
時刻は昼を過ぎており、小学校に向かう前に経路確認とあわせて昼食をとることになった。車のボンネットに地図を広げながら、鈴はおにぎりを頬張る。
真っ白なおにぎりの中身は、昨日のフキの佃煮だった。
砂糖醤油の聞いた味付けがご飯に良く合う。
琴子はいまだ機嫌が治まらぬ様子で、後部座席で苛立ちながらおにぎりを頬張っていた。
「まったく、あれが自分の生徒に対していうことかしら」
「ま、まあ、そういうな。青野先生だって秋峰を心配したんだろうし」
「悔しくないの浜崎は?」
矛先が浜崎に向いた。
剣呑な視線を向けられて、おにぎりを口にしようとしていた浜崎は硬直する。
少し考え――。
「まあ、自分の生活態度がどうだったかなんていまさら言うまでもないだろう」
喧嘩を繰り返し、それは学校内にとどまらない。
教師の視線から自分がどう思われているかなど、いまさらの事であった。
諦めたような様子の浜崎の頬を、つねり上げる。
また先に手が出たようだ。
「い、いでっ!」
「過去は過去。今は今でしょう。そりゃ、確かに過去の浜崎は酷いもんだったわ。委員長の私のいう事もまったく聞かないし。でも、今はそうじゃないでしょう。仲間のために動いている――それを、馬鹿にされたのよ」
「わ。わかった、わかったから離してくれ!」
「聞いてるの?」
「聞いてるっ!」
「それが私は悔しいの」
小さく頬を膨らませば、離した手で再びおにぎりにかぶりついた。
具はシーチキンだ。
浜崎も頬を押さえながら、おにぎりを一口にする。
視線を向ければ、助手席では優がそ知らぬ顔で小さなおにぎりを食べていた。
手のひらサイズに綺麗に丸まったおにぎりと、俵型というよりも寿司のシャリのように平べったくなった二つの種類のおにぎりを。
「そういえばよ」
再びこちらに矛先が向く前に、浜崎は気になったことを聞くことにした。
声をかけられて、優が振り返る。
「どうした、浜崎?」
「スタンフォードの監獄ってなんなんだ?」
言葉に、琴子が怪訝そうな顔をする。
聞いた事のない言葉に、何それと興味を持ったようだ。
「さっき説明したろ。役割を与えられた人間がどう行動するかっていう、実験だよ」
「それと避難所の説明がどう関係して来るんだ?」
優が一瞬浮かべた深刻げな表情は、いまだに浜崎の頭の中に残っている。
もし避難所と関係するならば、聞いておいた方がいいと浜崎は尋ねた。
一方、その時に外にいて様子を見ていない琴子は単純に知らない言葉に興味を持っているようだった。
気づけば、浜崎の言葉に反応して鈴と滝口信二も姿を見せていた。
少し迷い、優は手のひらほどの小さなおにぎりを口に入れる。
「あまり、聞いていても面白い話じゃないぞ」
「別に面白い話を聞こうと思っているわけじゃない。それがどう危険なのかが知りたいんだ」
「スタンフォードの監獄実験というのは、今から三十年以上も前に行われた非人道と呼ばれる実験の一つだ」
Ψ Ψ Ψ
役割と地位を与えられた人間の行動がどう変化していくか。
実験の目的自体はそのとおりであったが、この場合方法が特異であった。
刑務所を模した建物に、看守役と囚人役にランダムに一般人が選ばれ、集められる。
それぞれ役割と地位が与えられて、どう行動していくかを見ていくものだった。
集められた人間は全て一般人であって、看守の経験も囚人の経験もない。
しかし、時が経つにつれ、看守は看守らしく――そして囚人は囚人らしくなった。
看守役の人間は次第に暴力的になり、命令されていない懲罰を行うようになる。
囚人役も、また看守役に対して服従するようになっていた。
精神が錯乱するもの、あるいは囚人に対して暴力を振るうものが現れ、刑務所を模して作られた建物は刑務所さながら状況になっていた。
いや、刑務所として管理されなかっただけ、より酷くより凄惨に――。
「結局。二週間を予定されていた実験は、六日しか持たなかったらしい」
優の話した内容に、浜崎は顔が引きつるのがわかった。
確かに面白くない話であることは間違いない。
「それに似た状況が避難所でも起こりうるというのか?」
「起こりつつあったと、須藤会長は言っている。与えられた役割というのが、単純に避難者を守るというだけならば何も問題はない」
それが任務であるし、今までも問題は起こらなかっただろう。
だが、それは周囲の目があってのことだ。
「ただ、代表という事はそれだけじゃないだろう。配給や行動にそれなりの権限が与えられ、さらに守るという立場があれば――誰も止めることはできない」
もし何か不都合があれば、今であればすぐにそれは情報として流れる。
だからこそ、人は自制するし、自分を見つめなおすことができる。
これはまずいのではないだろうかと、自分に問いかけることができるのだ。
だが、それが否定されなければ――欲望は加速度的に。
想像したように優が首を振り、残った潰れたおにぎりを口に入れた。
ただ米を噛む小さな音が、響いていく。
自衛隊員である千葉の前で、言葉を濁したのはそれが理由だったのだろう。
不満があるとはいえ、自分の仲間が変格するなど信じられるわけがない。
「決まったわけじゃないだろう」
「もちろん。あくまでも須藤会長の主観的な意見で、この場でどうというわけではないけどね」
振り返った表情は真剣で、浜崎は唇が乾くのを感じた。
「実験では外にはゾンビがいなかったし、命の危険にもさらされていなかった。そんな特異な現状で、彼らは二ヶ月間いるわけだ」