残業時の怪異
「・・・お疲れ様です・・・」
いつも残業しているメンバーの1人が退勤した。
今日も私がラスト1。
時刻は22:00過ぎ。
終電は23:30。
ここから追い込まないといけないがスピードが上がらない。
今月もやっと下旬に差し掛かった。
自分で計測している残業時間は80時間を超えている。
今月も過去最高を更新するだろう。
表計算ソフトのエクセルで毎日つけている。
これほどの残業時間分を勤怠システムに入力することができたなら給料はものすごく増えてやる気もでるだろう。
実際はすべてサービス残業なので基本給しか給料は振り込まれない。
この表計算のシートも個人的につけているだけで会社に請求してやろうとかいう気持ちももう残っていない。
なぜこれをつけているのか、その理由は自分でもわからない。
最初は何か考えていたのだろう、人事部に送りつけてやろうとか退職するときに裁判してやろうとか大きなことを考えていたのだと思う。
いつからかそういう時間の無駄なことを考えることを止め仕事に集中しなければとならないと思うようになった。
そうしないと振られた仕事がとても終わらなかった。
今せっせとキーボードを打ち込んでいるのは定時間際に隣に座っている先輩社員から言われた資料だ。
「明日の朝一でこの資料のレビューを行う。それまでに仕上げておけ。必要なことはメールしておいた。」
その後先輩は定時を知らせるチャイムとともに退勤した。
メールを見ても資料が格納されたファイルのURLが貼ってあるだけのシンプルなメール。
そのURLをクリックして資料を見てみると先輩が雑に命名した雑多なファイルが放りこまれているだけだった。
どれが最新のファイルなのかすらわからない。
資料の名前にもセンスがない。
資料作成用データ1_20260601.docs
資料作成用データ1_20260601_最新版.docs
資料作成用データ1_20260605.docs
資料作成用データ備忘録_20260605_最新版.xlsx
めも_内容要精査_20260525.txt
メモ_オリジナル_old.txt
ざっと見てもどれが最新なのか、似た名前が多すぎる。
資料をすべて開けて内容を確認する。日付が古いからと言って情報まで古いということは決してない。
こういう命名をする人は各資料に使える部分を少しずつ残しており、それをつなぎ合わせないと最新のデータにならないということがある。
まずは最新の情報を一つの資料にまとめることからは始める。
その資料を元にレビュー確認用の完成資料を作成する。
何回もこのようなことをしているせいかすっかりこの手の作業に慣れてしまった。
こんな作業をしていたらすでに22:00になっていた。
9:00の業務開始から17:00までいくつもの会議に参加していた。
17:00に自席に戻って先輩からの資料作成の指示を受ける。
その資料を作成する前に自分が参加した会議で議事録の作成など本日中に自分が行わないといけない業務を片付ける。
それから先輩の資料作成。
いつもの、私の仕事のルーティンワークだ。
気が付いたら23:00になっていた。
資料も大体できてきている。
終電は逃すだろうが24:00過ぎには退勤できそうだ。
引き続き資料作成に取り掛かる。
・・・現れた。
いつのころだろうかこんな症状が現れ始めた。
まずは視界の端をうろうろする黒い虫。
虫といってもゴマ程度の大きさの虫が視界の端に何匹も現れる。
たとえるなら顕微鏡で覗いた時に円の端をうろついているような感じ。
端をうろうろするだけで中央に来ることはないので資料作成の邪魔にならない。
黒い虫も気にせず資料を作成すると次が現れた。
光る虫だ。
こいつも視界の端をうろうろする。
大きさはさっきの虫と同じくらい。白く光るものもいれば赤や黄色に光るときもある。
黒の虫と怪しく光る虫が視界を覆う。
