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襲撃



 3LDK。

 一人で住むには若干広いマンションの一室。

 差し込む朝日を顔に受けて、今宮優はゆっくりと身体を起こした。

 ベッドの上に半身を持ちあげながら、顔を拭い、頭を落ち着かせる。


 時計を確認すれば、針が七時半を指していた。

 例え休みであったとしても、起きる時間は変わらない。

 それは日頃から起床時間に厳しかった父のせいであるかもしれなかったが。

 ともすれば二度寝しようとする意識を振り払い、立ち上がって優は大きく伸びをした。


 急な学級閉鎖が始まって既に三日が経っている。

 最初は毎日かかっていた電話も、このまま春休みに突入するという連絡を最後に電話はこなくなっていた。卒業式も間近に控えた、この時期では授業も消化試合であるから、構わないという判断だったのだろう。


 とはいえ、学校がなくなれば外出する理由もない優にとっては、ほぼ一日を自宅で過ごす事になったが。

 寝室の扉を開き、リビングへと移動する。

 ソファとテレビ台が置かれた簡素な室内だ。

 その先にある台所との境界にはダイニングテーブルが置かれていたが、父が亡くなって以来、それらは使われる事がなかった。


 喉に乾きを感じ、寝ぼける頭をかきながら、台所へ向けて歩き出した。

途中で、ソファ前のテレビに電源を入れる事も忘れない。


『では、この病気の治療方法はいまだ発見されていないという事でよろしいでしょうか?』

『ええ。と……いいますか』

 当然のことながら、テレビも狂人病の話題で持ちきりだ。

 キャスターの女性が、神妙な表情で――相対する太った男性を向いていた。

 テロップでは東都大学教授と、日本を代表する大学の助教授である事を告げている。

 太った男は、しきりに汗を拭いながら答えていた。

『この病気が何らかの菌かあるいはウイルスでもたらされるものなのかすらはっきりしていないのです。原因がわからなければ、当然その対処もわからないわけで』

『しかし、この病気が発見されてから一カ月経つわけですよね』

 そう言ったキャスターが手元のフリップボードで、アメリカの中西部を指さした。

 2月17日初感染と、赤い装飾された文字を指さしている。


『ええ、逆に言えば一カ月しか経っていないわけです。当然、いまだ研究中ですし――全国の研究機関が総力を持って、原因を調査しています。ですから、皆様は安易な情報を鵜呑みにすることなく、冷静な対応をお願いしたいと思います』

