救出活動4
実に一日ぶりの帰還であったが、まるで何年も帰ってこなかったように優には思えた。
マンション脇の道路に車を止めて、待っているように伝えれば明日香が手伝うと申し出た。一軒家とは違い、それなりに大きいマンションだ。
危険だと断ったが、大丈夫だと言い張った。
根拠のない大丈夫であったが。
「なに、すぐに出発できるように待ってるし、何かあったらすぐ逃げてくればいいさ」
心配するなとばかりに、鈴がハンドルにもたれかかりながら笑い、遠藤が小さく手を振ってみせる。不安げな双子の少女もまた、そんな様子に小さく笑みをこぼした。
仕方がないと、明日香を連れて優はマンションへと足を踏み入れる。
静かだ。
階段を上がる音だけが響き渡る。
幸いにして、その音を聞いて飛び出してくるものもいない。
まるで誰もが逃げ出したか――あるいは、食事を求めたか。
ひらっきっぱなしの扉をあければ、あの朝の出来事がそのままに優を出迎える。
破壊されたテレビ、そして折れた椅子――血痕だ。
その惨状に目を開いた明日香が、一言。
「散らかってるね」
「大きなゴキブリが出てね」
苦い顔をして優が答えれば、明日香が小さく笑う。
「冷蔵庫の中のものを入れておいてくれ。冷凍食品とかカップめんとか買いだめしたばかりだから、まだあると思う。飲み物も勝手に飲んでいいよ、俺は着替えてくる」
そう言って、寝室に入れば――青色の布団が、起き上がったそのままの状況で形作っている。
優の姿は、いまだ昨日と同様のものだ。
ジャージの下に、Tシャツ。そして上着。
初春とはいえ、まだ寒い季節だが、着替える時間もなかったので仕方がない。
手斧を脇に置いて、上着を脱ぎ、ジャージを脱ぐ。
下着と靴下をはきかえれば、裸のままで優はクローゼットの扉を開いた。
最初はシャツだ。
少し迷って、やがて黒色のシンプルなTシャツに袖を通す。
次にジーンズをはき、皮製のベルトでとめた。
ベルトの背後から手斧を通して、装備をしておく。
「頑丈な方がいいだろうね」
呟き、次に長袖の上着を着込み――最後に紺色のジャンパーを羽織った。
そうしておいて、トートバックを手にすると次々に下着と服を詰め込んだ。
限界までそれが達すれば、次に旅行かばんを開く。
元々数の少ない優の服は、すぐにかばんに吸い込まれていった。
やがて残されたのは制服で――少し思案しながらも、それをかばんに入れた。
次に向かったのは机の引き出した。
広辞苑――そして理科の教科書など、高校の教科書が乱雑に詰まれている。
それを無造作にかばんにしまい、引き出しを開いた。
写真だ。
父親と、そして古くの友人。
家族旅行のときにとった懐かしい写真。
山の奥で父親に肩を抱かれて、少女と少年二人がピースを浮かべている。
家族旅行なのに自分の母親がいないことに拗ねていた記憶がある。
子供だったと思いながら、パスケースに入れているそれを小さく手で撫でた。
「強くはないさ」
ただ見られたくないだけ。
自分を、感情を、そして心を。
だから隠す――『理由を探して――暴れてぇだけだ』――死ぬ前日に叔父の呟いた言葉が、記憶に残った。
そうかもしれない。
小さく首を振りながら、優はそれをポケットにしまった。
Ψ Ψ Ψ
「ほ、ほんとにいっぱいあるなぁ」
紙袋はすでに四袋目に突入している。
大量にストックされた冷凍食品とインスタント食品の山が消えて、ようやく明日香はほっとしたように息を吐いた。
「お待たせ――」
「うん、こっちも今終わったとこだけど。でも、インスタントばかりじゃ体に悪いよ?」
「たまには外食もしているさ」
「そういう意味じゃなくてさ。ま、これからは私が作るからいいけど――終わったの?」
「いや、もう一部屋ある。こっちは?」
