化けの皮
走る。
「試し切りは?」
「したいのなら、貸してやるよ?」
走る――走る。
二人は全力疾走で走っていた。
決して優は手を抜いているわけではない。
けれど、少女の足は優に匹敵するほどに速い。
駆け抜ける二人の足音に続いて、ゾンビが追いかける。
このままおいていこうかと、邪悪な事を考えた優の足が突然払われた。
こける事はなかったが、痛みに顔をしかめる優に、
「いま、酷い事考えた」
「君は予知能力でもあるのか?」
「考えたことは否定しないんだ」
「まあ、考えなかったかと言えば嘘になる」
「鬼」
小さく罵りあう先で、角を曲がりなおも走る。
「どこにいく?」
「バス停」
呟きながら、その前にこの建物を出なければなと考える。
入口――そこは既にゾンビの群れが扉を破り、侵入口になっている。
だから、廊下を駆け抜けて一階の階段を目指す。
幅広の階段を駆け抜けて、少女が立ち止まった。
ゾンビだ。
食料品売り場であったそこにもまた、地獄だ。
インスタント食品の棚の先で、無表情の人間が一斉に顔を覗かせる。
その異様な光景に、少女が息を飲んで足を止めていた。
「どうするの?」
「さて……」
優は肩をすくめ、インスタント食品の棚を強く押す。
膨大な量の食品に、棚は小さく揺れるだけだ。
けれど。
「っ!」
優が肩からぶつかって、棚は一瞬の後に――轟音を立てて倒れた。
顔を覗かせたゾンビを巻き込み、さらにその先の乾物の棚を巻き込んでいく。
轟音が次々に響き、それはまるで大型のドミノ倒しだ。
倒れる棚に嬉々として優に迫っていたゾンビが、衝撃に巻き込まれていく。
轟音が終われば、そこに立っているのは優と少女だけ。
「道は出来たな」
「……斧使ってない」
呆れたような少女の言葉に、肩をすくめ――優は走りだした。
一階の入口を抜けると、バスが前後に動いていた。
狭いロータリー上で、少し進み――そして後退する。
それは群がるゾンビをひきながら。
「おせぇ!」
ドアの開閉口でただ一人立ちふさがる浜崎が、優を手招く。
群がるゾンビは、狭い扉の前にふさがる浜崎によって、退場させられている。
「あと二時間くらいは大丈夫そうだな」
「――後ろがなければ」
「ああ、急ごう」
背後からの気配を感じ、優は走った。
振り返るゾンビの首を斧で叩き切り、返す刃が頭を貫く。赤茶けた液体が飛び散るのを背にして、さらに加速した。
その刃には一切の容赦と言うものがなかった。
無表情とはいえ、人の姿を模している。いや、正確にそれは数時間前までは人であった存在だ。
それを容赦なく叩きつぶし、道を切り開く。
バスまでの距離はあっという間に縮まった。
「手を伸ばせ!」
浜崎の声に手を伸ばし、転がるようにバスに乗り込んだ。
「出せ!」
言葉と共にバスが勢いよく発車する。
それは群がるゾンビを蹴散らしながら、道路を加速していった。
Ψ Ψ Ψ
さすがのゾンビもバスの速度にはついてこれなかった。
立ちふさがったゾンビはバスの巨体によって弾き飛ばされ、吹き飛んでいく。
運転に慣れていないのか大きく蛇行しながら、看板や標識にぶつかるって衝撃が抜けた。
「いてぇ!」
叫びが周囲からあがる。けれど、運転席に座る日原に謝る余裕はなかった。
瞳を見開きながら、泣きそうに――ただアクセルを踏み続ける。
左右に揺られる中で、落ちつけと浜崎が声をかければ、少しはマシになったようだ。
その様子に苦笑を浮かべながら、優は座席の一つに腰を下ろした。
「お疲れさん。助かった」
「ああ」
浜崎の言葉に、優は右手をあげて答えた。
運転席からゆっくりと優に近づいていく。その長身にとって、バスの天井は低すぎるようだ。
頭をこすりそうになって、小さく屈んでいた。
「まあ、なんだ――それと二つ話を聞いていいか?」
「手短にな?」