『ありがとうございました。CMの後は厳戒態勢が引かれる鳴羽空港の様子です』

 キャスターがテレビ目線で一礼する。

 同時に画面が切り替わり、外国の女性が髪を洗うシーンとなった。

 シャンプーのコマーシャルに、優は手に持った制服をダイニングテーブル脇の椅子にかけた。


 コトン。

 音がした。

 それは決して大きな音ではなかったが、自然が発する音でもない。

 何かが窓にぶつかったような、そんな音だ。

 振り返れば、そこにはベランダへと繋がる窓があった。

 薄青色のカーテンがかかる、その横。

 顔があった。


 三十くらい――まだ、若い女性だ。

 突然ベランダに現れた顔に、優は一瞬驚いた表情を浮かべる。

 だが、それがすぐにお隣の女性のものだと気付き、小さく息を吐いた。

 なぜ、ベランダから顔を出すのかわからないが。

 何かあったのだろうかと、一歩近づきながら――優は次第にその、異質さに気付いた。


 表情がない。


 お隣さんとは決して交流がないわけではなかった。

おそらくは深夜の仕事であるために、学校帰りに出勤前の彼女とすれ違う事があったが、挨拶を交わす程度には関係がある。

 若干、化粧の色は濃いが感情豊かな顔立ちが――今はまるで別人のようだった。


 その顔に、表情と言うものは一切ない。

 ただ、覗いている。

 そこに優にみられたというわずかな感情ですら、浮かんでいない。

 というか、白すぎないか。

 次に感じたのは、その表情の白さだ。

 血色と言うものがない表情は、白さを通り越して青白い。


 何でベランダに。

 どうして何も言ってこない。

 次々と重なる違和感に、優は足を止めた。


Ψ Ψ Ψ 


 ベランダの窓越しに、優と隣人の女性は見つめ合っていた。

 違和感を感じて、戸惑いを隠せない優とは逆に――時間が経過しても変わらず無表情を続ける隣人の女性。

 動いたのは、女性だ。

 ゆっくりとベランダの窓に手をかける。

 開けてと。

 そう言わんばかりの様子に、優は頭を振った。


 何を考えている。

 彼女は助けを求めているのかもしれない。

 もしかしたら怪我をして。声すら出せないのかもしれない。

 そう思い返した瞬間、窓が割れた。

 女性だ。


 握りしめた指先からは、窓ガラスの破片が覗き――血が滴り落ちている。

 痛みに顔をしかめることなく、女性は走った。

 割れた窓から身体を付き入れ、砕けたガラスを踏み次第で真っ直ぐに優を目指している。

 足が、身体が、割れたガラスで刻まれる事すらも気にせず、女性は走っていた。

 思わず声をあげかけた、その言葉を飲み込んだのは女性の速さによるところだった。


 ベランダから優の位置まで、最短距離を通り走り抜けた女性は、優が言葉を発するころには、既に掴みかかってきている。

 咄嗟に腕を掴んだ。その前で、隣人は大きく口を開け、

「何をっ――」

 していると告げようとした言葉は途中で、咄嗟に片手で彼女の首を掴んだ。

 押し込まれる。

 その細い腕や身体が嘘のような力を持って、優へと近づいていた。


 優は決して力が弱い方ではない。

 片手で車を持ちあげる例外を除けば、力比べで負けた記憶はなかった。

 少なくとも、女性に負けるほど弱くはない。

 全力を込めて、優は女性を引き離そうと力を込めた。

 奥歯が音を立て、二つの腕の筋肉が盛り上がっていく。

 掴んだ首には指がめり込み、今にも首の骨をへし折るほどの勢いがある。


 だが。

 隣人の女性は、ガラス同様に痛みを感じないように、ただただ淡々と大口を開いて、優の顔にその身を近づけていた。

 カチカチと、音がなる。

 それが隣人の女性が口を開け閉めする音だ。

 あと少しでも近づけば、その顎は優の顔面をとらえるだろう。

「ふざけんな――」

 だから。

 優は、彼女を敵だと――そう認めた。


 Ψ Ψ Ψ


 今宮優。

 彼は自分から喧嘩を仕掛けることはない。

 ただ、ただ敵と認めた人間には容赦しない。

 だからこそ敵が増えると、彼自身も気づいてはいたが。

 それが、彼の性格であった。



 投げた。

 女性はただ単純に、優を目指して前に進もうとしている。

 身体の位置をずらし、背負い投げの要領で優は隣人を投げる。

 押さえられた力が爆発したように、空港の様子を映していたテレビをなぎ倒して、破壊音が鳴り響いた。


 地デジのために、買い換えたばかりのテレビを。

「くそ、弁償だよな。つか、ガラスはともかくこのテレビも弁償してくれるんだよな」

 苛立ったように呟く優の前で、女性が跳ね上がった。

 顔からテレビに突っ込んでいる状態から、一足飛びに跳ね起きる。

 まるで身体にバネがついているように。

 少なくとも優には、その動作は真似が出来ない。

 人体の構造を無視して跳ね起きた女性に対し、優は問答無用で椅子を叩きつけた。


 破壊音と共に、骨の折れる音が響き渡る。

 肩にぶつかった椅子が衝撃で手を外れ、床に落ちる。

「折れてるだろうが」

 どうだとの思いは一瞬。

 呟きは、女性が顔を起こして再び突進をした事によるものだ。

 おかしいと、優はそこで先ほどの想いを頭に浮かべた。

 窓ガラスによって、女性の身体は切り傷だらけだ。

 掴んだガラスによるものだろう、指は半ばから切れかけてぶら下がっている。


 投げられた衝撃によるものか、首の関節がずれてまるで小首を傾げたように固定されていた。

 叩きつけられた肩は、半ばからへし折れ、その白い骨を肩先から覗かせている。

 どれか一つであっても、痛みに悲鳴をあげる。

 どれほど我慢強い人間であったとしても、痛みに顔をしかめるくらいはする。

 そのはずだ。