「もう終わりだよ。じゃ、そっちも手伝うね」
紙袋を提げて、優に続く。
開くのは寝室と、逆の扉だ。
そこは、それまでの部屋とはさらに沈んだモノトーンの部屋だった。
開けば、埃の匂いが鼻腔をくすぐり、清掃どころか長い間足を踏み入れていなかったことがわかる。
「ここは?」
「親父の部屋さ。死んでから一回も使ってない」
「そう……」
周囲をうかがえば、何やら山の写真やポスターが見える。
ところどころに見えるのは、何やら銃器の本だろうか。
「俗に言う冒険オタクって奴でね。山登りやらキャンプが大好きだった。ま、なかなか休暇もとれなかったようだったけど。それでも休みはよく連れて行かれてたな」
「だから、山なんだ」
「自分の分くらいは自給自足は出来そうだからね」
そう呟いて、優は押入れを開いた。
手馴れた手つきで取り出すのは、双眼鏡だ。
その重厚感は、一見するだけで相当に高価なように思われた。
「親父自慢の暗視も出来る双眼鏡。軍用を払い下げて――ローンまでして買ったって自慢してた。ま、これをもって山に入る前に死んだけどな」
何を思って、それを買ったのか。
闇を求め山に入り、そして闇の中に何を見つけようとしていたのか。
死んでしまった今では、その意味を問い詰めることはできない。
けれど、幸いにと旅行かばんにそれをつめて、他のものはないかと手で探った。
携行用のライトに、燃料缶――キャンプグッズがつめられているバッグを引っ張り出し、中身を確認しながら、再び戻していく。
大降りの鉈も入っていた。
その脇には、それとは別に小さな小ぶりのナイフだ。
鉈で木々をなぎ払いながら、山の奥地に入る父親に自分も欲しいといえば買ってくれたものだった。 その当時は、これですらも彼の手に余っていたが、今では手のひらにおさまるほどに小さい。
それを足に巻きつけて、鉈を腰につるす。
そうして、荷物をまとめていると、優の肩に手が置かれた。
優しげな――小さな手だ。
「どうした?」
「ううん。何か、今宮君――泣いてるのかなって。そんな事ないよね、ごめんね」
「ま。こうしてここに入るのは久しぶりだからな、少しくらいは思い出しもする」
「そうだよね。うん」
戸惑ったような声に、置かれた肩に手を乗せる。
強く握り。
「大丈夫だ。根拠はないけれど、ね」
「うん、安心す――」
そう問いかけた言葉が、途中で止まった。
凝視している。
何をと、視線を向ければ――そこに血に染まる手が張り付いて。
「ところで、今宮君。幽霊とか信じる?」
「いや、あれはお隣さんだ」
血まみれの――もはや人の限界をとどめないほどに壊れた無表情の女性が、ベランダの外にいた。
Ψ Ψ Ψ
「逃げろ!」
突き飛ばすように明日香を押し出し、同時に女性が突進を開始した。
再び割られるガラス戸に、明日香も振り返らず――置かれた紙袋と旅行かばんを抱きしめ、外へと走り出す。
足を半ばへし折られ、腕で這いながら猛スピードで彼女は迫った。
手斧を抜き放ち、頭部めがけて振り下ろす。
女が首を振った。
それは狙いをはずれ、肩口にささり、鈍い手ごたえを優にもたらした。
けれど、女の突進は止まらない。伸ばした腕が優の肩を掴み、その体制で優は背後に倒れこんだ。同 時に足で腹部を蹴り上げ、投げる。
優の巴投げに、わずかばかりの手が離れて衝撃音を撒き散らしながら、女は壁面に激突した。壁を掴み、跳躍――キャンプグッズの入ったかばんをフルスイングすれば、上空にいた女は再び吹き飛ばされた。
その隙に優も、かばんを肩にかけて走り出した。
「今宮君、早く!」
「先に行ってろ!」
叫び、玄関を飛び出す。
早い。
すでに用を足さなくなった足で、そして腕で。
女は四速歩行の獣ののように迫る。