どちらも視界の端をうろうろするだけ中央には来ないので気にせず資料作成を続ける。
それほど時間をおかずに次の症状が現れる。
文字が回転し始めた。
パソコンの画面に入力された文字たち。
完成間近なので画面いっぱいに文字が表示されている。
その文字たちが漢字もひらがなもカタカナも英字も数字も関係なくくるくると回り始める。
一文字ずつが風車のおもちゃが回るように回る。
何て器用なのだろう。
右回りもいれば左回りもいる。
どの文字もその場から踊り出すことはないが回っている。
新しく入力する文字も漏れなく回っている。
こんな状況だと文字を読むことができないと思うだろう、しかしきちんと読めている。
むしろ読むのにはまったく邪魔にならない。
くるくると回っている文字たちを眺めながら資料作成を続ける。
残業はさっさと終わらしたい。タクシーを使ってもいいから帰りたい。
そして次が現れた。
私はそいつのことを黒い人だと言っている。
見たことはない。
見ようとして探したこともあるが姿は見えない。
それでも彼はいる。
私の後ろに立っている。
背中に張り付くように立っているので振り返ると彼を見ることはできない。
彼は私が椅子に座っているのをいいことに上から覗き込んでいる。
私が資料作成に集中していることをいいことにただその姿を眺めているのだ。
彼が私の左側から覗き込もうと体をぐにゃりと曲げて私の顔の左側から顔をぬーっと出してくる。
私は席を立った。
怖い。席を立ったので彼は覗き込むのを止めて再び後ろに立っているだけになっている。
後ろを振り向く。
誰もいない。
黒い人も俺の背中にいるから見ることができないのだ。
何日も何度もこの行動をしている。
オフィスは私の席だけ明りが付いている。
他はまっくらだ。
オフィスの端の方は暗くて見えない。それを怖いとは感じないのに。
黒い人だけは怖いと感じる。
休憩を取らなければ、机に置いてあるペットボトルから水を飲む。
今日出社してから初めての水分補給だ。
朝出社するとまず上司が私のカバンを漁る。ペットボトルを回収する為だ。
カバンを漁られるのは気持ち悪いので今では自分から上司にペットボトルを預ける。
上司曰く。
「水分補給なんてしていたらトイレに行きたくなるだろう。
業務時間が減ってしまうからね。これは業務効率化だよ。」
反論したこともあったがなぜか私が謝罪することになった。理由は覚えていない。
会議と会議の合間に廊下の自販機で飲み物を買ったことがある。
誰も利用していないような場所の誰もいないことを確認してから自販機で購入しその場で飲んで捨てた。
その日の夕方に上司から「勝手に休憩してんじゃねーよ。お前自販機でジュース飲んでただろうが。さぼってんじゃねーよ。」と事務所でみんなの前で叱責を受けた。
「忙しいとか言っておいてジュース飲む時間あるじゃねーか。本当に忙しいなら昼飯も食う暇もないはずだ。さぼりやろう。」
そして私が謝罪することになる。
それ以来会社に誰かいるときは一切の飲食をしないことになった。
いつから昼飯を食べていないだろうか。もう忘れた。
今の食事は家を出る前に飲むオレンジジュース1杯と帰宅後に24時間営業のスーパーで買う半額のかつ丼弁当だ。
あっためて食べればいいのだがそれすらも疲れてそのカツどんを食べてシャワーを浴びて歯を磨いて寝る。
帰宅してから寝るまでは40分くらいだろうか。
半年くらいはこんな生活だなと思い出す。
何もせずにただ立っていただけだが休憩になったのだろう、視界をうろつく虫たちがいなくなった。
黒い人も今はいない。
時計を見る、長く考えていたと思ったが5分経過しているだけだった。
資料作成に取り掛かろうと再び椅子に座り画面を見る。
コンコン。
後ろから音がした。
これは初めてだ。
いつも疲れてくると黒い虫、光る虫、回る文字、黒い人と症状が出る。
