プロローグ
PM 9:17
「誰がよぇーってぇ?」
公園に喧騒が響いている。
乱雑な叫びと高鳴るエンジン音が夜の静寂を打ち破る。
喧嘩だ。
特攻服に身を包んだ色とりどりの男たちが、戦いに明け暮れる。
午前一時を回ったころに始まったこの幼稚な戦いは、既に一方的なものになっていた。
倒れ伏す者達を殴りつける男たちは、しかし――その状況とは裏腹にどこか焦りが見える。
苛立ちを、睨みと乱雑な言葉によってかき消す様子は隠し事をしている子供のようだった。
「もういっぺん言ってみろよ。おい、誰がたった一人に負けて、何も出来ない雑魚だって?」
「悪かった、もう勘弁してくれ」
「勘弁? 最初に喧嘩売ってきたのはてめーだろうがよ。いまさら何寝ぼけた――」
「やめろ」
太い声が、言葉を遮った。
それは決して大きな声ではなかったが、一方的に蹂躙していた者たちを止めるには十分すぎる声量だったようで、その場にいた全員が声の方を振り返る。
この喧騒の中で、唯一素知らぬふりでベンチに座っている男がいた。
座っていても、その大きさは目を見張るものがある。
広い肩幅と胸板が、闇の中でも男の大きさを主張させていた。
「浜崎さん。けど――」
「井上。俺はやめろと言ったが、聞こえなかったか?」
浜崎の呼ばれた男が静かに声を出せば、その言葉に反論する者はいない。
暴れ足りないとばかりに、倒れ伏す男たちを睨みながら一人また一人と、男たちから離れていった。
「そいつらも、もう十分わかったろう。なぁ?」
男の手の中で、硬質な金属音が鳴り響いた。
音源は折り畳まれる、コーヒーの缶だ。
掌にくるまれるように潰されるスチール缶を見ながら、倒れ伏す男たちは表情を青くさせた。
彼はこの喧騒に、一度として加わる事はなかった。
だが、それは決して彼が弱いからではなく。
「第一だ。負けたのは事実だろうよ、今更をそれを否定ところで結果が変わるわけでもねぇ」
「は、浜崎さんっ!」
「最後まで聞けよ、井上。だが、それがどうした。それで、何か変わったか?」
ん――と、言葉を吐きながら浜崎はゆっくりと立ち上がった。
街灯に照らされ、巨大な影が差す。
緩やかに落とされた、潰されたスチール缶が地面に叩きつけられて小さな音を立てた。
「文句があるなら叩き潰せばいい。ただそれだけだろう? 俺たちは何も変わらねぇ。それに」
と、言葉を紡いだ耳に、サイレンの音が響いた。
それは次第に大きくなり、浜崎は止めてあったバイクにまたがる。
「時間切れだ。帰るぞ」
高鳴る音を響かせながら、慌てて続く男たちを引き連れ走り出した。
その音は高く――高く――。
PM 9:23
サイレンの音が大きくなり、対象的にバイクの轟音が遠ざかる。
その音は近づくパトカーを挑発するようにも、あるいは街に自らの存在を誇示するようにも聞こえた。
もっとも。周囲の人間からすれば、不快でしかない。
須藤康平は、手にしたシャープペンを置くと――開いていた窓を閉めた。
夏の風と共に騒音も閉じられ、そこで小さく息を吐いた。
視線はノート。細かく几帳面に書き連ねた英単語だ。
有名国立大学の過去問集が開かれ、整頓された室内にはそれ以外の娯楽品は一切ない。
デジタル式の時計を見れば、時刻は一時を回っていた。
少し集中し過ぎたかと、ノートと問題集を閉じていく。
Prrrrr……。
その耳に機械的な音が響いた。
携帯電話だ。
黒一色のシンプルな塗装のそれが、小刻みに震えながら着信音を響かせている。
席の問題集を丁寧に本棚におさめながら、須藤は慌てずに通話ボタンを押した。
「須藤だ。ああ、その件か……」
冷静に話される声は、眼鏡の奥に見せる瞳同様に何ら感情を表に出さない。
