第十二話 ルカの初ケンカ②
レイはまだわかっていないんだ。
王太子という立場が、どれほど細い糸の上で成り立っているか。
ちょっとしたプライベートの噂が、そのまま外交や派閥抗争の火種になる。
笑い話で済むのは、平民だけだ。
わかっていて、あんなことをしちゃった僕が言うのもなんだけど……。
今の僕は『聖女』として崇められている。けれどその実、僕たち二人はいつ失脚してもおかしくない危ういバランスで、この一年を乗り切らなきゃいけないのに。
ひとつ歯車がずれたら、レイも僕も一緒に落ちる。
そんな気配が、玉座の間の空気には最初から漂っていた。
「次の夜会、宰相から直々に相談があるそうだ。お前たち二人で出席しろ。……よいな」
「……はい」
重苦しい空気のまま、僕たちは謁見の間を退出した。
扉が閉まった瞬間、息が少しだけ楽になる。けれど胸の奥は、ずっと固いままだ。
一ヶ月ぶりに並んで歩く廊下。
なのに、聞こえるのは自分たちの足音だけ。
石の床に、こつ、こつ、と乾いた音が落ちるたび、沈黙が余計に大きくなる。
レイは、僕のために十分すぎるほどの実績を積み上げてくれた。
政務をこなし、貴族たちを黙らせ、民衆の心まで掴んだ。
あの人は、ただの女子大生だって言いながら、誰よりも王太子らしく振る舞った。
僕がなりたくても、なれなかった姿を。それなのに、僕は……何をしてる?
レイがこの世界を去るまで、残り八ヶ月。
せめて彼女が安心して元の世界に戻れるように、僕もちゃんとできるんだよって見せないといけない。
僕が自分で立てるって、証明しないといけない。
そう思うのに、足の裏だけがやけに冷たくて、言葉が口から出てこない。
「……レイ。……夜会、出るよね?」
消え入りそうな声で、僕は勇気を振り絞って話しかけた。
「ねえ」と呼ぶのが怖い。名前だけで距離を測るみたいで。だから、余計に喉が渇く。
「王様に言われちゃったしね。……出ないわけにはいかないんでしょ?」
レイの返答は、ひどく素っ気なかった。
彼女は前を向いたまま、僕の顔を見ようともしない。横顔だけが、いつもより遠い。
たったそれだけで、胸がきゅっと縮む。僕のせいだ、と頭ではわかっているのに。
「……うん。そうだね」
「じゃあ、出るよ。……おやすみ」
それだけ言うと、彼女は自分の部屋へと入っていった。
バタン。と重厚な扉が閉まる音が、心臓に突き刺さる。
扉の向こうに、もう一つの世界があるみたいだ。
一ヶ月ぶりの会話。たったこれだけなのに。
自分の声で、彼女が答えてくれた。それだけで、情けないことに胸が温かくなってしまう。
嬉しい。まだ終わってない、って思ってしまう。
けれど次の瞬間には、深い悲しみが押し寄せてくる。温かさの分だけ、冷たさが痛い。
前は、もっと笑ってくれたのに。
もっと、くだらないことでふざけ合えたのに。
部屋に戻った僕は、着替えもせずにベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めた。布の匂いがして、涙が滲んだ。
僕は……ただ、怖かったんだ。
レイがいつだって『元の世界に戻る時の話』や『入れ替わりが終わった後の心配』ばかりを口にするから。
彼女の言葉が、すべて僕への『サヨナラ』の準備に聞こえて、どうしようもなく寂しくなってしまった。
まるで、レイが僕と会えなくなる日を心待ちにしているみたいに、勝手に思ってしまったんだ。
早く、僕から解放されたいのかな。
僕のことなんて、すぐに忘れてしまうのかな。
そう思うだけで、喉の奥が熱くなる。呼吸がうまくできない。指先が震える。
ぽろぽろと、涙が止まらない。
「……レイ……レイ……お願い。帰らないで……」
枕を濡らしながら、誰にも届かない声を漏らす。
わかっている。彼女には元の世界がある。大切な友達や家族、築き上げてきた生活があることくらい。
次の『女神の流星』が降る夜に、必ず身体を返すって約束したのに。
僕の願いで、彼女の時間を奪うわけにはいかないのに。
なんで喧嘩なんてしちゃったんだろう。
あの時、意地を張らずに、素直に『寂しいんだ』って伝えれば良かった。
もし喧嘩をしていなければ……今夜も、お土産のスイーツを一緒に食べて、笑い合えたはずなのに。
『本当?すごいね、そのうちバチバチって火花が出そうじゃん』
『あとね、レイ。なんだか味覚も敏感になった気がするんだ』
『ぷっ、味覚?私、基本なんでも美味しい貧乏舌だから、私より美食家になっちゃダメだよ?』
あの日々が、永遠に続くものだと錯覚していた。
もし、このまま仲直りできないまま、八ヶ月が過ぎてしまったら?
僕はレイに、まともな『さようなら』も言えないまま、別れることになるの?
「っう……ぐす……っ、うぅ……」
声を殺して、膝を抱えて丸くなる。
隣の部屋にいるレイに、この情けない鳴き声が聞こえないように。
壁一枚の距離が、いまは城壁みたいに厚い。
「……レイ。……好きだよ……」
暗闇の中で、小さく呟く。
この想いは、絶対に伝えられない。伝えてしまったら、レイを困らせるだけだ。
彼女の元の世界への帰還を、邪魔してしまうだけだ。
だから、この恋心は、八ヶ月後のその日まで。
僕の心の一番深いところに、ずっと、鍵をかけてしまっておく。
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