別話1
海上輸送艦『潮騒』。
広い甲板の上に、轟音が巻き起こった。
佐藤信弘は暴風に衣服をなびかせながら、それを見上げる。
AH―1、通称コブラと呼ばれる戦闘用のヘリコプターだ。
回転するローターが暴風と轟音を鳴り響かせながら、ゆっくりと甲板に着陸、同時に扉が引きあけられて、男が姿を現した。
迷彩服とヘルメットを被った男だ。
風にヘルメットを飛ばされぬように押さえながら、甲板に足を下ろす男へと佐藤はゆっくりと近づいていく。
「お疲れ様でした、佐伯三尉」
言葉とともに敬礼を行えば、それに佐伯と呼ばれた男も応じた。
佐伯と呼ばれた男は三十代前半ころだろう、引き締まった表情は厳格さを想像させた。疲れはあるのだろうが、それを動作や態度から一切想像をさせなかった。
歴戦の戦士を想像させる佐伯とは反対に、呼びかけた男はまだ若い男だった。
若いとはいえ、二十代後半ほどの男は佐伯とは対照的に肉体労働に向いているとは思えない体つきだ。どちらかと言えば、外よりも中で働くイメージである。ただ、その挙手動作は訓練されたもので、洗練されていると言っても良いかもしれなかった。
佐藤の出迎えに、佐伯は表情を崩しながら、肩に担いだ八十九式自動小銃を背負いなおすと、足を進めた。遅れて佐藤がそれに続く。
「おめでとうございます。作戦は成功だったようですね」
「ありがとう。だが、さすがに疲れた。出来れば暖かい風呂を浴びてゆっくりと寝たいものだ」
「風呂ですか、それは」
「冗談だ。それが出来ないことくらい知っている。だがシャワーくらいは使えるのだろう。少しくらいは浴びても贅沢ではないだろう。部下にも交代で浴びさせてやってくれ」
「了解しました。ただ、佐伯三尉は大森中隊長がお呼びです」
「上へのご報告か。風呂はともかく、ゆっくりと寝ることすら出来ないとはな」
佐伯はやれやれとため息を吐いた。
「面倒なことだな、小隊長というのも。まだ何も考えずに暴れていた方が、幾分楽だった」
「心中、お察ししますが、仕方ありません」
「知ってる、知ってるよ。佐藤准尉――ただの愚痴だ。聞き流していただけるとありがたい」
「失礼いたしました。中隊長は部屋でお待ちしております」
「わかった、装備をおろし次第、すぐに駆けつけると言ってくれ」
佐伯がもう一度、ため息を吐けば――ゆっくりと背後を振り返った。
ヘリコプターから吐き出されるのは、疲れたような部下の姿だ。
数ヶ月前までの自分を思い出して、懐かしさとともにさらなる愚痴が浮かんでくる。
もう戻ることは出来ないのだ。
そう理解しているが、納得できるようなものではない。
佐伯俊夫は頭を振り、室内へと向かった。
Ψ Ψ Ψ
中隊長室の扉をノックすれば、入室の許可を告げる返答が帰ってきた。
失礼しますと一言声をかけ、室内に入る。
出迎えたのは頭の禿げ上がった男だ。
五十を超える年月を隔てた白髪が、わずかばかり髪の左右に残っている。
だが、残念なことに中央分離帯は念入りな草刈のために、見事に禿げ上がっていた。
引き締まっているとは言いがたい小太りな体つきが、制服に包まれており、書類をおっていた視線を上げて、中隊長である大森良悟は佐伯をソファに勧めた。
「第一次報告は聞いている。ご苦労、座りたまえ」
「ありがとうございます」
いまだ扉の手前に立つ佐伯に向かって、もう一度大森は椅子を勧めれば、佐伯が頷き、ソファに腰を下ろした。
同時、書類を裏にしておいた大森が佐伯の正面に座った。
「それで。早速だが報告の内容に間違いはないのか」
「ええ。残念ながら、報告のとおりに間違いありません」
「そうか」
佐伯のまっすぐな言葉を受ければ、大森は一言呟き、深いため息を吐いた。
その表情は重く、苦しいものだ。
正面では佐伯が脇の封筒から書類を取り出した。
第一次報告と書かれた用紙に、赤いペンで手書きの文字が付け加えられている。
それを前に――。
「当隊は本日○六○○時に潮騒を出発し――新宿区域への生息調査を開始」
そこで指差したのは新宿の中央よりもどちらかと言えば港区に程近い位置だ。
それも仕方がないことだった。