むしろ、聞こえる声の方がどこか焦りを持ちながら、静かな室内に響いていた。
「その件については学校側にも話は通している。いまさら停学自体は取り消せないが、ほんの一週間だけだし、進級にも問題はないよう配慮するとのことだ。ああ、何――気にするな。今回の件については、彼が全面的に悪いとは僕も思えない。やりすぎである事は確かなのだけれど。ああ、それじゃ明日学校で」
呟きを終えると、須藤は切断のボタンに指を伸ばす。
眼鏡の下からゆっくりと指で、瞳を眉間を押さえ――上げる視線は、唯一室内に飾られた写真だ。
大高東高等学校 第22代生徒会
そう書かれた文字と共に須藤を中心とした数名の写真が並んでいる。
表情がないと。
写真を現像した時に言われた感想を思い出し、小さく苦笑。
布団の上に携帯を投げると、静かに室内の扉を開けた。
PM 9:30
「うん、わかった。明日もよろしくお願いし……」
途切れた通話音に、二見明日香は小さく苦笑した。
相変わらずだなぁと――小さく呟きながら笑いを深め、明日香は腰をおろしていたベッドに沈みこんだ。
ピンクを基調とした可愛らしい部屋作りだ。
水玉をあしらった清潔なシーツに、同色の布団カバー。
ベッドの上には、キャラクターのついた目覚まし時計と同じキャラクターのぬいぐるみが鎮座している。
もっとも女性の部屋としては異色な事に、ホラー系のキャラクターであって、控えめに見ても可愛いとはいえなかったが。
風呂上がりだったのだろう。
水気の残る髪を、バスタオルで拭きながら明日香は携帯電話を覗き見た。
バックライトが切れた携帯電話に映るのは、幼い顔立ちをした少女だ。
垂れ下がる大きな目と、逆に緩やかにあがる唇。
整えられた髪の毛先は、子供っぽいと友人の友香にからかわれた事を思い出し、拗ねたように唇を尖らせた。
「大丈夫かな」
疑問を含んだ声は、先ほどの電話の一件だ。
自分を守るために、停学になってしまったクラスメート。
それが原因で留年ともなれば、きっと心は罪悪感で押しつぶされてしまっただろう。
完璧には救う事が出来なかったのが心残りではあるが、それでも生徒会長である須藤康平も全面的に協力してくれると言ってくれている。
教師からも信頼の厚い彼の事だ、決して悪い事にはならないだろう。
「良かったんだよね」
と、明日香はパジャマの上から胸を押さえ、もう一度呟いた。
彼女の問いに答える言葉はない。
ただ自らのために、一人の同級生の人生を変えてしまった。
その青年を顔を思い返せば、心臓が馬鹿みたいに波打った。
痛いと思う。
けれど、おかしなことに決して嫌な痛さではなかった。
「何してるかな……」
ふと呟いた言葉と共に、窓から差し込む月を見た。
満月だ。
きっと同じように、彼もまた。
そう考えた刹那、バイクの音が鳴り響いた。
「わ、わっと!」
驚いたようにカーテンを閉め、いまだ高鳴る胸を押さえながら、明日香は布団の中にもぐり込んだ。
きっと彼もこの月を見ているのだろうか。
「おやすみ……今宮くん」
PM 9:47
月明かりが照らす公道を、二人乗りのバイクが走っていた。
その顔には真新しい傷と痣があり、苛立ちがありありと見えた。
「ぜってぇ、ゆるさねぇ」
吐き捨てるように呟いた声は、後方にまたがる少年のものだ。
奥歯を噛み締めながら叫び、殴られた頬を撫でる。
だから、少年がそれを発見した時に、少年は深く考えずに苛立ちの解消にちょうどいい獲物がいたと思った。
「おい」
「あ?」
呟けば、先頭で運転していた少年は疑問の声を出した。
あれだよと――少年が指し示すその先に、男がいた。
歩道脇を歩きながら、実に不用心な事に黒いトートバックを肩に下げる男だ。