「ああ。ちょっと見ない間に、何で戦場から帰って来たような格好しているんだ?」
言葉に優は自分の身体を見下ろした。
すでに着ていたジャージの上着はゾンビによってはぎ取られ、白いシャツへとなっている。それもゾンビの血によって染まり、ところどころが破けている。
酷い格好だった。
まともとは言えないだろう。さらには両腕には血ぬられた斧がある。
モヒカンに肩パットでも装備すれば完璧だろう。
そう考えて、優は苦笑を浮かべ、答えた。
「家庭の事情だ」
「お前の家はどこの世紀末だ」
皮肉気に浜崎は笑い、もう一つと指を立てた。
「その子を紹介してくれ」
「あ?」
振り返れば、背後。座席に深く腰かけた少女がいた。
優が乗るのと同時に、優の背にちゃっかりと飛びついて来ている。
紹介しようとして、名前を知らず、しばらく悩んだ。
考える優が視線を感じれば、周囲の者も全員が優と浜崎に集中していた。
疑問に思っているのだろう。だが、今更知らないとも言えない。
だから。
「ただの背後霊」
「弓奈」
視線が集まった。
小さく呼吸を整えながら少女は真っ直ぐに浜崎を見た。
「阪木弓奈」
「――らしい」
「いや、てめぇ。絶対わかってなかっただろ!」
「うるさいな」
耳に手を突っ込んで迷惑そうにする優に、そこで初めて小さく少女は笑った。
Ψ Ψ Ψ
バスは中型の、市営バスと同等のものだった。
車内の前方と半ばに出入口の扉があり、前方はシルバーシートになって座席の間隔が広くなっていた。
後方のロングシートには、明日香達家族三人と琴子が席を占めており、その前の席には浜崎の部下が疲れたように顔を落としていた。
運転席には小柄ながら日原が座り、最初の時点とは違って落ち着きを取り戻していた。
左右の壁にぶつかることも少なくなり、ゾンビに追われなくなったため速度も落ちている。
ようやく落ち着いたと言う印象だろう。
半ば――シルバーシートに座るのは、優と弓奈と呼ばれた少女だ。
つり革に体重を預けながら立つ浜崎が苦笑を深めながら、問いかけた。
「で。どうする?」
と。
言葉は確認のためのものだ。
先ほどまでのからかいとは違い、真面目な表情だった。
だから優もまた表情をひそめて、少し眉根を寄せた。
「幹線道路――は避けた方がいいな。特に街から外に出る通りは」
と、運転席に聞こえる声で呟いた。
運転する日原自身も、今後の行先には注目しているのだろう。
バックミラー越しに優と視線があった。
「なんで、街から逃げた方がいいんじゃねえか?」
「でかい通りは、もっか渋滞中だ。バスが通れる道なんてないよ」
「う、うん。ここに来るまででも結構、車が止まって通れなかった道があったよ」
優の言葉に援護するように、明日香が口をはさんだ。
まじかと浜崎が天井を仰ぐ。
「じゃ、この街から出れねえじゃねえか」
「というか。街の外は安全だって保証があるのか?」
「……ねえな」
優の言葉に、浜崎はしばらく考えて首を振った。
一つの街がこの状況である。
本来であれば、助けに来るであろう治安部隊は一向に姿を見せない。
そればかりか大人の姿すらない。
明日香の母親を覗けば、二十にも満たない学生がバスを運転している。その異常な状況下で、街の外に出れば当然の生活が待っていると浜崎は安易に考えられなかった。
そして、それは他の者たちもそうであったらしい。
ただ心のどこかでわかっていた事であっても、それが口にされれば浮かべるのは絶望しかない。
ざわめきが大きくなって、後部座席が騒がしくなっていた。
「なら、どうする」
「どうするも何も――とりあえず、俺は降りる」
小さく手を振った優に、浜崎が大きく目を開いた。
言葉の意味が理解できず、一瞬あんぐりと口を開き、
「な、何言ってんだ?」
「いや、降りるよ。どこか山にでもこもって静かにしてる。というか、それが一番安全だと思うけれど」