新宿駅の中央にヘリを乗り付けるなど、自殺行為も甚だしい。
「そこから徒歩にて、新宿御苑方向へと渡り――最終的には新宿駅南口へと到達。生息状況と区別及び交戦状況については、先に報告のとおりです」
その後の状況について、佐伯はごく簡単に説明を行った。
具体的な数値などは報告書を見ればわかる。
そして、大森自身もその詳細な説明を求めていないことを知っているからだ。
彼が求め、そして表情を暗くする内容は……。
「ヘリで到着した時点で、最初の交戦を開始しました。コブラによる対地援護がなければ、そのまま壊滅していた可能性もあります」
佐伯の言葉もまた真剣で、そして重い。
着陸地点を指差しながら、それでも語らざるを得ない。
「到着時点は周囲に敵の姿は確認できず、しかし、隊員がヘリを降りて、数分後には敵に囲まれていました。その数五百――もし、ヘリが戻ってこなかったと思えば」
ぞっとしますねと、佐伯は正面で首を振った。
もし、事前の情報がなければ。
あるいはコブラが遅ければ、ここに戻ってくることは出来なかったかもしれない。
けれど、正面に座る大森の表情が暗いのはそのことではない。
もちろん、優秀な部下の命が助かったと言うことは喜ばしいことだが。
何よりも。
「偶然と言うことは考えられないのか」
「偶然? 偶然、奴らはヘリの着陸地点に行き、偶然隊員が降りたときには攻撃せず、偶然ヘリが飛び立ってから囲んだと、中隊長はそうおっしゃるのですか」
確認とばかりに聴いた言葉に、佐伯は目を大きくして怒りの言葉を口にした。
書類を叩きつけながら、佐伯は怒りの言葉そのままに言葉を告げる。
「信じられないというのも無理はない。だが、奴らは、現実に――我々を待ち伏せしたのです。それもヘリが飛び去るのを待ってから」
その事実の言葉に、大森は暗雲たる気持ちで、さらに深いため息を吐いた。
Ψ Ψ Ψ
ゾンビが成長しているのではないか。
それは三ヶ月経って、作戦に従事している現場隊員から上げられたものだ。
そんな荒唐無稽な話を前にして、上層部の意見は、まさかと一笑に付した。
ゾンビが成長するわけなどない。
それが共通の認識であって、そして現場の隊員でさえも、ある意味都市伝説的な意見として、ささやかれるだけに終わった。
しかし、次第に悪くなる戦況とともに、その意見は具体性を持つことになる。
それまでヘリや車両の騒音に見向きもしなかったゾンビが集まるようになった。
銃口を向ければ、散開された。
空や地下などの死角から襲撃をされた。
次々と寄せられる報告を前にしても、上層部はなお半信半疑であったが、一つの事件が認識を新たにさせることになる。
新宿、再侵攻。
一時的には完全に開放していた新宿区域に向けて、ゾンビが再侵攻を行った。
それまで散発的にしか襲撃を仕掛けてこなかったゾンビが、まるで意思を持った生き物のように一斉に、大量に集まったのだ。その暴力的な数を前にすれば、わずか一個中隊程度の維持軍ではとても耐えられなかった。
もっと早くわかっていればと思わなくもない。
だが、一個中隊を犠牲にしてもまだ完全に信じられていないというのが歯がゆい。
今回の任務も生息調査とは名ばかりで、その情報が本当であるのか見極めるという方向性のほうが強かった。
「奴らは成長している。それとも、大森中隊長もまだ上層部のお歴々のように、新宿における敗戦は第一中隊の訓練不足とゾンビが偶然集結した事が原因だとおっしゃりたいのですか」
「言葉を慎め、佐伯三尉。新宿における戦いは敗戦ではなく、一時的な撤退だと上は言っている。それに……」
大森は不快そうに眉をひそめた。
「第一中隊の坂鍋中隊長は古くからの付き合いだった。君以上に彼の事は良く知っている」
「失礼しました」
思い出すような言葉を前にして、佐伯は素直に頭を下げた。
別にいいと言葉を区切り、書類を前に大森は禿げ上がった頭を撫でた。
「感情的になるようなことでもない。それに、敵が成長したところで任務に変わりがない。上は出来るだけ早く、各地区の開放を望んでいる。おそらく近いうちに、各地区を同時に攻略する大きな作戦が決定されるはずだ。もちろん、我々の部隊にも命令が下るだろう」
