第十五話 レイ、賢者になる②
数十分後。私は何事もなかったかのように制服に着替え、優雅に脚を組んでソファに座り、部屋に入ってきたルカを出迎えた。
平静。完璧なポーカーフェイス。……たぶん。たぶんだけど。
「でさ、ルカ。……いい加減、何がそんなにルカを追い詰めていたのか、正直に教えてよ」
「えっ……」
朝の大混乱を、強引に上書きするように本題を切り出す。
ルカは不意を突かれたみたいにきょとんとして、すぐに視線を落とした。
「昨日の夜会での宰相の態度だけじゃないでしょ?あんた、この数ヶ月ずっと、何かを一人で抱え込んでる」
真剣な眼差しで見据えると、ルカは辛そうに目を彷徨わせ、言い淀んだ。
震える指先が、制服のスカートの生地をぎゅっと握りしめている。爪が白い。
「ねえ、ルカ。曲がりなりにも、私は今、あんたの公認の『婚約者』なんだよ」
「……そう、だね……」
「勢いでのこととはいえ、私は味方でいたい。……だから、隠し事はしないでほしい」
私がそっと手を差し伸べると、ルカはその手を縋るように握り返した。
小さく震える温度が、掌から伝わってくる。怖がってるのが、わかる。
「……実は……僕……」
重い沈黙。息を吸って、吐いて。それでも言葉が出ない。
それでも、ルカはとうとう口を開いた。ぽつ、ぽつ、と。
まるで長い間、胸の底に沈めてきた石を、一つずつ拾い上げるみたいに。
国王である父は厳格で、近寄りがたい。けれど、根っこは不器用な優しさを持つ人だった。
母は隣国の王女として愛され、この国へ嫁いできた、美しくも儚い王妃。
その二人の間に生まれたルーカスは、この国の『唯一の希望』として祝福された。
けれど幸福な時間は短かった。
母はもともと病弱で、王家が望む第二子を授かることができずにいたのだ。
薬の匂い。薄いカーテン越しの光。いつも少し冷たい母の指先。
王は最大限の配慮を尽くしたが、世継ぎ問題はいつだって政治の火種になる。
ルーカスが五歳になる頃、父は側室を迎える決断を下した。
それは王としての義務であり、必要な決断。頭ではわかる。
でも、その判断が母を静かに、確実に追い詰めていった。
役目を果たせなかったという罪悪感。
夫の寵愛を奪われた喪失感。
そして何より、後ろ盾を失いかねない息子の未来への、募る不安。
母は笑っていた。大丈夫よ、と言っていた。けれど、笑い方が日に日に薄くなっていった。
側室を迎えてから二年。
ルーカスが七歳になった春、母は糸が切れるようにこの世を去った。
最期までルーカスの小さな手を、骨が軋むほど強く握りしめたままで。
「ルーカス。あなたはこの国を背負うのです」
その言葉は祈りのはずだったのに、幼い胸には重すぎて、呪いのように沈んだ。
後ろ盾である母の実家との繋がりは細くなった。
けれど王の子がルーカスのみであるという事実が、かろうじて彼を『王太子』の座に留めていた。
守られているようで、実は細い糸で吊られているだけの立場。少しでも揺れれば、落ちる。
――しかし、その脆い平穏も長くは続かない。
ルーカスが十歳になる頃。
側室に待望の第二王子――弟のカイルが誕生したのだ。
健やかで、愛らしく、誰からも祝福される赤子。
なにより、ルーカスの母より劣るとはいえ、生きている母の公爵家という後ろ盾がある。
抱かれている弟の周りに、光が集まっていくのを、ルーカスは遠巻きに見ていた。
ここから、わずか十歳の少年の肩に、大人たちの醜い派閥争いが容赦なくのしかかることになる。
始まりは、心因性の僅かな体調不良だった。食が細くなり、夜に眠れなくなり、胸が苦しくなるだけ。
しかし周囲の貴族たちはそれを病弱だった王妃の再来として、格好の攻撃材料にした。
「やはり、ルーカス殿下に王太子の座は荷が重いのではないか」
「あのような脆弱な器に、この国の未来を預けられるものか」
囁かれる悪意は、笑顔の仮面を被っている。
宴の席。廊下の角。扉の向こう。聞こえないふりをしても、耳に刺さる。
重圧は毒のように体を蝕み、肌は荒れ、激しい頭痛に寝込む日が増えた。
寝台の天蓋が、牢屋みたいに見えた。
――自分に王の資質などない。
ルーカス自身が、それを誰よりも痛感していた。
後ろ盾もなく、母のような強さもない。
自分に国民がついてくるはずがない。
いっそ、まだ歩き始めてもいない弟にすべてを譲れたら……。
そう思うたび、胸の奥が少しだけ軽くなる。けれど同時に、背徳感が喉を締めつける。
『ルーカス。あなたはこの国を背負うのです』
母の最期の言葉が、呪いのように蘇って彼を縛り付けるのだ。
「母上……っ、僕は、僕は……」
夜毎、枕を濡らす涙。
誰にも言えない、逃げ場のない地獄。泣けば弱いと言われ、黙れば無能と言われる。
十三歳になり学園に通い始めたことで、状況は好転するかと思われた。
友達ができるかもしれない。少しは息ができるかもしれない。
しかし現実はさらに残酷だった。
次期国王として、執務や公務の一部が正式に任されるようになったのだ。
父は政務に追われ、息子の教育に時間を割く余裕はない。
差し出されるのは、到底十三歳の子供が触れるべきではない難解な案件ばかり。
税制、外交、軍事。地図と数字と、見知らぬ地名。赤い印のついた書類。
ルーカスは執務官を捕まえ、時には朝方まで、霞む目で紙をめくり続けた。
指先はインクで汚れ、目は痛くて、頭は割れそうで。それでも止まれない。
寝不足は判断力を奪い、ミスがミスを呼ぶ。
滞った執務はさらなる批判を招き、学園での成績も、市井での評判も、音を立てて崩れ落ちていった。
『無能』
『病弱』
『母親譲りの出来損ない』
その言葉だけが、いつも正確に刺さってくる。
誰一人、彼の手を取る者はいなかった。
誰も近づかず、誰も助けない。助けを求める術すら、教えてもらえない。
ただ、母の呪いだけを胸に、ルーカスは十六歳まで耐え続けてきた。
笑えないまま、呼吸の仕方も忘れそうなまま、ずっと。
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