手斧
体力的な問題だろう、少女は腰をおろすと荒い息を繰り返した。
座りこそしないものの、優も息を切らせている。
見下ろす。
年のころは小学六年生頃だろう。
黒色の長い髪と同色のワンピースを身につけた少女だ。
その服装や顔立ちからは育ちの良さを窺う事ができた。
あと少し歳をとれば、深窓の令嬢と呼んでも差し支えないだろう。
いまは子供っぽさが、それを邪魔しているが。
見上げる表情は何か言いたそうであったが、荒れる息が言葉を邪魔している。
やがて諦めたのか、言葉よりも呼吸を整える事を優先した。
それは優にとっても幸いであったが。
がんと強い音が鳴っている。
それはガラスを叩きつける音だ。
例え視界から消えたとはいえ、存在自体は感じられるらしい。
いかに分厚い強化ガラスとはいえ、そう何分も持つことはできない。
何より、バスに向かった明日香達を待たせるわけにもいかなかった。
荒れる息を抑えて口を拭い、優は足を動かす。
「――に、に」
それを止めるかのように、少女の声が聞こえる。
振り返れば、深い息の中で必死に言葉を口にしている。
じと目で。
「逃げようとした」
それは先ほどの優の行動だろう。
少女を置いて、手すりから飛ぼうとした――非難するような言葉に、優は苦笑した。
まさかこの段階で、そう言われるとは思わなかったから。
「そりゃ。前からゾンビが走ってきたら逃げるだろう?」
「おいていこうとした」
肩をすくめた優に向けて、鋭い言葉がかかる。
ゾンビの時の全力疾走といい、見かけによらず根性が座っているらしい。
笑みを深めながら、優は小さく手を広げた。
「別に君が飛ぶことを俺は止めはしないさ。それにこんな状況だ。人の事を助けている余裕もない」
「うそ」
呟かれた言葉に、優は目を丸くした。
「上から見てた。女の子助けようとしてたくせに」
「そりゃ……」
髪をかき、優は苦笑する。
良く見ていたなと。
「彼女には助けると言ったからね」
「じゃあ。私も助けて」
「残念ながら、俺の手は二つしかない」
Ψ Ψ Ψ
ガラス戸を叩く音が、室内に響いていた。
静けさの残る白いタイル張りの道を、歩き出す。
足音は二つ。
運動靴と小さな飾りのついた靴だ。
優が歩けば、少女の足音もそれに続いた。
優が止まれば、足音も止まった。
「別に付いてこなくてもいいんだぞ?」
「その方が安全」
「俺は危険なんだが」
困ったように優は呟くが、少女はがんとして譲らなかった。
ただ真っ直ぐに優を見ている。
「どこ行くの?」
問われ、優は諦め気味に呟いた。
歩き始めた方向は、扉とは違うホームセンターの中ほどだ。
菓子売り場を通り過ぎて、日用雑貨を抜ければ、そこに目的の場所はあった。
「逃げるにしても、武器が必要だろう?」
そう言って立ち止まったのは、大工道具のコーナーだ。
色とりどりの工具が壁に並んでいる。
その光景に、少女は驚いたように見上げて、周囲を見渡した。
「凄い」
と、小さく呟く。
確かに、このホームセンターは無駄に品ぞろえが豊富だ。
スコップの種類だけでも、丸型のものや角型のもの――材質が違うものまで揃っていた。
本来の用途とは完全に違うが、今の状況にとっては渡りに船だろう。
壁にかかる工具を見ながら、優はゆっくりと売り場を歩き出した。
最初に見たのはスコップだ。
第二次世界大戦において、接近戦で最も人を殺したのは銃剣でも拳銃でもなく、スコップだったと言う話は有名である。
手にして、優は小さく首を振った。
相手が一人であったのならば、心強い武器なのだろうが――多人数を相手に向いている武器ではない。
打撃力はあるが、同時に機動力に欠けていた。
それを棚に戻しながら、歩き出し――引きずる音が聞こえた。
眉をひそめる。まだ残っていたのかと、レンチを手にして振り返り、優は目を丸くした。
少女だ。
少女が必死の表情で、手にした武器を持って歩いていた。
あまりに重すぎて、それが地面にこすれ、動くたびに引きずるような音を立てていた。
「最近はホラー映画が流行りなのか?」
「?」
優の疑問に――そのチェーンソーを引きずった少女は、不思議そうに首を傾げた。
首をかしげる様子に、何でもないと首を振る。
「そりゃあ確かに強力だろうが、それを持てるのか?」
「だいじょ……う、ぶ」
力を込めて持ち上げようとした、けれどチェーンソーは途中まであがると再び地面に叩きつけられた。
動かしていない状況でこれだ。
エンジンがかかって、刃が動く遠心力がかかれば耐えられるものではないだろう。
むしろ味方を切りかねない。
「なんだ、そういうのは大人になってから持つと良いと思うよ」
まるで携帯電話を断る親の台詞だなと苦笑しながら、優は元の棚を指さした。
言葉に、むっと眉をしかめ少女が尋ねる。
「何がいいの?」
「そうだな……」
考え、優の視線が工具の棚に止まる。
斧だ。
長さ三十センチほどの短い手斧が、かけられている。
「こういう方がいいだろう。頑丈だろうし、何より小回りも利く」
それを二つ、両手にして回した。
「うん。重さもちょうどいいしな」
「そう。じゃあ……」
小さく頷いて、少女は背後を振り向いた。
「試し切りしてみたら?」
そこに――過去に客であったのだろう――買い物カートを押す、無表情の男がいた。
ガラガラガラ。
カートを押しながら、無表情の男が真っ直ぐに走る。
静かな室内だ、その音は反響してやけに大きく響いた。
「何だったらゆず――」
声をかけた優の視線の先、少女は既に優の背後に陣取って動こうとはしていない。
持っていたチェーンソーも横に投げ捨て、下手をすれば優を置いて逃げるつもりだろうと――かわさない言葉の中で、優は確信した。
まあ、それでもいいがと、同じような事を考えていたため非難する事も出来ず。
ただ近づいたカートに向けて、蹴りを繰り出した。
男の勢いと繰り出した蹴りが激突――しばしの停滞と同時に吹き飛んだのは男の方だ。
カートを手放した男に向けて、優が斧を振り上げる。
「どうしたの?」
と、止まった優に尋ねたのは少女だ。
優が斧を振り上げたまま、正面を見て固まっている。
すでに男は地面に叩きつけられた衝撃から回復し、立ち上がろうとしている。
危ないと言おうとした、その前で優が踵を返して走り出した。
少女の隣を駆け抜ける。
そこに優の影で見えなかった状況がはっきりと、少女の目に映った。
「またおいていこうとした」
小さく呟いて、走り出す。
そこに――すでにガラス戸を破ったゾンビの群れが、姿を現していた。