「でしたら、人員と装備の補充をお願いします。私の小隊もいまだ欠員が補充されないまま。補充をお願いして二ヶ月になりますが、いつになったら、新しい人員が補充されるのでしょうか」
「すでに学生や予備隊員に至るまで招集されていることは知っているはずだが?」
「ええ、知っております。現段階で兵力はもとより、弾薬、燃料も足りていないことも」
頷いた佐伯に向けて、大森が眉をあげた。
「何が言いたい。いや、わかるな、同時攻略には反対だとそう言いたいのだろう」
「軍人である以上、上の決定には従います。しかしながら、兵力や補給が足りない状況で、各地区を同時に攻略するのは愚の極み。なればこそ、時間はかかるかもしれませんが、順次最大戦力を持って攻略する必要があるのではないですか」
「そうもいかんのだ」
言葉をぶつけられて、大森は禿頭においていた手を止めた。
頭が痛いと言わんばかりに、再び息を吐き出した。
「在日米軍の撤収が決定した」
「見捨てられたのですか?」
「さて、な。あちらの本国はこの国よりも大変だと言うことだろう。来月には一万人が。その後も順次撤収していくとの事だ。わかるな、人員も弾薬も燃料も満足に補充されない状況で、同盟国の撤収まで決定した。各区画を順次攻略している余裕はない」
+ + +
暗い室内。
節電のためか、電灯のほとんどが消し去られ、ただでさえ狭い艦内はまるで夜のようだ。
こつとシャワールームから姿を見せたのは、若いの男性だ。
刈り上げた髪を白いタオルで拭いながら、黒いタンクトップ姿と迷彩服のズボンを身にまとい、露出されている部分は筋肉に引き締まった体だ。
ほりの深い顔立ちに、はっきりとした目鼻はどことなくハーフのようであった。
髪の水気を拭い取れば、タオルを首からかけて――加賀祐樹は壁際に備え付けられていた、簡素なベンチに腰を下ろした。
疲れたなと口には出さず、小さく呟く。
連続的な戦闘により体の疲労はもとより、精神的な疲労も大きい。
それもそうだろう。
自衛隊の工科学校という学校在学中に部隊に派遣され、それ以後は、戦闘の連続であり――気を休める暇もない。
特に今日はきつかった。
いきなりゾンビが現れたときには、さすがに死を覚悟したほどだ。
でも生きることが出来た。
加賀祐樹はポケットに手を入れると、パスケースを取り出した。
開けば、中には古い写真がある。
子供たちの肩を抱く、男性を中央にして――笑い合う三人の子供たち。
少女を挟むように、つまらなそうに写る少年と生意気そうな少年がいる。
見れば、自然と頬が緩んだ。
「恋人の写真でも見ているのかしら?」
響くような声が聞こえた。
背後に目を向ければ、自らの上官が目を丸くして立っている。
「あ、いえ。これは」
「どうしたの、隠すものじゃないでしょう?」
その様子に鈴の音のような笑い声をあげて、楽しげに――上官である松宮楓はパスケースを手に取った。自らの直属の上官にそうされれば、防ぐ余地もない。
ただ困ったように加賀祐樹は頭をかいてみせた。
「あら、可愛い。これは加賀君よね」
「ええ。私と幼馴染と――その幼馴染の父君です」
「つまらないわね。でも、可愛い子ね、こっちの男の子も――ちょっとぶっきらぼうだけど」
「親友です。今はもうばらばらになってしまいましたが」
「そう、でもそうはっきりいえるのは素晴らしいことよ。この子達のためにも、私たちが頑張らないとね」
「は」
立ち上がり、敬礼をした加賀に向けて、松宮楓は答礼を返す。
そして手にしたパスケースを差し出した。
「いいものを見せてもらったわ」
「そ、そんなたいそうなもんでは」
「たいそうなものよ。自分が何のために戦っているのか、見失わないでいられるでしょう」
「――ええ」
「邪魔したわね」
小さく笑い、これから小隊長に呼ばれているのと呟けば、松宮は歩き出す。
その背がゆっくりと遠ざかり、残された加賀はパスケースの中に再び目を落とした。
いまも生きているだろうかと――いや、大丈夫だと加賀は確信する。
自分ですらも生きているのだ、彼らが死ぬわけがない。