「やま……山か」
浜崎はその意味を理解して言葉を反芻した。
確かにそれが一番安全かも知れない。
ゾンビが大量にいるだろう街に向かうよりも、山に向かった方が良い。
それで事態が沈静化すればよし、例えゾンビが沈静されなくとも生きる確率は飛躍的に伸びるはずだ。
「確かにな。わかった、日原――山に向かうぞ!」
「わ、わかりました!」
「いやいやいや」
叫んだ浜崎の言葉に、優が慌てたように手を振った。
「山に入るのは俺だけでいい。というか、ついてくんな、邪魔だから」
はっきりと優が断言した。
Ψ Ψ Ψ
優の断言した言葉に、バス内のざわめきが一瞬おさまった。
聞こえる音はバス内に響くエンジン音だけだ。
「な、何言ってんだっ!」
「そんな大声だすな。当然だろう――人が増えれば、ゾンビにあう可能性は高くなる。それは理解できるな?」
「あ、ああ」
「それなら分散して、人のいないところで生活した方がいい。それがおかしいことか?」
問いかけるような言葉に、浜崎は言葉を失った。
それは正論だ。
人が集まれば、ゾンビに出会う確率も必然的に高くなる。
いや、それだけではない。優は言葉にしなかったが、仲間内からゾンビが出現する確率も高くなるのだ。
この異常な病が空気感染によってもたらされた――その恐ろしさを今更ながらに浜崎は気づいた。
安全を求めるならば、一人で――安全な場所にこもる方がいい。
それは理解できた。
だが。
「二見は? それに、その女の子をお前は見捨てるのか?」
理解できるが、それに納得できない。
見捨てるとの言葉に、小さく優は瞳をあげた。
「既に一回、危険は冒している。それ以上を求められてもな」
「ちょっと今宮。あんた明日香を見捨てるつもり――」
はっきりとした見捨てる言葉に、後方の座席で琴子が叫んだ。
けれど、その言葉を止めたのは浜崎の厚い手だ。
殴りつけて、拳の甲がはがれ血がにじみ出している。
その分厚掌に制止されれば、琴子は疑問を持って彼を見上げていた。
「批判する事はない。忘れているかもしれねえが、今宮も俺も高校生だぞ?」
強い言葉に、琴子は小さく目を開いた。
でもと、さらに言葉を続けようとして――肩に手がおかれた。
明日香だ。
小さく首を振っている。
「そうだよ。うん……私は家族を助けてもらった、それだけで十分。だから、次は今宮君に生きてもらいたいと思うよ」
「な、何言ってんのよ。あいつは見捨てるっていってんのよ?」
「いや、見捨てるっていうか――。だって助ける必要ないよね?」
驚いたような明日香の言葉に、琴子は目を見開いた。
そうだと考える自分と、否定したい自分がいる。
守りたいと考える自分と、生きたいと考える自分だ。
自分は守りたいと思う。けれど、死を覚悟してまでと問われると琴子ですら自信がない。
ましてや、命を強制するほどには。
「別に悩まなくてもいいさ。ただ、生き残るには集まるよりも分散した方がいいと。俺はそう思う」
呟かれた言葉に、返す言葉はなかった。
どうすれば生き残れるか。
そんな事考えたこともなかった。
ただ、この異常事態に――人がいれば安心すると。
そう思っていた者が大多数であって、明日香と浜崎――そして、今宮優だけが答えを考えていた。
その考え自体はばらばらだったかもしれないけれど。
否定の言葉が出せず、沈黙が流れた。
「ええと……で、向かうのは山でいいんすか?」
沈黙を破ったのは、運転手の場違いな言葉だ。
Ψ Ψ Ψ
その戸惑いを持った言葉に、誰も否定の言葉を言えなかった。
今宮と対立する浜崎の部下はもちろんのこと、琴子でさえも。
山へと至る道は、ショッピングセンターからは直線距離だ。
ちょうど、円を描いた市が大高市だとすれば、その左右に至る幹線道路が市の外へと至るみたいであり、上下に描いた直線が海と山をへと連なる道であるからだ。
