偶然
優はアクセルを握りしめて、ひたすらバイクを走らせた。
行先も、何も考えず――ただ速度をあげる。
風が頬を撫で、風景が次々に移り変わっていく。
本来であれば、通勤途中の車両やトラックが多く存在しているはずが、狂人病の流行に伴ってか、大幅に台数は縮小している。
だが、決して存在しないわけではない。
初めてすれ違った軽自動車に、決して、人の姿が皆無ではないという事に優は安堵した。
想像もしたくないが、異常事態が続く中で、この世にあの女と二人っきりと言われても、決して完全には否定できない。
それほどまでに、あの隣人との出会いは、優に衝撃をもたらしていた。
思わず、自動車に駆け寄ろうかと考えたが、返り血で濡れた優を見れば逃げられる事間違いないであろうし、仮に止まったとしても説明が難しい。
頭のおかしい女に襲われた。
そんな事を言っても、信じてもらえないどころか下手をすれば逃げられる。
およそ東へ五分ほど走り、優はゆるやかにアクセルを緩めた。
サイドミラーを確認し、ついで振り返る。
さすがにこの速度では、女も優を追いかけてくる事はなかったようだ。
確証はないがと、小さく呟きながら――優は苦笑を浮かべる。
どうかしていると、夢であってほしいと望むが、高鳴る心臓はいまだに激しく動きを繰り返しており、伝う汗が春の冷たい空気をかき消している。
着地した足はまだ痛み、力強く握りしめた握力も完全には戻っていない。
現実か。
深くため息を吐きながら、路肩に停車し、そこで優は力なくハンドルに身体を預けた。
しばらく動きたくはない。
気持ちも体も動く事を放棄していた。
考えたくはなかったが、思い返すのは先ほどの異常な光景だ。
どれだけ傷ついても止まらなかった異形。
それが化け物の顔をしていたならば、優もここまで焦りはしなかっただろう。
だが、彼を襲ったのは、隣人で――それも体力に自信がないであろう、女だ。
まるで別人のように様変わりした原因を、優は想像が出来ない。
ただ、思いつくのは。
「狂人病」
そもそも、狂人病と言う事が何であるのか優には理解できないでいた。
新型インフルエンザなどの流行性のものと同じだと思っていたし、危険だと言われても子供やお年寄りが感染すれば危ないという認識程度だ。
それがどんな症状であって、そしてどれほど危険なのか優は理解していなかった。
考えれば、明らかにおかしい。
狂人病など、普通の病名で付けるはずがない。
さらに普通であれば存在するであろう、その患者へのインタビューや声も届いていなかった。
連日報道されるニュースは、患者の発生状況や周囲の不安な声などで、患者自体は一度も放送されていない。
だが。
もし、それが隠されていたものだとしたら。
先ほどの女がそれだとしたら。
「なるほど、確かにあれは放送禁止だな」
というか、放送事故だろと優はため息を吐いた。
そして、それを隠す理由もわかる気がした。
隣人が突然あのように変われば、誰だって不安を起こす。
ただでさえ、連日の報道により薬とレトルト食品が買い占められたという噂もある。
あの姿がニュース映像で流れれば、それより酷い暴動へとつながるだろう。
だからと言って、予備知識なしで襲われるのは勘弁してもらいたかったが。
しばらく止まれば、呼吸も落ち着き始めていた。
汗が乾き、少し寒さを感じる。
ともかくと、優は小さく言葉に出した。
あれが何であろうが、警察署には行くべきだと。
そこで叔父に話を聞ければよし、例え聞けなかったとしても隣人は捕まえてもらえるだろう。少なくともその安心がなければ、家に戻る事もできない。
優はポケットに突っこんでいた腕時計を引っ張り出して、腕にはめた。
八時十七分。
起きてから一時間も経っていないことに、苦笑しながら鍵を回して――そこで優は少女を見つけた。