音というのは初めてのことだ。
コンコン。
また音がした。
音の方を見る。
事務所の端にある柱からしているようだ。
バブル期に建てられた建物、すでに老朽化している。
その柱も事務所の端に大きく場所を取っている。
それがこの事務所には2本もある。
そのうちの1本からこんこんと柱の内側から音がしている。
歩いて近づいてみる。
ふらふらしてうまく歩くことができない。
途中誰かの机を支えにしたりして柱まで近づく。
コンコンコン
まるで内側から叩いているような音がする。
柱に耳を当ててみる。
何も聞こえない。排水管でも通っているのかと思ったがそういう音もしない。
柱の裏に回ってみるが何かがいるわけでもない。
電気をつけようと思ったが証明スイッチは事務所の入り口にある。
そこまで歩いていくのがしんどい。
席に戻り資料の作成に戻った。
無事に資料は作成できタクシーで駅前にある24時間スーパーでいつものカツどんを買って家に帰った。
それから残業の時には黒い虫、光る虫、回る文字、黒い人、柱の音というのが定番になった。
私は疲れている。
疲れていることに気が付けないほど疲れている。これは体が発する危険信号なのだ。
それでも毎日理不尽に割り振られる業務を終わらせるのに一生懸命だった。
それから1カ月が経った頃。
今月の残業時間も過去最高を超える見通しだ。
今日も1人で残業をしている。
そしていつもの黒い虫、光る虫、回る文字、黒い人と出てきた。
柱の音がするまでもう少しだなと思った時、
事務所の扉の音が開いた。
きぃとさびた金属が擦れるような居心地の悪い音が響く。
音そのものは小さい、おそらく普段から鳴っているのだろう。
今は私以外に誰もいない小さな音でも十分私の席にまで届く。
扉の方を見ると黒い人が立っていた。
目を見開き思わず立ち上がる。
まさかと思った。
しかしそれは巡回に来た警備員であった。
警備員は軽く会釈をすると部屋を左右に見渡してすぐに出て行った。
今まで警備員が夜の巡回に来たことはあるだろうか。
これも私の疲れが見せる幻覚なのかと思い幻覚ならば問題と判断し仕事に戻った。
次に聞こえてきたのは廊下を走る音だった。
警備員が走っている?
事務所は周りを取り囲むように廊下が作られている。
その廊下を右から左へ走る音がする。
独りだけ?
それにしては早い。
子供がはしゃいでいるような速度だと想像した。
時刻は23:00。
このままでは終電に間に合わない。
廊下を走る音は気になるが早く資料を完成させないといけない。
今月は自腹を切ったタクシー代が2万円を超えている。
今まで疲れてきたら現れる症状は黒い虫、光る虫、回る文字、黒い人だった。
それに追加する形で柱の音、廊下を走る音が現れた。
決まっていた規則が狂ってきた。
今日はどちらがくるのか、それとも第三の症状が現れるのか。
この終わらない残業の日々の少しの癒しが狂ってくる感じがした。
日中働いていると心臓の拍動が不規則に打っていることに気が付いた。
いつからなのだろうか。
前からあったような気もするし今日初めて体験した気もする。
拍動が乱れると体全体が太鼓に打たれたような衝撃が走る。
時間がゆっくりになり力が入らない。
自分ではどうにもできない感覚。
時間にして1,2秒なので誰も気が付かない。
自分一人だけが世界に取り残されているような気分になる。
ここまで疲れているのかと思った。
とは言っても上司は仕事を減らすどころか増やす構えでいる。
既に先輩の仕事の2倍以上の量を割り当てられている。
上司からは「俺の若い時はこの3倍の量をこなしていた」と言われ減量はされなかった。
週次ミーティングの場での報告でも報告するたびに「それって何の仕事だっけ?」と上司が聞いてくることが増えた。
仕事を割り振った上司でさえ私の仕事の量が把握できていない。
もうすぐ終わるだろうと思い今日も残業に勤しむ。
