逃走
「全員、下がって耳をふさげぇっ!」
ライターが投げられた瞬間、浜崎の怒声が響いた。
直後、ゾンビの中央から衝撃と爆音が響く。
バイク一台の爆発である。
それほど大きなものではなかったとはいえ、何の準備をしていなかったゾンビの中央で炎と破片噴き上がり、その衝撃がゾンビを崩す。
いち早く復帰した優が、まず後方にいた陽菜の腕に抱かれる和馬へと近づいた。
「逃げるぞ、その子は俺が連れていくからついてこい」
「え、うん。お母さん、和馬を渡して。今宮君なら大丈夫だから」
「あらあら。ずいぶん信頼しているのね」
「ちょ、そんな事いってる場合じゃないでしょ!」
「まったくだ」
呟きながら、いまだ怖がる子供に今宮は目線を合わせた。
「大丈夫だ。後ろで寝てくれればいい」
微笑し、抱き上げて背中に背負う。
一瞬母親から引きはがされる事に、躊躇を示したが、母と姉が大丈夫と断言したため、和馬は優の背にしがみついた。
すでにゾンビは先の衝撃から回復しつつあった。
元よりバイクが爆発した程度のダメージでは、痛打にもならない。
破片を身体に食い込ませ、あるいは顔面を燃やしながらもゆっくりと立ち上がり始めていた。
「全員バス停に急げ、先頭は俺が行く」
優が叫び、駆けだした先には立ち上がりかけたゾンビがいる。
それに向けて膝を叩きつけてもう一度倒すと、近づいたゾンビ達を次々と蹴りで弾き飛ばした。
一瞬の空間が生まれる。
その間隙をぬって、優は走った。
Ψ Ψ Ψ
向かった先は店舗が続くショッピングセンターだ。
倉庫街からバス停まで一直線に続く道がある。
逆に、中央に立つショッピングセンターを回避すれば相当な遠回りになりかねない。
むろん、その分人の数は多いだろうが、体力的な問題から優はこちらを選択した。
施設を仕切っていた仕切りのガラス壁は、すでに割られていた。
すでに扉としての用をなさなくなった仕切りをまたぎ、優はショッピングセンターを駆け抜けた。
春休みのこの時期、普段のメインストリートは、多くの買い物客で溢れんばかりに賑わいを見せている。
ブティックは春物の服を並べ、紳士服店ではセールが始まっていた。
カバンや宝石のブランド店も、子供向けのおもちゃ屋も。
頭上には二階の店舗内を覗く廊下があって、前方に位置したエスカレータからあがることができた。
どこにも人の気配はないが。
ただ小さく流れるのは店内のポップなBGMだけだ。
シャッターが閉まっていないだけで、いまにも営業できそうな空間はまるで異次元に迷い込んでしまったように感じる。
響くのはタイル張りの床を駆け抜ける音と荒い呼吸音。
誰もが無言のままに、足を進めていた。
遅れて、ガラス戸を突き破る音が聞こえる。
見なくてもわかる、それはゾンビ達の足音であって、彼らを追いかけているのだと。
「急げ!」
浜崎の声が、後方から追いたてる。
けれど誰もが限界に近い速度で足を動かしている。
手を抜けば死ぬ。それがわかっているからこその疾走だ。
振り返れば、やはり遅れているのは明日香と陽菜だ。
その背後から心配げにせかす、浜崎と琴子の姿があった。
間に合わない。
遅々として遅いこちらとは違って、ゾンビ達は疲れを知らない。
優や男はともかくとして、一般人の女性である彼女らは出口まで間に合わない。
と。
「お、おい。二見!」
明日香がこけた。
「……ここでお約束か。おい、名前は?」
優は嘆息。
唐突に声をかけられた、隣の男は戸惑いながらも滝口と名乗った。
浜崎には見劣りするものの、高い身長をした男だ。
どこかで見たことがあると思えば、先ほど女ゾンビに肩を掴まれていた男だった。
「ちょっと頼む」
背後に背負った和馬を預け、踵を返す。
「な、なあ!」
その背に、声がかかった。
背伸びをしたような、怖さを抑えるような言葉だ。
振り返れば、滝口に背負われた和馬が顔をあげて優を見ていた。
「ね、姉ちゃんを助けてよ。そしたら、姉ちゃんをあげるからさ!」
その言葉に優の眉間にしわが寄った。
「いらねえ。けど、任せろ」
呟きを残して、優は加速する。
Ψ Ψ Ψ
明日香を助け起こそうとした浜崎の隣を、風が抜けた。
