第十八話 ルカの戸惑いと憂い②
「はぁ……よかった。怪我は、なさそう……」
胸に手を当てた瞬間、心臓がバクバクと暴れているのがわかった。
怖かったのは、レイが痛い思いをすることじゃない。僕の身体が傷つくことでもない。
――レイが、僕のせいで傷つくことだ。
兵士たちの輪の中心で、汗を光らせながら笑っている僕を見て、胸の奥がちくりと疼く。
そこにあるのは誇らしさ、安堵、そして言葉にしづらい複雑さ。
「殿下!今のはどうやったのですか!?」
「次こそは俺とも手合わせを!」
声が飛び交い、肩を叩かれ、笑い声が弾ける。
みんな、本当に楽しそうだ。……眩しいくらいに。
以前の僕なら、兵士たちとこんな距離で話す空気は絶対に流れなかった。
そこにはいつも、見えない壁。触れたら壊れそうなよそよそしさ。
彼らは礼を尽くしてくれていたけれど、その礼儀がそのまま、僕を孤独にしていた。
なのに今は、冗談が混ざる。悔しがる声が混ざる。笑っていい空気がある。
女の子たちにだけじゃなく、いつもは硬派な兵士たちにまで好かれてしまうなんて。
……レイ、君は本当にすごい。
尊敬。憧れ。安心。――それから、醜いほどの独占欲。
その全部がいっぺんに押し寄せて、喉の奥が熱くなった。
こんなふうに輝く彼女を、僕だけのものにしたい。
誰にも見せたくない。そんな想いが溢れるようにとめどなく湧いてきてくる。
……いや、見せたくないって、何様なんだよ。僕は。
「え!?レイ、本当に向こうの世界で剣術の経験ないの?」
「ナイナイ。普通の女子大生だって、ずっと言ってるじゃん」
訓練が終わって、シャワーを浴びて戻ってきたレイが、無造作にソファの隣に座ってくる。
レイは濡れた髪をタオルでガシガシ拭いていて、遠慮も品もない……はずなのに。
自分の顔のはずなのに、濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、どうしようもなく格好良く見える。
「でも、あの体格差がある隊長を、投げ飛ばしたよね?」
「あれは一回きりの、騙し討ちみたいなもの。実戦じゃまず使えないよ」
「ほぇ~……」
「無意識の油断と手加減もあっただろうしね」
彼女は事もなげに言いながら、タオルを首にかけ直す。
余裕の顔。余裕の声。……心臓に悪い。
「そうなの?」
「隊長とは何度か手合わせしたでしょ。ああいう踏み込み方をする癖、だいたい読めてたんだよね」
「癖……」
「相手の癖を読んで、タイミングを合わせただけ。あと、ほんの少しだけ――相手の気持ちも」
思わず間抜けな声が出た。
僕はいつも、攻撃を受けるだけで精一杯になって、最後には目を閉じてしまっていた。
怖い、痛い、終わってほしい。それしか考えられなかった。
でも、剣を握るということは、ただ力を込めることじゃない。
相手の癖を読む。間合いを測る。呼吸の乱れを拾う。
頭を使って、相手の次を想像する――そういう戦い方なんだ。
ふと、自分の身体を改めて見つめた。
レイがタオルで髪を拭くたび、上腕の筋肉がしなやかに動く。
……僕の身体、こんなに引き締まっていただろうか。
それに、視線が少し高い。床の石目が、いつもより遠く感じる。
「ねえ、レイ。僕の身長、伸びた?……伸びたよね?」
「え?そうかな?」
レイが不思議そうに首を傾げて、隣に並ぶ。
背比べ。いや、今の僕は僕じゃなくてレイだけど。
それでも、近づかれるだけで胸の奥が妙にざわつく。
「絶対そうだよ!前はもっと目線が近かった気がするもん!」
「自分だと意外とわからないもんだね。……まあ、ルカはまだ成長期真っ只中なんだろうし」
ぽん、と頭を撫でられた。
見た目は自分なのに、自分じゃないみたいで、触れられるだけで耳の裏まで熱くなる。
心臓の音がうるさくて、顔を直視できない。
「でも、剣の訓練は……もうこれくらいにしておこうかな」
レイがタオルを置いて、シャツに手を伸ばす。
「どうして?もっと強くなれるのに。レイならきっと、団長にだって勝てるよ」
「勝てるかどうかよりさ」
少しだけ笑って、シャツに袖を通しながら僕の方を見た。
「これ以上、身体を鍛えすぎたら、ルカが元に戻った時に再現できないでしょ?」
「あ……」
「戻った途端に『昨日までできたのに』って、無茶な期待で最前線に放り込まれたら困る」
「……」
「私は、ルカを英雄にしたいわけじゃない。ルカが、ちゃんと生きていけるようにしたい」
その言葉が、胸に落ちた。
優しい、という言葉だけじゃ足りない。
入れ替わりが終わった後の僕の人生まで、彼女は僕以上に現実的に、真剣に考えている。
僕のために。ずっと、先の未来まで。
「レイ……」
「ん?」
「ありがとう。……本当に」
「どういたしまして」
にっこりと笑う背中を見つめながら、僕は自問する。
僕は、レイのために何ができるだろう。
彼女が心から笑ってくれるように。
この世界に来てよかったって、迷わず言えるように。
残り六ヶ月。過ごせる時間は、もう半分。
まだある、と思った瞬間に、指の間からこぼれ落ちていきそうだ。
レイともっと、たくさんの初めてを共有したい。
この半年だけじゃ足りない。……本当は、ずっとずっと、一緒にいたいんだ。
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