左右の幹線道路とは違い、ゾンビすら出ないスムーズな道のり。
走れば、数十分もすれば山へと付いてしまうだろう。
そんな貴重な時間がわかっていてもなお、言葉を発する事ができない。
だから。
「ふんふんーん」
鼻歌交じりに、荷物を整える少女の姿がより一層浮きだって見えた。
それは遠足に向かう前夜の様子のよう。
おそらくはショッピングセンターで手に入れた者だろう、小さなチョコバーやがらくたを手製のポシェットに詰め込む様子は、まるで準備を楽しむ小学生そのものだ。
当然、言葉に迷っていた生徒たちの視線が一身に集中する事になる。
「ええと。聞いてた?」
戸惑ったような明日香の言葉に、弓奈は顔をあげた。
不思議そうな顔で首を傾げ、
「ん?」
「え、ええとね。いまの琴子との会話」
「見捨てられた」
いや、そうだけれどもと、明日香は内心で呟いた。
悪い言い方をすれば、そうなるのかもしれない。
その言葉にショックを感じないと言えば、嘘になる。
けれど――まるで、他人事だよね。
少女の勘違いを訂正しようと考える、明日香の前で少女が言葉を続ける。
「だから、ついてく」
「いや、だから。ついてっいっちゃ駄目なんだよ?」
「なんで?」
問われたのは疑問の言葉であって、明日香は答える言葉を失った。
何故と問われれば、返す言葉もない。
優が一人が良いと言っていたから。
けれど、それは優の考えであって――少女を止める言葉ではなかった。
ただ、ついていくと断言する。
その言葉に、優は頭痛を感じたように眉をひそめていた。
何でこうなるんだと――言わなくても、顔に言葉がかいている。
不思議そうな少女と、頭を抱える二人の頭上から笑い声が響いた。
浜崎だ。
楽しそうに、笑いながら浜崎は言葉を続けた。
「負けだろう。今宮」
「何が負けかわからないが――」
歯がみをする言葉に、浜崎は笑いを深くした。
「そのお嬢ちゃんの言う通りだ。お前が山にこもるというのはかってだ。けれどな、俺達がそれについていくっていうのも、そりゃかってなことだ」
「酷い言い草だな」
苦い顔をした優であるが、浜崎の言葉を止める事ができないでいた。
ついてくるという意志では、いかに優が辞めろと言ったところで止める事は出来ない。
説得しようとした優の前で、浜崎は笑みを消した。
「俺たちはよ」
と、周囲に聞こえる言葉で呟く。
「喧嘩のやり方は知っている。そこらの奴には負けねぇ自信もある。けどな?」
問うた言葉は真っ直ぐな視線で、だからこそ不愉快そうな視線を持って優はそれを見た。
「今は喧嘩とかそういう次元の問題じゃねえ。だからこそ、俺達はお前に頼りたいと思う」
「他人任せも甚だしいな」
「だろうよ。お前からすれば迷惑この上ないだろう。自分だけの責任が、俺達の責任まで押し付けようとしているんだからな。でも。俺にはできねえんだ」
はっきりとした言葉だった。
「守ってやりてえと思っても、俺には誰も助けられねえ。助ける方法すら思い浮かばない。俺じゃあ駄目なんだ、俺じゃ助けられない。そう思う」
「買いかぶり過ぎだな。俺が助けられるわけがない」
「かもしれない。けど、何か考えがあるんだろう? 俺はそれで裏切られたとしても文句はいわねぇ。元々自分の責任を他人に押し付けたわけだからな――だから」
だからと、浜崎は小さく言葉を切った。
視線が集中する。
「だから、助けてくれないか」
バスに残る数十人の視線を一身に受けて、優は戸惑いの表情を浮かべた。
黙っている。
すでに弓奈は優の答えとは関係なく、ついていく準備をしていた。
信じているよと、明日香が小さく頷いていた。
誰もが優の言葉を待っていた。
「……別に助けるつもりはないが」
視線に押されるように、優が小さく息を吐いた。
「化けの皮が剥がれるまでは、付き合ってやる」