 だが、現に女性は変わらぬ無表情を貫きながら、いまだ優の顔にご執心のようだ。


 迫りくる女を避けながら、優はその異常さに気付き始めていた。

 これだけの音だ、誰か見に来るだろう。

 そう楽観的に考えながら、御丁寧に鍵をかけて寝た事を思い出した。

 誰か来たとしても、そこから大家なり警察に連絡すればさらに時間がかかるだろう。


 間に合った頃には、優は彼女のお腹の中である。

「恨むなよ」

 だから、少し考えて優は小さく呟いた。

 女性を避けつつ、割れたベランダの方へゆっくりと近づく。

 走った。

 その瞬間、優は再び女性の胸倉をつかむと、体を入れ替え、力強く突き飛ばす。

 隣人は窓を飛び出し――ベランダを飛び超えた。


 Ψ Ψ Ψ


 荒い呼吸音が室内に響き渡った。

 それは優自身のものであったが、まるで別人のように優は感じた。

 そう言えば、あの女はあれだけの動きをしていたのにも関わらず、一切息を乱していなかった。

 今更、異常が一つ二つ増えたところで変わりはないであろうが。


 疲れきってソファに座りこみそうになる自分を叱咤し、優は携帯電話を握りしめた。

「とりあえず、警察……いや、病院か」

 独り言を呟いて、優はベランダの外を見た。

 優の部屋は二階だ。

 ベランダから投げたとしても、打ちどころさえよければ生きているかもしれない。

すぐに様子を見に行きたかったが、途中には粉々になったガラスが散乱している。


 わずか数分前の光景が嘘のように、今は戦争があったかのように悲惨な状況だ。

 点々と付いた血は、白い壁紙を黒く汚し、優の服にも付着していた。

 まだ黒いジャージで良かったか。

 と、寝巻変わりのジャージ姿で苦笑して、優はとりあえず運動靴を玄関から持ちだした。

 室内で履くという事に、一瞬の戸惑いを感じたが、ガラスが散らばる室内はあまりに危険すぎる。

 靴を履き、携帯電話を握りしめたままに、優は叔父が務める警察署の番号をダイヤルする。


 ガラスを踏みしめ、もはや窓として用を足さなくなった窓をくぐり抜けながら、優はベランダへ出た。

『現在、回線が混み合って――』

 携帯からは機械音声が流れている。

 小さく舌打ちをすると、優は次に一一九をダイヤルした。


 ゆっくりと――階下を覗きこむ。

 階下は広い道路が広がっている。

 その下に、赤い染みがあった。

 受け身すらとれずに、顔から落ちたのであろう。

 その染みの中心には、女性がいる。


 うつぶせに、アスファルトに顔を突っ込む姿に病院ではなく葬儀屋に電話すれば良かったかと、どこか他人事のように考えた。

『現在、回線が――』

 おい。

 そこで、優は耳に当てていた携帯を見た。

 ありえない。

 間違いなくダイヤルは、一一九を回していた。


 通常の回線ならともかく、病院や警察などの緊急回線までがつながらないわけがない。

 いや、大地震などがあれば、そうなる可能性もあったが。

 いま、その大地震に匹敵する状況が起きたというのはあり得ない事だった。

 その異常さに、さしもの優も顔をしかめる。

 その視界の端に、動きがあった。


 Ψ Ψ Ψ 


 女だ。

 アスファルトと熱烈なキスをした女が、ゆるりと立ち上がった。

 その足は衝撃でへし曲がり、脛に関節を増やしながら――立ち上がった。


 自重すら支えられず、衝撃によって足を折り曲げるが。

 走った。

 自重で身体が倒れるより早く、次の足を出し――そして、再び足を出す。

 その止まらない動作は、真っ直ぐにマンションの非常階段を。つまり、優の部屋を目指している。

 肉を打つ鈍い音と共に、素足が階段を叩く音がした。


 近づいている。

 その異常さは、優の理解を奪った。

 つながらない緊急回線。

 どれだけ怪我をしても、近づく女。

 まるでB級のホラーだと、優はため息を吐く。


 階段の音は次第に遠くなり、やがてのぼりきった。

 彼女が離れたわけではなく、ベランダとは逆側――つまり通路にたどり着いたのだろう。

 時間はない。

 その想いが、しばし呆然と佇んだ優の身体を動かした。

 携帯をポケットにしまい、ガラスを巻き上げながら、室内に戻れば財布と鍵束をポケットに突っ込んだ。


 がんっと隣室の扉が開く音がする。

 御丁寧に再び、ベランダからお邪魔するつもりらしい。

 走り抜ける先で、時計を掴むと口にくわえ。

「ふざけんな。死んだら化けて出てやるからな」

 ため息一つ、隣室から伸びる手を乗り越えて、優はベランダから飛び出した。


 着地する。

 衝撃が足の裏から全身に抜けたが、止まっている暇はなかった。

 着地と同時に走り出し、マンション内に置かれる駐車場へ走り出す。

 静かだ。

 八時も近いこの時間帯であれば、夫を送り出した主婦が朝の井戸端会議に花を咲かせる。

 そんな時間帯であるにもかかわらず、マンション前の小さな公園にも――そして、マンションの玄関にも、人の姿を見る事が出来ない。


 それは後々考えれば、幸運であったのだろうが、現時点で走る優の苛立ちを増大させた。

 玄関ホールの前を駆け抜けて、駐車場へと入る。

 そこに置かれているのは青い車体をした自動二輪車だ。

 鍵束から、盗難防止用のチェーンの鍵を探した。

 どちゃっと、もはや人間が立てる音ではない音が背後から聞こえた。


 何がと問いかける事はしない。

 振り返る時間もない。

 チェーンを手早くはずし、バイクにまたがると鍵を突っ込んだ。

 叔父からは反対されたが、買っておいて良かったと思いながら、優はスターターを押し込んだ。

 エンジン音が、静かなマンションに響き渡った。


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