Ψ Ψ Ψ
普段の学生服姿とは違い、茶色のスプリングコートにチェック模様のスカート姿だ。
コートの上からでも目立つ胸が、上下に揺れている。
変わらないのは頭につけた、ドクロの髪飾りだろうか。
その少女の姿は、一瞬だけ先ほどの隣人を思い出させた。
血色悪く走る姿が、先ほどの無表情の隣人を思い出させ、顔を引きつらせた。
だが、一重に逃げださなかったのは――その少女が見知ったものであって、名前を知っていたからだ。
「二見か?」
声をかけたのは失敗かもしれなかった。
もし彼女が感染者であれば、敵をおびき寄せる事になるだろう。
けれど、こんな異常な状況で同級生の姿にほっとしたのも事実である。
はたして、少女――二見明日香はかかった声に、驚いたように振り返った。
そこに優の姿を見つけ、驚いたように目を丸くする。
まるでハムスターの様に表情を変える姿に、優はゆるりと息を吐いた。
大丈夫だと。
「今宮君。どうしてここに?」
「んー、なんだ。散歩かな」
バイクに乗っているのにかかわらず、散歩もないだろう。
だが、正直なところを言ったところで彼女に理解してもらえるわけもないだろう。
第一、何と説明して良いか優自身もわからない。
無難な解答に、近づく明日香は困った表情を見せなかった。
けれど、近づくにつれて頬についた返り血を見て、驚いたように口をあける。
「って、今宮君、怪我してるの。また喧嘩?」
「その、またってのはやめてほしいけど」
「ご、ごめん。で、でも大丈夫?」
「ああ。返り血だから」
「やっぱり、喧嘩じゃない! あ、あのね、この前の事は感謝しているけど、でも、喧嘩は良くないよ?」
必死に訴えかける様子が面白くて、優は笑う。
その反応に、明日香はますます頬を膨らませた。
「わ、笑いごとじゃないよ!」
「悪かった。そっちはどうしたんだ。家はこの辺りだっけ?」
「あ。うん」
言葉を向けられて、明日香は口籠る。
覗かせた不安げな表情に、優は怪訝そうに顔を窺った。
「警察に――行こうと思うの」
「警察に?」
問いかける言葉に、何を思ったのか明日香はそうじゃないと大きく手を振った。
「あ、いや、今度は私は関係ないよ。あ、あのね」
不安げな表情で、考えをまとめていたのだろう。
しばらくの間をおいて、
「お母さんと弟が買い物にいったんだけど――さっき電話があったの」
と、そう言って見せたのは、彼女の手持ちの携帯電話だ。
生首のフランケンストラップとかどこで売ってるんだと、揺れる生首に一瞬戸惑いながら、優は黙って言葉を待った。
「何か通り魔が出たらしくって。警察を呼ぼうとしたんだけど、なぜか電話に出ないらしくて」
続く言葉に、明日香は不安さを様子を隠せないでいた。
けれど、彼女を気遣う言葉は優から出てこない。
通り魔との言葉に、思いつく存在があったからだ。
優の引きつった表情に不安を感じたのか、明日香は胸に手を当てた。
「だから、警察に行こうと思うの」
「それから連絡は?」
明日香はゆっくりと首を振った。
だから急いでいたのだと、優は納得した。同時に、呼びとめてしまい申し訳なかったとも思う。
不安なのだろう。
彼女が母子家庭で育ち、弟を溺愛しているというのは同級生の誰もが知っている。
いや、弟だけではない。
彼女は誰にでも公平に接していたし、優しかった。
だから。
バイクから降りた優は、座席を開き――黒いヘルメットをとりだした。
「ちょうどいい、こっちも警察署に行くところだったんだ。送っていくよ」
言葉をかけて、ヘルメットを渡す。
驚いたように受け取りながら、明日香はヘルメットと優を交互に見た。
「え、え……あの、やっぱり?」
「呼び出されたわけじゃないからな?」
戸惑う彼女が疑問に感じた答えを、優は引きつった表情で呟いた。
Ψ Ψ Ψ
