第一話 レイの異世界転生の幕開け①
「……どうして、こうなったの」
目覚めた瞬間の絶望から逃げ出し、反射で全力疾走した先が、個室トイレだった。
個室と言っても、私が東京で一人暮らしをしている六畳一間のアパートが三つは余裕で入りそうな、度を超えて豪華すぎるトイレだ。
天井には小さなシャンデリア。壁は総大理石。便器には金の装飾。
床までピカピカで、下手に靴で踏むのが申し訳ない。
……マジでこれ、誰がどうやって磨くの?
掃除当番の苦労を思って遠い目になりながら、私は震える手で重厚な扉の鍵をかけた。
カチリ、という無駄に重い音。逃げ場が消えた音。
便座に座り込み、肺にある空気をすべて吐き出すように、深く、深く息を吐く。
……落ち着け。落ち着け私。まず状況整理。
今は、夢。きっと夢。そう、夢だ。試験前のストレスが見せた、悪趣味な夢。
そう思いたいのに。
ふと横に視線をやると、床から天井までを貫く巨大な鏡があって、そこに映っていた。
滑らかな光沢を放つシルクのパジャマ――に身を包んだ、見覚えのない美少年。
しかもパジャマが異様に高そう。たぶん私のバイトの日給どころか、一週間分くらい平気で飛ぶ。
髪は触れずとも分かるほどサラッサラ。
肌は陶器みたいにツルッツル。
扇のような睫毛は、驚くほどバサバサ。
女子大生として二十年、それなりに美容には気を使ってきたつもりだけど、この少年は次元が違う。
造形美の暴力だ。顔面で殴ってくるタイプの美形。
「……誰?このイケメン」
呆然と鏡を見つめる。
いや違う。私が見てるのは美形じゃない。問題はそこじゃない。
違和感の正体を、確認しなきゃいけない。
私は戦場に赴くような覚悟で、恐る恐る……自らの股間に目をやった。
「ぎゃあああああああああ!!!!!」
叫んだ瞬間、声まで違う。高いのに澄んでて、妙に響く。知らない男の子の声だ。
自分の叫びに自分がビビるって、なにそれ。
そんなに多くはないけれど、見覚えがありすぎて困る『構造的欠陥』が、そこにはあった。
いや欠陥じゃない。知ってる。生物学的に必要なものだってことも、頭では分かってる。
分かってるけど、心が拒否してる。今すぐ返品したい。
「え……待って。マジで……?これがいわゆる『朝の……』ってやつなの!?本当に、本当に自分の意思で制御できないの!?キモッ、キモッ、キモッ!!」
パニックのあまり、語彙力を失って『キモッ』って三回連呼した。
こんな不可解で原始的な現象が『生理現象』という一言で片付けられているなんて、人類の進化はどうなっているの。
私は二十年間、なにを学んできた。政治?経済?いや今は、そこじゃない。
意味が分からない。
正直、何年も向き合ってきた生理痛の方がまだマシだ。
痛みには終わりがあるけど、この『異物感』は精神へのダメージがデカすぎる。
……いや、どっちも地獄だけど。どっちか選べと言われたら、どっちも選ばない。
私は小一時間、本気で頭を抱えた。
便座に座ったまま体育座りみたいに丸まり、時折「うぅ……」と獣じみた呻き声が漏れる。
外の気配が怖くて、息を殺して耳を澄ませる。誰かの足音がした気がして、さらに縮こまる。
もうだめ。人類社会に復帰できる気がしない。
現実逃避を試みたけれど、脳裏にはこうなった心当たりが、焼き付くみたいに残っていた。
昨晩、見た夢――。
「ぱぱぱぱーん!!あなたの願いを叶えちゃいま~す!!」
気がつくと、そこは視界の端まで何もない真っ白な空間。
目の前には、金髪をなびかせたお姉さんが一人。
なぜか平成のバラエティ番組みたいなハイテンションで、両腕をバーンと広げている。
効果音まで口で言うな。せめて鐘とか鳴らせ。夢にしても雑。
ここがどこで、あんたは誰で、その格好は寒くないのか。
聞きたいことは山ほどあったけれど、あまりの怪しさに開いた口が塞がらない。
というか、ツッコミが追いつかない。
そんな私を完全スルーして、お姉さんは隣に立っていたもう一人の人物へと向き直る。
「あなたの願いは~……なるほどなるほど~、そうですか~。それはそれは、お辛かったですね~」
長いウェーブの金髪に、重力を無視して主張する豊満なバスト。
それを隠すのは、もはや布というのも憚られるくらい、透けてしまいそうな痴女スタイルの衣装。
どう見ても女神というより、深夜番組の司会者だ。いや、女神ってそういう……?
お姉さんは「ふんふん」と慈愛に満ちた顔で頷き、少年との話し合いを終えたのか、ようやく私に視線を向けた。
「というわけで、あなたたちには入れ替わってもらいます~☆」
「ちょっと待ってよ!!なにが『というわけ』なの!?論理の飛躍が凄まじすぎて付いていけないんだけど!?」
夢特有の無茶苦茶さだとは分かっていても、ツッコミを禁じ得ない。
私は助けを求めるように、隣の少年に顔を向けた。
「ねえ、あなたも何か言ってよ!これ絶対におかしいって!」
ところが。振り返った彼は――
キラッキラの、まるで後光が差しているかのような神々しい笑顔で、女神の前に跪いていた。
細く綺麗な指を、祈るように胸の前で組んでいる。
いや、待って、そっち側なの。今、私一人で戦ってる?
「ありがとう!!女神様!!ああ……ついに僕の願いが!!」
「ちょっと!?」
「僕にとっても少し予想外の展開ですけど、OK、全然OKです!むしろ歓迎します!」
「そんな簡単に決めていいの!?当事者である私の意見は!?ねえ!」
「……僕はもう、疲れてしまったんだ」
私が思わず彼の襟首を掴んで揺さぶると、彼は急に真顔になった。
至近距離で見るその顔は、息を呑むほど整っていて、長い睫毛を伏せる仕草は儚い芸術品みたいだ。
……美形のくせに、暗い。どんよりしてる。
顔面だけが王道キラキラなのに、心の天気予報がずっと雨。
イケメンの無駄遣いここに極まれりだ。
もっとあなたが輝く場所、花道的な、王道キラキラな場所があるんじゃないの!?
そう言いかけて、私は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その憂いを帯びた瞳が、ただの『疲れた』では済まない重さを抱えている気がしたから。
……同情、しかけた。ほんの一瞬。
けれど。
「いや、もう、なんか知らないけど……私、今日から前期試験なの!絶賛寝不足中なの!こんな変な夢に付き合ってる暇はないの!起きたい!課題が終わってないのよおぉ!」
夢から目覚めるには、夢の中で寝るに限る。
私は出所不明の都市伝説を信じ、その場にゴロンと寝転がって、ぎゅっと目を閉じた。
「では、お二人の合意も得たことですし――」
「得てない!一方通行すぎるでしょ!!」
「新しい生を~、たっぷり楽しんでくださいね~!」
「は~い!行ってきます!」
男の子の方は元気に返事をして、ふわっと淡い光の中に消えていく。
置いていかれる私。いや、置いていかないで。私の人生。
最後に、女神が私の方を振り返った。
「……あの子のこと、よろしくお願いしますね」
その時だけは、先ほどまでのふざけた調子ではなく、どこか祈るような、切実な響きが耳に残った。
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