いつもの残業の時間、決まったルーティンで症状が現れる。
黒い虫、光る虫、回る文字、黒い人。
そこまで来て次はどちらだろうと思う。
コンコンコン
柱から音がする。
その音を聞いて立ち上がる。
立ち上がり柱に近づき耳を当てる。
コンコンコン。
それ以外の音は聞こえない。
ここまでがこの症状のルーティン。
音を聞いたところで何も変わることはないがこれをしないと仕事が手に就かなくなっている。
席に戻ろうとしたとき廊下から走る音が聞こえた。
今日は二つもあるのか、豪華な日だなと思う。
どうしようか。
音は廊下の端から端に移動する。
1周するように作られている廊下。
音が聞こえなくなったのは症状が治まったからではない。
廊下を1周しているのだ。
しばらくするとまた聞こえてきた。
左から右へと廊下を移動する音が聞こえる。
見たくなった。
前回は何の音だったか確かめなかった。
この目で見よう。
これが幻聴なのか、本当に誰か走っているのかわかる。
恐怖心はない、純粋な好奇心である。
事務所を出て外廊下に出る。
廊下の明かりは消えていて時間外の点灯は許されていない。
誰もいない廊下に1人だけいる。
もうすぐこの廊下に現れるころだ。
誰だろうか。幽霊だろうか。
幻聴に続いて幻覚も現れたというのだろうか。
廊下の壁にもたれてその姿を待つ。
しかしいくら待っても音は聞こえてこなかった。
これも私の疲れのせいなのかと思い事務所に戻ることにした。
明日の朝一で見せないといけない資料がまだ残っている。
事務所に戻る途中にトイレがある。
いつもは何ともなしに意識せずに横切るそれの前で足が止まった。
聞こえる。
トイレに誰かいる?
トイレの入り口に照明スイッチがある。
もちろん今は切られているので真っ暗だ。
しかし音が聞こえる。
何の音だ?判別ができない。
早く事務所に戻って資料を作らないといけないのに、そう思いつつ男子トイレに入っていく。
照明スイッチをつけて明るくする。
何の変哲もないいつものトイレだ。
小便器が3つ個室が3つ。
誰もいない。
これも疲れのせいか。
ふと私は個室の一番奥に入ってみた。
便器の蓋がない。そういえば誰かが便器の蓋を破損して周っているということですべての蓋が回収されたのだった。
なんでそんなどうでもいいことを思い出したのだろうか。
個室の扉を閉めて便器に腰かける。
用を足すつもりもない、ただ座ってみたくなったのだ。
会社につくと一切の飲食はできない。
それでもトイレに行くことがある。
そういう時上司はストップウォッチを片手に私が離席して席に戻ってくるまでの時間を計測する。
それを飲み会の時にメモした手帳を開きながら1日単位、秒数、平均時間をべらべら話していく。
上司曰くこれは管理職としての大切な業務の一環なのだという。
そんなバカげた話があるかと思い他の部署の人にもそれとなく聞いてみたことがあった。
その人も上司から同じことをされていると言っていた。
たまたまだろうと思い他の部署の人にも尋ねると全員ではないか何人かは同じ目にあっていた。
トイレをしている時も1秒単位で気にしないといけない。
ただもうそれもしなくていい。
今は私しかいない。
瞼を閉じる。
疲れがどっと出たような気がする。いつもは家に着いてから現れる症状だ。
疲れが汗のごとくあふれ出てくる感じ、サウナにいるような体の火照り。
いつもなら水を飲むがここには飲み水はない。
瞼を開こうとしたが重くて開かない。
瞼を通してトイレの照明の明るさがわかる。
少しここで休んでから仕事に戻ろう。
今日のタクシーで帰ればいい。
そう思っていると拍動が乱れた。
呼吸ができない。
瞼を開けたような気がしたがそこは暗闇だった。
そして自分のことが理解できた。まるで外から自分を見ているようだ。
もう休んでいいのか、長かった残業も今日ここで終わりなのだ。




