第十五話 レイ、賢者になる①
「……っん……」
腕の中に、心地よい温もりを感じる。
ほどよい重さ。柔らかさ。規則正しい静かな呼吸。
それに、なんだかすごく良い匂いがする。
洗いたてのシーツと、甘いお菓子の残り香が混ざったみたいな――ふわふわで極上の抱き枕。
ん……?抱き枕……?
そんなの、この部屋にあったっけ。いや、ない。絶対ない。
微かな違和感に、そっと目を開けると――そこには、潤んだ瞳でこちらを見つめ返す私の顔。
距離、わずか数センチ。まつ毛の先まで数えられそうなほどの至近距離だ。
「……ルカ……?」
まだ覚醒しきらない頭で、掠れた小声で呼びかける。
「っ……」
とろんとした寝起きの目。反則的に可愛い。
……って、可愛いじゃない。問題はそこじゃない。
そうだ。思い出した。
昨晩、一ヶ月の喧嘩に耐えかねたルカが、あんなに甘えた声で「一緒に寝たい♡」なんて言い出して……。
断りきれずに承諾したんだ。もちろん、何もしていない。
指一本だって、怪しいことには使っていない。……はずだった。
なのに。
がっつりと、抱きしめてる……私……!
しかも腕が、無意識の安心ポジションみたいにルカの腰に回ってる。
なにそれ。慣れた手つきやめろ。
気づいた瞬間、身体の『一部』に驚くほどの血液が集まっているのを自覚した。
いや、これ、ほんとに。ほんとにほんとに。
「げっ!ルカ!!!」
やばい。やばいやばいやばい!!
私は反射的に、跳ね起きるようにして身体を離した。
「きゃっ!」
突然の衝撃にルカが小さく悲鳴を上げる。
「きゃっ!」ってなによ。どっからそんな声出てくるの。私の喉、器用すぎない?
視界の端でルカが呆然としているのが見えたけれど、今の私にはフォローする余裕なんて微塵もない。
ベッドから飛び降りると、なりふり構わずお手洗いへ駆け込む。
バタン!と音を立てて扉を閉め、震える手で鍵をかける。ガチャ。よし、封鎖。これで被害拡大は防げる。
「なんなのよ!!なんなのこれ!!?」
男子の身体というやつが、朝、意思とは無関係に制御不能になるのは、いい加減わかった。
けれど、隣にルカがいたせいか、今朝の状態はこれまでの比じゃないほど……その、主張が激しすぎる。
バッキバキ。最悪。恥ずかしさのインフレが止まらない。
キモッキモッキモッキモッキモッキモッ!!
鏡に映る自分の顔を見ながら、自分自身に六回以上『キモい』を連呼したけれど、それでも足りない。
キモい。いや違う、これは生理現象。キモくない。……でもキモい!
私の絶望など露知らず、ドアの向こうからルカの心配そうな声が聞こえてくる。
「レイ……?どうしたの?大丈夫……?」
「……っ」
「ごめん、昨晩は僕がわがままを言ったせいで……。もっと寝たかったとか?」
ドア越しでもはっきりわかるほど、彼はしゅんとしている。
衣擦れの音まで小さくて、しょんぼりが物理で伝わってくる。
返事なんて、できるわけがない。
今のこの情けない状況を知られたら、いくら中身が私だと知っていても、ルカに間違いなくドン引きされる。
いや、そもそもルカの身体なんだけど!?この子、普段はどうしてたのよ。
毎朝、こんな自分との闘いを繰り広げてたわけ!?この顔面で!?十六歳、過酷すぎる……!
「もう、無理に一緒に寝てなんて言わないから……」
「……」
「……また、嫌われちゃったかな。もう喧嘩したくないよ……」
泣きそうなその声に、私は慌てて、努めて平然を装った声を絞り出した。
喉、震えるな。今は冷静。冷静になれ。
「ルカ!ごめん!違う、本当に怒ってるとか、嫌うとかじゃないから!」
「……え?」
「むしろ逆っていうか……とにかく、ちょっと一人にさせて。すぐ済むから!制服に着替えたら、また部屋に来てくれる?」
「……うん……わかった。待ってるね……」
トボトボと去っていく足音。
遠ざかるたびに罪悪感が増えていく。
違う、私が悪いんじゃなくて、朝が悪い。朝の生理現象が悪い。
私は大きく息を吐き、冷たい水を顔に叩きつけた。
ひゃっ、と声が出そうになるのを堪えて、必死に『賢者』になるための呪文を唱え始める。
「ケインズ……IS-LM分析……流動性の罠。供給が需要を生むのではない、需要が供給を……違う、今、その供給はいらない」
「貨幣需要……予備的動機、取引的動機、投機的動機……投機するな、私」
「アダム・スミス、見えざる手……違う今、手じゃない。手を動かすな」
「リカード、比較優位の原則……比較するな、優位に立つな、落ち着け」
落ち着け。これは単なる生理現象だ。感情と市場は別だ。
市場に情動を持ち込むな。感情と市場は、別……!
価格メカニズムは長期で均衡する。短期のショックは、時間が解決する。
いまはショックの局面。耐えろ。
遠くでルカが部屋を出ていく気配を感じながら、私は己の煩悩を削ぎ落とす経済学用語を延々と唱え続けた。
マルクス、資本論……ハイエク、新自由主義……シュンペーター、創造的破壊。
……よし、破壊された。私の邪念は今、創造的に破壊された。たぶん。きっと。お願い。
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