大高市は、市の中央部を都心へと向かう電車で二分されている。
市の南側には港があり、繁華街が広がっている。
逆に北側には住宅地があり、優のマンションや学校はこちら側に存在していた。
その駅にほど近い場所に、大高警察署は存在している。
バイクが駅へと近づくたびに、周囲の状況は一変してきていた。
人の姿が少ない。
それとは対照的に、コンビニや露店がシャッターを下ろし、あるいは下ろさなかった薬局の窓が割られている姿が見えた。
酷い姿だった。
「ずいぶん変わったな」
「え?」
風の中で、聞き返す声が背後から聞こえた。
両腕で優の背を抱きしめる。
その暖かさと思わぬ胸の柔らかさを振り払うように、優は言葉を続けた。
「買占めが多くなっているとは聞いたけど、まさかここまで酷いとはね」
「あ、うん。そうだね。でも、昨日来た時は、何ともなかったんだよ? 並んでいた人は一杯いたけど」
「じゃ、たった一日でこうなったわけか?」
「そうだったと思うんだけど。ごめん、自信ない」
明日香は自信なさげに答えた。
昨日は家にいたため、駅周辺の繁華街の様子は優は知らない。
けれど、昨日はこうではなかったといわれても、その荒れた様子はとても一日でなし得るとは想像がつかない。
人もほとんどいないしな。
本来であれば、繁華街が近くなれば人がいてしかるべきである。
だが、すれ違う人はまばらであり、たまにしかいなかった。
暴動があったとするならば、それに対応する警察の姿もあるであろうし、何より暴動を起こした本人自身がいるはずだ。
違和感は、次第に嫌な予感へとかわっていく。
「今宮君?」
それが明日香にも伝わったのか、どこか不安げに名前を呼ばれた。
首を振った。
考えていても仕方がないと、優はアクセルを握りしめ、警察署への道を急いだ。
Ψ Ψ Ψ
「これは、予想外だな」
呟いたのは、優だ。
警察署の正面でバイクを止めれば、映るのは破壊されたドアガラスだ。
ガラスの欠片が、玄関の外にまで飛び散り、室内の照明は切れて薄暗い。
その様子に、顔をしかめながら優はゆっくりとバイクから降りた。
続く明日香がバイクを降りて、その現状に小さく息を飲み込んだ。
「ひどい」
ヘルメットを外しながら、明日香は頷いた。
確かにコンビニなどの店が襲われた形跡はあった。
けれど、まさか日本一安全な場所ですら、こんな様子であると言う事にショックを隠せないでいる。
ヘルメットを握り手に力がこもり、不安げな視線が優をおった。
ゆっくりとしゃがみながら、地面に落ちたガラスを見ている。
よほど大きな力が加わったのだろう、ドアガラスは大きく破損しているし、その破片のところどころには黒ずんだ染みがこびりついていた。
血だと気づいて、明日香は慌てて視線をそらした。
「まさか、警察まで暴動に巻き込まれるなんて」
予想外と、最初に優が呟いた言葉はまさしく現状を表しているのだろう。
だが、優はどこか上の空であって、すっと明日香に手を伸ばした。
一瞬迷ったが、それがヘルメットを要求している事に気づき、慌てて差し出す。
それを受け取りながら、優はガラスを踏みしめながら慎重に扉に向かった。
もはや用を足していない扉を開き、その表情に浮かぶ緊張感に明日香も慌てて後ろに続いた。
「あ、危ないよ。暴動があったなら、犯人はまだ中にいるかもしれないし」
「違うよ」
と、振り返らずに優は言葉を続けた。
彼女の言葉に、優の言葉を勘違いしていると気づき。
違うと、もう一度優は呟いた。
「暴動じゃない。暴動なら、扉は正面から中に割れるはずだろ――でも、ガラスは外にある。だから」
だからと、優は小さく言葉にした。
握りしめたヘルメットに力を込めながら。
「警察ですら逃げ出す何かが、中にいたのだろう。扉を突き破るくらいの何かがね」
明日香は言葉を失った。