おまけに、そのトートバックは道路側に持っており、少年からすれば盗んでくださいと言っているようなものだった。
このまますごすごと家に帰るのは面白くない。
その考えは、先頭の少年にも伝わったようだった。
「しくじんなよ?」
「誰に言ってんだよ」
返答はなく、先頭の男がアクセルを強く握りしめる。
二人の乗ったバイクは、エンジン音を更に高くしながら公道を疾走した。
男は気づいていない。
夜のこの時間に目撃者はいない。
楽勝だと。
後方の少年が、身体を横にずらしながら手を伸ばした。
掴んだ。
トートバックの端を握りしめ、焦る男の顔を見ようとすれ違い様に、少年は振り返る。
その酷くゆっくりとした光景の中で、男が確かに少年の顔を見たのがわかった。
乱雑に毛先を切った少年。
年のころは、バイクにまたがる少年たちと同じ――高校生くらいだろう。
この咄嗟の出来ごとに、少年の表情に浮かぶのは焦りでも、驚きでもない。
ただ、単に面倒くさいなという――どこか諦めにも似た感情だ。
しかし、その手は表情とは裏腹にトートバックの取っ手を掴んでおり、一瞬の後に――ひったくりの少年は空を飛んだ。
彼自身、宙を舞い、道路に叩きつけられてもなお、その現実を理解する事は出来ないでいた。
戸惑いと痛みに顔をしかめ、道路を転がる。
結果的には二人の手がトートバックの取っ手を掴み、力のある方に引き寄せられただけの事なのだが。普通バイクの加速と競争すれば負けるのは歩く人のはずであり、最悪引きずられて大怪我を負う事になったのは、歩く少年のはずである。
バックが取られると同時に、取っ手を掴みなおして投げるなどという動きを、少年に想像ができるわけがなかった。
「あがが……」
車道上で背中を押さえながら、痛みと理不尽にもだえる少年の前で、バイクが急ブレーキをかけながら停車する。
「て、てめ」
その少年も咄嗟の事態に、それだけしか口に出来ない。
ただ。
目の前の少年だけが、何事もなかったかの様にトートバックの取っ手をしげしげと見ていた。
「安売りで買ったけど、意外と丈夫だな」
どこか嬉しげな口調が、馬鹿にされているようで少年を苛立たせた。
怒りが、この不可思議な現象を記憶の隅に追いやり、バイクを止めた少年が近づく。
月明かりのもとで、次第にはっきりする少年の顔立ち。
それに。
「い、今宮……!」
少年は怒りの言葉ではなく、驚きと絶望の言葉を持って、彼の名前を呼んだ。
PM 10:03
呆然とした言葉に、今宮優はトートバックから視線を外した。
何で、こいつは俺の名前を知っているんだろう。
疑問を浮かべるが、目の前の少年はひっと短い声をあげて後ろに下がるだけで、答えてはくれなかった。
もちろん、優自身に泥棒の知り合いもいなければ、怯えられる記憶もない。
うっすらとした月明かりの下で、怯える少年にも――そして、道路に叩きつけられて、いまだに転がる少年にも見覚えはなかった。
少なくとも同じ学校に通う生徒ではない。
「や、やべぇ。逃げるぞ――ほらっ!」
少年がいまだ転がる男を慌てて立たせていた。
その慌てぶりは、まるで化け物にでも出会ったかの如く。
立たされた少年もまた気づいたのであろう。今宮の顔を見ると悲鳴に近い言葉をあげながら這いずってバイクへと戻った。
「ちょっと、失礼だろう?」
さすがにひったくりされそうになった上に、この仕打ちはあんまりじゃないかと思う。
けれど、言葉をかわそうと一歩足を踏み出せば、二人はバイクすら置いて、脱兎のごとく走り出していた。
「何なんだよ、おい」
ただただ、残された今宮は怒りを誰にもぶつける事も出来ず、ゆるく息を吐いた。
それは彼らにとって、日常の一ページ。
けれど、それが日常の最後であったと。
この時、誰も知る者はいなかった。