それは優と言う名の暴風だ。
店舗の看板を手にし、一撃。
迫ってきていたゾンビの群れに、痛撃を加えながら突っ込んだ。
「連れてさっさと逃げろ」
「今宮君っ!」
悲鳴のような声を残して、明日香が浜崎に抱え上げられた。
一瞬、浜崎と視線が交錯する。
強く頷いた後、浜崎は明日香を抱えたままに走り出した。
声が遠くなる。
だが、その声を振り返る余裕はなかった。
伸ばされる手を掻い潜りながら、優は明日香達とは逆――前方に走る。
どうやらと、伸ばされる手をかわしながら優は小さく呟いた。
このゾンビが視覚や聴覚を頼りにしているかはわからなかったが、どうやら思考という点においては大きく欠けているらしい。
後方から追いかけていたゾンビは、いまではもっとも近い優を標的にしていた。
誰も浜崎達を追おうとはしない。
それは良くも悪くも――。
「数が多い」
いかに優の反応速度が優れていようとも、伸びる手全てを掻い潜るのは不可能だ。
払い、あるいは押しのけながらも、ジャージの肩が掴まれる。
「くそ」
舌打ちを一つしながら、ジャージを脱ぎ捨てる。
突如軽くなったジャージに、態勢を崩すゾンビに、白いTシャツ姿となった優が蹴りを打ち込む。
倒れかけていたゾンビは、他を巻き込んで転んだ。
多いと。
すでに浜崎達は遠くに行っており、もはや優がここにいる必要性はなくなっていた。
逃げようとも思うが、その間にはゾンビの壁が出来ている。
視界を振る。
左右は女性向けの洋服屋とCDショップだ。
後方――倉庫街へと抜け出る道が一直線に存在していたが、戻ったところで先はないだろう。
優の視界には二階へ続くエスカレータが入った。
見上げる。
二階の店舗へと続く廊下が、伸びていた。
思案している時間もない。
優はエスカレータへ向けて走り出していった。
Ψ Ψ Ψ
二階もまた誰もいない空間だった。
襲われた多くは逃げたのか――あるいは。
後方から続く、無表情の人の群れを見て優は顔をしかめた。
どちらにしようと、逃げる事には変わりがなかったが。
走り出せば、真っ直ぐにバス停方向に足を進める事ができた。
その先にエスカレータはない。
「また落ちるのか」
嫌そうな顔をして、優は息を吐く。
それしか方法がないとはいえ、現代人であれば二階から降りるには階段を使いたいものだ。
それが一日に二度も、自由落下を経験することになるとは想像もしていなかった。
もっとも、それしか方法はないが。
すでに先頭のゾンビは二階へとあがっている。
息が切れる。
その視線の先。
「おい」
優の表情が引きつった。
角を曲がり走っているのは、ゾンビに追われる少女だ。
まだ小学生くらいで――悲鳴すらもあげず、ただ真剣に走っている。
それはともすれば、運動会のようにも思えた。
後ろに続くのが無表情なゾンビ達ではなければだが。
ともあれ。
「なんでこっちに逃げる」
既に後方はゾンビが続いている。
一方、あちらもこちらに気づいたのだろう。
一瞬眉根をあげる。
互いが互いに、お前邪魔だという視線を向けながら。
迷いは一瞬。
少し早いが右側へ飛ぼうと、手すりを掴んだ――その裾を小さな手に掴まれた。
「こっち!」
呟き連れて行こうとするのは、先の走った少女だ。
視線の先には、廊下がある。
店舗街から左――大規模なホームセンターへと続く渡り廊下だ。
少女はそちらに向けて走ろうとしているらしく、掴んだ裾を離さない。
ここから飛んで、バス停に向かった方が早いのだけれど。
そう思わないでもなかったが、すでにゾンビに前後を囲まれて迷う時間もない。
「ああっ!」
優は頭をかき、少女を抱き上げるとホームセンターへの道を走りだした。
ホームセンターのガラス戸は幸いなことに破られていなかった。
それは厚手のガラスである事と、逃げる時の騒動のためか片側の扉が開きっぱなしであったことも幸いしたのだろう。
叩きつけるようにそれを閉め、扉の取っ手に看板を差しこんだ。
『今月は31日が休みです』
そう書かれた看板は簡易の閂となって、ゾンビの行く手を阻んだ。
そうしておきながら、ホームセンターの中を走り。
菓子売り場。
その場所で――同時に二人は息を吐いた。