階段を駆け下りながら、振り返れば再び跳躍し一気に間合いをつめる女の姿があった。
そこへ向けて、再びかばんを振りぬく。
――受け止めるかよ。
毒づいた言葉とともに、先ほどとは違いかばんを掴み、女が離れることはなかった。
だから。
蹴りぬいた足で、無理やり引き剥がしながら、再び階段を駆け下りる。
マンションを抜ければ、荷台の上で明日香が声を上げている。
早くと。
走る優を見て、その背後に迫るものに、双子の少女が悲鳴を上げた。
「な、なんだ。ありゃ――」
「普通、死ぬでしょ」
度胸の据わっているであろう鈴ですら、その光景に顔を蒼白にさせた。
「これを!」
舌打ち。
手にしたかばんを荷台へと投げ込みながら、優は振り返り鉈を振るう。
かわされた。
大きくしゃがみこんで、首への一撃を交わした女は即座に伸び上がり、顎を開く。
そこに、優の右膝がひらめいた。顎を下からかち上げられて、女は血しぶきを吐き出して顔を上に向ける。だが、左腕が優の袖を掴んでいた。
力任せの強引な投げ、それは――強引であったが、確かに優が見せた、背負い投げ。
左腕を支点に、持ち上げられた優は咄嗟に頭をかばい、背中から着地。
肺から空気があふれ出た。
女の左腕はいまだ、優の袖を掴んでいる。
痛みに顔をしかめながら、掴んだ手を袖で巻き込んだ。それを支点に左腕の間接を極める――同時、骨のへし折れる鈍い音とともに、女の腕が半ばから曲がった。
痛みは感じなかったとしても、それで一瞬掴まれた力が緩んだ。
無理やり引き剥がし、荷台に転がるようにして逃げ込んだ。
「出せ!」
言葉が終わらぬうちに、トラックはけたたましいエンジン音を立てて走り出した。
走る――足が折れ、腕が折れてもなお、女は右腕と折れた左腕の骨で走った。
だが、それもトラックが時速八十に跳ね上がれば、追いつくことはできない。
隣人の女を残して、トラックは走り出していった。
Ψ Ψ Ψ
息が荒い。
痛みも酷い――トラックの荷台で崩れるように、倒れこむ優に明日香は心配げに声をかけた。
「大丈夫、今宮君?」
「ああ。噛まれてはいない」
だが、大丈夫とはいえないだろう。体はぼろぼろだ。
アスファルトに激突した背中は熱を帯び、ずきずきとした鈍い痛みがある。
だが、それよりも疲れた。
わずかばかりの戦闘であったが。
「ちょっと待ってくれ」
荷台の上で姿勢を変えて、トラックの脇にもたれかかりながら優は呼吸を整える。
「な、何だってんだよ。あんなゾンビ、はじめてみんぞ」
戸惑ったような言葉は、遠藤のものだ。
煙草をかみ締めながら、鈴もあたしもよと呟いていた。
その悲惨な光景に、双子の少女たちは怯えていたし、明日香もまた顔面が蒼白だ。
それでも優の自宅においてあったミネラルウォーターを、カップに移して優の前に差し出した。
「飲める?」
「ああ。ありがとう」
礼を言って受け取れば、それを一気に飲み干した。
冷たい清涼感が胃に流れ落ちる。
視線はいまだ、背後――加速して流れる、道路の奥だ。
彼女は、最初あれほどに速かったか。
そして、攻撃を避けることなどあったのか。
ありえない。
今まで優が相手をしてきたゾンビは、攻撃をくらうことを何も思わない。
だからこそ、一撃で殺すことができたし、攻撃自体も単調であって恐れるものではなかった。
「考え違いをしていたな」
「考え違い?」
「ああ。テレビで見ただろう、空から降ってきたゾンビを」
「あ。うん、あったよね」
思い出したのか、再び顔を曇らせる明日香を優は見ていない。
ただ、まっすぐに見ているのは――もはや見えなくなった隣人の姿。
「成長しているんだ、奴らは。攻撃を受けても生き残れば、成長する。より効率的に、より確実に獲物を狩るために」